050204

知と倫理と教育

 

ツールとしての情報

 

先に朝日新聞とNHKの喧嘩のことを記したが、報道が歴史にしめる重要性というのは計り知れないものがあると思う。

人間の織り成す社会で、政治にしろ経済にしろ報道によってその動向が大きく左右されるということは枚挙に暇がない。

それは報道ということが如何に人間の生業に関わりが深いかということだと思うし、だとすれば、それに携わる人々というのは倫理的に非常に高潔なひとでなければならないと思う。

マスコミニケーションというものが普遍的でなかった頃は、情報交換は個人対個人の間で行なわれており、それが政治経済を支えていたが、今日のようにマスコミ二ケーションが普遍的な時代になると、政治経済に関わる人間でなくても、情報の入手が可能になった。

そして情報のやりとりが個人対個人の域を出て、マスとして、大勢の人間が情報に対して安易に、そして簡単に接することが可能になる時代がくると、為政者の側はそれを逆手に使って、政治経済の手段としての役割を情報が担うようになってきた。

ヒットラーがラジオとか映画を有効に使って第3帝国の宣伝に利用し、ルーズベルト大統領がラジオの有用性に着目して、「炉辺談話」というもので対日戦の整合性をアメリカ国民に訴えた事例は有名であるが、マスメデイアというものがこういう風な使われ方が出来るようになったのも20世紀の大きな特徴だろうと思う。

情報というものが、政治経済の大きなツールとして、このように為政者の都合によって使われるようになってきたということである。

明智光秀が本能寺で織田信長を暗殺した情報は、個人が身体を張って豊臣秀吉に伝えたわけで、秀吉はその事実を隠して毛利家と和睦を図った。

ここでは情報を隠すことが政略に繋がっている。

つまり、情報が政略のツールとなっていたわけである。

同じことは第2次世界大戦の初頭、ヒットラーの電撃作戦もソ連側にその意図を悟られないように情報を隠匿したわけで、同様のことは日本の真珠湾攻撃についても言える。

それとは逆に、昭和14年のゾルゲ事件では、アカイアカイ朝日新聞の尾崎秀美という記者は、日本が中国大陸を空にして南方に進出する意図をソビエット側に流したので、その結果としてソビエットはアジアに待機させていた軍をドイツ戦線に向けたわけで、事ほど左様に情報というのは政治経済の大きなツールとなっている。

情報というものは公にすることでツールとなるときもあるが、逆に隠匿することでツールとなることもあるわけで、特に国益に関する要件ともなれば、その重大さというものは計り知れないものがある。

日本国憲法の保証する言論の自由とか表現の自由,はたまた思想信条の自由というのは、この情報の扱い方とは別の次元の問題だと思う。

ところが今の日本ではそれが混同されてしまって、自分の思うことが思うとおりにできないと、こういう天下の宝刀を安易に振り回す傾向がある。

国益を左右するような情報も、陰毛を見せる見せないという低俗な思考と同じ扱いで百家争鳴の如く憲法を持ち出して同じまな板に載せようとしている。

 

メデイアの正義感

 

国益などと大上段に振りかぶらなくても、同胞を敬い、尊敬し、自分たちの先祖を思う気持ちがあれば、当然、言葉に出来ないようなことを平気でわめき立てている輩があまりにも多すぎると思う。

こういう輩が一体どういう人かといえば、高等教育を受け、巨大マスコミに就職し、または大学に籍を置き、進歩的知識人を自他共に認め、人品卑しからぬインテリーとして括られる人達である。

ラーメン屋のオッサンや、床屋のオッサン、魚屋のかみさん、菓子屋の店員など、一般大衆といわれる人達とは一線を画した人達である。

こういう人達は情報というものを弄んで、そのことによって糊塗を凌いでいる。

そういうことの可能な日本というのは、まさに恵まれた国であり、自由の国であり、開かれた国であり、有り難い国といわなければならないが、そういう人に限って、その有り難味を理解しようとしないのも不思議なことである。

自分の思うことが思うとおりに運ばないと、この有り難い国の有り難さまで全否定しようとするところが独りよがりの独善である。

しかし、本人たちはその独善さえも気がついていないわけで、自分の思考が井戸の中の蛙の状態になっているにもかかわらず、そのことに一向に気がつこうとしていない。

人が寄り集まって社会というものを形作っている以上、その社会をリードし、ある程度の方向付けをし、仲間の人々の利益を図り、仲間の人々によりよい環境を作ろう、と考えるような人はどうしても無産階級で、無学文盲の人であってはならないわけで、そういう人は学歴の高い教養豊な人で、あらゆる情報に素早く、如何様にも、臨機応変の対応できる人でなければならない。

学歴と統治能力とは必ずも一致するとは限らないだろうが、学歴はあればあっただけ、統治の趣向にも柔軟性を持たせることが可能ではないかと考える。

我々はともすると政治と経済、行政と司法、経済市場と福祉というものを、それぞれ別個のものと認識しがちで、その一つ一つを縦割りに掘り下げて考えようとしているが、これらは総てリンクしているわけで、政治、経済、行政、司法というものをそれぞれ単独で掘り下げても有意義な結論は見えてこないと思う。

そして、これらをリンクさせているのが情報というものだと思う。

その情報を牛耳っているのがマスメデイアである。

統治するものとしては、このメデイアを如何様に手なずけるかということが大きな課題となるわけで、独裁的な国家ではメデイアを国家が直接管理しているが、民主的な国家では、その辺りの兼ね合いを民間企業の良識に委ねている。

ここで問題となってくることが、戦後の我々の国は独裁国家ではないという現実である。

戦後の我々の国は曲がりなりにも民主的な民主主義の国であるので、そのマスメデイアというのは良識を供えた人々に依って支えられている、と考えなければならない。

憲法では表現の自由から、言論の自由、報道の自由、思想信条の自由が保証されているので、民主主義に支えられた民主的な国の中で生かされていると考えなければならない。

当然、我々の国のリーダーというのは、無学文盲の人がなっているわけではなく、国民の中から選出された人達が国の舵取りをしているわけである。

しかし、今の我々の国では、国民の全体の知的水準というのはかなりアップしており、国のリーダーたけが高等教育を受けているわけではなく、在野のあらゆる階層の人々も、すべからく高等教育を享受しているわけで、統治する側とされる側では知的レベルの差というものはありえない。

戦後の我々の国の民主化の度合いというのは、あまりにも平等が行き渡り過ぎて、過剰な自由を謳歌しているというふうにさえ見える。

在野の人々、つまり統治される側の人々の教養・知性が向上してくると、「統治されている」という現実に非常に疑問を持つようになるわけで、統治の手法、手段に対して常に不平不満が沸き起こってくるのはある程度は致し方ないことだと思う。

いわゆる政府批判というのは統治される側には如何なる時代状況の中にも存在するものと考えられる。

しかし。政府を批判することと、その政府に弓を引くこととは大いに違うと思う。

自分の国の政府に弓を引くということは、そのまま他国の政府に加担することに繋がると思う。

ここで自然発生的に生まれてくる思考がナショナリズムというもので、自国優先主義とも言えるナショナリズムと、政府批判との葛藤がマスメデイアの格好の好餌となるわけである。

自分の国の政府を批判できるということは非常にありがたいことで、人が集まって出来ている社会は必然的に統治する側とされる側に分類され、統治される側がする側に対して全幅の信頼を寄せるということはありえないことである。

統治される側というのは、あらゆる場面で大小さまざまな不満を統治する側に対しては持っているものと考える。

あらゆる施策、法律、行政が、統治される側を完全に満足させるということはありえないことだと思う。

いくらきめ細やかな手段・手法を講じても、その網から零れ落ちる人々、その恩典に浴せない人達というのは出てくると思う。

だからといって、自分たちの政府、自分たちの国家を全否定する必要は全くないし、それを根拠に他国の利益を図る必要もさらさらないものと考える。

自分達の政府や国家を全否定することは、そのまま他国の利益に貢献し、他国の利益を助長することに繋がると思う。

政府を批判するという行為も、無知蒙昧な一般大衆には出来ないことで、高学歴の人は高学歴なるが故に、政府の行っている施策の盲点を見つけ出すことも可能だし、その盲点を誇大に暴き出し、一般大衆を煽動することも可能なわけである。

私の憂いは、この高学歴の人々が無知蒙昧な一般大衆を煽動する道具に、マスメでイアを有効に活用しているという点にある。

というよりも、マスメデイアに身を置く高学歴の人達が、より果敢に政府の瑕疵、齟齬、抜け穴、欺瞞、取り繕い方を暴きだして、それによって政府を転覆させようと測ることである。

政府の瑕疵、齟齬、抜け穴、欺瞞、取り繕い方を暴くところまではメデイアの使命だとは思う。

何も民主主義国のメデイアだから昔の大政翼賛会式に従順たれとは言わないが、メデイアはその線を乗り越えて、自分達で世論を形成しようと勇み足を踏むことに憂慮を感じるのである。

政府の瑕疵、齟齬、抜け穴、欺瞞、取り繕い方を暴くところまでは立派にメデアイの仕事だろうと思うが、この線で踏みとどまっていれば、それは立派な行為として賞賛されるが、その「ダーテーな今の政府を倒して作り変えなければならない」と、正義感ぶるから足を踏み外すのである。

現実の政府、現行政府がダーテーであろうが、クリーンであろうが、それは今の我々の同胞が選択したリーダーなわけで、それをメデイアとして是正しようと正義感ぶるから思い上がりに見え、顰蹙を買うのである。

 

メデイアの視点

 

我々の住んでいる社会というのは、統治するものとされるものという二極分化されていることは誰でも理解できるが、統治する側というのは何でもかんでも統治されている側に情報開示し、暴露すればいいというものでもない。

そんなことをすれば、統治されている側が早速目先の利益を先取りしようと画策することは目に見えている。

統治されている側は、常に政府に対して「指針を示せ!」と言い続け、唐突な施策を発表すると、「事前の了解なしに独断専横した」と詰め寄るが、指針を示せば示したで、国民のほうが先走って対策を講じ、施策の趣旨を骨抜きにしてしまう現実に対してまで政府に責任を負わせようとする。

行政サイドが何か施策を講じようとすると、それを骨抜きにしておいて、「悪いのは政府だ!行政だ!」という論調である。こんな馬鹿な話もないと思う。

行政が橋を一本架けようとしたとき、それに対して賛否両論が沸きあがることは当然である。

この時、行政としては、住民から何の欲求もないのに橋を掛ける案が浮上するということはありえないわけで、住民からの欲求があればこそ、そこに橋を掛けようという施策が出てきたものと考えるのが普通だと思う。

しかし、現実にはそこに橋が掛かると逆に損をする人もいるわけで、その人達が当然のこと反対運動を起こし、橋を掛けさせまいとする。

これはメデアイに取って、扱い方次第で価値あるニュースになりうるわけで、メデイアの側としては、橋を架けさせまいとする側の視点に立って始めてニュースとしての価値が生じるのである。

今月(平成17年2月)に入って、名古屋市が市の公園にテントを張って生活しているホームレスの人のテントを強制撤去したことがあった。

これも当然メデイアとしては格好のニュース・ソースで、メデイアの視点はいうまでもなくホームレスの側に立ったもので、「可哀相なホームレスを権力が追い出した」、というニュアンスで報じられている。

我々の一般的な認識では、市の公園として立派に整備されたところに、みっともない青いテント小屋など撤去するのが当然だ、遅すぎるぐらいだ、と思っているが、メデイアとしてはそれではニュースになり得ないのである。

可哀相なホームレスが、この寒空の中で追い立てられた、という人情味溢れる美談めいた論調でなければニュースになりえないのである。

「悪いのは行政だ!」と決め付けなければ、メデイアとしての沽券に関わるのである。

この世の中に起きるあらゆる事象について、見る人の視点でその解釈は如何様にも違ってくるわけで、それはある程度は致し方ないことである。

しかし、日本のメデイアというのは、世の風潮に非常に感化されやすく、人は無責任に偽善ぶる習性がある。

この世は矛盾を含んだものだ、ということを理性では理解しているにもかかわらず、その人の持つ知性が、その矛盾を正そういう衝動に駆られるものと思われる。

矛盾を正そうとする、正さなければ、という思いが偽善そのものであるにもかかわらず、その矛盾を正しい方向に方向付けすることは絶対的に正義なわけで、正義を行なうのに何を遠慮することがあるか、というスタンスを取ろうとする。

橋を架けることに反対する住民も、奇麗な公園にテント小屋を張ろうとするホームレスも、他人に迷惑を掛けているわけではなく、自分の我儘を通しているだけで、基本的には普通の人と同じように生きる権利を持っているからこそ、助けるべきだという論理だと思う。

そこが偽善である。

人の形をしていれば、その人の我儘も行政の側、つまり統治する側としては受け入れるべきだ、という論理になる。

個人の我儘と、公共の福祉ということを混同しているわけで、「公は何処まで個人の我儘を受け入れるべきか?」、という視点が抜け落ちて、安易な人情、感情に寄りかかった思考といわねばならない。

こういう我儘をそのまま放置しておけば、行政が立ち行かなることは目に見えているが、そうなればなったで、それは統治する側の責任だ、行政の責任だ、とメデイアの側は責任を回避してしまうわけである。

メデイアというのは、普通の人の意見を普通に流していても、それはニュース足り得ないわけで、普通でない人が普通でない妙なことをしでかすから、それがニュース足り得ているわけである。普通に真面目なサラリーマンが、普通に、当たり前に仕儀をしていても、それはニュースとして可笑しくも面白くもないわけである。

普通に見える人が突然人を殺した、痴漢をしたり、公金を横領したり、と普通でないことをしでかすからニュースが面白くなるのである。

ところがこの世の中というのは、そういうニュースにならない人の真面目な仕事が積み重なって、今の日本というのは存在していることを忘れてはならない。

今の我々の国のメデイアは、橋を架けることに反対する人に向かって、「大勢の人がそれを望んでいるのだから皆さんは妥協してやって下さい」とは決して言わないのである。

テント小屋を撤去されたホームレスに「あなた方のテントは非常に都市の美観を損ねているから市の用意した施設に入りなさい」とは決して言わないのである。

もしそんなことを言えば、行政サイドの提灯持ちに成り下がることになるわけで、メデイアの沽券に掛けても、そういう言辞は出てこないと思う。

 

めでたき衆愚政治

 

メデイアというのは常に統治する側に対して対抗する立場を堅持するわけだが、それも橋の問題とかホームレスのテントの問題程度ならばそれでも構わないが、これが靖国問題とか、教科書の問題とか、歴史認識の問題となると、自分の国の統治する側に対する抵抗ということが、そのまま他国の利益に貢献するということに摩り替わってしまうところが恐ろしいのである。

日本の周辺の国々が非常に開かれた国々で、民主化の度合いがそれなりに進化している国々ならば何ら問題ではないが、現実には何か隙あらば、それに付け入って国益を伸ばそう、という下心のある国々ばかりではないか。

国際社会というのは元々そういうものであるが、日本の知識人、日本の高学歴の人々というのは、自分の国を卑下することには長けていて、相手がこちらの隙に付け入ることを手助けするようなことばかりをしているような気がしてならない。

尤も、日本という国がどのような状況に至っても、日本の知識人の責任ではなく、それは日本の統治者、政府、自民党の責任であって、「我関せず」というポーズで逃げ切ろうという下心の表れだと私は思うが、そうなってしまっては遅いといわなければならない。

政府、自民党、統治者の責任などと後から言っても始まらないわけで、そうなってしまってからでは取り返しのつかないことになってしまう。

メデイアというのは、日本の過去の歴史にも大きな足跡を残しているわけで、我々はメデイアの恐ろしさというものを歴史の教訓として肝に銘じて記憶しておかねばならないと思う。

中でも注意しなければならないのが、朝日新聞に対する扱いである。

今回の朝日新聞対NHKの喧嘩を見るまでもなく、朝日新聞というのは我々の祖国を他国に売り渡しかねない陰謀の巣とみなさなければならない。

その顕著な例は、いうまでもなくゾルゲ事件に連座していた朝日新聞の尾崎秀美の件であるが、彼はゾルゲと共に死刑にされて一件落着として語られているが、尾崎秀実を輩出した朝日新聞というのは、その総てを尾崎に覆い被せて、組織としては何ら処罰されていない。

朝日新聞には組織としての監督責任があると思うし、自分たちの祖国をソビエットに売り渡そうとした人間を社内に抱え込んでいた、という面からして朝日新聞というのはもっともっと自らの責任を掘り下げて反省しなければならないと思う。

自分の国を他国に売り渡す、ということが如何なることか朝日新聞という組織全体として理解しているであろうか。

朝日新聞というのは、昔も今もそんじょそこらのにわか知識人や似非知識人の集合体ではないわけで、いわば日本のシンクタンクといってもいいくらいの知的集団だと理解しなければならない。

そういう組織が、自分たちの国をソビエットに売り渡そうとし、中国の利益を図り、今回はまた北朝鮮に売り渡そうとしているわけで、この事実を我々はどう理解したらいいのであろう。

朝日新聞を形作っている知識人から、日本の政治家、行政官を見れば、そのやっていることがまだるっこしく映るのは理解できる。

俺達ならばもっとスムースに、上手に、運用できるという自信も理解できる。

だからといって、そのことが自分の祖国と同胞をソビエットなり、中国なり、北朝鮮に売り渡してもいい、ということにはつながらないと思う。

こう言うと、彼らは「俺たちは国を売ろうなどとは考えていない」と言うに決まっている。

当然といえば当然である。

日本人が日本の言語を用いて、「私は自分の国をソビエットに売ります」と誰がいう。

「私は中国の利益を代弁しています」と誰がいう。

「私は北朝鮮の便宜を図っています」と、誰が日本国内で、日本語でそういうことが言える。

そんなことはありえないが、口で言わなくても態度がそれを示しているということはある。

これを偽善といわずして、どう理解したらいいのであろう。

人間というのはたった一人では生きて行けれないわけで、群れをなして、その群れを一応社会と名づけている。

地球規模で広がっている人間の生息域には、その群れごとの社会を大雑把に括って、国家という枠組みとして考え、その国家の中の群れ社会では、統治するものとされるものという2極分化が起きているのが普通の人間の在り体だと思う。

その人間の形作っている社会では、未開な時代でも高度に近代化した今日でも、統治するものとされるものの間の軋轢というのは消えることのない永遠の課題である。

戦後の日本の場合、統治するものとされるものの間の軋轢というのは、政治家とインテリゲンチャとの葛藤という形で露呈し続けている。

インテリゲンチャという言葉を使うとなんだか左翼的な印象を与えそうで、今日ではあまり使われなくなって、今日的な言葉では、むしろ進歩的知識人という言葉の方は馴染みやすいような気がする。

それで今日の日本の政治の状況というのは、国民から選出された政治家、つまり国会議員たちと知識人との葛藤という形で政治批判が姦しいが、この国会議員の中からもう一度選択されて政府というものが出来上がっている。

戦後60年を経た今の日本では、非常に国民の教育レベルが向上して、政治に関わろうとするような人達にはもう無学文盲というような人達は皆無である。

今の国会議員の学歴を精密に調べたことがないので正確なことは言えないが、今の日本の状況では、大学を出ていない国会議員などというのはありえないのではないかと思う。

とはいうものの、それでも在野の知識人からこういう国会議員を見ると、統治する側に身を置いているというだけの理由で野蛮人のように映るようだ。

国政を野蛮人がつかさどっている、という認識もおかしなものだと思う。

これは統治する側に身を置いてみると、言葉に注意しなければ、マスコミの魔女狩りにひっかかって、自分の身さえも安泰におれない、という状況に立たされているので、自分の思いのまま、あけすけにものが言えないということが大きく左右していると思う。

自分の発言が揚げ足取りにひっかからないように、奥歯にものが挟まったような物言いしか出来ないので、意味不明の発言になりがちで、そこが頭脳明晰な知識人から見ると馬鹿に見えるに違いない。

在野の知識人は言いたい放題のことが言えるが、統治する側に身を置いてみると、ものを言うたびごとに発する言葉を選択し、揚げ足取りに会わないように気を配らなければならないわけで、そうそう自由闊達に自分の思っていることをぶちまけるわけにはいかない。

同じ国会議員でも、野党の方に身を置いていれば、多少の束縛は感じるであろうが、統治側にいるよりはその自由度は大きい筈である。

ところが政策に関与する立場ではない知識人というのは、そういう制約は一切ないわけで、自由奔放になんでもすき放題に言うことが可能だし、言ったことに責任を負うということもない。

最近の政府批判の動向としては、「政府の説明責任が不足している」というフレーズが多用されているが、言葉というのはどういうふうにでも恣意的に言い包めることが可能で、赤を黒とでも言い包れるわけである。

小泉首相の郵政民営化の論議でも、「首相が説明責任を果たしていない」、という言い方で詰め寄っているが、ああ言えばこう言う式の詭弁の応酬に過ぎないわけで、そこには物事の本質を論ずる気が最初から見受けられない。

統治する側とされる側というのを厳密に比較検討してみると、統治する側というのは何事においても結果を示さなければならない。

ところが統治されている側というのは、そういう結果を示す必要もないし、その結果に対して常に不平不満を述べていれば、それだけでこの世に生きている価値が存在することになる。

統治する側というのは、結果がよければそれが当たり前のことで、結果が悪ければ「それ見たことか!!!」と、批判されるが、統治される側というのは、結果が良かったからといって、「皆で自分たちの政府に感謝しましょう」という運動を起こすことはありえない。

せいぜい沈黙あるのみである。

戦後の日本では反政府運動は数々あれど、その反政府運動を押さえ込んで政策が実施されたからこそ、今日の我々の生活があるものと考えなければならない。

あの反政府運動に妥協して、その言い分とおりに政府が舵取りをしていたとしたら、今日の我々の生活は果たして実現できていたかどうか非常に危うい。

しかし、この時、反政府運動に奔走した日本の知識人というのは一向に自己批判をした様子がないのはどういうことなのであろう。

自己批判というよりも、東西冷戦の終結と共に、かっての錦の御旗を巻いて、中道の側に擦り寄ったように見受けられる。

保守と左翼の対立の構図が、左よりの保守と、中道に近い左翼の連合という形になってきた。

人の考え方というのは時代と共に変遷を重ねることは決して悪いことではないと思う。

人間の精神の発達としては当然の成り行きだと思う。それでこそ進歩というものだと思う。

しかし、いくら進歩したといっても、統治するものとされものという構図は、未来永劫に変るものではないわけで、戦後60年の進歩の過程で、我々の国民は、その大部分が高等教育を享受できる環境におかれている。

このことは統治するものとされるものの間に知性の差、教養の差、知識の差というのが極端になくなったということである。

あるのは人を誹謗中傷する能力の差ということになってしまった。

人間の言葉というのは、どういうふうにも解釈可能なわけで、小泉首相は首相になる前から郵政の民営化を旗印に掲げて総裁選を戦ってきたにもかかわらず、今頃になっても未だに「改革の説明が不足している」という論旨が自民党の中でさえ罷り通っている有様である。

政治の部外者から見れば、「何を今更!!!」という感がするが、マスコミの大勢は、「小泉首相は首相になる前から郵政の民営化を旗印にしていたではないか!」ではニュース・バリューとして何も価値がないのである。

自民党内で小泉首相の足を引っ張る人間がいるからニュースになるわけで、小泉首相にエールを贈っていてはニュースにならないのである。

マスコミというのは、こういう風にしてニュースを自分たちで作り上げてしまうが、日本の知識人というのも、政府や当局を批判するニュースには非常に寛大で、そういうものに対しては不寛容な態度を示すことが知識人の心得だと勘違いしている節がある。

当局に対して提灯持ちの言辞を弄していては、またまた戦前の言論界のように、大政翼賛会式の過誤を来たすという心配から、常に政府に対して批判的な視点でものを見るということはある程度は理解できる。

統治するものとされるものの関係において、統治するものを誰一人批判しないでいれば、またまた戦前の大政翼賛会式の言論統制になりうるという危惧はよく理解できるが、大勢の意見ならばすべからくそれが正道か、という点を考えると、必ずしもそうとは限らないといえる。

その意味からすれば、民主主義的政治というのは限りなく衆愚政治に近いといわなければならない。

憲法改正の問題でも、大勢の人が改正に賛成でない、改正に否定的だからする必要はない、と結論付けてしまえば、何も進歩はないわけで、大勢の人が反対するから「やーめた!」であれば、非常に民主的な政治ということになるであろうが、それは衆愚政治に他ならない。

マスメデイアの論調は、「大勢の人が反対しているからやめよ!大勢の人の意思を踏みにじるな!」ということに尽きるわけで、それならばそれで、他の人が素直に納得できるであろうか。

そうすればしたで、またまた反対勢力、いわゆる憲法改正派の政府批判、当局攻撃が頭をもたげてくるわけで、政府、当局、統治する側というのは、何をやっても反発を食うということになると思う。

 

むなしい平和主義

 

政府に対して何事も包み隠さずものがいえる状況は、非常にありがたい治世で、それこそ本当の民主政治だと思う。

かってのソビエット連邦や、中国、北朝鮮のような社会主義国ではこういう状況ではないわけで、統治するものに対して不平不満の一言でも言おうものならば、身の安全さえおぼつかない状況であった。

ところが戦後60年の日本の発展の中で、日本の知識人の中には、こういう国々を極楽かのように錯覚していた人達が大勢いたことを忘れてはならない。

我々の国を、こういう国に一歩でも二歩でも近づけなければならないと思い込んで、そのスタンスで我々、同胞の政府を糾弾していた人達が大勢いたことを忘れてはならない。

これは、戦前の日本が、戦争遂行のために結果的に自国民を騙していたことの反動でもあるので、ある程度は致し方ない面もある。

戦前の日本の統治者が、戦争で物事が解決できる、という錯誤に陥って、国民に塗炭の苦しみを背負わせたことから考えれば、自国の政府を信用できないという心情もわからなくはない。

しかし、時の流れというのは、言葉を変えれば歴史ということになるが、戦後も60年という歴史を考えれば、日本を取り巻く環境も、我々、日本人だけの思い込みや、意志や、願望だけでものごとの舵取りが可能な時代は終わっているわけで、我々の日本という国も、世界との関連なしでは存在しきれない時代になっている。

我々は常に周囲の状況に併せて身を処さなければならないわけで、我々だけが良いと思ったことをストレートの実行することは許されない時代に生きていることを悟らなければならない。

昭和の初期に、日本人は世界でも秀逸した国家だと、我々自身が思い違いをし、自信過剰に陥り、背伸びしてしまったが故に、我々は自分たちの意志で、思いのままに、他の干渉を排除して、唯我独尊的な決断をしたのが日中戦争であり、それに続く太平洋戦争であったわけである。

昨年の自衛隊のイラク派遣の問題も、日本の大部分の知識人は、そのことに反対であったが、統治される側の知識人の考え方としては当然の言辞である。

日本の総てのマスコミも、知識人の言辞を後押しして、日本国中、自衛隊のイラク派遣に反対しているかのような印象を与えているが、これも統治する側の視点に立てば、世界とのバランスを考慮しての判断であり、決断である。

統治されている側の不満分子、日本の知識階級、マスコミ等は、小泉首相の決断を、アメリカ追従外交と非難しているが、今日の日本のおかれた国際情勢の中で、小泉首相に他の選択肢がありうるであろうか。

イラクに自衛隊を派遣することをアメリカに対して拒否したとしたら、その場で即座に日米関係に亀裂がはいることはないであろうが、徐々に亀裂が深まることは目に見えているではないか。

日本はアメリカに追従しなければ国際社会の孤児になってしまうではないか。

昭和8年、1933年、日本は国際連盟を脱退した。

そしてその時から我々の祖国は、世界の中の孤児となり、だんだんと奈落の底に転がり落ちていったことは歴史が物語っており、周知の事実である。

その時の日本代表は松岡洋右であったが、彼は国際連盟総会で堂々と日本の国益を擁護する演説をして、意気揚々とケツを撒くって退場する場面を映像で見たことがある。

これは日本が全く他国の干渉も、関与も、跳ね除けた態度で、従来、西洋先進国、西洋列強に主導されていた世界の中で、字義通り、黄色人種としての独立自尊の態度を世界に表明したことになる。

アメリカ追従でもなく、イギリス追従でもなく、ソビエット追従でもなく、シナ追従でもないわけで、我々日本人が自ら考え、自ら選択し、自ら決断し、他国の干渉(リットン調査団の報告)を頭から跳ね除けた結果であって、我々の自主決定であり、自主判断であったが、その結果は我々の民族をあり地獄に突き落とすということになってしまった。

あの時に、松岡洋右が小泉首相のように、アメリカの顔色を伺い、イギリスの顔色を伺い、ソビエットの顔色を伺い、シナの顔色を伺って、満州国というものを西洋列強に売り渡しておれば、歴史が変っていることは当然である。

あの時、松岡洋右は彼の独断で国際連盟を脱退したのであろうか。そんなことはないと思う、

あの時代、昭和8年という時代においては、日本の国民、我々の同胞の総て、日本国民の総てが松岡洋右に期待し、彼はその期待を背中に担って、あの脱退演説をしたものと考える。

言い換えれば、彼は当時の日本国民の総意を代弁したにすぎないと思う。

もう一つ言い換えれば、彼はあの時代状況の中で、あの当時の日本の大多数の意見、ものの考え方、国民感情というものを代弁したものと考えられる。

今の日本の知識人の言うところの、西洋列強に追従しない、アメリカに追従しない、ソビエットや中国に追従しない、日本独自の、そして他国の顔色を伺うことなく、自主的な判断と決断によって、国際社会の中で振舞った、ということが出来る。

他の列強の顔色を伺うことなく、日本の自主的な判断と決断でもって行動した結果が、我が祖国を灰燼と化す結果を招いたといっても可笑しくない。

ことほど左様に、近代の世界秩序の中では、主権国家だからといって周辺の諸国家の意向を全く無視し、唯我独尊的な思い込みで国の舵取りをするということは、非常に困難なことと同時に危険なことだと思う。

そういう意味で、イラクのサダム・フセインも全く他の国の意向を無視して、国際社会に背を向けて、自分の意向を唯我独尊的に押しすすめようとしたが故に、アメリカから攻撃をされたのである。

この時、日本の知識人ばかりでなく、世界の知識人はこぞって「アメリカが国連の意向を無視して攻撃したのはまことにけしからん」という論調を展開したが、今日の地球上でこのアメリカをけん制できる国が他に在りうるであろうか。

「アメリカはけしからん国だから懲らしめる」という軍事力と覇気をもった国が他にありうるであろうか。

日本の知識人が「アメリカはけしからん国だから断交せよ」と言ったとして、日本の統治者にそれが出来るであろうか。

それは誰が考えてもしえないことで、だとしたら我々はアメリカがいくら尊大で、威張りきった存在だとしても、黙って付いていくしか生きる道がないではないか。

我々はあの国と戦って負けたではないか。

あの国は戦勝国で我々は敗戦国ではないか。

黙って屈服する以外我々の生きる道がないではないか。

アメリカという国は、ハタからいくら悪口を言っても、それだけの理由で人々を抑圧する国ではない。

民主主義国では、こういう状態が普遍的な姿ではあるが、サダム・フセインのイラクでもこういう状況であったであろうか。

改革開放で、近頃とみに民主化が進んだように見える中国でも、このような状況があるであろうか。

北朝鮮にこういう状況があるであろうか。

アメリカの悪口をいうのは、誰でも、何時でも、何処でも出来ることである。

日本の知識人だけではなく、世界中の人々が、赤ん坊から棺おけに片足突っ込んだような人まで等しく言うことが出来る。

ところが、アメリカがイラクを攻撃しようとしているときに、サダム・フセインに、「一刻も早く大量破壊兵器の公開をして、無ければ無いという事をアメリカに証明しなさい」と言うことは、そう誰も彼もが簡単に出来るということではない。

しかし、そういう努力をした人もいるにはいるが、サダム・フセインはその忠告を聞き入れる意思も見せず、自主判断で開戦に踏み切った以上、なんびとも如何ともしがたい。

ことの流れは、そういう結果を招いたことは周知の事実であるが、ここでも日本の知識人の功績、貢献度というのは皆無である。

日本ばかりではなく、世界の知識人といえども、サダム・フセインに効果的な忠告をしえたものは一人もいないということになる。

結果として、「国連の決議もないまま攻撃を開始したアメリカはけしからん」という言葉だけがむなしくマスコミをにぎわしているだけである。

言葉だけがいくらマスコミをにぎわしたところで、世の知識人といわれる人達の実績とか、貢献度とか、平和の希求に対する結果というのは全くむなしいものという印象しか残っていない。

世の中の知識人といわれる人々は、知を弄んでいるだけで、平和の貢献、暴力の抑止には、糞の蓋ほども役に立っていない。

まさしく青白きインテリー以外のなにものではない。

私事であるが、最近アメリカの元国務長官を勤めたロバート・マクナマラが1997年にベトナムの当局者と会ってベトナム戦争を回顧した、相当重みのある本を読んだが、あのベトナム戦争でさえも、戦争当事者の思惑は戦争不拡大で貫かれていた。

戦争を極力押さえ、出来うるならば回避しよう、と双方が画策していながら10年以上も戦ってしまって、双方とも膨大な人命が損なわれたと、記されていた。

その最大の理由は、意思疎通とそれを支援する情報伝達の不備と、不慣れと、思い違いが相乗的に重なったためとされている。

ベトナム戦争の当事者でさえ平和を希求していたのである。

日本の知識人は、現体制を批判するときに安易に平和主義を振り回すが、平和を希求しているのは、日本の知識人だけではない。

自分たちだけが平和を希求している善人だ、と思い上がった思考ははなはだ我慢ならない。

戦争反対を叫ぶのは、知識人だけの特権だ、などと考えてもらっては思い違いもはなはだしい。

世界中の、それこそ赤ん坊から棺おけに足をつ込んでいる人まで、すべからく平和を希求しているわけで、決して日本の知識人だけが平和主義で、平和を愛する特別な人ではない、ということを悟ってもらいたいものだ。

小泉首相がイラクに自衛隊を派遣するについても、首相は「イラクの復興に寄与するために派遣するのだ」といっているのに、それを「戦争のために派遣するのだ」と、故意に曲解して糾弾するというのは、どういう神経なのであろう。

アメリカに追従せずに、イラクに自衛隊を派遣しなくても、すぐにアメリカが日米同盟を破棄することはないかもしれない。

しかし、もし小泉首相がそういう選択をしたときには、ながい将来にわたって、違う形で日本を締め上げてくる可能性は十分考えられるわけで、日本の統治者としては、他の選択肢はありえないと、私は考える。

こういう状況を鑑みて、日本の知識人はどういう選択肢を日本の統治者に対して掲示できるであろうか。

我々の国がアメリカ追従でない道を探ろうとしても、それがないことは普通に常識のある日本人ならば最初からわかっているわけで、それだからこそ小泉首相も一番妥当な選択をしたのであって、もしこの道以外に我々の国のとりうる道があるとすれば、知識人といわれる人々はそれを国民と統治者の両方に差し出してしかるべきである。

 

「対岸の火事」

 

アジアの周辺諸国は、中国、朝鮮(半島)を除けば、比較的日本には好意的で、日本にアジアにおける主導権を期待する向きがあるが、それは我々の思考方法が比較的簡単で、脅せば素直に従うという面があるので、祭り上げておいて、如何様にも牛耳ろうという思惑からだと思う。

アジアの安定ということを考えると、我々はアジアにおける主導権というものを放棄したほうがいいような気がする。

先の松岡洋右の国際連盟脱退の例をよくよく肝に銘じるべきだと思う。

我々はワールドワイドの世界では常に2番手以下の位置に甘んじていたほうが世のため人のためになると思う。

我々は、この地球上で、人類の先頭になって走るということには経験がないわけで、誰にも相談できない、誰を見本にしていいかわからない世界では、常に人の後にくっついて走るほうが我々自身も、また世の為にも、そのほうが得策だと思う。

そのことは先の戦争で見事に露呈されたではないか。

あの戦争では、アジアの有色人種としての最先鋭的な国家として、我々は果敢に白人、西洋文化圏、キリスト教文化圏の人達と戦ったにもかかわらず、アジア諸国の人々の日本に対する反応は、我々のしたことに対して非常に冷たかったではないか。

戦争の結果が、戦いを挑んだ我々の側の負けということになると、アジアの諸国民、諸民族の我々日本民族に対する仕打ちは、まるで水に落ちた犬を叩くような冷酷なものであったではないか。

そして再び経済戦争で、世界市場に台頭すると、またまた同じように日本の主導権を云々し、アジアのリーダーに祭り上げ、二階に上げておいて梯子を外すようなことをするアジアの人々の言辞は頭から信用できないし、我々の側もモラル的にはアジアの人々を引っ張っていくだけの知性と理性に欠け、器量に欠けていると思う。

我々の国で、政治に携わる国会議員というのは当然のことながら与党と野党に別れているわけで、政府というのはこの両方から足を引っ張られるわけである。

自民党から選出された首相だとて、油断をしていると自民党の同志から足を引っ張られるわけで、これもある程度は致し方ない。

というのは、国会議員というのは無私無欲の存在ではないわけで、彼らは利益団体をバックとして、その立場を代弁する機関でもあるわけだから、政府の指し示す方針が事と場合によっては自分が損をこうむる状況もありうるわけで、そういうときには強力な抵抗勢力となってしまう。

しかし、知識階級というのは、そういう俗っぽい思惑を超越した存在であるからには、政府の目指している施策よりも、その抵抗勢力の方を糾弾するのが普通だと思う。

今問題となっている郵政の民営化などというものは、今までの既得権益を失う立場の人達は、改革に反対なことはいうまでもないわけで、こういう場合にも知識人は率先して政府の指針をフォローアップしてしかるべきだと思う。

旧郵政省に依拠してきた人々が、小泉首相の進めようとする郵政の民営化に賛成するわけがないではないか。

日本の知識人を自負する人々は、当然、こういう場合、抵抗勢力の側を糾弾して、それを推し進めようとしている首相の方をホローして当然ではなかろうか。

知識人の立場に立ってみると、政治家としての小泉純一郎が、施策に失敗しようがしまいが、知識人やマスコミとしての立場が不動である以上、どちらに転んでも無関心を装い、問題外と見ているわけである。

イラクの自衛隊派遣の問題だとて、知識人としての本音としては、どちらに転んでもたいした意味はないが、騒ぎが大きければ大きいほど、対岸の火事は面白いという心境だと思う。

こういう浅はかな思いで騒ぎ立てて、それをさも真剣に国益を考えている振りを装って、それで糊塗を凌いでいるわけである。

無責任そのものであるが、日本の今の現状は、こういう風に世間に騒動を撒き散らすことによって、それに対してああでもないこうでもないと評論を加えることで、世の評論家とか、大学教授とか、マスコミ業界という、いわゆる知識階級という虚業に携わる人種が職にありつき、生業が成立しているのである。

こういう職業というのはいわゆる100%の虚業である。

農家の人や、大工さん、工場の工員、道路工事に携わっている人は実業に従事しているが、こういう人々の収入というものを見ると、虚業に携わっている人のほうが、実業に携わっている人よりもはるかに良いのが不思議である。

これは日本ばかりでなく、地球規模で、そうなっている。

虚業に携わっている人々は、情報を売り買いしているばかりではなく、情報を捏造することさえやすやすとしているわけで、対岸の火事を見物するだけではなく、火事そのものを作り上げて、煽り立て、混乱を引き起こして、そのことによって自分たちの糧を得ようとしているのである。

今問題となっている北朝鮮による日本人拉致の問題の対応の仕方においても、旧日本社会党の土井たか子氏あたりは、先方が拉致を認めるまで日本の側の官憲のでっち上げだと言い続けていたわけで、小泉首相がピョンヤンに飛んで、金日成に会って先方が認めるまで、同胞の嘘だと言い続けていたわけである。

アカイアカイ朝日新聞も同じ論調を展開していたわけであるが、これでは日本の知識人として、知性も、教養も、判断力も、洞察力も、推察力も存在していないということではないか。

その間違った認識に対して、確かに彼らは「自分たちの見解が間違っていた」ということを認めたが、それを認め、謝罪したらそれまでの言動が総て免罪になるというものではないと思う。

謝ったら済むというものではないと思う。

 

知識人の責務

 

今でこそアカイアカイ朝日新聞であるが、あの戦争中は戦意高揚に極めて積極的な態度を取っていたことを忘れてはならないし、それでなくても知識人と政治の関係は非常に難しい関係だと思う。

知識人の責務として、政府べったりで、政府に迎合するばかりでは戦前の朝日新聞と同じになるし、それかといって今日のように政府の揚げ足取りに終始していても、我々の社会は一向に向上するようには見えないわけで、知識人の責務というのは一体どういうものなのであろう。

理想の形としては、思慮分別に秀でた知識人の集団というのは、将来の予測を大衆に指し示すことではないかと思う。

先の予測というのは、現状分析が土台となって前に進むのではないかと想像するが、この現状分析という作業は、答えが一つとは限らないわけで、幾通りもある答えの中から最適な答えを選ぶことは、ひょっとすると政治家、統治者に委ねられるべきかもしれない。

知識人が列挙した幾通りものの選択肢の中から、最適なものを選ぶ行為を政治家がすべきか、知識人がしたほうがベターなのかどうかはわからない。

国策として採用しようとするときに、幾通りもある選択肢の中からただ一つを選択する作業は、政治家の責任かもしれないが、選択すべき選択肢がもっとも妥当なものかどうかの判断は、知識人の方に在るのではないかとさえ思える。

今日の民主的な国家の首脳というのは、大抵、自分のブレーンというものを持っていると思う。

自分専用のシンクタンクと考えてもいいが、こういうシンクタンクやブレーンを抱えていても、時として誤った判断をすることもあるわけで、いくら首相や大統領のシンクタンクやブレーンが考えたアイデアであっても、必ずそれに対抗する対案というものが反対勢力の側から出てくるわけで、これこそ理想の民主主義ということになるが、民主主義であればこそ、その施策は紆余曲折を重ねることになる。

独裁政権ならば上意下達で機敏に対応できることでも、民主主義では、ああでもないこうでもないと議論ばかりして少しも前に進まないということになる。

こういう状況下であってみれば、知識人の責務というのは、民主主義がもっと機能的に稼動するように、何らかの手法なり手段を見つけ出すべきではなかろうか。

何か一つ施策を行なおうとすれば、それに対する賛否両論というのは当然でてくるのが民主主義のもっとも特徴的なところであるが、知識人の責務というのは、こういう場面で何一つ貢献する術をもっていないというのは一体どういうことなのであろう。

政府なり、当局者なり、統治者の行なおうとする施策は、そういう潜在的な欲求があるからこそ、することの必要性の上にその案が浮上し、その潜在的な欲求を満たすために施策が実施されるものと考える。

何も潜在的な欲求のないところに、ただただ予算を消化するだけのために施策が生まれるとは考えられない。

政府のしようとする施策に対しては反対意見というのはあって当たり前で、それはそれでいいのだが、問題は日本の知識人の特性というのは、必ず反対の側に擦り寄るというところである。

政府なり、当局者なり、統治する側に対して反対の側に身を置くのである。

政府なり、当局者なり、統治する側というのは当然のこと権力を持っているわけで、日本の知識人というのは、この権力に対峙する形で反対する側に身を置いて、施策を進めようとする側に対して強力な反対勢力を形成するという特質がある。

施策の案の元になっている潜在的な欲求というものを、権力を行使する側の考えたことというだけで、無視して、政府や、当局や、統治する側の考えることは総てが無駄で、無意味で、無くても構わない、という思い込みで対抗手段を講じてくるわけだが、これは知識人のもの考え方としてははなはだ不可解な発想だと思う。

一言に知識人といっても、それは統治する側にもいるわけで、反対するだけが知識人ではないことは重々理解できるが、反対するだけの知識人というのは、マスメでイアを上手に使って自己宣伝に長けているので、一般大衆は知識人というのは、ものごとに反対するだけの存在かと思ってしまうわけである。

当局と国民の間にメデイアが介入してくると、知識人の存在が浮き上がってきてしまう。

当局側がある施策をしようと発表したとしても、それだけではメデイアにとって何もニュース・バリューは存在しないわけで、その施策に反対運動が盛り上がってくると始めてニュース・バリューが沸きあがってくるのである。

メデイアとしては当然ニュース・バリューの無いものは取り上げないが、反対運動が盛大になれば、それは元の施策の良し悪しや、潜在的欲求を差し置いて、ニュースとしての大きな価値を生むわけで、事態がこうなれば、それはメデイアにとって対岸の火事と同じで、大きければ大きいほど潤うのである。

政府なり当局側がしようとしている施策の立案にも、少なからぬ知識人が関与しているとは思うが、世の知識人の大半が反対する側に回ってしまうので、当局側の知識人の説得力は、反対側のシュプレヒコールの大声にかき消されてしまって、国民のところまで聞こえてこない。

知識人であろうとなかろうと、政府に異議申し立てのできる社会というのは、極めて民主的な国だと思うが、我々はそれを自ら獲得したわけではなく、アメリカから付与されたものであることを忘れてはならない。

1945年8月15日まで、我々は自分の国に異議申し立てすることなど考えられないことであったではないか。

今でこそアカイアカイ朝日新聞も、あのころはべったりと政府や軍部に擦り寄って、大本営発表をそのまま流して、我々、自国民を騙し、嘘を言い続けてきたではないか。

あの頃は、魂を売らなければ自己の生命さえ維持できなかったから仕方がない、という言い分はよく理解できる。

ならば今日において、そのことを反面教師として、攻撃する相手の施策に妥協点を探る努力をして、相手を思いやるぐらいのおおらかな気持ちを持ってもいいと思う。

当局側の施策というのは、潜在的な欲求を含んでいることを考えれば、それを全面否定することは、同じ国民としての同胞につばを引っ掛けるようなものではないか。

知識人の問題は、こういう人々がメデイアを信用して、それに便乗して囃し立てるという風潮である。

一つのものごと、事象、計画、施策について語ろうとすれば、それに対して様々な見方、視点があることは理性として理解している知識人が、ジャーナリズムに便乗して、華やかな反対意見に素直に取り込まれてしまうことは非常に憂うべきことだと思う。

知識人といわれる人々が、自分でものごとを考える習性を持っているとすれば、ジャーナリズムやメデイアに翻弄される様なことは起こらないと思う。

ジャーナリズムやメデイアは、逆に世間をリードしてやろうという意欲でもって、世間の総ての事象を糾弾する意図を隠すことなく振りまわしているわけで、そういう状況であってみれば、日本の知識人といわれる範疇の人々は、日本のジャーナリズムやメデイアの主張していることを割り引いて考察しなければならないと思う。

世の中のことはニュースにならない人々の生活にこそ、国家の発展が潜んでおり、民族の繁栄が隠されているわけで、そういうニュースにならない日常的な出来事はメデイアにとってもジャーナリズムにとっても、可笑しくも面白くもないが、本当の人類のためという視点から見れば、そういうことこそ大事なことだと思う。

魚屋のオッサンが長靴を履いて商売をする、床屋のオッサンが客の髭を剃る、キャバレーの女が客を垂らしこむ、郵便配達が手紙を配る、バスの運転手が路線バスを運転する、道路工夫がアスファルトを剥がす、飲み屋の母さんがサラリーマンを励ます、等々こういう極々当たり前のことが当たり前に行なわれ、それが毎日つつがなく繰り返されることによって国は発展し、民族は豊になるわけである。

こういう市民、国民の毎日の生活は、メデイアやジャーナリズムにとっては全く意味を成さないことだが、国家や民族の発展というのは、そのニュースにならない無名の人々の日々の生活の積み重ねの上に成り立っていると考える。

こういう状況の中で、日本の知識人の存在意義というのは一体どこらあたりのあるのであろう。

口では高尚なことを言い、文章では難解なことを書き連ねてはいるが、要するに勤勉に労働する人の肩に寄りかかって、甘い汁を吸っているに過ぎない。

知識人の実態が虚業である限り、実業の人々の血と汗の上澄み掠め取って生きているに過ぎない。

この世に生を受けて、米一粒、大根一本、釘一本、作ったことのない虚業の人は、もうそれだけで人を批判する基本的な資質に欠けていると思う。

今のイラクの状況というのは、我々の日本では極々当たり前の日常生活が、当たり前に行なわれていないわけで、それが当たり前に出来るように、日本の自衛隊も現地に行っているわけである。

こういうイラクの人々に手助けしよう、という小泉首相の施策を具現化するために自衛隊はイラクにまで行っているのである。

小泉首相がイラクの復興に自衛隊を出して、復興の手助けをしようとしているのに、現地のイラク人が彼ら同志で好きなように好き勝手に殺し合いをしているわけで、この状況から見て、私の個人的な意見を言えば、イラクなどに自衛隊を派遣する必要などさらさらないと思う。

イラクの復興に日本が手を貸す必要などさらさらない。

イラクなど好きなように好き勝手に殺し合いをさせておいて、自分たちが納得するまで放置しておけばいいと思う。

これは私の個人的な意見であるが、日本という国の舵取りとしての小泉純一郎の考えが、私と同じであってもらってははなはだ困るわけで、彼には日本という国の置かれた国際的な位置を勘案して、大局的な見地から判断し、決断してもらわなければならない。

その結果としての派遣という施策であると考える。

この彼の施策に対する日本の知識人の反応というのは、あまりにも幼稚すぎて、虚業に携わる人の知的レベルを見事に露呈していると思う。

彼らは高等教育で一体何を学んだのであろう。

人間の知性というのは本で学ぶばかりでは不十分で、知性を磨くには、人間を見、人間を知るということが一番大事だと思う。

自衛隊のイラク派遣に反対する日本の知識人の論旨を見てみると、まるで盲が象を撫ぜているようなもので、ジグソー・パズルの一つ一つのピースを取り上げて問題にしているようなもので、我々は地球規模の国際社会という大きな枠組みの中でものごとを考えなければならない、という視点が抜け落ちている。

郵政の民営化の問題は、総論賛成各論反対という状況に追い込まれ、何がなんでも総論を押し通そうとする小泉首相の意志が強いと見ると、論旨に正面から反対する材料が枯渇してきたものだから、論旨の「説明不足だ!」と論点を摩り替えてきた。

首相の「説明責任が不足している!」という論調に摩り替わってきたが、ここらに虚業で飯を食っている老獪なマスコミ業界の悪知恵が如実に現れている。

首相の改革の論旨を説明するのはマスコミ業界の使命ではないのか。

首相が推し進めようとする施策を掘り下げて研究し、その成否を判断するのは日本の知識人の責務ではなかったのか。

戦後の日本の政治で、政府の実施しようとした施策にことごとく反対してきた日本の知識人というのは、その施策を深く深く掘り下げて研究した結果が、日本の国民のためにならないからその施策には反対だ、というスタンスで今まで来たのではなかったのか。

ならば今回の郵政の民営化の問題だとて、今になって説明不足などという言い分がまともに通るわけがないではないか。

反対というアクションを取る前ならば、説明不測という言い分もわからないではないが、散々反対というアクションをとっておきながら、今になって説明不足という言い分はどう考えても筋の通らない話だと思う。

政府や当局側が実施しようとする施策が総て成功するとは限らないことはいうまでもないことで、ある程度のリスクというのは当然秘めているが、そのリスクを政府も当局側も排除しようと細心の注意を払っていることは間違いない。

それでも実際に施策を実施するのは官僚であるので、政府と官僚の間の連携の元、多少齟齬の起きることはある程度避けられないことではある。

高等教育を受けた在野の知識人というのは、人々が細心の注意を払っても尚避けられない齟齬というものを排除する手助けをする方向に向かって始めて高等教育を受けた価値というものが出て来るのではなかろうか。

高等教育を身につけると、人のやっていることが野卑に見えてくる、というのもある程度は人間の自然のあり方だと思う。

だから、それ故に、在野の知識人は政府、当局、統治する側、政治家のやることなすことに満足しきれない、という心情は察して余りあるが、自分が気に食わないからといって、相手を敵とみなすことは思い上がりもはなはだしいと思う。

日本が戦後の占領から脱しようとして、サンフランシスコ講和条約を締結しようとしたとき、当時の東大総長であった矢内原忠雄は、「ソビエットや中国を含めた全面講和でなければ駄目だ」と主張して、当時の総理大臣の吉田茂から「曲学阿世の輩」となじられたことがあったが、結果的には吉田茂の判断か正しかったことは歴史が証明している。

小泉首相のイラクに対する自衛隊の派遣も、今のところ自衛隊員の死者や負傷者もでていないので、小泉首相の判断は正しいということになる。

これから先、自衛隊に何のトラブルもないとは言い切れないが、政治家はその結果が問われるが、知識人の方は何ら結果に責任を負うということがない。

吉田首相を批判した矢内原忠雄は、間違ったことを言ったからといって東大を首になったわけではない。

戦前の知識人は、時の政府に擦り寄って、保身に走った人が大勢いたことは周知の事実であるが、今でこそアカイアカイ朝日新聞だとて、戦争中は政府と軍部の提灯持ちをしていたわけで、知識人の責務というのは、時の政府に擦り寄っても不具合であるし、そうかといって何でもかんでも政府をこき下ろすだけでも能がないと思う。

ならば知識人の責務とは一体何であろう。

 

高等教育とモラル

 

我々の先祖達は、明治維新で西洋列強に追いつき追い越せという意気込みで文明開化の旗印の下、教育に莫大な資力と、時間と、努力を注ぎ込んできたわけであるが、そのことによって日本人の全体の知的レベルは向上したことは間違いないと思う。

その結果として、世界を敵に回して戦争をし、その成り行き上、再び無一文になり、そしてそこからまたまた不死鳥のように羽ばたいてきたわけである。

一旦は奈落の底に転がり落ちても、再び這い上がってこれた背景には、明治維新以降の教育の成果があったものと思う。

1945年、昭和20年8月に、大日本帝国の消滅でもって我々の従来の価値観が180度ひっくり返ったとはいえ、新しい価値感のもとで、再び祖国を復興させえたということは、われわれの民族に植え込まれた教育の効果があったものと推察する。

昨今、企業のトップや官僚の上の方の人々、はたまたマスメデイアに携わる人々の不祥事が世間を騒がせているが、明治維新以降の教育の効果というのは、モラルの向上にはいささかも貢献していないように思う。

明治維新以降の教育の普及では、我々の民族のモラルの向上に関して、いささかも教育の効果というのは現れていないと思う。

戦後の復興についても、180度価値観が転覆したにもかかわらず、それはモラルの向上にはいささかも貢献していない。

教育はモラルの向上には全く無力だと思う。

戦後の進歩的な文化人の好むフレーズに「弱者救済」というものがあるが、こんなことは声を大にして言うべきことではなくて、普遍的な自然の摂理でなければならない。

私は、こういう偽善的なフレーズが大嫌いであるが、この地球上で命あるものの普遍的な姿というのは、突き詰めれば、生存競争に依拠する適者生存であり、弱肉強食が自然の摂理だと思う。

ところが、万物の霊長である人間は、この自然の摂理に抵抗して生きているわけで、人間が人間らしく生きるということは、相互扶助の精神で、お互いに助け合って生きる、という考え方が根底に備わっていて、それを具現化する考え方が倫理というものではないかと思う。

そういう見地に立ってみれば、人間にとって弱者救済ということは何も声を荒げて叫ぶことではないと思う。

電車の中で、年老いた人に席を譲ったり、赤子を抱いた女性に席を譲ったり、身体の不自由な人を介護することは、声高に叫ばねばならないことではないはずで、そういう場面に直面したら、誰でも自然にしなければならないことのはずである。

それでこそ人間の人間らしい姿だと思う。

それを、声高に叫んで、国家が音頭を取って国民に強要すべきことではなく、この世に人として生まれたからには、誰でも人に強要されてするのではなく、自然に行なってこそ人間だと思う。

それを声高に叫ばねばならない、そういう状況が生まれたことにこそ、知識人はその原因を探り、モラルの低下の原因を究明し、その向上に尽くさねばならないと思う。

モラルの向上は教育では成り立たない、達成しえない、というのが我々の民族の普遍的な性癖だと私は思う。

今日、巷に氾濫している社会的地位の高い人のアンチ・モラルな行為、行動というのは、教育がモラルの向上にいささかも貢献していないという明らかな証拠だと思う。

新聞の3面記事をにぎわしている事件の当事者は、無学文盲の人達ばかりではないはずで、クレーム隠しから、朝日新聞とNHkの記事捏造事件から、コクドのインサイダー取引等々の事件が、無学文盲の人の仕業といえるであろうか。

こういう事件の当事者は、すべからく最高学府をつつがなく修めた人達、と言わなければならないが、最高学府をつつがなく修めた人がアンチ・モラルな行為や行動をするということを我々はどう考えたらいいのであろう。

戦後の我々は、経済立国という線で60年間を突っ走ってきたが、この経済戦争の中でもモラルに反する行為、モラルを踏みにじった行為、行動というのは掃いて捨てるほどあったわけで、そのたびごとに新しい法律を作って再発防止を図ってきた。

それは電車の中で、若者がイスを占領して、目の前の年寄りや、子供を抱いた母親や、肢体不自由な人に席を譲ろうとしない傲慢な態度と全く同じなわけで、倫理的に許されることではないはずである。

最高学府を修めても、それが理解できない、わからせることが出来ない教育というのはいったいどうなっているのであろう。

この世に生れ落ちた人間は、成長と共に自我に目覚め、自我に目覚めると同時に、それは我欲というもの出てくることも極自然の流れであろう。

ところが、成長と共に高度になってくる教育というものは、その我欲をコントロールする方向に機能しなければ、教育の意味がないではないか。

とはいうものの、最高学府を目指すような人は、基本的に頭のいい人なわけで、頭がいいが故に、最初から私利私欲の追求を目的として、最高学府を選択しているわけで、そういう人に倫理やモラルを説いても、糠に釘ということかもしれない。

明治政府の文明開化も、モラルの向上を狙ったものではなくて、国民の各人、各階層で、それぞれが私利私欲を最高度に追求することによって、国としてのトータルの富の集積を狙ったものかもしれない。

教育にモラルの向上を期待することは、最初から無理なことだったのかもしれない。

人間が、オギャアと母親のおなかから離れた時には、その後成長するに従い必要になってくるモラルとか倫理という観念に対応する遺伝子が予め備わっているのかもしれない。

人間は、社会的な動物で、単独では生きていけれないとすれば、その生育の過程で、社会のルールというものを学ばねばならない。

学校教育は、そのための補助の制度であって、基本的には家庭がその大部分を占めるのが地球上に住むあらゆる人間に共通した社会現象ではないかと想像する。

モラルや倫理の乱れというのは、学校や家庭を含んだ社会の乱れそのものではなかろうか。

そこにもってきて、私の個人的な見解では、こういうことは個人の資質に帰す部分も大いに存在すると考える。

成人に達し、社会的な地位もそれなりに獲得しているにもかかわらず、それでも尚モラルに反し、倫理を無視する人というのは、学校教育や家庭教育では是正できない、個人的な資質を内部に秘めているものと考えていいのではなかろうか。

封建制度の厳しかった頃は、集落の中で犯罪を犯すと、村八分という制裁を受けて、社会的に抹殺されかねない立場に置かれるのが当たり前であった。

その制裁は一族郎党にまで及んで、親類縁者までが白い目で見られたものであるが、このことは人間の長い歴史の中で、経験から先人達が学んだものではなかったかと思う。

つまり犯罪を犯すというモラルの欠如、乃至は倫理の不適応というのは、遺伝的にその肉親に引き継がれていると考えられていたのではないかと思える。

これは十分ありうることだと思う。

例えば、集落の中で泥棒を生業としている一家があるとする。

するとそこに生まれた子供は両親の姿を見て育つわけで、その両親がモラルや倫理を欠いた生活をしていれば、その子供は当然それが当たり前の生き様だと思うのが普通である。

生まれた子供が両親の姿を見て育つということは、ある意味で後天的な刷り込みともいえ、遺伝子とは関係ないように見えるが、親が泥棒を生業としているということは、代々そういう生活を余儀なくされ、継続してきたという意味で、それから脱しようと努めない、モラルに従おうとせず、倫理に服しようとしない点が遺伝子の影響だと思う。

戦後の日本の民主化の中では、犯罪は何処までも個人の責任で、係累には何ら関係ないという、非常に寛容な見かたが当たり前になって、私のような考え方は差別を助長するものとして糾弾されている。

人間というものを性善説で捉えているので、奇麗事で語られているが、社会的な地位の高い人の悪事を見たとき、そういう犯罪を性善説で語れるであろうか。

もともと卑しい人間が高等教育を受けて、自分の出生の卑しさを学歴がカモフラージュしていたからこそ、いくら社会的に高い地位を占めても、その本性が露呈したとみなさなければならないのではなかろうか。

犯罪には再犯が多いとも聞く。

つまり犯罪は同じ人がなんども繰り返すということだ。

この事実こそ犯罪を犯す遺伝子が代々引き継がれていると解釈すべきだと思う。

犯罪を犯さない人は、どんな状況におかれても法を犯すようなことはしないわけで、このことから考えても、法を犯す、モラルに反する、倫理を無視するという行為は、その人が持って生まれた遺伝子が大いにかかわっているのではないかと思う。

そしてもっと掘り下げて考えなければならないことは、犯罪とは人を殺したり金品を盗むというだけではなく、会社の払拭決算から脱税、インサイダー取引まで、総て法を犯す行為全般をいうわけで、人を殺してないから許されるというものではない。

社会的な地位の高い人の犯罪というのは、その人本人も犯罪を犯しているという意識がないのではないかとさえ思う。

自分のしていることがモラルや倫理に抵触しているかどうかの判断が出来ない、という心のあり方、思考能力の不足、甘え、無関心さというものが親類縁者や親から引き継がれた遺伝子ではないかと思う。

目に見える形で、人を殺したり金を盗むわけではないので、いくら払拭決算しても、帳簿を誤魔化しても、脱税しても、インサイダー取引で儲けても、マネー・ロンダリングで悪貨を清浄しても、自分がモラルを犯し、倫理を踏みにじった、ということに気がついていないのではないかと思う。

この喪失感が実のところ本当に恐ろしいのである。

社会的な地位の高い人が、次から次にと犯罪を犯せば、社会全般がよくなるわけがないではないか。

そしてメデイアが、その犯罪の手の内を詳細に暴き出せば出したで、今度はそれを真似する輩が現れてくるわけで、新しい事態に対処すべく法を整備すれば、今度はその抜け穴を考えるという風に、堂々巡りを繰り返すのみである。

 

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