050114
NHKがまたトラブルを抱え込んだようだ。
事の発端は、2005年、平成17年1月12日の朝日新聞が、NHKの番組が政治家の政治的関与を受けて、変更させられていたという記事を掲載したことから始まった。
そして、その翌日、その番組制作に関わったNHKのプロヂューサーガ、「政治的圧力で番組の改編が行なわれた」という内部告発をしたものだから、マスコミ各社がこの問題に飛びつかないわけがない。
ただでさえトラブル続きのNHKのことなのだから、マスコミ各社にとってはこれほどの好餌も他にないわけで、早速その夜の民放、報道ステーションでは古館伊知郎が当事者と名指しされた安部晋三氏と対談していた。
この問題の中心人物、NHKプロヂューサー長井暁氏が、2005年1月13日記者会見して、4年前の2001年1月29日から4日間にわたって放送されたETV特集「戦争をどう裁くか?」というシリーズものの2回目に、従軍慰安婦を扱った番組で、女性国際戦犯法廷を取材した場面における編集の仕方及びその取り扱い方に関する部分に、政府高官の圧力がかかって、番組の趣旨や内容が変更させられた、だから内部告発するのだ、という趣旨で記者会見を行なった。
前日12日に朝日新聞が報じたことと同じ内容の記者会見であった。
記事をフォローアップするための記者会見という印象を受けた。
朝日新聞の記事の内容というのは、当時、つまり4年前の1月の放送日の前に、安部晋三、中川昭一等がNHKの幹部を呼びつけて、番組の改編を要求したというものである。
私は偶然この長井暁氏の記者会見の模様をテレビで見ていたが、彼の言わんとしていることは「非常に論拠に乏しいなあ」と思いながら見ていた。
つまり、当時、彼はこの番組製作に関わっていたに違いなかろうが、如何せんNHKという巨大な組織の歯車のひとつとして働いていたわけで、彼には上の者、いわゆる上司が何段階にも渡っていたわけで、その指揮下、監督下で彼は番組制作をしていたものと考えられる。
彼は、直接、政府高官、いわゆる安部晋三氏や中川昭一氏とは逢っていないわけで、この両氏と接触したのは、彼の上司である放送総局長という役職の者が直接の折衝をしていたので、長井暁氏自身は直接折衝する立場ではなかった。
その経緯を想像するに、彼が一生懸命現場で番組を作っているときに、彼の上司が政府高官に会いに行って、帰ってくるなりあれこれ番組に嘴を入れたので、てっきり圧力受けて帰ってきたものと勘違いしたものと考えられる。
だから彼の言う政府高官の圧力というのは、彼自身の憶測に過ぎず、彼はその憶測によってそれが恰も真実と勘違いしてしまって内部告発に至ったものと考えられる。
彼の記者会見を見ていても、彼の言葉は非常に曖昧な言い回しに終始しており、断定的な言葉は全くないわけで、推測、憶測、思い込みで語っているという印象を受けたものだが、古館伊知郎の番組に出演した安部晋三も全く同じ印象を受けたと述べている。
当然、政府高官とみなされている安部晋三も中川昭一も反論し、直接圧力を受けたとされている放送総局長も、その事実(圧力とは感じなかった)をはっきりと否定しているわけで、長井暁氏は挙げた拳の下ろす場が全くなくなってしまったことになる。
長井氏のいう「放送前に番組の作りかえを命じられた。改変は政治的圧力を背景としたものだといわざるを得ない」「中川、安部両氏の了解を得るために作り変えたことは明白だ。海老沢会長は総て了解していたと思う」が、真実であってみれば、これは相当大きな問題とならざるを得ない事柄のはずである。
ところがNHK内部の放送総局長という人も、この両氏からの圧力は「感じてない」といっているわけで、番組改編を要求したのはあくまでもNHKとしての良心からだと思う。
記者会見による内部告発というのは、その真実の是非よりも、問題提起としての騒動を巷間に撒き散らすのが目的であったのかもしれない。
組織に身を置くサラリーマンとして、自分が精魂込めて作り上げた作品に、仮に上司であったとしても「ああでもない、こうでもない」と横槍を入れられれば、自分のイメージを踏みにじられたと思い、その時の悔しさは察して余りある。
だからといって、それを内部告発という形で鬱憤晴らしをするというのも、人間としての品位に欠けた行為だと思う。
NHKという巨大な組織の中で、自分で題材を掘り起こして、自分で企画して、自分で取材をして、さあ放送しようという矢先に上司から横槍が入って、作り直しを命じられれば、腹のたつ心情は十分に理解できる。
しかし、その変更を「政府高官の政治介入だ」と思い込んでしまったことは本人の早とちり以外のなにものでもない。
長井氏自身の言っていることを一つ一つ検証すれば、それが間違いであるということはすぐにわかることで、中川、安部両氏がNHK幹部を「呼びつけた」という言い分と、NHK幹部が予算の説明に「出向いた」ことでは全く相反する事実である。
その状況下で、安部氏がNHKの人間に「公平公正な報道をしてください」という文言を言ったとしても、それを政治圧力と捉えるというのもいささか狭量な発想である。
関根総放送局長が安部氏とあっている事実を見て、悪意をもって恣意的に記事を書こうとする人は、本人が「出向いた」といっているにもかかわらず、「呼びつけた!」と歪曲し、政治家が極常識的な一言をいうと、「政治的圧力をかけた」と故意に歪曲して記事にすることは非常に由々しき問題といわざるを得ず、人間としての倫理観に欠けた行為だと思う。
事実を故意に捻じ曲げて報道することは、ジャーナリズムに名を借りた個人に対する誹謗中傷でしかないわけで、正義の名に隠れてする欺瞞そのものでしかない。
世の中の騒動というのは時間の経過と共にだんだん怪しい深みに落ち込んでいくみたいだ。
最初、朝日新聞が報じた捏造記事に依拠して、NHKのプロヂューサーが内部告発したものが、だんだん日を重ねるごとに問題が複雑化して、ますます藪の中に嵌りこんでいきそうな雲行きである。
問題を精査すればするほど事態がわからなくなっていくみたいだ。
放送の前日にNHKの幹部が予算のことで安部氏のところに来て、話の後で噂になっている番組について安部氏が「公平公正にしてください!」といったことが、いつの間にか政治的圧力に摩り替えられて報道されているわけである。
ところが新聞でもテレビでも取材したことがそのままニュースになり記事になるわけではないわけで、取材したことが電波に乗り、紙面になるまでには大勢の人のチェックが入るのが当然であるが、1月12日に朝日新聞がこれを紙面に載せたということは、新聞社全体としてこの記事を、つまり書いた本人(本田雅之記者)の主張、ものの考え方、思考回路を容認していたということである。
NHKの幹部も安部氏の言葉を政治的圧力とは感じておらず、一般論の範囲だと認識していたにもかかわらず、それが政治的圧力に摩り替えられている。
NHKの中か、朝日新聞の中で、誰かが恣意的に問題を複雑化し、騒動に仕立て上げようと画策しているとしか考えられない。
1月18日の朝日新聞は27ページの社会面1面を使って「番組改編。本社の取材・報道」という記事で埋め尽くしていたが、これを読めば読むほど藪の中に入り込んでしまって、事件の真相解明から遠のいてしまう。ますます解らなくなってしまう。
案の定、その日のうちにNHKの当時の総局長、関根昭義氏が記者会見でこの記事に対して具体的な反論をしている姿がニュースで放映されたが、彼の言い分によると、「自分の言ったことと反対の論旨で記事が捏造されている」というものであった。
そして翌19日の古館伊知郎の報道ステーションでは、古館は「喧嘩両成敗で水掛け論になってしまって、子供の喧嘩じみたことになった」と言っていたが、これは明らかに古館の属する民放側の逃げ言葉であって、奇麗事で締めくくって逃げ切ろうとする作為そのものとみなさなければならない。
日にちが変って、21日の中日新聞の社説では、この事件に関して「NHKという報道機関はあくまでも公正中立であるべきで、政治家の関与をうけてはならない」という論旨に徹していたが、NHKというのは100%純粋な民間の報道機関ではないわけで、その意味からすれば厳格に公正公平でなければならないが、総ての報道機関は必ずしも公正公平である必要はない。
NHKに限っては、その運営に国家が関与している限り、あらゆる意味で公正公平でなければならず、それは同時に国の関与を排除すべきものではないはずである。
NHKというのは完全なる民放とは違うわけで、なんでも自由気ままに、何の規制もうけず、何でもかんでも好き勝手に自由に振舞えるというものではないと思う。
同じ報道機関であったとしても100%完全なる民間資本の報道機関ではないわけで、法律に則って運営されている以上、ある程度の国家の規制に縛られることは当然である。
憲法で規定されている表現の自由とか、報道の自由とか、思想・信条の自由というのは、どんなでたらめなことでも自由奔放に報道していいというものではないはずで、そこには当然「公序良俗に反しない限り」という目に見えない、普遍的な良識としての制約があると考えるのが当たり前だと思う。
嘘の報道、虚偽の報道、事実を歪曲した報道というのは、報道機関のみならず何人も厳に戒めなければならないと思う。
そのためには報道する側がきちんとした哲学を持っていないことには、自分が世に送り出そうと思う情報に対してスタンスが取れない。
報道の理念としては、いかなる報道機関においても公平公正な内容というのが理想だろうけれど、自分の持つ視点の置き方で、自分で公平公正だと思っていることでも非常な偏りがあるわけで、情報を送り出す側が言葉の上で公平公正といっても、それを受け取る側では額面どおりそう受け取ってくれないのが現実の姿だと思う。
だから報道機関のいう公平公正ということは全く信じられないわけで、だとしたら報道機関は最初から自分の立場を明確に表明して然るべきで、「公明公正な報道」というのを否定すべきだと思う。
現にNHKは極めて公平な立場を維持しようとしているし、アカイアカイ朝日新聞は左に偏っていることを隠そうとはしていないではないか。
ならば中日新聞も自分の立場を鮮明に表明すべきで、「報道機関は公平公正であるべきだ」などと奇麗事を偽善ぶって言うべきではないと思う。
この問題は今後も尾を引くものと考える。
というのも、彼、長井暁氏の作った番組というのは、「戦争をどう裁くか?」というシリーズの中の「問われる戦時性暴力」という副題の元で、この番組の中で取材されているのが「戦争と女性への暴力」日本ネットワークという団体の企画した「女性国際戦犯法廷」というものを取材して構成されたものである以上、このNGOが黙っていないに違いない。
「戦争と女性への暴力」日本ネットワークというNGOが、共産主義者を中心とした集団である以上、普通の人間の普通の常識は通用しないわけで、共産主義的な価値観でもって迫ってくることは必定であり、そのことは通り一遍の話し合い等では解決に至らないということである。
「火のないところに煙は立たない」と言われているが、既にその火種は暴かれて、露呈してしまったわけである。
その火種は「番組が改編された」という虚偽の報道で、NHKのプロヂューサーが内部告発をしたということが立派な火種となって、その火を絶やさないように「戦争と女性への暴力」日本ネットワークというNGOと、アカイアカイ朝日新聞が手を組んで、問題を大きく大きく成長させ、世間に一大センセーションを巻き起こそうと、てぐすねひねって待ち構えているように見える。
我々、当事者でないものは、それを傍観している他、成す術がないわけであるが、このNGOの存在そのものが非常に困った憂うべき存在だと思う。
昔も今も、共産主義者というのは、どういうわけか普通の一般市民よりも知能指数の高いものがなっているようだ。
高等学歴を積んだ人に共産主義者が多くいるわけで、それがソ連の崩壊後も絶えることなく細々とではあるが活動を展開している。
ところが、この彼らの活動というのが、これまた昔も今も日本を崩壊する方向に舵取りをしているわけで、ここが困った点である。
共産主義者は頭がいいので、個人レベルでもインターネットを利用しホームページを立ち上げているので、それなりに彼らの言わんとする情報は入手できる。
そして、その彼らの発信している情報というのを見てみると、全くもって日本民族というものをこの地球上から抹殺するが如きの発言である。
こういう情報を発信しておいて、それについてくる人間を獲得しようと画策したところで、彼らよりも頭の悪い一般大衆がついてくるわけが無いではないか。
我々、一般大衆というのは夢を食って生きていける獏ではないので、現実の一般大衆の生き様というのは、良い家に住み、良い車に乗り、良いレストランで食事をしたい、という現実の欲望を追いかけて生きているのであって、いくら良い理念、崇高な理想があったとしても、それで飯が食えないということを身をもって体感しているわけである。
良い家に住み、良い車に乗り、良いレストランで食事をしたい、という身近な欲望を満たし、現実の快楽を追うためには、組織の中では従順に、地域にあっては協力し合って、権利と義務を忠実に果たさなければ、その夢の実現はおぼつかないということを、身をもって知っているので、秩序、社会的基盤の破壊ということには賛同せず、逆に憂うべきことと考えているのである。
ところが共産主義者というのは、こういう一般大衆よりも頭がいいので、理念と理想の追求に忠実たらんと欲し、その思考を純粋培養的に昇華しようと願うあまり、一般大衆が如何様に迷惑をこうむろうとも、他人の痛みには不寛容で、唯我独尊的に自己の目的遂行に走るのである。
他人の痛みには不寛容で、唯我独尊的に自己の目的遂行に走るような人間を、今の日本の一般大衆が歓迎するわけが無いではないか。
今の日本の一般大衆というのは、その総てが中産階級で、彼らにとっては今の生活をこれ以上低下させたくない、という願いこそ切実な願望になっているのである。
そして今の日本、戦後の日本では、民主主義というものは普遍的にひろがっており、我々は異端を排除しきれない温厚な志向を持っているので、民主主義のもとで、こういう共産主義者でも人間の形をしている以上むげに弾圧、抑圧してはならないという博愛主義に陥っている。
だから、民主主義というぬるま湯の中で、少数意見というものを如何に救い上げるか、ということに努力しているのが現実の姿である。
ところがそういう状況にもかかわらず、そのぬるま湯の中にどっぷりと浸かりながら、言いたい放題、したい放題にしている共産主義者たちは、一向にそういう大衆の底辺に流れている温情主義の気遣いを察知しておらず、現状の不満だけを声高に叫んでいる。
私は、この問題が噴出してからというもの、その問題の根底にあった4年前の放送の本拠になっている「女性国際戦犯法廷」なるものをインターネットで追い求めてみたら、これが亡国の論旨で固まっているわけで、その亡国の論旨でも公開できる、という意味ではまさしくインターネットというのは万人に公平に開かれているものだと改めて感心した次第である。
「女性国際戦犯法廷」なるものを企画・立案したのが「戦争と女性への暴力」日本ネットワークというNGOで、そのトップにいたのが松井やよりという元朝日新聞の記者だった女性というのだから驚く。
その女性は敬虔なクリスチャンで、同時に共産主義者でもあったわけだが、キリスト教徒と共産主義というのは相反する思考であったはずだけれども、それが一体化しているということはどういうことなのであろう。
両方の良いとこ取りをし、大衆受けのしそうな部分のみを掠め取って、奇麗な青い鳥にみえるような要素のみを吸引しているのであろうか。
それとも女性の解放という目的のためには同じ視点に立っているということなのであろうか。
そのことはどちらでもいいが、この松井やよりという女性が、我が国、我が民族、我が同胞というものにいささかの愛着を持っていない、という点がたまらなく不快な気にさせている。
日本で生まれ、日本育ち、日本で学び、日本で糧を得、日本で生活しながら、自分の国を愛せない人というのは、まことに不幸な人だと思う。
それでいて本人はクリスチャンであり、共産主義者であるということは、傍から見ればまるで怪物を見るようなものである。
我々人類は社会というものを形作って生きているわけで、その中では当然意見の違いというのはあっても何ら不思議ではない。
しかし、自分の属する社会を、つまり自分の国というものを否定して生きているということは、一体どういう精神構造の持ち主なのか不思議でならない。
彼女の経歴を見ると、東京外語在学中にアメリカ、ミネソタ大学に留学し、その後フランスに渡り、そのフランスで差別に憤慨して日本に舞い戻り、その後朝日新聞に入社した頃から女性差別の視点から日本社会に憤懣を持つようになったようだ。
それ以降、日本社会に背を向けて生きてきたようなことが記されているが、彼女の一生を一言で表現すれば、生涯、不平不満を言い続け、自分の思い通りに行かないことは他人の所為にして生きてきたということだと思う。
ある意味で、天邪鬼のシーラカンスを見るようなもので、同じ同胞として不快な気持ちにならざるを得ない。
松井やより氏は天皇制というものを生理的に受け入れないようで、その生涯を天皇制反対で貫いて生きてきた人らしいが、日本で生まれ、日本で育ち、日本で教育を受けながら、天皇制に反対するということは一体どういうことなのであろう。
それは彼の父がキリスト教の牧師なるがゆえに、その影響で彼女もそういうスタンスを取るようになったものだろうか。
彼女がキリスト教徒で、その上共産主義者であったとすれば、天皇制を受け入れらないのも多少理解できるが、天皇制を嫌うあまり、物事の判断、見方がそれを機軸にしてまわっていたとすれば、もの事を見誤る元だと思うし、現に彼女のやってきたことはそうであったはずである。
インターネットで彼女に関する文章を2、3拾い読みしてみると、彼女の父は牧師でありながら、徴兵で兵隊に取られ、その父が中国戦線で垣間見た日本兵の横暴、傍若無人な振る舞いに対して贖罪の意識が強く、それを子供に語り聞かせたことが彼女の精神形成に大きく影響を与えていると本人自身がいっている。
つまり、一種の刷り込みなわけで、その刷り込みがあったが故に、彼女は生涯アジアの人々に対する贖罪に苛まれつつ生涯を送ったようだ。
その刷り込みされた内容というのが、同胞の残虐性であり、野蛮性であったので、彼女は生涯を通じ我が同胞を告発し続けたのであろう。
彼女の父が体験した我が同胞の異民族に対する仕打ちというのは、私も歴史の反省として忘れてはならないと思う。
ところが、そのことを反省するに際して、それをしたのが我が同胞であったという点をどういうふうに捉えるかということだと思う。
この我々の同胞がアジアの民衆に対して行なった理不尽な振る舞いに対する憤りは、私も同感であるが、それを日本政府や天皇制の所為にするというのは少々論理の飛躍であり、歴史を知らなすぎるし、人間を知らなすぎるし、間違っていると思う。
こういう左翼的な感情論の根源にある心情というのは、この民主主義の世の中において、個々の個人の行為を糾弾することは苛めに繋がるような気がして正面切っては言えないが、国家とか天皇制という漠然としたものに対しては、その悪口をいくら言っても、傷つくほうも漠然としているので、個人的な苛めに繋がる恐れがなく、いくら言っても、如何様に言っても、人畜無害なるがゆえに、奇麗事で通せると思っているからであろう。
あの第2次世界大戦の前の時代において、我々の同胞が中国の地で行ってきた行為は、今日の価値観からすれば決して誉められた行為ではないと思う。
日本兵というのは、しかも徴兵で駆り集められて兵隊というのは、いわゆる烏合の衆の塊であったわけで、牧師や当時のインテリーで、徴兵で狩り出されたような立場の人間からすれば、同胞の烏合の衆としての下級兵士の行為、行動というものは、決して容認できるものではなかったであろうことは想像できる。
しかし、そういうものを統括していたのが旧日本政府であり、国家であったとしても、それが故に、戦後、旧秩序からの呪縛が解けた瞬間から掌を返したように、一般大衆、愚昧な民衆は善人の集合で、国家に騙されていたという理由でもって、大衆の側に擦り寄って反政府になるというのも完全に飛躍した、日和見な論理といわなければならない。
ここで親が子に与える刷り込みというのはまことに恐ろしいものがあると思う。
松井やよりの父親が、自分の体験した同胞の極悪非道の行為を子供に語り伝えることで、その子供としての彼女は完全なる反政府、反体制の側に身を置くことになったわけである。
この思考の中には、我々の同胞は醜い人間の集団だという、醜い同胞という部分には目をつぶって、その集合体としての国家という漠然としたものに矛先を向けているわけで、これも極めて日本人的な心象風景だと思う。
権力の対極にいる一般の国民、大衆というのは、突き詰めれば有象無象、烏合の衆、無知蒙昧な大衆であるが、その現実を直視することを遺棄し、善良で善意に満ちた一般市民であるという思い込みはインテリーの自己欺瞞だと思うし、こういう人達が国家という権力サイドに騙され続けていたという見解は、現実の同胞を直視することを避けた奇麗事だと思う。
あの第2次世界大戦のとき、当時の子供は男女を問わず、あの戦争を肯定していたわけで、その理由としては、まず自分の親が軍国主義であり、その親は世間の刷り込みで軍国主義になっていたわけで、国民の全部が老若男女を問わず軍国主義者であったわけである。
そのことは統治者の完全なる刷り込みが成功していたということである。
昭和20年の敗戦は、当時の子供や青年にとっては信じられないことであった、ということは如何に刷り込みが功を奏していたかということだと思う。
戦後、父からは同胞の暗部を刷り込まれ、家庭の外では民主化と称する価値観の大逆転の中で生育した彼女が首謀する会、「戦争と女性への暴力」日本ネットワークというものが企画遂行した「女性戦犯国際法廷」というのも、理念と理想はきわめて華々しく奇麗事で塗り固められているが、それはある種のパフォーマンスに過ぎず、普通の常識からでは承服できるものではない。
こういう会合をNHKが取材したということは、相手の立場に立って見れば、ただでそのパフォーマンスをPRできたという事になるわけで、それが放映され、取材された部分が少しでも欠けていれば、「番組は歪曲された」という口実を先方に与えることになることは火を見るより明らかである。
現にそういう抗議をしているではないか。
普通の常識から考えれば、取材されたからといって、その全部が放映されるとは限らないわけで、番組を作る人の意向でそれは大幅にカットされるのが普通である。
「取材を受けたのだからその全部を放映せよ」というのは無茶な要求であるが、彼らのような組織、NGO、市民団体というのはそう安易にこちらの言い分を理解しようとはしない。
なんとなれば、彼らも反体制、反政府と言いながらも、資本主義社会の中で生きているわけで、究極の目的は金に行き着くものと思う。
要するに取材しておいて、それを放映しないのは、当の組織なり、NGOなり、市民団体を蔑ろにしているわけだから、「金よこせ!」という論理になるわけである。
今回の騒動において、NHKの長井暁というプロヂューサーは、この団体に相当に心を入れ揚げていたのではないかと思う。
ミイラ取りがミイラになったようなもので、取材を重ねるうちに、自分もこのNGOのしていることに共感してしまって、番組変更を上から押し付けられたときに、それは政府の圧力があったからだ、と思い違いしていたのではないかと思う。
ところが実際は圧力ではなくて、NHK内部の良心が、あまりにも偏向した内容にセーブを効かせ、自浄能力が作用したということだと思う。
NHKとは限らず、大きな組織の中では、上層部の考えていることと、下で実際に現場で仕事している人の間では齟齬が起きるのが普通で、それは何も珍しいことではないが、ここで下のものが「政府の圧力があったのではないか」と勘違いするのは少々尋常ではない対応だと思う。
折角の内部告発が空振りに終わってしまい、まるで滑稽なピエロではないか。
ここで話をもっと広範なスケールに広げてみると、現代社会にとってマスコミというのは非常に御し難い強力な力を持っていると思う。
それは統治するものとされるものとで、このマスコミをどちらがどういうふうに味方につけるか、という点でまことに大きな影響力を内包していると思う。
そして資本主義社会の中では、マスコミ自身も利潤を追及しなければならないわけで、利潤を追求しつつ、どちらにも偏らないように心配りをしなければならないわけである。
いや、この「どちらにも偏らない」というのはマスコミとしての理想であって、その理想を旗印にすることはマスコミ側のある種の詭弁で、一般大衆としてはそんなマスコミの奇麗事を信じてはならないと思う。
民間のマスコミ、報道機関ならば大いに偏ってもいいと思う。
むしろ偏って、自分の政治的信条を大きく表面に出すべきだと思う。
日本共産党の「赤旗」、公明党の「聖教新聞」、自民党の「自由新報」等々、自分の信ずる思想・信条を大きく表面に掲げ、自分のスタンス、自分たちの機軸を誰にも理解できるようのはっきりさせるべきだと思うが、日本のマスコミ業界というのは、表向き中立を旗印にしながら、実際には偏向しているから困るわけである。
要するに「良い子」ぶっているわけである。
「良い格好シイ」というポーズを取るから世間が誤魔化されるのである。
その点、NHKは半官半民の組織で、その運営資金は視聴者が払うことによって成り立っているが故に、何がなんでも厳正中立でなければならない。
ところが他の国では、民営かそれとも国営かの二つしか選択肢がないわけで、国営であれば国に直結したPR機関として機能し、民営であれば国も金を払ってPRしてもらわなければならない。
問題は、国家がマス・メデイアを如何にコントロールするかという点に掛かっているわけである。
何を放送して何を放送してはならないのか、という点が非常に難しいと思う。
先に、あの戦争中において、日本中のあらゆる階層のものがすべからく全員軍国主義者であったことを述べたが、あれも昔のNHK、日本放送協会と、若干の新聞と、若干の雑誌というメデイアが、ああいう状況を作り上げたわけで、あの時代はまだメデイアが今のように発達していなかったが故に、メデイアの伝える事柄は天の声とも思えるような状況であった。
それが故に、あれほどの刷り込みが成功したものと考える。
そこにもってきて、戦争遂行する側は、負け戦というものを出来るだけ隠そうとするので、国民が知らされるのは、成功例ばかりを示されるのが常である。
この点に関しては何処の国も似たり寄ったりだと思う。
何処の国に、負け戦を喜んで国民に知らせるものがいよう。
我々の場合も、その結果として、戦争が終わった時点で、今まで勝つと思って一生懸命戦ってきたにもかかわらず、その結果が敗北などとは信じられなかったのも無理はないと思う。
そして、国民の側としては「騙されていた」という憎しみが沸くのも致し方ない。
マス・メデイアというものは統治する側にとってはある種のツールであると思う。
近代において、それに最初に気がついたのがヒットラーだといわれているが、文明の進化というものは誰もが注目するわけで、この世にラジオとか無線通信というものが誕生し、それが統治するさいに非常に有効な手段となりうる、ということがわかった時点でそれは大いに利用されることになった。
ヒットラーが国威掲揚のためにラジオの持つ有用性を十分に引き出したのと同じころ、アメリカでもルーズベルトは炉辺談話という形でアメリカ市民に対して戦争の整合性を説いていたわけである。
当然、日本もこういう先進国と同じことをしていたわけで、当時の日本放送協会も、日本の統治に大いに協力し、協力せざるを得なかった。
そして、松井やよりが牧師であるところの父からの刷り込みで反政府、反体制の塊となったと同じように、戦前の日本人も、日本放送協会の刷り込みや、戦前の朝日新聞の刷り込みでもって当時の日本人の老若男女の総てが軍国主義者となってしまったわけである。
マス・メデイアの恐ろしいところ、マス・メデイアの影響力というのは、極めて大きなものがあるわけで、それは国民的なコンセンサスを作るには極めて強力なツールになり得る。
というのも、メデイアとして、情報を発信する側というのは如何様にもその内容を取捨選択できる。
ある意味で、発信する側にとっては意のままにその内容を形作ることができる点にある。
例えば、あの戦争中の大本営発表というのでも、我が方の敗北を国民に知らせたくない、という統治する側の意志でもって、そういうニュースは総て没にすることが可能であった。
ニュースを受け取る側の国民は、そういう統治する側の作為を知らないものだから、総ての戦いが全部勝利していると思い込まされていたわけである。
本来、公正中立であるべき日本放送協会も、時の為政者に牛耳られていたので、その中で日本軍の敗北を電波に乗せれば、自分自身の命の補償もおぼつかないという状況下であったろうと想像する。
今でこそ、アカイアカイ朝日新聞だとて、当時の状況下で政府の意向に反する報道をすれば、紙の支給を絶たれるという状況下であってみれば、政府の発表を鵜呑みにして報道する以外自社の存続そのものが危うかったわけである。
当時の状況がこうであった見れば、NHKにしろ、朝日新聞にしろ、あの時代には時の為政者に協力せざるを得ず、それを責めるつもりはないが、戦後の彼らの豹変にはいささか度肝を抜く思いがする。
そういう点から鑑みて、私はマス・メデイの不誠実さを感じずにはおれない。
戦後は日本を占領した進駐軍によって、日本のメデイアは国家からの呪縛を解かれて、民主化され、公序良俗に反しない限り、報道の自由とか、知る権利とか、表現の自由などというものが確立されたが、するとそこに現れてきた現象というのが反政府、反体制というポーズである。
これがポーズだけならまだ良い。
報道の自由というのは、あくまでも「公序良俗に反しない限り」という枠の中での自由であるはずが、この枠の存在そのものを無視し、あるいは枠そのものを破壊してはばからない風潮が現れてきて、それが新しい生き方だと勘違いするものが大勢現出してきた。
「公序良俗」というのは何も卑猥な姿態や行為のみではなく、人間の思考にも当て嵌るわけで、常識を逸したような思考も、当然、公序良俗に反するものだと私は思う。
ところが実際に戦後の日本のマス・メデイアのしていることは、公序良俗などという生易しい表現を通り越して、日本という国の崩壊を狙った極めて悪質な売国行為である。
日本という国を共産主義国に売り渡しかねない売国的行為、亡国的行為であるが、それを国民のためという美名、奇麗事に包んで推し進めているわけである。
マス・メデイアに関わっている人間のいう「国民のため」という言葉ほど欺瞞に満ちた言葉もないと思う。
特に、顕著なのが例の朝日新聞である。
朝日新聞のいうことを日本共産党の「赤旗」がいうのならば、まだ納得が行き整合性があると思うが、いやしくも公正中立を標榜する朝日新聞が、明らかに左翼思想、共産主義者に同情的であることは偏向した報道そのものである。
情報を握っているものが、それを不特定多数に知らしめるには言葉の遣い方1つで、どういうふうにでも味付けというか、歪曲というか、捏造というか、スケープ・ゴートに仕立て上げることが可能なわけで、その情報の真実を知るには、受け手の側に思慮分別が要求され、冷静な判断力と物事を懐疑的に見る習慣が必要になる。
マス・メデイアがニュースを発信しようとするとき、どのニュースを取り上げるか、という段階からもうすでに偏向の因子は組み込まれているわけで、今回の事件でも、長井暁プロヂューサーが「女性国際戦犯法廷」を取材した時点からすでに精神的な偏向の要因が潜んでいたわけである。
そういう意志があったればこそ、あの裁判を取材し、それを電波に乗せようと画策していたわけである。
当然、NHKという組織の中では、現場のプロヂューサーの独断専行は許されるわけもなく、上司のチェックを受けた際に、上司が「これは少々偏向し過ぎている、手直しせよ!」と云ったに違いない。
折角思い入れを込めて作り上げたものに手直しを迫られれば、作った者としては内心面白くないことは想像に余りあるが、サラリーマン社会で生きていくためには致し方ない。
そういう鬱憤が今回の内部告発にいたったに違いないと思うが、事ほど左様に、情報を発信する側というのは、発信する内容を如何様にも選択できるわけである。
また文章なり、記事の、て、に、を、は、を変えるだけでも正反対の意味に変えることも可能なわけで、その意味でマス・メデイアの流す情報というのは頭から信ずることは全く出来ないのである。
ところが、それを受け入れる側の聴衆や読者というのは、そういう罠が在ることを理性ではわかっていても、ついついそれにのめりこんでしまって踊らされてしまうのである。
あの戦争が終わって今年は60年を迎えようとしているが、人間の年でいえば還暦である。
60年前の日本と今日の日本では、それこそ同じ民族とはとても信じられないような様変わりをしている。
特に、精神の面では我々の同胞はもう昔の日本人ではない。他の違う民族にひとしいぐらいの隔壁があるように見える。
だから昔の感覚で表現すれば、自分たちの同胞を他国に売り渡す売国奴のように映るが、中味の人間は、昔から面々とこの日本という国土の上で生息し続けた同胞であることに間違いはない。
この精神の変化、精神の様変わりは、ひとえにあの占領による民主化という名の日本民族弱体化政策によるものだと思う。
日本に勝利したアメリカをはじめとする西洋先進国は、日本が再びこの地球上で覇権を振り回すことを許してならない、と考えたことは当然であろうが、それは同時にソビエット連邦から浸透しつつある共産主義勢力の防波堤でもなければならなかったわけである。
日本の敗北というのは完全なる無条件降伏なわけで、一部の国粋主義者は、「国体の護持」という点で、完全なる無条件降伏ではないと論旨を張っているが、実質は完全なる無条件降伏であった。
60年前我々の価値観は完全に180度転覆したわけで、それまでは主権国家の国民は国家に奉仕すべき存在であったが、あれ以降は主権国家の国民は国家に保護を求める存在で、国家と国民の間に作用するベクトルが全く逆向きになってしまったのである。
それは憲法に国民の生命財産を守るのが国家だと規定されているので、国民として如何なる苦しみ、苦難も、その源泉は国家に起因するという論理が蔓延したが故に、国民のあらゆる不平不満は総て国家の責任だ、ということになってしまった。
そしてあらゆる価値感の逆転の中で、思想信条の自由が保障されて、それ以前は非合法であった共産主義の活躍が認められるようになると、これに日本の知識階級、普通の大衆よりも頭の良い連中が殺到した。
日本の知識階級というのも哀れな存在で、その哀れさの度合いは1銭5厘で徴収された有象無象の下級兵士と全く同じぐらいである。
知識人としてのノブレス・オブリッジはかけらも見出せないではないか。
表面の格好良さにつられ、理想、理念を追い求めるチルチル、ミチルのように絵空事を信じ、同胞を信じず、祖国につばを吐きかけ、他人を非難することばかりに長けて、それが亡国に繋がっていることを解ろうとしない曲学阿世の輩である。
この知識人の殺到した共産主義というものは、アメリカ占領下の日本では、もう革命の出る幕はないと悟り、武装闘争は放棄したけれども、その代替策として、日本の秩序の破壊ということに血道を開けたわけである。
この旧来の秩序の破壊ということは、おりしも占領軍が進めようとしていた民主化路線と軌道が一致していたわけで、共産主義者の実績としては影の薄いものとなってしまった。
共産主義者がすべき政治的変革を総てアメリカ占領軍が実施してしまって、戦後、牢獄から解放された日本の共産党員は、自分たちの内部抗争に明け暮れていたわけである。
戦後、進駐軍によって牢獄から解放され、英雄として復活し、晴れて活躍できるようになった共産主義者たちは、晴れ舞台に出てみると仲間内の覇権争いばかりを展開し、内ゲバに明け暮れていたので、さしたる実績は挙げられなかったが、秩序を破壊するという段階では、組織立った行動は必要なかったので、この風潮が健全な社会にがん細胞が転移するように、深く静かに浸透していったわけである。
日本共産党の組織というのは、その末端の組織を「細胞」と呼んでいるところを見ても、癌と同じで、それはあらゆる組織に恰もがん細胞のように入り込んでいることも事実だと思う。
冷戦が終焉して既に15年を経過しようとしており、今はもう共産主義という言葉も陳腐化しつつあるが、戦後の時期におけるこの共産主義者の行動というのはマイナスの進歩という意味で、忘れてはならないものがあると思う。
共産党が武力闘争を放棄したのであれば、もうそれは共産党と言ってはならないと思うが、日本共産党は武力闘争を放棄しておきながら、未だに共産党を名乗っていることはおかしいと思う。
そのおかしな日本共産党は、今でも秩序の破壊ということにかけては面々と努力を重ねているわけで、日本の知識人というのは、そういう集団に相変わらず甘い夢を期待している。
戦後の民主化の元で、思想・信条の自由を謳歌している共産主義者にとって、革命の夢は完全に絶たれたに等しいが、それでも秩序の破壊ということには意義を見出しているわけで、今や日本のあらゆる組織の中に、共産党の細胞は入り込んでいるとみなさなければならない。
当然、民間企業はもとより、官公庁に至るまで、彼らの細胞は深く静かに沈降し、正体を隠しつつ、秩序の破壊を狙っていると考えなければならない。
問題は、司法の中にまでそういう者が入り込んでいるとすると、価値基準の根底が狂ってしまうということである。
そして、教育現場における彼らの行動、行為というのも、まさしく亡国の道を辿るわけで、彼らにしてみれば、自分たちの行為が日本国民にとって如何に惨めな結果を招こうとも、それを当局の所為にし、統治者の責任に転嫁し、自分たちの失敗をカモフラージュするところに在る。
自分たちの失敗をカモフラージュするもしないも、それこそが彼らの目的であったわけで、彼らの究極の目的というのは、日本民族というものの誇りも、名誉も、自存自衛の気概も、日本という国を形作っているあらゆる要因を、この地球上から抹殺することにあると思う。
共産主義というものは、生きとし生きる人間の理想には違いない。
しかし、それはあくまでも人間の思考の中にある空理空論の理想であって、我々は夢を食って生きて行ける獏ではないのだから、現実を直視しなければならない。
地球規模で躍動している世界を直視して、あくまでも最大多数の最大幸福を追及しなければならないが、生きとし生けるすべての人間の、総ての欲望に答えるということは、何処まで行っても画餅にすぎない。
理想だけを追い求めたところで、その実現は困難なわけで、困難だからそう安易には実現しないのが普遍的な在り体にもかかわらず、何がなんでもそれを実現せよと迫るから衝突が起きるのである。
衝突が起きても尚それを推し進めようとするから、最後は実力行使となり、力と力のせめぎあいになってしまうわけである。
彼ら共産主義者というのは、暴力革命を放棄したとはいえ、力の行使を放棄したわけではないので、あちらでもこちらでも警察、いわゆる当局側と衝突を繰り返すことになる。
戦後の騒乱はすべからくこのパターンを踏襲しているが、彼らに言わせれば、その責任を総て当局側に押し付けてはばからないのである。
司法の現場や、教育の現場における彼らの行為、行動というのは、全くもって由々しき問題だと思う。
仮に、裁判官が共産主義者であったとしたら、その判決を我々は受け入れられるであろうか。
仮に、学校の先生が共産主義者であったとしたら、我々は安心して子供を預けれるであろうか。
しかし、現実にはこういう状態になっているわけで、その結果として「女性戦争犯罪法廷」なる茶番劇が罷り通っているわけである。
それを取材すればしたで、放送そのものにクレームを付けてくる。
放送にクレームを付けることが、彼らの主目的であったわけで、そのことによって世の中に錯乱を巻き起こそうとする意図が見え見栄ではないか。
共産主義者の裁判官が偏った判決を出したとしても、そのことを理由にその裁判官を離職させることは現在の法律では許されないわけで、時の流れと共にうやむやになるのを待つほかない。
学校の先生の扱いでも同じことで、偏向した教育を行ったからといって、それだけの理由で先生をやめさせることは出来ないわけで、これも時の流れで事柄がうやむやになるのを待つ以外対策がない状態である。
そして、彼らの言っていることは基本的には正しいことなわけで、ある意味では正論なるが故に、真っ向から全否定が仕切れないところがあって、反論する側はどうしても腰が引けてしまう。
我々も、戦後60年も経つと、60年前のように食うや食わずの生活ではないわけで、アメリカに次ぐ世界第2位の経済大国となってみると、心優しき同胞の良心は、アジア諸国の貧困に同情の目が向いてしまうわけである。
自分たちは如何にも豊な生活を満喫していながら、「これで良いだろうか?」という自責の念に駆られて、過去の我々の行為に大いに恥じ入る心境になってくるのである。
そういう心根を持つ人々というのは、いうまでもなく頭脳明晰で学業成績も良く、精神的に素直で、かつ純粋なものだから、自分たちの同胞が過去に犯した罪を何とか償おうと、健気な心境に至るものと考える。
ところが現実の社会というのは昔も今も、つまり60年前も今も、我々同胞の生き様というのは、目の前にぶら下がったにんじんを追いかけることにだけ夢中になっているわけで、そういう純粋な人達から見ると、まるで汚い守銭奴の集まりにしか見えていないものと想像する。
現実の今の日本で、社会生活を営んでいる人々というのは、夢を食って生きている獏ではないわけで、汚い守銭奴のように見えたとしても、そういう人々が一生懸命汗を出して働くことによって我々は戦後の復興をなし、世界第2の経済大国を作り上げてきたわけで、空理空論を弄んで口角泡を飛ばして議論していたとすれば、今日の我々はありえない。
物事を成すのに100%の完成度というものはありえないし、100%の賛同を得るということもありえないわけで、民主主義の基本というのは、最大多数の最大幸福ということに変わりはないわけで、より多くの人が満足すれば少数意見というのは埋没してしかるべきである。
民主主義というのも100%完全に民意を実現するものではない。
民主主義は、ある面では非常に冷酷な一面をもっているということを知らなければならないし、完全無欠ではないということも認識しなければならない。
ところが共産主義者というのは、こういう場面で100%の完全さを要求するわけで、そのことがあくまでもでも理想に過ぎない、ということは彼ら自身もわかっているが、わかっているが故に、執拗にそれを追求し、当局に迫るわけである。
そのことは、どこまで行っても平行線を辿るのみで、ただただ世の中の騒擾、騒乱を撒き散らしたいだけのことである。
私は過去に家永三郎氏を糾弾する文章を認めたことがあるが、家永三郎氏にしても、松井やより氏にしても、気の毒な人たちだと思う。
日本というこの緑豊な大地に生をうけて、自分の同胞に唾を吐き散らしながら、自分の同胞を怨みながら、自分の同胞を愛することなく唾棄し続けて生涯を全うするなどということは、非常に哀れで、悲しい人生ではなかったかと思う。
私が思うには、戦時中のように国家に滅私奉公せよなどとはいうつもりはないが、統治する側の施策が完全無欠な非の打ち所のない立派な施策などということはありえないことで、統治する側もされる側もお互いに人間である以上、多少の齟齬はあるわけで、仮にそうであったとしても、現体制に素直に順応したほうが、精神的にもストレスを感ずることなく、平穏な気持ちで居れるように思う。
「素直に順応」という言い方は、「黙って長いものに巻かれる」という意味ではないが、大勢の人間のうごめいている社会で、自分の思っている通りに行かないので、それを他人の所為にして、同胞を誹謗中傷するような生き様は、人間としての理性に欠け、品位がなく、見苦しい姿だと思う。
何の得にもならない過去の日本、つまり同胞の所業を暴き出して、中国や他のアジアの国々、つまり外国の国益に貢献する必要はないわけで、それを未来への貢献だと思い違いをすること自体、奇麗事で独りよがりな発想だと思う。
人というのはたった一人では生けて行けないわけで、集団を作ってそれを社会と称しているが、その社会とのかかわりの中でしか生きて行けれない存在である。
この世にオギャアと生を受けた一人の赤ん坊は、その社会の中のルールに見守られ、その社会を形成している他の人々の協力なくしては存在しきれないのである。
家族の愛に育まれて成長するということは、他の人々の協力の下でそういう状況が成り立っているわけで、生まれたばかりの赤ん坊は、最初は家族の愛に支えられているが、その家族は社会のルールに囲まれて、そのルールの元で平和な家庭が築かれているのである。
だからこの世に生まれた人というのは、その総てが社会とのかかわりの中で生かされているとみなさなければならない。
ということは、同胞に囲まれ、同胞に支えられ、生を受け、成長し、学問を学び、社会人となるわけで、その集合体が国家というものである。
ところが人間のマスとしての国家も、人間が形作った集合体であってみれば、マスとしての人間の集団そのものが過ちを犯すこともママ在るわけである。
あの戦争中に日本軍が中国人に対して残虐なことをした、といったところで、それは天皇陛下が命令したわけでもなく、東條英機が命令したわけでもなく、松井石根大将が命令したわけでもなく、下級兵士がしたかどうかも定かではないが、仮にそういうことがあったとしても、それは我々の同胞、つまり召集令状で狩り集められた有象無象の日本の大衆の一部のしたことであって、それを日本の主権の元で行われた行為だ、と我々の側が認める筋合いのものではないはずである。
召集令状で狩り集められた有象無象の日本の大衆といったところで、それは我々の父や兄や弟であったわけで、その一部のものが邪な行為をしたといったところで、大半のものは真面目に軍規を守っていたわけで、そういう人達の総てが戦犯といわれては、彼らも立つ瀬がないと思う。
戦争である以上、相手を殺さなければ自分が殺されるわけで、そういう状況下で、無意味な殺生といったところで意味をなさないと思う。
日本があの戦争に足を踏み入れたのは、自存自衛のためだった、ということは、あの戦争で勝利したアメリカでは既に認められているわけで、そのことはあの戦争を肯定するものではないが、家永三郎氏や松井やより氏のいう自虐的な史観は間違っているということに他ならない。
彼らが哀れに見えるのは、自分の同胞を信ずることができず、自分の同胞に唾を引っ掛け続けて生涯を終えたという点に在る。
自分を生んでくれた社会というものを受け入れることができず、自分を育んでくれた社会に常に背を向けて、素直であるべき心を捻じ曲げて生きなければならなかったことである。
体制に順応して生きるも、逆らって生きるも、それは言葉の戦いに尽きる。
ひとつの言葉に如何に相反する意味をもたせるかということに尽きると思う。
家永三郎氏や松井やより氏が自分の属する政府に逆らって、その逆らうことで不平不満分子の中のヒーローとしての地位を獲得し、そういう人々の意見を集約し、そういう人々を集めて自分たちの政府の対抗勢力に仕立て上げようとしているわけである。
この抵抗勢力の言っていることが本当に正しいということになると、そういう勢力に政治を委ねた暁には、我々はアジアの奴隷と化してしまうわけで、そんなことは日本の過半数の人が許すはずがない。
そして外国の勢力も日本がそういう方向に向かうことを警戒し、彼らが思っていることに懐疑の念を持つことは当然である。
ところが今の日本ではそういう行為を思う存分していても、それが許される社会なわけである。
許されているから、ますます増長して反政府、反体制の声は大きくなり、そういう人達にとって自分たちの不具合なことは何でもかんでも政府が悪いという論法が通用し、自民党の人間や、日本の政府の要人は総て悪魔か妖怪かのようにいわれるわけである。
報道を考えるということは非常に難しいことだと思う。
報道しようとする側には何らかの作為があって、その作為を人々に知らしめようというアクテイブな動機があって、それによって報道という行為が成されるが、報道を受け入れる側には、そういう顕著な動機はとぼしい。
きちんとした動機でそういう情報に積極的にアクセスしようと考えている人もいるにはいるが、普通の一般大衆がテレビや新聞を見るときには、そういう積極的な動機は希薄だと思う。
普通の日常生活をしている人達は、ただ無制限に流れてくるテレビのニュースや新聞の記事を無作為に見て、自分の感心があることだけを詳細に掘り下げるという受身の接し方しかしていないと思う。
ニュースを送り出す側は、人が見ようが見まいがそんなことには無頓着に、自分たちの意志で、ニュースを取捨選択し、そして無作為に流し続けていると思う。
「何処何処で火事があった」だとか、「泥棒が入った」という記事ならばそれでもいいが、少なくとも特集記事となると送り手の側にははっきりとした意思があるわけで、「これこれのことを周知せしめよう」という確たる意志に基づいて記事が作られ、放送がされるものと確信している。
作る側にはそういう強固な意思があったとしても、それを受け取る側には「それを知りたい」という気持ちが全くないこともあるわけで、そのときはその記事を飛ばして読むかスイッチを切ればいいわけであるが、送り手の側はそうさせてはならじと、記事に工夫を凝らして出来るだけ多くの人の目にとまるように趣向を凝らす。
その目的のためには人の意表を突くような見出しを掲げるので、見る方は何事かと思ってページを開き、テレビのスイッチを入れてしまう。
こういう特別な記事なり放送番組というのは、特別なだけに、送り手のほうも用意周到に取材し、記事なり番組を作るわけであるが、ここで問題となることが、その取材と編集の兼ね合いである。
あらゆるメデイアで、取材したからといってそれをそのまま生で記事にするわけではない。活字の記事ならば、なんども推敲し、テレビの番組であれば、何度も編集を重ねてひとつの番組を完成させるわけで、当然そこには送り出す側、つまり直接取材した本人ばかりではなく、組織としての確たる意志、作為、狙い、意図があり、それに沿って記事なり番組が作られる。
メデイアガ取材と称して情報を集めるとき、取材される側の立場をどのように考えているかということが大きな問題だと思う。
今回の朝日新聞とNHKの喧嘩でも、朝日新聞は確かにNHKの人間と会って取材をしたにもかかわらず、取材された本人の意思とは全く逆の真意を記事にしていたわけで、これでは取材された本人が怒るのも致し方ない。
取材したという事実だけは確たるものがあったとしても、記事の内容は取材された本人の意思とは無関係に、本人の真意とは逆に、記事を書く側の思い込みで貫かれている。
ということは、記事を作る側が最初から筋書きを作っておいて、それに無理に合わせようと、取材と称して本人に会ってはみたものの、本人は書いた人の意向や趣旨と全く逆の反応をしたので、結果として捏造、歪曲ということになってしまった。
こんなことは報道機関の人間のすることではなく、報道機関の人間でなくとも最初から人間失格である。
人間としての倫理観の欠如そのものである。
この事件の場合、あまりにも汚い捏造の仕方であったので、誹謗中傷された側が黙っておれずこういう喧嘩となったが、取材されて本人の意に反する報道というのはNHKでもしばしば引き越していると思う。
悪意がなくとも、取材された本人が言おうと思っていることと反する結果になるということはしばしばありうると思う。
取材をするときに、その取材の意図を明確に相手に伝えておかないと、こういう意志の齟齬というのは今後ともありうるし、報道機関についてはあらゆるところでおきると思う。報道というものが、取材した事をそのまま報ずるというものであれば、こういう齟齬はありえないが、現実にはそうはいかないわけで、大なり小なり編集作業は介入すると思う。
その編集のされ方が、取材されたものにとっては非常に気になるわけで、それは同時に見るものにとっても頭を働かせねばならないことになる。
結局、報道ということは、発信する側の一人舞台で、発信する側は常に自分の意思というものを前面に出し、自分の伝えたい内容を掲示することができるが、取材された側というのはあくまでもその出汁に過ぎず、刺身の褄に過ぎないわけである。
発信する側の内容を味付けし、発信する側の意図を浮き立たせるだけの要素でしかないわけである。
しかし、だからといって取材したことを逆手にとって、言わないことをさも言ったように、本人の言わんとすることと反対のことを言ったように、内容を捏造するなどということが許されないことはいうまでもない。
報道機関がこういう出鱈目な報道をしている以上、その報道を受け入れる側としては、報道されていることを額面どおり受け入れてはならず、何処まで信ずるかという点に自分の叡智を働かせねばならない。
1月28日テレビで放映されていた国会中継を見ていると、質問する側の人が「新聞の報道によると」、という質問の仕方をしていたが、少なくとも国会議員ともなれば日本で発行されている新聞などを信じてはならないと思う。
しかし、日本の新聞の報ずることも100%が嘘ではないわけで、この嘘と真実を見分けることが非常に難しい。
それかといってテレビの画面でも100%真実とは限らないわけで、ヤラセということもあるわけで、こうなると我々は何を信じていいのか皆目見当がつかない。
事ほど左様に報道ということは難しい問題だと思う。
ただ私が思うに、新聞でもテレビでも報道することが多過ぎていると思う。
報道することが多すぎるわけではなく、紙面と放送時間が多すぎていると思う。
毎日送られてくる朝刊は28ページもあり、テレビというのは1日24時間のうち20時間も放映されているわけで、新聞の紙面もテレビの放映時間もあまりにも多すぎると思う。
新聞など折り返しの4面だけで十分だと思うし、テレビなども午前中4時間、午後8時時間だけの放送で十分だと思う。
毎日の新聞が28面もあるから嘘の記事で紙面を埋めなければならなし、テレビなども1局で20時間も放送しているからくだらない番組を作らねばならないのである。
この事は、報道の自由とか表現の自由という問題とは次元の異なることであり、紙面が多いから、放映時間が長いから、それだけ文化的に高度な社会などとは言い切れない。