堤 義明050312
平成17年3月3日、コクドの会長の堤義明氏が東京地検に逮捕されたというニュースが日本中を駆け回った。
いうまでもなく西武グループの総師としてのトップの逮捕で、経済界に走った衝撃波は大きなものが有ったのではないかと想像する。
ことの発端は、コクドが持っていた西武鉄道の株が報告書に記載された額よりも少なく記載されていたということで、虚偽の報告ということであるが、それを去年(平成16年)の秋に堤義明氏が開示したことにより、その事実が表面化してきたことにある。
そのことの前に、もう一つ伏線があって、去年(平成16年)の3月に西武鉄道が総会屋に利益供与した事犯で、堤義明氏が西武鉄道の経営責任から下りたことからだんだんと綻びが大きくなっていったようだ。
この辺りのマスコミの堤家に対する報道の仕方は、水に落ちた犬を尚叩くのに似ている。
とはいうものの、こういう経済事犯というのは、ある日突然起きるというわけではなく、長年の間隠蔽されていたものが徐々に竹の子の皮をむくように一枚一枚はがれていくところが面白い。
一つの突破口が開けると、そこからだんだんと真相に迫る道が広がっていくところが見るものにとっては非常に興味あるところである。
堤義明という人も、個人的には結構気の毒な立場でなかったかと思う。
我々のように最初から金も、地位も、名誉も、持ち合わせていないものから見れば、生れ落ちたときからそういうものを背負い込んで生きざるをえない立場というのは、ある意味で気の毒だと思う。
我々は何も持っていないが故に失うものもない。
ところが彼の立場というのは、生れ落ちたときから、まわりは総てが失うものばかりに囲まれていたわけで、少し気を抜けば何もかもが失うものばかりで、そうさせてはならじと、常に防御の心構えで生きて行かねばならなかったであろう。
そのことを思えば、我々のように文字とおり無一文の人間のほうが余程気楽に生きていけることになる。
氏の逮捕の発端は、一応、虚偽の報告ということであろうが、本当は彼の父親の代からこういう隠蔽工作が続いていたことから考えると、事件の萌芽は親の代にあったといわなければならない。
彼の父、堤康次郎があまりにも強欲だったが故に、それを忠実に守った息子が、捕縛につかねばならなかったといっても過言ではないと思う。
考えてみると、堤康次郎という人物も、相当な「悪」と言わなければならない。
戦後のどさくさに乗じて資産を肥やしたという意味では、小佐野賢治や児玉誉士夫、横井英樹と同類の成り上がり者とみなさなければならない。
成り上がりものなるが故、人に奉仕するという人間愛に欠けて、私利私欲の権化と化しているのではないかと思う。
戦後の経営者で、一見、成り上がりもののように見えても、事業を通じて人類に貢献している人は大勢いるわけで、それを見分ける最低の条件は、法を遵守しているかどうかを見れば一目瞭然とわかる。
そして、法に定められた税金をきちんと納めていれば、そのことだけで人類に貢献しているということになると思う。
戦後の日本は資本主義社会なのだから、金を儲けることは何らやましいことではない。
だから金儲けをするという行為そのものは決して疚しい行為ではないが、それは法に則って行なうという条件付でなければならないし、儲けた金の中からは法で定められた税金をきちんと納めて始めて人類に貢献することに繋がる。
戦後のフィクサーが、終戦のどさくさの混乱の中で、私財を構築する過程では、法の整備も不十分で、違法行為とまでいかないにしても違法すれすれの行為で財を成したことは間違いないし、それは個人の才覚だとしても、社会が安定してきたならば、定められた法を遵守し、法で定められた税金はきちんと納めて始めて人間らしい人間となりえるのではなかろうか。
この問題が世間に浮上してからというもの、テレビでは堤家の家系図や家憲まで登場させて、堤康次郎のことが暴露されているが、そこに示された事実は、堤康次郎のアンチモラルは思考と、倫理に欠けた人間模様が容赦なく露呈している。
儲けた金を個人で持ち続ける、持ち続けなければ、という発想は、世間に対する反逆だと思うし、人間として実に哀れな存在だと思う。
堤康次郎は戦後衆議院議長まで勤めた公人でありながら、人々に報いることを否定し、私利私欲の塊だったということは、人間として真に蔑まなければならない存在だと思う。
実に見事に成りあがりものの態様を示していると思う。
そして人間関係においても、本人が死んだときに「子供を認知してくれ」という女性が門前に列を成したということがまことしやかに報じられているが、これも人間として如何に倫理に欠けていたかということの証明だと思う。
決して誉められた行為ではないはずである。
彼の死後、その墓は関連企業の人間が墓守のために参内しているというではないか。
まるで秦の始皇帝ではないか。
こんなことが21世紀になっても行われていたわけである。
この時代錯誤をなんと表現したらいいのであろう。
これは当然、堤義明氏の指示といわねばならない。
マスコミの報ずるところによると、堤義明氏の家族関係も、まともな人間の家系とは異なって、実に複雑怪奇で、誰が本妻の子で、誰が2号の子で、誰がめかけの子か分ったものではない。
わかったところで部外者には何の価値もなく、どうでもいいこととはいえ、それは野良犬か野良猫の系図と同じで、倫理観のある人間の営みとはいえない。
まともな人間から見れば、まことに忌まわしい系図、家族といわねばならない。
これではまるで犬か猫の血統書のようなもので、家系図その物が成り立っていないではないか。
まさに成りあがりものの典型的な見本、金儲けだけに生きた下衆な人間の立派な証だと思う。
そこには人間としての倫理が全く存在していないわけで、物欲の程度も、それを維持しなければという執着心も、普通の人間の域を脱していると思う。
普通の人間の常識、普通の人間から見れば常軌を逸したところが成りあがりもの乃至は下衆な人間の所以と言えばそれまでであるが、それまでして私利私欲に固執したが故に、最後は警察の世話になるという結果に至ったものと考える。
戦後の民主化の風潮の中では、前科者という言葉も死語と化しているが、戦前の戸籍には赤字でそれが表記されていたことを思い出してみるべきである。
昨今の人権意識の高揚した風潮の中では、「犯罪者の人権も大事にしなければならない」という傾向であるが、これは進歩的文化人の奇麗事に過ぎず、普通の日本人の、普通の常識では、犯罪者といわれること、前科者といわれることは差別されるのが当たり前であった。
法を犯す人、倫理観に欠けたモラルの持ち主というのは、本人にとっても、又家にとっても、更に集落にとっても非常に恥であったわけで、恥なればこそ恥じないように自分を律していたわけで、それが否定される世の中になったので、差別撤廃運動という美名の下、倫理の堕落が起きてきたものと考える。
基本的には犯罪者、前科者を嫌い、遺棄するのは真面目に生きている人から見れば当然の感情だと思う。
法を犯すような倫理観の欠如した人間と一緒に生活することはどうにも我慢ならない、というのが本音だと思う。
善良な市民からすれば、法を犯した人と同じように扱われることなど真っ平ごめんだ、と言いたいところだと思う。
江戸時代ならば、村八分の扱いを受けるのが当然のことであったのもうなずける。
そういう意識が顕著だったから、戸籍にまで赤でその事実が記載されて差別していたのではないかと想像する。
法を犯すということはこういうことだと思う。
法を犯すということよりも、法を遵守しない、しなくてもいいという倫理観のほうに問題があるわけで、人間が知恵を絞ってひねり出した法律も、人間が考えたことである以上、完璧ではないことは十分うなずけるが、完璧でないから法を破っても構わない、という論理にはならないわけで、法が悪ければそれを是正する手段もあるわけで、悪法であっても法は法だという認識の欠如だと思う。
企業のトップが警察の世話になる、地検の捜査を受ける、逮捕されるということは、法を犯していることが確実だからこそ、そういう処置に至るわけで、それは昔だったら戸籍に赤字で刑が書き込まれるほどの恥辱的なことであった。
忘れてならないことは、いくら貧乏な人でも、いくら家庭的に恵まれなくても、いくら大きな悩みを抱えていても、法を侵さずに生きている人もゴマンといるわけで、逆にいくら金持ちでも、いくら立派な大学を出た人でも、警察の捕縛を受ける人もいるのが現実の社会というものである。
この違いは、その人の持つ誠実さの違いと言わざるをえない。
堤康次郎のように衆議院の議長を勤めたような人は、世間の見本と成らなければならないような立場にもかかわらず、徹底的に私利私欲に走っていたわけで、その抱え込んだ資産を少しでも減らしたくない、という目的で家訓というようなものまで作っていたことを考えれば、如何に強欲な人物であったかということが推察できるというものである。
地位と名誉と金があれば、それを社会に還元して、始めて人となりが表れるわけで、それを徹底的に私物として固執していたということは、俗物の最たる者といわなければならない。
戦前までの日本では、兵役が日本国民としての義務でもあったが、戦後は納税がそれに変わった。
明治維新以降の日本にとっては、富国強兵が国是であったことから鑑みて、兵役を国民の義務とする為政者の考え方は致し方ないと思う。
戦後は、戦争放棄した日本という国情から見て、戦前の兵役が納税に変ったとしても、これも致し方ないことである。
戦前の日本国民にとっては、自分の身を賭して国難に殉ずることは美徳であった。
そのことからすれば、戦後の我々国民は、納税に積極的に協力すれば、それを美徳として崇めなければならない。
ところが戦後の我々には、そういう価値観は今日に至るまで醸成されていない。
税は誤魔化すことが世渡りのテクニックだという風潮である。
「正直に納税するのは馬鹿だ」というイメージが付きまとい、税を率先して収めることは馬鹿のすることだ、という価値観が蔓延している。
税というものは、お上から盗られるもの、搾取されるもの、という認識から一歩も前に進もうとしないわけであるが、近代的な民主国家ともなれば、そういう封建的な税の認識も、時代の状況に合わせて進化して当然だと思う。
人間というのは一人では生きていけれないので、相互扶助の気持ちがないことには、人の社会としての進化がないと思う。
人間は太古から同じ仲間内ではお互いに助け合い、他集団に対しては団結して戦いながら生きてきたわけである。
原始社会では公共施設に対する設備投資ということも存在せず、お互いに不便を囲っていたが、現代ではその不便を克服しようとして、公共投資が普通に行なわれるようになったが、これには金が掛かるわけで、そういう金をボトムアップで捻出しようというのが
21世紀の人類の思考にならなければならないと思う。
そして、近代の民主主義社会ともなれば、国民一人一人が率先して税を負担することで、公共の福祉が維持されるべきであり、社会的な福祉をより充実させようと思えば、国民一人一人が率先してその経費を負担する気持ちを持たねばならないと思う。
この資本主義社会で金儲けが出来るということは、国民が率先して支出に応じてくれているから、金が儲かるわけで、国民が財布の紐を硬く締めて,物を買うことを我慢したり、先延ばししたり、サービスを受けることを拒んだら、金儲けも出来ないわけで、金は天下の回り物という俚諺のとおりで、国民がタンス預金で物を買い渋り、サービスを拒否するような世の中では儲ける人もいなくなってしまう。
社会を構成している一人一人の人間が、持ちつ持たれつしながら、法の枠の中で、倫理の概念からはみ出ることなく、経済活動をしているのであって、そのなかでたまたま蓄財に成功した人は、法の規定にしたがって、その財の幾分かを社会に還元することは民主的社会の大きな美徳でなければならない。
税務相談というと、税を合法的に節減する手法のみを教えているようであるが、近代的な民主社会を目指すという観点からすれば、そういう相談員は経営者に率先して税を積極的に収めるように意識改革をフォローすべきではないかと思う。
誰でも、汗水たらして稼いだ金を税として徴収されることは、身を切るように痛い感じがするというのはよく理解できる。
ついつい「少しでも安く済ませたい」、というのが偽らざる心境だと思う。
真面目に働いた人の切実なる思いだとは思う。
しかし、税を納めるほど稼げたということは、本人の努力もさることながら、社会の恩恵を受けて稼げたわけで、その意味からしても、社会に還元することをそうそう恨めしく思う必要はないと思う。
こういう価値観を何とかして作りださねば、下から支えられた民主的に開けた社会というのはありえないと思う。
税を率先して収めることは美徳だ、という価値観を作り上げることに成功すれば、それを湯水の如く使う国政とか行政に対する見方も当然変ってくるわけで、基本的に近代の民主社会では、税というものは国民が率先して収めるような雰囲気を作り上げなければならないと思う。
戦前の軍人政治家というのは、政策的にアメリカと戦争をして敗北したが故に、戦後の日本では悪人というレッテルが貼られ、戦争犯罪舎と決め付けられているが、日本の国家という総体的な物に対する思いは、戦後の進歩的知識人よりも数段に優れていたと思う。
ただ彼らの採用した政策は完全に失敗であって、その失敗なるが故に、日本国民ばかりでなくアジアの人々にも多大な犠牲を強いたことは否めない。
戦犯の筆頭である東条英機とか松井石根などという旧軍人政治家達は、私利私欲とか、私服を肥やすという点では実に清廉潔白で、明治以降の日本の政治家であれほど精神的に淡白な人達も他になかったのではないかと思う。
総理大臣を降りた東条英機の住まいとか、戦後郷里に隠退した松井石根の住居など、実に質素そのもので、西洋人の感覚からすれば正にウサギ小屋そのものであった。
戦後のどさくさに私利私欲を肥やした堤康次郎、小佐野賢治、児玉誉士夫、横井英樹などと較べると比較にならない。
大企業の経営者ならば儲けた金は法に則って社会に還元して当然だと思う。
節税という発想そのものが反社会的な思考だと思う。
人の価値を上、中、下というふうにランク付けするとすれば、法の定めによって節税するというのは中の発想だと思う。
上の人ならば、法の定めに従って税を納め、その上、尚、寄付をするということにならなければ、とても上の人とはいえないと思う。
下の人間とは、さんざんあくどい手口で儲けておきながら、相続税を納めたくない、などと節税を画策する人達である。 根性が意地汚い。
今回の事件、コクドが西武鉄道の株を虚偽申告していたということも、そういう父親の生き様を忠実に守りぬいた堤義明氏が、半世紀以上もその状態を続けていたというのも、その意地汚い親父の、意地汚い思考を、そのまま受け継いでいたということに他ならない。
彼にしてみれば、自我に目覚めた時点で既にレールが敷かれていたわけで、我々貧乏人から見れば羨ましい限りであるが、彼自身にしてみたら「父の遺訓を如何に守るか」ということに心血を注がざるを得なかったに違いない。
だから彼には、その違法性すら認識がなかったと思う。
現に、西武鉄道が総会屋に利益供与して、社長や監査役が変ったことで改めて問題が露呈したわけで、それまではそれが常態であって、法に触れているという認識すらなかったと見ていいと思う。
彼が逮捕されたという日の、夜のテレビ番組では、元部下という人が伏面でテレビのインタビューに答えていたが、その言い分では「堤義明氏というのは神以上の存在だった」といっていたが、巨大な組織では往々にしてこういう事態が存在する。
彼、堤義明氏はグループ企業135社の総師ということであるが、こういう組織になると、配下の135社の社長というのは、総てがバーやキャバレーの雇われマダムと同じで、オーナーの顔色を伺うばかりで、真の忠告、真の諫言ということはしないわけで、社長とはいっても自分の会社ではないので、真剣にはなりきれず、自分の地位さえ安泰ならば、自分の任期だけ平穏に過ごせば、という気持ちに必然的になるものと考える。
現場の仕事は、その下の部下がそれこそ身命を賭けてやってくれるわけで、そういう人物さえ掌握していれば、それで済むわけである。
オーナーに諫言して逆鱗に触れ、自分が職を失うよりも、そのほうが安全で、収入も途絶えることはないわけだから、誰が火中の栗を拾おうとするものか。
必然的にオ−ナーは神様以上の存在になり、「裸の王様」になってしまうわけである。
真の経営者ならば、そこに気がついて、事業の後継者は身内や一族から選ばず、他所から適材適所で一番ふさわしい人物を引っ張ってくるはずである。
それが松下電器の松下幸之助であり、本田宗一郎であった。
同じ経営者でも、下から叩き上げというべきか、物作りが出発点の企業と、マネーゲームを通じて成長した企業では、経営理念が大いに違っているように思える。
物作りとマネーゲームという相違も確かに関係しているであろうが、もっと根本的なことは、堤義明氏の場合は純然たる創業者ではなく、2代目という意味で、父、康次郎氏のカリスマ性を何が何でも維持し続けなければならなかった、ということがあるような気がする。
堤義明氏が神様以上の存在だったということは、本人よりも周りがそういう風に祭り上げたとみなすべきだと思うが、それに本人が安住していたとすれば、やはり本人の不徳と致すところと言わねばならない。
本人も馬鹿ではないはずだから、適切な忠告や諫言ならば聞き入れると思う。
現に今回の報告書の不備は、部下から報告を受けて本人が開示したわけで、事業や企業経営に関する不具合なことでも、真摯に忠告し、適切に諫言すれば、本人はきっと聞き入れたに違いない。
けれども彼が神様以上の存在だと思い込んでいる部下からすれば、自分から進んで「猫の首に鈴を付ける役」はしたくないわけで、時が流れ、事態は変らないまま、ここまで来てしまったと見るべきではないかと思う。
堤敏明氏が神様以上の存在であるということは、周りの人間が勝手に築き上げた偶像ではないかと思う。
本人に直接会って、冷静に話をすれば、本人もきっと理解するのではないかと思う。
その証拠に、報告書の不具合を指摘した時点で、その対応の不味さは否めないが、少なくとも本人は開示するように指示したわけだし、自分で責任も負うているし、逮捕後の再建のプランでもあっさりと認めているところを見ると、そうそう何もかもを自分で判断し、自分で決めていたわけではないと思う。
その意味で真の独裁者ではないが、周りが独裁者に仕立て上げていたのではないかと想像する。
最近報道された内容の中に、西武鉄道の社長が、「今回も不正申告のまま報告するのか」とコクド側に正したとき、コクド側の言い分は「従来どおりにするのが当然だ」という返事をしたと伝えられている。
これが事実だとすれば、西武鉄道の社長は直接義明氏と会って指示を仰いだわけではなく、グループ内の誰かが義明氏の意を汲んで、それを義明氏の指示として話したことになる。
このことを真摯に考えて見ると、堤義明氏が直接指示したことにはならないが、西部グループ内では、堤義明氏の直接の指示と受け取られていたということである。
このパターンは昭和の初期に、我々の同胞が、日支事変から太平洋戦争への深みに嵌りこんでいった構図と全く同じではないか。
つまり、組織の中間の階層が、トップの意向を勝手に斟酌し、トップの考えていることを先走って推察し、トップは多分こう判断し、こう決断するに違いない、と勝手に思い込んで推察し、決断を下し、指示したことと同じだと思う。
私は堤義明氏を擁護する立場ではないし、弁護しなければならない義理も全くないが、マスコミの報ずるところをよくよく注意してみてみると、どうも我々の民族の組織論に行きつくような気がしてならない。
報じられているところによると、堤義明氏は、コクドの会長という立場で、西部グループの総師としての力量を発揮していたわけで、統治の形態としては間接統治になっているようだ。
これは組織が大きくなれば必然的にこういう形態にならざるをえないことで、トップがいちいち傘下の各企業の細かいことまで嘴を入れることはありえない。
よって、その中間に存在するパイプ役のセクションが、勝手にトップの意向を代行してしまうから、こういう不具合が後を絶たないものと考える。
彼は生れ落ちたときから大金持ちのボンボンとして育ったわけで、成長の過程で世の荒波に真にもまれたこともなく、伸るか反るかの試練、危機に直面したことは恐らくなかったものと推察する。
しかし、この件に関して報道されたところによると、父、康次郎が彼を後継者と定めた以降、父の彼に対する帝王学の習得についてはかなり熾烈なものがあったとされている。
父の死後、彼は間髪をいれずその手腕を発揮すべき場に立たされたが、その時は戦後の復興期から高度経済成長という日本のあらゆる産業が右肩上がりの上昇気流に乗っていた時期で、やることなすことはすべからく成功した頃である。
自分が「裸の王様」であったとしても、誰も「王様は裸だ!」と言う人がいなかったものだから、最後は警察の世話になるということになったものと推察する。
前にも述べたように、警察の世話になるということは、普通の市民の、普通に常識のある、普通に倫理観を備えた人間にとっては、非常に罪深いことであり、恥ずかしいことであり、人様に顔向けできない屈辱的なことである。
仮に、自分の親族の誰か、例えば兄か、姉か、弟か、妹か、子供か、他の肉親の誰であったとしても、「悪事を働いて警察に捕まった」という現実を突きつけられたとき、普通の我々はどう思い、どう考えるであろうか。
真っ先に、「身内から前科者を出して世間に申しわけない」という思いが頭をよぎると思う。
どんなに生活に窮しても、名もなく、貧しく、美しく生きている人もいるわけで、そういう人から見れば、警察の世話になった人というのは、罪の内容如何に関わらず、街のこそ泥やチンピラと同じレベルの人格でしかない。
彼が西武鉄道の株を報告書に実際よりも少なく記載させて、その差を売り抜けようとしたことは、明らかにインサイダー取引だと思う。
このあたりの発想が、ボンボンのボンボンたる所以で、判断が甘く、危機管理、事業者として、経営者としての危機に対する安易な発想だと思う。
企業というのは、いくら経営者だからといっても個人の持ち物ではないと思う。
企業乃至は事業の創業者といえども、一旦、会社組織ともなればもう個人の持ち物という考えは成り立たないと思う。
企業は、その経営方針に則って社業をすすめることで、社員と、顧客と、取引先に貢献し、それを通じて最終的に社会に貢献するというものでなければならない。
最後の「社会に貢献する」という部分に、「法で定められた納税の義務をきちんと果たす」ということが企業にも当てはまると考える。
企業ばかりではなく個人についても同じ事は言えると思う。
この事犯に関する報道を見ていると、彼は自分のしたことが法に触れている、ということは案外素直に認めているようで、責任の重さも自覚し、自分が指示したことも認識しているということは、そうそう私利私欲の固まりではないと思うし、話せば判るというタイプだろうと考える。
ならば警察の世話になる前に、グループ内で話し合い、社内で話し合えっておけば、彼が捕縛を受けるという屈辱を受けないでも済んだのではないかと思う。
そういう意味からすれば、草の根からのし上がってきた鈴木宗男などは、もって生まれた心根が汚いので、そうそうあっさりと自分の非を認めることなどはせず、徹頭徹尾、反抗の態度であるが、それに較べれば堤義明氏などは全く素直なものだ。
彼が司直の追及には素直だが、自分のグループ内の事業の経営に関しては、傲慢であったという面は多々あろうかと思う。
何不自由なく育って、若くして企業経営に携わった、携わらざるをえなかった、彼の境遇を考えれば、警察の追求にはきわめて弱く、自分の組織においては傲慢な態度であった、という状況は充分に推察がつく。
しかし、それは本人がそういう体制を作ったというよりも、周囲の取り巻きの人間が、そういう体制を作り上げて、その体制の中で自らが安住したくて、彼を独裁者に見立てて、取り巻き連中はそれを傘に利用していたと見るべきではないかと思う。
会社が135社もあれば、一人でそれを全部見ることは当然出来ないわけで、途中の中間管理者に権限を委譲した部分があるものと考えるのが普通であろう。
本人が全部の書類に目を通して決済を自分で下すのではなく、ある程度の問題は、途中の者が本人の意向として、下のものに指示する場面が相当にあったものと考えなければならない。
先に記述した西武鉄道の社長の進言なども、その類のことだと思う。
総てが右肩上がりの上昇気流に乗っているときは、それでも大過なくやり過ごすことが出来たが、一旦ほころびが出来てもなお、この状態を続けていれば、そのほころびが大きくなるばかりで、収拾がつかなくなってしまう。
彼はしなければならないことは自らしているわけで、それが結果的にインサイダー取引ということになってしまったようだが、コクドが西武鉄道の株を過少申告しているので、その差額分を何とか放出して、帳尻を合わせなければと思って、自ら動いた行為が証券取引法違反に問われてしまったわけである。
この行為をマスコミはトップセールスと称して、トップの人間が率先してインサイダー取引をしたような印象を植え付けようとしているが、彼にしてみれば窮余の一策ではなかったのかと考える。
株を売り抜けて儲けよう、とまで浅ましく考えていたのではないような気がしてならない。
本人がどう思っていようと、結果はそういう風になってしまっているので、今となっては、弁解の余地もなく、値下がりした株券を掴まされた側が怒るのも無理はないし、堤義明氏の信用丸つぶれ、ということも厳粛なる事実だと思う。
私には彼を擁護したり、弁護する義理は何もないので、彼の行為を善意に取りたいところであるが、彼の系譜から考えると、案外売り抜けようという腹があったのかもしれない。
彼が良家のお坊ちゃん、金持ちの御曹司ということは認めざるをえないが、だからといって、彼の系譜のことを考えると、金持ちであったことは事実だとしても、本当に良家といえるかどうかははなはだ疑問だ。
父、康次郎が政治家で衆議院議長を勤めたからといっても、倫理的にも優れた人であったかどうか不可解だし、私欲の権化と化している点でも、相続税を納めたくないということで、節税を画策するあたりにも、名実共に本当に良家と言うにふさわしいかどうかは大いに疑問だ。
彼の系譜から考えて、人から愛され、尊敬される家柄であったかどうかは大いなる疑問である。
やはり人から尊ばれ、人から敬われるということは、公共の福祉にどれだけ貢献したかということが、それを測るバロメーターになるものと考える。
私利私欲に凝り固まって、税金を免れることばかりを考えているような者は、それにあたらないと思う。
定められた税金を率先して収めてこそ、最低限の公共への奉仕だと思う。
それを合法的にとはいえ、節税などという発想そのものが公共の福祉に対する反逆だと思うし、大金持ちが出すべきものを渋るという考え方それ自体が、賎民の発想だと思う。
我々日本の一般大衆も含めて、世界各国共通の認識として、税金というのはお上、統治するものが取り上げるものだ、という認識が普遍的なことは認めざるをえない。
ところがこの認識は19世紀から20世紀後半までの認識であって、21世紀という近代的な民主主義の世の中に生き、生かされている者ともなれば、税金を率先して払うことが美徳だ、という新たな認識、新しい価値観を築き上げなければならないと思う。
昔も、今も、これからも、主権国家の国家運営には多額の金が入用なことは誰が考えても当然なことで、かっての古典的な国家では、それを上から徴収する、統治するものが搾取するということが従来の在り方であったことは否めない。
封建制度下の体制では、君主が領民を抑圧して、領民に重い税金を科し、自分たちは酒池肉林にふけるという認識やイメージが普遍的であった。
ところが主権在民が定着し、進歩的な民主主義の社会ともなれば、国家運営に必要な金は国民の側、つまり統治されている側も積極的に関与しましょう、しなければ、という発想にいたらなければ、下からのボトムアップの民主政治というのはありえないのではないかと考える。
それでこそ「自分たちの収めた金がどういう使われ方をするのだろう」という関心が湧くし、自分たちの社会を自分たちが支えているのだ、という実感がわくと思う。
今までは無理やり徴収されていたので、その徴収された金には恨みがこもっているため、一旦盗られた金が「どう使われようとも知るもんか!」という投げやりな態度で済ましてきた。
よって税金の使われ方には無頓着で、予算の浪費に対しても無関心で、悪いのは何もかも全部ひっくるめて「政府の責任だ!」という論調で済ませてきた。
会社勤めを終え、定年になって確定申告に行くと、払いすぎの税金は還付してくれる。
税務署員がなにやら小難しい法規に照らし合わせて「貴方はこれこれ払い過ぎですから還付します」と言ってくれた時は本当に嬉しい。
ところが、逆に「これこれ不足しているから、あそこで収めてください」と言われたときには天をも怨みたいほどの悔しさが残る。
税金を「取られる」という感覚でいると、取れた時は本当に悔しい気持ちになる。
事業者や、企業家、経営者の大勢の人が脱税したくなる気持ちが本当に実感として理解できる。
堤康次郎氏が「税金を納めたくない」と思う心境が実感としてわかる。
しかし、こういう意識は古い感覚に違いない。
事業者や、企業家、経営者が汗水たらして稼いだ金を、税務署という国家権力が無理やり剥がして取って行くという感覚に陥る。
水戸黄門のテレビドラマで悪代官が領民からむしりとる、という感覚に陥りがちであるが、21世紀の民主化の進んだ近代民主主義国家ともなれば、こういう時代錯誤は奇麗に払拭して、自分たちの国は自分たちで作るのだ、そのためには納税が不可欠だ、という新しい発想に立たなければならない。
企業家や、事業者や、経営者がつつがなく会社を経営し、収益を上げ、利益を確保できるのは、社会全体が順調に回転しているからであって、そのことによって社会全体から大きな恩典を受けているからである。
個々の企業家や事業者というのは、そういう暖かい社会という枠組みの中で自由に個人のアイデアを出し、知恵を出し、血と汗を流すことによって人様以上に金をためることができたわけで、それは社会という仕組みのおかげであることを考えれば、それに対するお返しという発想が生まれても何ら不思議ではない。
そういう「お返しをするのが損だ」、という考え方はあまりにも強欲すぎると思う。
人間という存在を冒涜するものだと思う。
個々の人間が、相互扶助しあって、下から積み上げて、築き上げている社会というピラミットを否定することだと思う。
人間はオギャアと生まれてきた時に金を持って生まれてきたわけではない。
生れ落ちたところが金持ちかどうかという違いはあるにしても、生まれてきた本人が札束を握り締めて生まれてきたわけではない。
赤子が裸一貫で生まれたならば、死ぬときは総て現世にお返しして、身一つで彼岸に行くのが、奇麗な人間の生き方で、人としての正常な生涯ではないかと思う。
輪廻ということは、そういうことではないかと想像する。
この世に生まれてきて、自分の才覚で財を成すことも、人間の生き方の一つではあるが、その才覚に溺れ、数多の女性に数多の子供を作らせ、その財を他人には何一つ譲らせないように画策するというのは、人間の業としてあまりにも罪深く、欲深いものがあるのではなかろうか。
自分の才覚で財を成すということも、本人の側から言えば非常に名誉な言い方であるが、裏側からの言い方をすれば、人を踏みにじって、人を踏み台にし、人を裏切り、人を騙し、人の弱みに付け込み、財を成したということでもあるわけで、そうでなければ財そのものが出来上がらないではないか。
法を犯したわけではなく、法律を破ってまで人を騙したわけではない、と反論されそうであるが、法律というのはミニマムの倫理なわけで、ミニマムの倫理を越えなかったといって、それがどれだけ自慢になるのかと問い直したい。
犯罪者というのは、このミニマムの倫理さえ遵守することができなかったからこそ、法の裁きを受けるわけで、ミニマムの倫理を超えていないから、おれば潔白だなどと胸を張ってはいえたものではない。
ミニマムの倫理を越えるかどうかの決断、切羽詰った状況に追いやられたときに、一線を越えるか否かの決断、そういう状況に立たされた時の身の処し方というのは、案外、遺伝的なものが有るのではないかと思う。
「犯罪は遺伝する」というと、差別主義のように聞こえて、昨今では忌み嫌われるが、生身の人間として、人が物事を判断をするときには、自分の経験則から自分の身の回りの状況や環境を参考にして、物事を判断するのではなかろうか。
その時に、自分の周囲に倫理観の乏しい人がいたとすれば、自分がそれを真似したとしても、違和感を感ずることもなく、倫理に反したという罪悪感が麻痺するのも極当然のことだと思う。
いくら高位高官を得た人でも、罪を犯す人もいれば、いくら貧乏でも、決して法に触れるようなことをしない人もいるわけで、人間の価値としてどちらが高貴なのであろう。
21世紀の新しい民主主義国家ともなれば、「納税は良い事だから皆で喜んで納税しましょう」という新しい価値観を作り上げてもいいのではなかろうか。
不思議なことに、政治献金というのは許されているが、脱税しておいて片一方で政治献金するというのもおかしな話だと思う。
国会議員の集団、要するに政党には、政党助成金というのがあるのだから、それ以上に政治献金というのは不用なはずであるが、それにもかかわらず、もっともらしく細かい規則を設けてそれが出来るようになっている。
国の歳費が逼迫しているから政治献金を認めているというのであれば、政党助成金は止めるべきで、政党助成金を認めるのであれば、政治献金のほうを完全撤廃すべきだと思う。
政党助成金だけでは政治活動が出来ないから政治献金があるのだ、というのであれば、それはただの言い逃れに過ぎない。
政治家が如何に安く政治活動をするか、コスト管理が如何に杜撰であったか、を言葉巧みに言い包めているだけのことで、それは単に自助努力を放棄しているだけのことであり、民間企業では赤字経営や倒産企業が掃いて捨てるほどあることから考えれば、詭弁もいいところである。
そんなことは理由にもならない。
こういう矛盾を日本の政治が抱えているので、21世紀の新しい日本国民が納税を積極的にしようという新しい価値観が定着しないのである。
個人でも企業でも高額納税者には勲章だろうが感謝状であろうが、なんでも大いに奮発して出して、「税金を納めることは立派なことだよ」という新しい価値観を定着しなければならないと思う。
堤康次郎のように、税金を免れることばかり考えているような人間は、21世紀の新しい日本の国賊とでも認知すべきだと思う。
身一つでこの世に生まれてきたものが、自分自身の甲斐性で築いた財産を、他人にはびた一文足りとも渡したくない、という心情は生身の人間、煩悩多き人間として、わからなくもないが、いくら現世に大きな財産を築き上げたとしても、それは借り物に過ぎないわけで、死んだらあの世にもっていけるわけではない。
死ぬときもやはり身一つで死ぬわけだから、大事なことは生前に如何に人から愛され、人から慕われ、人に奉仕できたかという、目には見えない実績だと思う。
ところが堤康次郎や、その事業を引き継いだ堤義明のような立場に立つと、周囲の他人がある程度は祭り上げてくれるので、自分は人から愛され、慕われ、彼らに奉仕しているかのように錯覚してしまうのが当然だと思う。
だからその裏側で、泣いて、恨んでいる人のことがさっぱり眼中に入っていないのではないかと思う。
生前に得た財産が総て借り物であるとすれば、あの世に行く際にはそれを現世に還元して然るべきであるが、それは一代で放蕩し尽くせという意味ではない。
金持ちの放蕩ということも経済という立場からすれば非常に有益なことだと思う。
金持ちは金持ちなるが故に金持ちらしい放蕩をすることは、経済の活性化に大いに役立つものと考える。
経済ということは金の循環のことで、金をストックしてしまうことが経済にとっては一番悪いことで、金が循環している限り、経済は活性化される。
それは金持ちの放蕩であろうと、公共の福祉であろうと、箱物の建築であろうと、金が循環している限り、経済は活性化する。
人間の価値というのは、自分以外の人にどれだけ尽くせたか、という点につきると思う。
自分以外の人という場合、自分を中心にして同心円を描いたとき、その中心に近いところは、配偶者や子供、両親という肉親が占めるのは当然で、中心から遠ざかるに従い、地域の人々、日本の人々、世界の人々と、その対象の輪は広がっているものと考える。
自分以外の人に尽くす、ということは言葉でいうほど安易なことではなく、言葉のニュアンスから想像も出来ないほどの意味深いものを内包していると思う。
自分一代で財を築いたので、それを手放したくないというのは、自分を中心とした同心円の、中心に極めて近い内側に、それを確保しておきたいという、人間が普遍的に持つ煩悩だと思う。
普通の人は、普通、こう考えるものと思う。それこそ真の煩悩だと思う。
人のために尽くすということは、その煩悩を乗り越えなければならないわけで、ここで知性や理性と、煩悩との葛藤が生じる。
煩悩ということは要するに自己愛なわけで、愛を他人にまで分ち与えることができず、そうすることは自分にとって損だ、という意識にさいなまれ、欲求が自分自身だけにしか向かわないのである。
今流行の言葉で表現すれば「ジコチュウ」というわけだ。
それで自分一代で築いたものは誰にも渡さない、堤家の財産は未来永劫堤家のものだ、というジコチュウ主義は、神仏を侮るものであり、人として傲慢であり、極限の煩悩であり、人の価値としては最低であり、自然の摂理のまま生きている動物と同じで、人間としての理性も知性も、精神の進化も全くないというわけだ。
個人が一代で築いた財は、大衆から搾取したなどと左翼的な発想で捉えることは極端なものの見かたであるが、財を築くためには、その途上で株式会社という組織体にしないことにはしえないことで、一旦、株式会社という組織体を作り上げれば、それはもう個人のものとはいえなくなると思う。
その組織を構成している人や、取引先や、顧客や、消費者にとって有益なものであるからこそ、その組織が興隆するわけで、組織の舵取りは経営者としての個人の志向で行なわれたとしても、組織の上げる収益というのは、社会全体に還元してしかるべきだと思う。
それ還元するに一番妥当で常識的な方法が所得税をきちんと納めるということの筈だ。
税法上、企業が赤字ならば所得税を納めなくてもいいとなっているらしいが、そんな企業は最初から存在価値がない、とみなさなければならない。
企業の舵取りをする人達、いわゆる経営者といわれる人々は、自分の企業を赤字経営にしないように鋭意努力すべきで、それを逆手にとって、税を納めたくないからわざわざ赤字にしておく、などという行為は全く反社会的な行為だと思う。
この税制上の措置も、一生懸命努力しても、どうしても一時的に赤字に転落する企業もなるので、そういう企業を絶やしてはならない、という意味で、納税が一時的に免除されていると思うが、それを私有財産の保護のために使うなどということは、経営者として風上にも置けない卑劣な行為だと思う。
天下国家の思し召しを逆手にとって、私服を肥やし、納税を免れようとする行為を誰が褒め称えるであろう。
企業経営というのは、当然、世の浮き沈み、景気の動向によって、人事を尽くしても収益の上げられなときがあることは資本主義社会では免れない現実で、そういうときに従業員や、その他の関係者をいきなり路頭に放り出すことのないように、赤字の時は税を納めなくてもいいですよ、という措置になっているものと考えるが、それを悪用して私利私欲を肥やすなどとは、人として最低の人格でしかない。
これが堤義明氏の父、堤康次郎氏の生き様であったわけで、こんなことで人から敬われる筈がないではないか。
確かに、彼には金があったから、砂糖に群がる蟻のように人は群がったかもしれないが、我々、名もなく、貧しく、美しく生きている庶民から見て、この状況が羨ましい存在だろうか。
私個人としては、こんな人物を決して羨ましいとも思わないし、尊敬する気にもならないし、現にこうして悪口雑言を述べているではないか。
20世紀以降の資本主義社会では、個人が企業を立ち上げ、それがビッグビジネスに成長するということは往々にしてあった。
松下電器、ホンダ、トヨタ、鈴木自動車、SONY等々は、戦後、日本に興隆したビッグビジネスであることはいうまでもないが、個人が立ち上げた企業でも、最初のうちは規模が小さいので創業者が経営に参画するのが当たり前であった。
ところが、それがビッグビジネスに成長すると、もう個人乃至は創業者一族では全体を掌握できなくなるのも必然的な流れだと思う。
最初に事業を立ち上げたときには小さな企業であったが、それがビッグビジネスに成長してしまったとき、創業者は、その事業を今後どういう風に管理運営するか、創業者に課せられた大きな課題であり試練だと思う。
そこで、堤康次郎のように自分の一族で抱え込んでしまうのか、それとも外部の有能な人に管理運営を任せて、事業の今後の発展を期すのか、人間としての真価が問われるものと考える。
どんな事業でも、最初はささやかな金儲けが出発点だと思う。
ここで金儲けという言い方をすると、主題が一段と低俗化してしまいそうであるが、そこにある基本的な発想というのは、この商品を買った人は、金を払っただけの価値を得ますよ、つまり買った人はほんのわずかであろうが、金を払っただけの幸せが得られますよ、と買った人が喜ぶような価値を売ることで金を得ているものと考える。
これを買えば払っただけの幸せが得られますよ、という気持ちが物を作る側にはあったと想像する。だからこそ実業だと思う。
売値とコストの差額で、それが儲けとなるわけであるが、事業の根本的な狙いは、金を儲けるということよりも、人々に金に見合う喜びを与えるという点に主眼があるように思える。
売値とコストに差額がないことには、事業が先に進まないわけで、その意味からして、それが次から次へと継続していくと、組織そのものが大きくなって、最終的にはビッグビジネスに行き着くことになる。
さて、ビッグビジネスになったとき、事業を起こした創業者と、それを取り巻く周囲の人々は、この大きくなった企業に対してどう対応したらいいのかという点に尽きると思う。
事業というのは、一旦、軌道に乗ってしまえば、もうそれは個人の持ち物ではないと思う。
社会的な資産になると思う。
ある企業という組織体として、それは社会の中で有機的に活動し、そして社会的に機能する大きな人間集団となる。
そして、その組織体は物を生産し、それを流通させ、顧客に幸せを提供し、その見返りに売値とコストの差額を得て、それが又次なる生産の糧となって回転することで社会全般に経済という輪廻転生を繰り返すことで、日本を越え、世界を越え、人類全体に貢献し、奉仕する仕組みとなるものと考える。
最初は個人の小さな会社であったとしても、その小さな会社を上手に運営することで、その経営者も、社員も、従業員も、顧客も、問屋も、消費者も、その事業にかかわりを持つ全部の人が幸せを得、そのことで人類に貢献していると考えなければならないと思う。
決して個人のものと考えてはならないと思う。
ところが、最初は個人の小さな会社であったものがビッグビジネスに成長してしまったとき、その創業者は、その後の運営を如何にするかということは、創業者なるが故の悩みだろうと思うが、基本的にある程度の規模の企業ならば、その企業を潰すことはある種の罪悪でもあるわけで、それかといって、収益を全部私物化していいかというものでもないと思う。
そこに経営者としての悩みがあるわけで、経営者としては、自分の起こした事業が何時までも右肩上がりの繁栄を続けることを望むのは当然であろうが、その為には一族のものが運営するのがいいのか、それとも他の有能な人に任せたほうがいいかどうかは極めて難しい判断を迫られるものと思う。
創業者が一代で築いたものを、次世代に引き継ぐのに、一族の中から後継者を選んだほうがいいのかどうかは極めて難しい問題だと思う。
事の成り行きとして、最初は小さな会社であったものがビッグビジネスにまで成長する間に、創業者の一族というのは、その有様をじかに目の当たりにしているというのは当然だろうと思うが、そのことは同時に既成概念が染み付いていると考えなければならないと思う。
ここでいう既成概念の中には、コクドの堤義明氏のように、「神様以上の存在」という神がかり的な人間評価まであるわけで、ビッグビジネスの中の創業者一族というのは、どうしてもこういう傾向を大なり小なり免れないのが普通ではないかと思う。
こういう雰囲気の中で、後継者選びがなされるとすれば、経営者のモラルハザードが起きる大きな要因を抱え込むことになりかねないと思う。
小さな企業が大きく成長したとしても、創業者とその一族の貢献度は評価しなければならず、そのためには何らかの手当てをしなければならないのは当然だろうと思う。
しかし、純然たる会社経営の手腕と、創業者の一族であるという事実とは、何ら因果関係はないわけで、そういう意味で株主としての地位は保全しながら、経営には経営者として有能な人を起用すべきが本筋で、創業者の係累だからという理由だけで、経営に参画させるというのは時代錯誤の思考ではないかと思う。
最初は町の小さな経営者であったものが、一代でビッグビジネスにまで企業を拡大したともなれば、その企業はもう個人の持ち物ではないわけで、社会的に大きな価値を生み続けることになり、それは企業の価値そのものよりも、企業経営を通じて社会一般に大きな影響力を持つようになるものと考える。
堤義明氏が135社の株をもち、実質社長だったとしても、彼が社長であることと、その企業の社会的影響力というのは何ら関係がないわけで、彼はその企業を経営することで金を集めようとしているとしても、その企業そのものは、彼の思惑とは別に、企業活動が円滑に動いている限り、社会に大きく貢献していることになる。
社員が汗水たらして働くことによって、顧客が利便を得、幸せを得、社員そのものも収入を得ることが出来、納品業者も、それなりに潤うわけである。
企業が円滑に経済活動さえしておれば、皆が幸せになれるのであるが、ここで経営者が社員の賃金を抑えて、自己の利益を図ったり、売掛金をアップして顧客の不評を買ったりしなければ、おのずと会社の収益は上がってくるはずである。
そういう収益から納税するということは、事業者の勤めであり、それは企業というものが経営者ばかりではなく、社会全般から支持されているから始めて収益が上がるわけで、これが顧客から見放されて不買運動でもされたならば、収益どころではなくなってしまう。
企業は、社会一般の思し召しに支えられて収益がでるわけで、そうして上がってきた収益を自分ひとりで独り占めしようという発想は、根本的に間違っている。
法に触れないからと言って、節税対策することさえ反社会的な行為だと思う。
金持ちは金持ちらしく、お大尽はお大尽らしく、税金も沢山払うべきで、税金を誤魔化そうなどという不埒な発想はすべきでないと思う。
税金を誤魔化そうなどと考えているうちは、俄か成金の域を出るものではないと思う。
毎年発表される高額納税者という人には、勲章でも感謝状でもどんどん発行して、皆が競い合って納税するような雰囲気を作り上げなければならないと思う。
高額納税者こそ、人々の目に見える形で社会に貢献し、社会に奉仕した人と認めなければならないと思う。
勲章でも感謝状でもどんどん出せば良いと思う。
それともう一つ堤家の金儲けに関して納得の行かない点がある。
というのは、堤家が支配している企業の大部分はサービス業であるという点である。
いわば虚業である。
ものつくりを実業とすれば、堤家の主体が虚業で成り立っているという意味で、非常に下賎な感じを受ける。
企業や人間の行なう仕事に貴賎はないとはいうものの、それは理想の高い性善説から見た人間の建前であって、人間のもって生まれた自然の感情では、そう奇麗事のままでことを終始するわけにはいかないと思う。
西部王国の基盤には鉄道事業があるので、これを虚業というのはいささか躊躇せざるを得ないが、如何なる企業も、社会的に貢献しているわけだから、その意味から考えれば、企業に貴賎がないということは真実ではある。
鉄道ということは、それこそ不特定多数の人々に直接的に利便を提供しているわけで、それ故に公共性の極めて高い事業といわねばならない。
ならば虚業とは言えないではないか、という反論は当然だと思う。
私の個人的な思考では、物つくりに一生懸命な企業は、実業で成り立っているが、そうではなくサービスを提供している企業は、虚業に見えて仕方がない。
金貸し(銀行や証券会社)、不動産業者(マンション経営や土地ブローカー)、パチンコ屋(娯楽施設、アミューズメント)、議員と称せられる政治家、もっともらしいことを述べ立てて煙に巻く評論家、進歩的知識人、学校の先生、坊さんをはじめとする宗教関係者というような職種の人々は、私の個人的な感情ではどうしても好きになれないし、そういう人達とは交わりたくない。
額に汗して働くことを拒否、乃至は軽蔑している人々を、私は好きになれない。
我々は資本主義社会に生きているのだから、論理的には法の定める枠内であれば、どんな手段・手法で金を稼いでもいいし、そのことによって個人の欲望を満たすことも許されてはいる。
だからといって、虚業で金を儲けようとする人間を真から好きにはなれないし、自分ではそういう稼業をしたいとも思わない。
やはり額に汗して働くことが尊い、という古い価値観から自分自身は抜けきれないでいる。
第2次世界大戦中、ドイツのヒットラーがユダヤ人を迫害した理由は、ユダヤ人というのが民族として虚業にのみに携わっていたため、実業を重んじる古典的な思考をよしとするドイツ民族の偏見によるものと推察する。
そのことを企業という立場から見ると、額に汗して働くということは、零細なうちはそれが成り立っているが、企業が大きくなると、その管理という面から実業と虚業の線が曖昧になってしまい、そういう偏見も消滅してしまいがちである。
しかし、銀行などという業界は、徹頭徹尾、虚業であるが、今日のように経済がグローバル化して、巨大な資金を流動的に運用しなければならないという状況になると、それに対する蔑視などどこかに吹き飛んでしまって、昔の価値観など通用しなくなってしまった。
だから高度経済成長のときには、そういう虚業家がこの世の春とばかり、大いにうぬぼれて、土地や、株や、ゴルフ場の会員権等に投資して、「投機で金儲けをしない奴は馬鹿だ」とまで言い切ったところに、その後の第2の敗戦が潜んでいたわけである。
堤家、堤康次郎と彼の息子達は、この風潮の真ん中で生きてきたし、それを身体で実践してきたわけで、そこに心の卑しさ、もって生まれた性根の卑しさ、金持ちではあっても下賎な信条というものが、一族郎党の遺伝子として引き継がれてきたわけである。
いくら貧乏していても、官憲の捕縛を受けず、清く、正しく、美しく生きている人は掃いて捨てるほどいるわけで、いくら金持ちであろうと、警察の厄介になる様な人は、今日だとて村八分の処遇を受けても当然だと思う。
昨今は、人権意識が高揚して、犯罪者を差別してはならないという風潮が普遍的であるが、これは人類誕生以来、何千年という過去の人達の経験則を根本的に覆す考え方だと思う。
犯罪者にも基本的人権があるという論旨は、進歩的文化人の奇麗事に過ぎず、立派なご高説のように聞こえるが、法を犯すということはミニマムの倫理を踏みにじるということであって、刑に服せばそれが帳消しになる、というものではないと思う。
ミニマムの倫理を踏みにじるということは、その人の持つ個人的な遺伝子であって、そういう人は最初から「ルールを守らなければならない」という倫理観を持ち合わせていないものと考える。
金があって、立派な教育を受けて、組織の中できちんとマネジメントが出来ていた人が、なぜ法を犯すような愚昧なことをしでかすのかと考えたとき、そうとでも結論付けなければ説明がつかないではないか。
もともとの金持ちが、その持っている金を「減らしたくない」という思いで法を犯すなどという行為は、そうとでも言わなければ説明がつかないではないか。
地球上のあらゆる地域に出来た、それぞれ孤立した社会においても、それぞれの社会の中ではルール違反に対しては何らかのペナルテーを科した処遇、つまり村八分的な処遇、差別という類のものがあるのが普通ではないかと思う。
これは人類の経験則から来ているものだと考える。
つまり、過去の人間は、お互いの人間を詳しく観察した結果から、ルール違反をしたものに対しては、何らかの対抗手段を講じルールを遵守している人間を擁護しなければならないと考えたに違いない。
違反者に対して、自らを守るために、違反したもの、違反の常習者を差別することで、社会全体の安寧と秩序を維持してきたものと考える。
時代が進化して、近代から現代に至ると、法が整備され、ルールがきちんと文書化され、それに付随して刑罰も明文化されて、一度は法に触れた行為をしても、それを悔い改め、刑に服せば元の社会人に完全復帰できるという状況になったが、人間の持つ内面の卑しさというものが克服されたわけではない。
文化文明の進化に付随して、人間の心の内面までも時代に合わせて進化したとは思われず、人間の心というのは、太古の昔から一歩も進化してないと思う。
文化文明の進化に伴って人間の意識は確かに向上して、差別はいけないとか、戦争はいけないとか、人の命は地球より重いとか、もっともらしいことが声高に叫ばれているが、いくら表面を奇麗事で繕ったとしても、人間の心の奥底に潜んでいる本質的な精神の気高さや、卑しさというものは物質文明がいくら進化しても、それに付随して進化するものではない。
太古の人間から較べると、今の教育程度の高い人々の犯す経済事犯、乃至は犯罪というものをどう説明したらいいのであろう。
太古の人間と比較すれば、今に生きる我々は、非常に多くの知識を身につけているわけであり、非常に高度な教育を身に付けているにもかかわらず、まるでテレビドラマの水戸黄門に出てくるような悪代官が一向に減っていないではないか。
教育が普及し、人々が豊富な知識と教養を身につけたとすれば、それは人間としての生き方にも反映されて、社会的な地位の高い人の不祥事、組織のトップの不祥事、高級官僚の不祥事などということは、絶滅して当然であって、そういうことがマスコミを賑わしている現状というのは、高度な知識や高学歴が人間のもって生まれた本質的な品性を向上させるものではないということに他ならない。
むしろ、もともと卑しい品性の持ち主が、豊富な知識を持ち、学歴をもって、それを武器として私利私欲を肥やしたと考えるべきではなかろうか。
自分の身と置き換えて考えてみると、古希の年齢に達して警察の世話になり、検察を煩わせ、牢屋につながれ、臭い飯を食わされる身の哀れさ、というのは筆舌に尽くし難い屈辱ではなかろうか。
私ならば死ぬほどの屈辱で、とても生きてはおれないが、堤義明氏は自分のおかれた状況を「屈辱だ!」と思うほど、人としての倫理観を備えているであろうか?
自分の身と照らし合わせてみると、孫もいるだろうに、おじいちゃんが刑務所に入っている状況というのを、家族はどういう面持ちでいるのであろう。
堤康次郎氏が死んだときに、子供の認知を迫る女が門前に列を成したほどの乱脈な交合を繰りかえしていた堤家一族であれば、野良犬か野良猫と同じで、人間としての家族という絆が最初から欠落しているのかも知れないし、それなるが故に、金が腐るほどあるにもかかわらず、よりによって刑務所に入らなければならない境遇というのも、必然であったのかもしれない。
実に哀れではなかろうか。