李登輝 04・12.28
台湾の元総統李登輝氏が昨日(平成16年12月27日)名古屋空港に降り立った。
この李登輝氏というのは非常に親日家で、日本の台湾統治をとみに好意的に捉えてくれている数少ない人物である。
その彼の来日に対して中華人民共和国の方から非常に強いクレームが日本側に発せられたが、これはまことに由々しき問題だと思う。
中華人民共和国というのは、台湾を自分たちの国の一部だと強固に主張し続けている。我々、日本サイドからすれば、完全に分離した主権国家と見るのが自然の思考のように思える。
「アジアは複雑怪奇だ!」とは戦前からの日本の見方であるが、まさしく複雑怪奇極まりない。
1945年、昭和20年、日本がポツダム宣言を受け入れて、連合軍側に対して降伏文書を調印した時に、連合軍側に名を連ねていたのは、当時の中華民国であったわけで、その当時はこの中華民国が名目上中国大陸、いわゆる本土の正式統治者であり、アメリカを含む連合軍側の正式メンバーであった。
第2次世界大戦が終わった4年後、1949年、昭和24年、中国本土では毛沢東率いる中国共産党軍、中国赤軍が中国本土を席巻したため、蒋介石率いる国民党軍は一旦は日本の統治から解放された台湾に逃れ、台湾の人たちからすれば、日本の統治が終わったら次は中華民国の統治になったということになる。
正式な国家が本土を離れて台湾に政府を移したと云うとき、これをそのまま旧来の主権国家と認めるかどうかということは非常に難しい問題だと思う。
亡命政府として主権があるのかないのか?ひとつの国が二つの国に分裂したと見るべきかどうか?
非常に難しい判断を迫られる。
同じことは朝鮮半島についても言えるわけだが、こちらは日本が抜けた空白を旧ソビエットとアメリカが実効支配したことがそのまま国の分裂ということになり、それがそのまま認知されてしまった。
ところが、中国本土から台湾に逃げた蒋介石を、中華人民共和国軍、中国の赤軍は、つまり毛沢東の軍隊はどうしても攻め切れなかった。
日本が台湾に足掛かりを得ようと試みたのは、沖縄の住民が漂着したときに、台湾の原住民がこれを殺傷したことに対する報復が嚆矢となったが、それは1873年、明治4年のことである。
当時は帝国主義でもあり、植民地主義が蔓延していたころで、それが世界の普遍的な考え方として通っていた時代なわけで、少しでも国を愛する気持ちのある人ならば、領土的野心を満たすことは常識になっていた。
そういう時代に日本は台湾を統一し、原住民を慰撫し、現地の人々に近代国家の何たるかを身を持って教えてきたわけで、その過程においては大小さまざまな試行錯誤、つまり無益と思われる殺傷もあったことは否めない。
日本が原住民を平定し、統治システムを構築した、そういう地に逃げ込んだ蒋介石を、毛沢東の軍隊はどうしても追い討ちをかけきれず、それを完全に淘汰、制圧することが出来なかったということだ。
つまり言い方を変えれば、日本が明治の初期に行なった台湾征伐を、毛沢東はどうしてもし切れなかったということである。
毛沢東の赤軍というのは、それをするだけの能力、特に海軍力が皆無で、資力も、経済力も、なかったがゆえに、あの台湾海峡というものを克服することができなかった。
毛沢東の赤軍には海軍力というものが全くなかったということは、完全に近代国家としては体をなしていないと云うことに他ならない。
中華人民共和国は海峡を隔てた台湾には海軍力がないものだから攻めきれなかったが、その翌年(昭和25年)勃発した朝鮮戦争には、この土地が陸続きの戦場だったものだから、国家誕生直後とはいえ膨大な兵力を出しているわけで、中華人民共和国の国力というのはまさしく人海戦略という言葉の通り、人間の数だけが国力で、それは同時に人間の命の軽視そのものだ。
こういう経緯を踏まえて、戦後の国際連合での安全保障理事会では、その構成メンバーがこの中華民国から中華人民共和国にいつの間(1971年)にか摩り替わってしまったわけで、これは不合理きわまりないと思う。
それは同時に旧ソビエット連邦共和国が解散したら、その席が必然的にロシアになってしまうと云うのもおかしなことといわなければならない。
国際連合というものを、戦後の我々は、何かしら正義の権化のようなものを見る気持ちで期待しているが、こういう国際的な大舞台というのは、それぞれの主権国家が国益を賭けて熾烈な駆け引きをし、生き馬の眼を抜くような殺伐とした場である、ということを忘れているようだ。
国連の安全保障理事会だとて、中華人民共和国(大陸)に押しやられて、今にも消えそうな中華民国(台湾)をフォローするよりも、軍事力は極めて弱いが、膨大な国土と人口を抱えている中華人民共和国のほうを仲間に引き入れておいたほうが何かと都合のいい事は目に見えている。
この国際連合というのも、正義や、筋道論や、倫理がそのまま通るような誠意に満ちた組織ではない。
パワーが優先する組織であることに変わりはない。
台湾の経緯がこうである以上、我々も、鵜の目鷹の目で周囲の情況を観察して、その情況に順応して生きていかねばならないことはある程度は筋が通った見方ではある。
我々、日本の国益という立場から現実を見れば、やはりその市場の大きさとか投資の対象としては、台湾よりは本土のシナ大陸のほうにチャンスが多いという判断は否めない。
別の言葉でいえば、完全なる日和見主義ということであるが、これも国家の存続が架かっているとなれば、そうむげに卑下するわけにもいかない。
だから我々は中国に対して「仲良くやりましょう!」とエールを贈ろうとしているわけであるが、相手があまりにも我々を卑下して細かいことにまで嘴を入れてくると、たまには反撃することも大いに必要だと思う。
細かいことに嘴を入れるというのが、今回の李登輝元台湾総統の来日にクレームを付けたことである。
公職を退き、私人として日本を観光旅行をすると云うのに、いちいち中華人民共和国政府が日本に対して「ビザの発行を止めよ」とクレームを付けるなどということは児戯に等しい。
日本という国を訪問するのに、誰を入れて誰を入れないかということは、完全にその国の主権に関することで、他国が干渉するべきことではないはずである。
これが国際社会の一般的、かつ基本的、普遍的なルールの筈であるが、中国の首脳もそういうことが解っていないわけではないと思う。
解っていて直そういうことをいっているのではないかと思う。
2004年12月22日に、中国の王毅駐日大使が経団連で講演した時のニュース映像を見たが、この時の映像で見る限り、経団連のお歴々の方々は、学校の先生が生徒に道徳を教えていると云う図であった。
王毅駐日大使というのは年恰好からすれば40代の立派な紳士で、それを傾聴している日本側の経営者の面々というのは、彼の父親か祖父に当たるような世代の人達があったが、そういう人たちが神妙な顔つきで傾聴していた。
そういう日本の年配者を前にして、王毅駐日大使は壇上から李登輝のことを糞味噌にこき下ろしていた。
トラブルメーカーだとか、戦争メーカーだとか言ってこき下ろしていたが、日本側の聴衆からは何一つ野次も反論も出ていないが、これは一体どういうことなのであろう。
まるで中学生の優秀な生徒が先生の話を鵜呑みしている図である。
今の日本の企業経営者で経団連に加入している世代といえば、当然60代、70代の人達であろうが、そういう人達が中国の駐日大使とはいえ、青二才の若造のいうことに至極もっともだと云う風に極めて従順、素直に聞き入っている図というのは、我々の感覚からすれば完全におかしいといわなければならない。
その後で、同じ会場で行なわれた町村外務大臣のコメントは「私人として来るのに止める理由はない」というものであったが、この方がよっぽど素直で歯切れが良い。
私が憤懣に思うことは、王毅駐日大使のような若造が、李登輝の悪口を言いたい放題言っているのに、日本の経営者連中、こういう人々はある程度の識者でもあるわけだが、こういう人達が何も反論することなく、まるで中学生の優等生のような態度で聞き入っていることである。
こういうところに我々、日本人が中国人から舐められる要因があるような気がしてならない。
我々の父親や祖父の世代の人達が、中国に対して贖罪の気持ちを持ち続け、それが抜けきれないので、そういう態度に出ざるを得ないというのでは、あまりにも歴史認識が間違っているのではないかと思う。
中国側のいう歴史からすれそうなるが、真実というのは言葉で如何様にも変化してしまうわけで、先方の云う歴史だけを信じると、そういうPTSD(心因性外的ストレス症候群)から抜け切れなくなってしまう。
この真実を言葉で言い包め、歪曲して自分たちの国益につなげる、という行為を我々は特に注意しなければならない。
今日の台湾の悲劇というのは実に此処にあるわけで、日本が敗戦によって台湾から引き上げた後に此処を統治した中華民国としての蒋介石は、日本憎しの怨念があったため、日本の統治手法としてのインフラを全否定してしまったわけである。
そして、本来の中国人としての本性丸出しで、この地を統治しようとしたので、折角近代国家並みに向上した住民の意識のギャップを容認することができず、これを弾圧しようとした。
そのため、日本統治下で意識改革をした人と、中国人の本性丸出しの国民党政府の人々の間に大きな軋轢が生じたのである。
共産中国は、これはこれで台湾海峡を攻めるだけの海軍力がなかったものだから、陸続きの朝鮮には出兵できても、台湾海峡を制圧することが出来なかったわけで、苦肉の策として1国家2制度などとわけのわからない御託を並べているわけである。
この1国家2制度というのは本来は香港の返還のさいに使われた言葉であるが、台湾に限ってもそれは生きていると思う。
中国が、台湾を自分たちの領土の一部だという言い分は、本当は少々おかしいのだけれども、誰もそれを追及しない。
常識的に見れば、中華人民共和国はシナ大陸のほうで、台湾は中華民国として独立した主権国家とみなさなければおかしいと思う。
この問題に決着を付けうるのは国際連合しかないわけだが、その国際連合の安全保障理事会に中華人民共和国が席を得ている現在、その拒否権によって台湾を一主権国家とみなすことは否定され続けるに違いない。
現実に台湾の独立というのは中華人民共和国だけが反対しているわけで、他の国は台湾を主権国家と認めるにいささかも異存はないはずである。
現在の日本は、中国大陸に非常な経済進出をしている。
経団連のメンバー企業も、その恩恵に大いに浴している企業が多いことはいうまでもないので、経団連の会合でいくら王毅駐日大使が言いたい放題のことをいっても、黙って聞くほかなかったのかもしれない。
その背景には、中国人には弱みを見せると相手に対し間髪をいれず付け上がってくる、という中国人の潜在意識としての本質を知らなければならない。
今、中国の政府首脳が日本に対して高飛車な態度に出てくる背景というのは、中国に進出した日本企業を人質にとっているという意識があるわけで、そこに日本の経営者側が中国に対して対等にものの言えないジレンマが潜んでいるように思えてならない。
ところが日本側の経営者には、自分たちの企業が人質にされているという意識がまことに薄く、それよりも前に自分たちの贖罪の気持ちが強く、中国に対しては言うべきことを控えてしまうわけである。
中国の政府首脳が日本に対して高飛車に出るというのは、例の中華思想の発想が根底にあるからに他ならない。
中国に住む人達の中華思想、自分たちが宇宙の中心であるという中華思想、華夷秩序というのは、完全に中国人の潜在意識となっているわけで、中国に住む人々の間にこれが抜けきれないことにはアジアの平和ということはおぼつかない。
中国の悠久の歴史の中で、連綿とこの潜在意識は存在し続けてきたわけで、いくら王朝が変わろうとも、いくら思想・思考が変わろうとも、中国に住む人々には、この意識が抜け切れないのである。
清王朝というのが辛亥革命で中華民国になろうとも、それがまた共産主義中国、中共に、中華人民共和国にかわろうとも、この地に住む人々からこの中華思想、華夷秩序というのはなくならなかったわけである。
彼らの立場から日本というものを眺めてみれば、彼ら自身納得がいかない面、どうにも腑に落ちない部分が多々あろうとは思う。
何故あの小さな島国が清の北洋艦隊を絶滅させれたのか、何故あの小さな島国が清という大国を破ったのか、何故あの小さな島国がロシアという大国に勝てたのか、不思議で不思議でならないという思いがあると思う。
しかし、いくら日本が東太平洋で覇権を振りかざしたところで、しょせんは我々中国の足元にも及ばないはずだ、という優越感を捨てきれずにいるものと私は考える。
彼らは現に第2次世界大戦では勝った側に身を置いているわけで、あの小さな島国の日本が、アジアで覇権を握ったとはいうものの、それはわずか20年足らずの期間にすぎず、悠久の歴史の流れからすれば一瞬の瞬きでしかなかったわけである。
そういう状況から考えてみれば、中国に住む人々が日本を今でも野蛮人とみなしているといってもなんら不思議ではない。
彼らは我々を野蛮人と思っているから、主権国家の主権の何たるかを考えることなく、高飛車に出てくるのだと思う。
我々は、彼らを含む連合軍に戦争で負けたわけで、いくら旧日本軍が中国の地に侵攻したところで、それは点と線だけであって、トータルとしての結果が負けであれば、彼ら中国人にしてみれば、「日本人の馬鹿野朗、ざまあ見ろ」ということになると思う。
ここで話し変わるが、私はこの一年間、日本企業の経営者の不祥事を言葉きつく糾弾して来た。
高等教育を受けた企業経営者でありながら、ミニマムのモラルを欠くとは何事か、という論調で厳しく糾弾してきたが、これは中国の政府首脳についても同じことが言えるようだ。
現在の中国の政府首脳を勤めるほどの人は、共産主義世界の中とはいえ、それなりの高等教育を受けて、その結果として現在の地位を得ているものと考える。
毛沢東の長征の途中で、山の中やひなびた村の中で拾われて高位高官を得たというような無秩序な時代はとおの昔に卒業して、きちんとした教育を受けて育った人達だと思う。
ところが、そういう教育を受けた人間にもかかわらず、外交面でのこの有態というのはどういうふうに説明できるのであろう。
まさに主権国家の主権の何たるかがさっぱり判っていない人の言辞ではないか。
これで教養ある人間といえるであろうか。
これで国際常識のある人間といえるであろうか。
彼らがこういう事をいうのは、相手がたまたま日本だから言うのであって、これがアメリカやフランスやイギリスであったとすれば、決してこういうことはいわないと思う。
ここで私は、中国人は紅毛碧眼の西洋人には卑屈な態度を取るというのである。
ただ相手が日本人だからこそ、頭ごなしに高飛車に出るのであって、これは紛れもなくジャパン・パッシングに他ならない。
彼ら中国人も、共産主義国家になって約50年、半世紀を迎えようとしているが、そろそろ破綻をきたしつつあるように見える。
共産主義国家というものは、貧乏で遅れた国が近代化する過程では多少とも効果があるが、共産主義という管理体制のまま、何年も繁栄を続けるということはありえない。
今まで遅れていた国が、共産主義国家としてある程度近代化を成し遂げると、近代化をなしたことにより豊になった国民は、その次には必ず自由主義を目指すようになるわけで、共産主義というものは時代について行けなくなる。
我々の経験した明治維新というのも完全なる革命であったが、革命を経て近代化すれば、人々は必ず個人の欲望を満たそうとする欲求に駆られて、自由主義を謳歌する方向に向かう。
そして欲望を満たそうとする欲求が競争を生み、それがまた生活の向上に拍車をかけるわけで、共産主義というものは、人々が未開で、意識改革が遅れているときには近代化を図るかなり有効な手段となりうるが、人々が豊になり、欲求が激しくなると機能しなくなる。
今の中国はまだその過渡期で、中国政府の指令は冷酷なまでに出先を拘束しているので、そのために王毅駐日大使の発言ということになるのだろうけれども、あれは完全に中国政府の指令のままの言辞となっている。
出先が本国の意向を無視して発言するということは如何なる組織の中でも許されることではないので、それは致し方ないが、中国首脳の李登輝に対する考え方はまさに噴飯ものである。
中国人の概念でいう「大人」というは完全に李登輝のほうにその言葉が当てはまり、現在の中国の首脳陣の日本に対する発言というのは明らかに「小人」の言葉でしかない。
政治、特に外交というのは、ある意味で言葉の戦争でもあるわけで、その意味からしても中国から舐められている、というのは完全に言葉の戦争でも負けているということである。
そういう点からしても町村外相のように正面からはっきりと相手に対して「断る理由がないからビザを発給した」というべきで、その意味ではよくやったと思う。
ここで問題にすべきことは、中国側は外交的テクニックとして、常に日本側に対して頭ごなしに、高飛車な態度でものをいうということである。
その遠因は今まで私が述べてきたように、中国人の潜在意識としての中華思想であろうと思うが、そのようなことがこの21世紀では世界の常識にはなりえない、ということが彼らには判らないという点である。
世界の進歩というのは日進月歩で動いているわけで、18世紀とか19世紀の覇権主義的なものの考え方ではこの21世紀に生き残れない、ということが中国の首脳者にわかっているかどうかということである。
21世紀の地球では、主権国家が足並みをそろえることが重要なわけで、その中でただ一国だけが唯我独尊的に我が道を行くでは、全体が上手く機能しない。
全体が上手く行こうが行くまいが私は知らない、という無責任な態度をとるということは許されないのだが、だからといって原爆や水爆でその国を抹消することも出来ないわけで、一国だけが足並みを揃えずわがままを通せば、それだけ混乱が長引くわけである。
中国の場合、日本に対してだけ異常な態度に出るわけで、紅毛碧眼の白人に対しては大いなるコンプレックスを持っているので、折れるべきところは素直に折れ、事は案外スムーズに運ぶが、それに日本が一枚絡むと、もう自制心を失って、ただただ威張りたがるわけである。
だから李登輝の訪日のビザ発給に対するクレームでも、そのことが世界的常識から見て常軌を逸していることを承知で、日本にだけ言って来ている可能性もある。
彼らの立場から見て、日本がアメリカにつぐ経済大国、世界で2番目の経済大国であることが心底許し難いことと思っているに違いない。
日本のような小さな国が、世界第2位の経済大国だ、ということが心から我慢ならないことだと思っているものと想像する。
それでいて軍事力というものは持たず、持っていてもそれをまったく使う気配もなく、アメリカの傘の下に逃げ込んでおきながら、経済力では中国をもしのぐという点で、彼らの視点から見ると、まことに面白くない国に映っているものと想像する。
面白くない国であっても、軍事力というものを全く頼りにしないということを憲法で宣言している以上、日本に対しては何をどのように言ってもしっぺ返しは全くないわけで、これほど苛めやすい国もまたとないことになる。
かっての大日本帝国の亡霊におびえることは全くないわけで、これほど苛めやすい対象もない。
この恫喝外交をいくらかでもセーブしようという気があるとすれば、それは国際常識に則った倫理観・モラルしかないわけで、今の中国の指導部というのには、これが微塵も感じられないところに我々は遺憾の意を表せずにはおれない。
弱いものを苛めるというのは、明らかに人間の本来の生理に忠実な行為であり、人間の人間らしい自然の感情であろうが、人間が自然の摂理のままに行動するということは、逆の視点に立てば野蛮ということになる。
中国は、地勢的な条件を考えれば悠にアメリカをしのぐ国力を持ちえる国であるにもかかわらず、東海の小さな島の日本に対して、昔も今も日本を野蛮な国と思い込み、自分の下においておきたいと思う覇権主義から抜け切れていないところに、地球規模の視点から見て絶対的野蛮さを持ち続けている国だといえる。
台湾の問題についても、日本に対するのと全く同じ精神構造を持ち続け、それは今述べてきたように地球規模の絶対的野蛮さの現われだと思う。
過去の歴史を見ても、大陸にある統治者として台湾を重視したことは一度もないわけで、日本が台湾の生蕃、つまり現地の野蛮人、未開人を平定するまで、つまり台湾征伐で彼の地を平定するまで、中国側からすれば「化外の地」で、統治することすら自分たちで放棄してきた土地であったではないか。
その地に国民党の蒋介石が渡り住んでしまったが、蒋介石は日本がインフラ整備した後の台湾を横取りしてしまったわけで、彼はその前の日本統治がなければそこに渡ることさえ出来なかったに違いない。
しかし、蒋介石の国民党というのは、あくまでも中国大陸の人間の発想と思考を持ち続けていたわけで、日本の統治システムとは相容れなかったため、台湾の人々は二重の苦難を強いられたわけである。
台湾は1945年、昭和20年、日本の敗戦と同時に独立をすべきであった。
ところがその時の中国首脳、指導者というのは名目上、蒋介石の中華民国であったわけで、中国本土で大日本帝国が点と線だけとはいえ根を張っていたときは、国共合作で国民党も中国共産党も共に日本を敵として戦っていたが、その後中国共産党が中国本土を席巻してしまうと、蒋介石が台湾に逃げ込んだものだから、ことが一層複雑になってきた。
今の中国、今の中国共産党の首脳が「台湾は中国領土の一部だ!」という論拠は、極めて共産主義的発想でもって覇権主義そのものである。
21世紀において、覇権主義を振りかざすことそのものが既に野蛮な行為といわなければならない。
ところが政治の現場に直面している人々というのは、はたから見ると野蛮と思われるような行為でも、自分たちではそう感じていないわけで、立派な文言を並べてさも整合性のある論理を展開しがちであるが、基本的にこの21世紀において領土拡張を望むということは野蛮という言葉でしか表現の仕様がない。
ところが、政治とか外交の本質というのは、立派な文言を並べて整合性のある論理を展開するところにあるわけで、過去の我々の場合、これが未熟だったが故に、すぐに軍事力に頼ろうとしたから、それが今にまで尾を引いているのである。
政治とか外交というのは、徹底的に恫喝と騙し以外の何もでもないわけで、それを相手がそう思わないように、如何に上手に奇麗な言葉で表現し、立派な言葉を使うかという点に尽きると思う。
アジア諸国が日本を糾弾するのによく使うフレーズに「歴史認識が足りない!」というものがあるが、これは一体どういうことを言っているのか我々には意味不可解だけれど、我々の側はなんとなく「自分たちが悪いことをしたのではないか?」という暗示に架かってしまうではないか。
中国が今「台湾は我々の領土の不可分の領域だ!」というと、我々の受ける心象としては、元々中国の領土を日本が占領統治したという印象を受ける。
ところがあの地は中国側からすれば「化外の地」で、自分たちの方で統治することを放棄した土地であるにもかかわらず、こういう言い方をされると、我々が「人の土地と取ってしまった」という印象を受ける。
そこにもってきて我々の同邦の中から、奇麗事で自分を飾り立てようとするアホがいるものだから、先方の言い分を真にうける馬鹿まで出てくるわけで、言葉の戦いでは我々の側は一歩引いてしまう結果になる。
我々、日本人から中国大陸に住む人々を見ると、やはり我々の文化の先輩という意識が抜け切れない面がある。
確かに文化の流れとしては、我々の上流に位置しているかもしれないが、その文化を受け入れている人々の質が根本的に違っているのではないかと思う。
12月29日(平成16年)の中日新聞には、今の中国でも中国の共通語が通用するのは全体の53%という数字が出ていた。
この報道を見ても、我々は世界地図で中国大陸を眺めて、その全体が日本と同じように近代化された土地だ、と思ってはならないということがよくわかって、昔、台湾が「化外の地」であったのと同様に、今の中国には未だに人跡未踏に近い地域があちらこちらにあるということだと思う。
今日、中国は改革開放で近代化が促進されたと報道されているが、これも海に近いところだけで、一歩内陸に入れば、まるで未開な土地ばかりということだと思う。
中国は大陸国家で、日本と違って、総てのものが自給自足できる自己完結型の国家をなしうる条件を兼ね備えている。
そういう国が、何も太平洋の東に浮かぶ小さな国にチョッカイを出さなくても済みそうに思うが、これが国際政治とか、外交という舞台になると、やはり個人の面子と同じで、国の面子というものが大きく前面に立ちはだかるのであろう。
この面子というのは、中国以外の他国に対する面子というよりも、むしろ中国の内側、つまり中国の中に住んでいる中国人に対する面子ということがいえる。
そのために中国は台湾を「自分たちの領土の一部だ!」と、国内向けに言い続けているに違いなく、中国の首脳部は自国民のために、台湾の独立を阻止しようとしているのではないかと思うが、この考え方、この発想そのものが既に民主化に背を向けるもので、世界の良識はこぞって中国のこういう態度を改めさせなければならないと思う。
ところが世界は、これまたそれぞれに国益を考えているわけで、今のアメリカを始め、イギリス、フランス、ドイツ、その他もろもろの国は、それぞれの国ごとに、それぞれの国益を勘案して、中国に何らかのかかわりを持ちたいと思っているわけである。
それは安い人件費を背景とするもの作りの工場であったり、投資先であったり、消費地であったり、輸出先であったり、輸入先であったりしているわけで、中国とのかかわりの中で何らかの利益を得ようとしている。
この係わり合いの中で、中国における係わり合いと、台湾との係わり合いを天秤にかけて、よりウエイトの重いほうに、自国の国益上有利なほうに振り子が振れるわけで、台湾の国際的な位置というのは微妙なところにある。
国際的な世界の良識というのも、絶対的な「善」で動いているわけではなく、国益という人間の生存に大きく関わる要因が、国益と「絶対善」のバランスで測られるわけで、その結果として共産中国が国民党の中華民国を差し置いて国際連合の安全保障理事会のメンバーになりえたのであろう。
今日、我々は蒋介石の国民党という言葉を何のけれんもなく素直に使っているが、この国民党というのも非常に中国的な潜在意識の抜け切れていない野蛮な政党であった、ということを知らなければならない。
その野蛮さは蒋介石が台湾に逃れてきたときに見事に露呈されたわけで、今日、我々はこれらの人々から糾弾されると、なんとなく我々の先輩諸氏が悪いことをしたと思い込んでしまいそうであるが、その悪いことの大部分は、彼らが彼らの同胞にしたことが大部分である、ということを知らなければならない。
つまり、悪いことをした下手人を摩り替えているわけで、自分たちが悪いことをしておきながら、それを我々の同胞つまり日本人がしたというふうに言い繕っているのである。
これが歴史の捏造というもので、真実を言葉で包めて、相手を誹謗中傷する行為だ。
このことは台湾の良識のある人々はよく知っているが、如何せん、その後台湾を統治した人達が国民党、つまり生粋の中国人、漢民族なるがゆえに、台湾の人々の良識が素直に通らなかったから、悪いことをしたのは日本人である、という定説が出来てしまったのである。
戦後、日本とアジアの諸国の間で認識の相違というか、物事の価値観の断層が出来てしまったことが、お互いの意志の疎通を疎外していると思う。
我々、普通の人間が普通に使っている「良い事」とか「悪い事」という概念が、それぞれの国家なり、民族なり、地域で、はたまた宗教等によってそれぞれ違った価値観を備えてしまっているので、我々が「良い事」だと思ってしたことでも字義通りにとおらない不合理がある。
それはまた時代によってもその価値観は変動してしまうわけで、昔良かったことでも今はいけないとか、価値観の変動というのは非常に厄介なことである。
中国の人々が日本を非難中傷するのも、この価値観の相違に起因しているわけで、それは二重三重に潜在意識に澱となって沈殿、蓄積していて、そういう深層心理の不具合、不合理というものは本来教育でもって克服すべき問題であろうが、教育というのはそういう効果を十分に発揮できないでいる。
民族の潜在意識というのは教育では克服できないもののようだ。
これは我々同邦の社会的地位のある人の犯罪においても同じ事が言えているわけで、教育というものは人間の深層心理を浄化する作用というものを持ち合わせていない。
そこにもってきて、人々の民主化というムーブメントは言葉による戦いを如何に制するかという事でもあり、一枚の硬貨の裏表を如何に言い包めるかということでもある。
仮に、川に橋をかけようとする際に、如何に人々を説得するかということは、ひとえに言葉の戦争であり、言葉による騙し合いなわけで、「川に橋をかければ人々は楽になる、だから橋をかけるのだ」という論法は、橋をかけたいと思っている側の思い込みに過ぎない。
橋を掛ける事で不利益をこうむる人も当然いるわけで、一つの橋をかけるについても賛否両論というのはついてまわる。
それを全員の納得を得てから工事にかかるでは、何時までたっても橋はかからないわけで、ある程度話し合った時点で採決を取り、賛成者が過半数を占めればそれは全員の合意とみなす、というのが民主主義の基本的ルールとなっている。
「全員の納得」というのは言葉のアヤで、ここで「全員」という字句を持ち出すということは、大人気ない発想であり、行為であるが、正論であるが故に反駁しにくい。
そしてそれを逆手にとって、相手を非民主的と決め付け、多数の人がしてもらいたいと思っていることに反対し、そのことに納得をしない人がいるわけで、そういう人は結果的に民主主義というものを全否定していることになるのだが、その過程で言葉による自己弁護は実にすさまじいものがある。
相手が民主主義を頭から否定しているので、「そういう人は抹殺してしまえ」というわけにはいかず、しかたなく生かしておくと、その体制批判はますます増長してくるわけで、ここにも価値観の相違という人類が共通に抱える不合理が顔を覗かせるということになる。
現在、アジアの人々が日本に対して「歴史の認識が足りない!」という言い分も、こういう範疇のことだと思うが、硬貨に裏表があるように、歴史にも裏表があり、光と影があるわけで、その裏の部分、影の部分のみを取り出して、過去の日本の行為全部を否定することは極めて遺憾なことだと思う。
過去の日本の行為、業績を全否定するというのも極めて政治的な行為で、政治・外交というのは武力で戦う前に、言葉の戦いがあるわけで、日本が上手に台湾を統治していたところに、日本の敗戦という外因で中華民国の国民党軍が台湾を統治し始めたとき、彼らは中国人の潜在意識のまま台湾を統治しようとしたため、そこでは当然過去の日本の統治システムに慣れ親しんだ人との軋轢が生じ、それを押さえ込むためには、日本が築いた統治システムというものを全否定しなければならなかったわけである。
そのことは日本の統治に慣れ親しんだ人々たちにまたまた混乱をもたらしたことはいうまでもない。
そして、本土からやってきた中国軍、つまり蒋介石の国民党軍は、以前の統治と自分たちの統治を較べると、日本統治のほうが良かった、という結果が出たものだから、そう考えている人達を弾圧せざるを得なかった。
蒋介石率いる国民党軍というのは、中国の民としての潜在意識そのままの体質を持っていたわけで、その体質のまま台湾を統治しようとしたので、そこに現出したのは中国大陸、本土の人間の確執がそのまま展開したということになる。
そのことは無益な殺傷の連続ということで、「言う事を聞かないものは殺す」という、人間が本質的に持っている普遍性がモロに出たわけで、その野蛮さを克服するには理性でしかない。
人間の理性というのは、自分の頭で考えるということに他ならず、「人がやっているから我もやる」では人間の持つ普遍的な思考から逸脱することは出来ない。
「人がやっているから我もやる」ということを別の言葉で言い表せば伝統とか、慣習とか、因習という言葉になるが、人々の国民性とか民族性というのは、こういうもので成り立っているわけで、中国人の人治主義というのも、この伝統の上に存在し続けたといえる。
ここで意識改革をして中華思想というものを払拭しないことには、中国人の民主化ということはありえない。
中国人の潜在意識としての根本には、人治主義というものがあって、これは端的に言えばある種の独裁主義で、統治するものの都合で物事をどういうふうにでも解釈し、自分の好きなように物事を処理するというものである。
普通我々の観念からすれば、物事は法律によって規制され、法によって施行され、違反者は法によって裁かれるという認識であるが、それが人治主義では何事も統治者の感情のまま、意志のまま、思いつきばったりで、統治者の思し召し、温情、恩恵によってことが決するというものである。
法よりも統治者の個人的な感情が優先するわけで、法があっても無きが如く機能しないということになり、それは統治者の思いのままに、勝手気ままな振る舞いに徹するということである。
これでは近代化された社会が機能しないことは火を見るより明らかなわけで、贈賄、収賄、汚職、買官等がはびこって法律があってもなきが如くにならざるを得ない。
日本の統治で近代意識に目覚めた台湾に、中国人の潜在意識そのままの蒋介石が乗り込んできても、うまく機能しないのは当然のことで、自分の統治が上手く行かないとすぐ弾圧に走ったわけである。
弾圧で台湾の親日派を押さえつけなければ、蒋介石は自分の統治を推し進めることが出来なかった、ということである。
人々を上から弾圧しなければ統治できない、ということは、その統治そのものが意味を成していないということだ。
当然、民主的とはいえず、前近代的な統治システムということになり、時代の趨勢に押されていずれは消え去る運命であるが、その波に翻弄されるのは民衆の側であることは論を待たない。
ところがそういう環境で、つまり民衆から好かれず、嫌われていた蒋介石としては、それだからこそ自分の正当性を打ち立てなければならず、その手段として排日、反日の運動を大々的に展開しなければならなったのである。
蒋介石としては、日本が過去に築き上げた社会的インフラをそのまま継承して、それに接木をして伸ばせば良かったが、そこで問題となってくるのが彼の基盤をつくっている国民党というものの資質である。
この国民党こそ中国人の潜在意識をそのまま具現化した組織、団体であったわけで、この構成員が人治主義のままで近代的な思考というものを身につけていなかったため、その後の政治的混乱を招いたものと思う。
国民党の総裁としての蒋介石は、排日、反日であったけれども、台湾の人々の中には日本の統治を歓迎し、日本が台湾に貢献してくれてことを心から歓迎する親日派もいたのである。
その代表が李登輝だと思う。
だからこそ今日の中華人民共和国のほうとしては彼の存在が目の上のたんこぶとなっているのである。
蒋介石が台湾に逃げ込んで来れたというのも、その前段階に、日本の統治があって、台湾の生蕃や、高砂族というような未開な民族が平定されていたからこそ、来れたのであって、この台湾の平定ということは、彼ら漢民族、中国の本土の人達ではしえなかったことではないのか。
自分たちは「化外の地」として、野蛮な未開地として放置していたわけで、そこを曲がりなりにも近代化したのは我々日本人ではなかったのかと言いたい。
これが歴史の真実であるが、国益という観点からすれば歴史を捏造することも国益に繋がるわけで、自分たちの政治体制を維持するためには黒を白とも言わなければならないし、赤を黒とも言わねばならず、それが国益に直結しているわけである。
相手が、黒を白だといったとき、それをそのまま信じた振りをするか、それとも真っ正直に反論するかも極めて密度の高い政治的態度と言わなければならない。
その対応には国益というものを挟んで相対的にその損得を考えなければならないと思う。
捏造された歴史感を、そのまま鵜呑みにした振りをして、相手と有利に商売をするのも国益に繋がるし、商売を犠牲にしてでも、真実を突きつけるというのも国益であり、民族の誇りである以上、どちらの道を選択するかは非常に微妙な政治的課題だと思う。
対中国に関して決して間違えてはならないことは、相手は、隙を見せたら必ず付け上がってくるということである。
捏造された歴史を突きつけられて、それを信じた振りをするということは至難のことだと思う。
我々のように淡白な精神構造の民族にとっては、それはとうてい真似のできることではない。
中国のような大陸国家では、悠久の歴史の中で他民族からの圧迫、軋轢、弾圧、抑圧というものをなんども経験しているわけで、その過程でそういう環境下で如何に生き抜くか、ということが無意識のうちに刷り込まれているが、その裏返しの現象として、自分達が強い立場になって抑圧する側になったときは、相手を如何に屈服させ、そこから如何なるものを収奪するか、如何に利益を引き出すかということにも習熟しているわけである。
唐や隋の時代ならいざ知らず、今日の中国と商売をして我々が得する場面というのは、ただただ人件費だけで、後はすべからく日本側の持ち出しとなり、向こうに作った設備はそのまま相手の人質になってしまう、ということを考えなければならないと思う。
彼らから見れば、昔も今も、我々は野蛮人なわけで、野蛮人である以上、彼らの論理ではどんな不具合、不条理、不合理を突きつけても、彼らは良心の呵責を感じることがないわけである。
当然、彼らは彼らの価値観で彼らの行動を律しているわけで、彼らの行動規範というのは、我々のものとは根底から違っていると考えなければならない。
この彼らの行動規範というものが実は前近代的なものであり、非民主的なものであり、中華思想に依拠しているわけで、そこが改まらない限り、彼らが民主的な国家を作るということは今後ともありえないと思う。
彼らが中国本土に住み続けているかぎり、そこでは中華思想、華夷秩序が彼らの行動規範として生き続けるだろうが、世界的規模で中国人が分散した状況におかれると、彼らは自分たちゲットーを作り、元々いる住民と混ざり合おうとはしないわけである。
それが極端に嵩じてくると、ゲットーがアメーバー状に肥大して華僑という集団となり、他の集団や、他の民族や、もともとの住民たちを圧迫するようになる。
彼らの世界が人治主義で貫かれているということは、突き詰めれば究極の個人主義というわけである。
個人主義だから法の概念をも無視し、法があろうがなかろうが、自分だけが良ければそれでいいわけだから、社会の基盤そのものが全く機能しないということになる。
そして究極の個人主義だから、相手の言い分を聞く、相手の言うことに耳を傾ける、という態度は最初からないわけで、自分の方の論理は整合性があろうがなかろうが声高に叫ぶ。
それで相手がそれを聞き入れれば儲けもので、聞かなくても駄目モト、駄目で元々という感じで済ましているのである。
年が明けてしまってからでは少々古い話題になってしまったが、去年、平成16年11月26日の中日新聞が報ずるところによると、中国は南京大虐殺記念館をユネスコの世界遺産として登録申請するための構想を持っているという記事が出ていた。
中国や韓国では旧日本軍を糾弾するあまり、捏造した事実を若い世代向けに誇示する傾向がある。
南京大虐殺記念館なるものを広島の原爆ドームやアウシュビッツの強制収用所と同列にしているところに彼らの認識が如何に欺瞞に満ちているかということをあらわしている。
彼らは日本人のしたことを一から十まで糾弾しようとしているが、事実の捏造を国家規模で行なうということは、人間としての信義にも劣ることだと思う。
南京大虐殺と原爆投下やアウシュビッツの強制収用と同列の論じるということは事実を全く無視した捏造以外のなにものでもない。
無益な殺生が人道に反することはいうまでもないが、彼ら自身の行なった無益な殺生というのは棚に上げて、ただただ日本人が行なったというだけの理由で、それを誇大に誹謗中傷するということは人間としての仁義に欠け、徳というものを全否定し、同時に、自らの人間の品位をも否定するものである。
そもそも南京大虐殺そのものの定義が定まっていないにも関わらず、それを既定事実として語るということ自体、良識ある人間のすべきことではない。
定義というよりも、事実の精査も十分でないにもかかわらず、それを恰も我々日本人の行為と決め付けること自体、歴史の捏造そのものであるが、彼ら中国人にはそういう物事の真実を見極め、それによって事の良し悪しを決定するという習慣そのものが存在していない。
あの当時(昭和12年12月)、南京城の中には誰に殺されたかもわからない死体がゴロゴロしていたことは想像しうるが、この「誰に殺されたかわからない」というところが問題の争点にもかかわらず、結果として死体がごろごろあったので、それを全部日本軍が殺したと短絡的に結論付けたのが今日言われている南京大虐殺という問題だと思う。
この彼らの論調は総てが自分中心で、自分に都合の悪いことは相手が邪悪だ、という発想、突き詰めれば中華思想、華夷秩序の発想から一歩も進歩していないということだ。人間の営みというのは基本的には力で維持されている。
相手に言う事を聞かせるためには,つまり相手にこちらの言い分を飲ませるためには、原始社会では力、もっと砕いて言えば軍事力でしかそれが出来ない。
軍事力でそれが出来ないときには、言葉の戦いでその目的を果たそうとするのだけれど、言葉の戦いだけではその効果がおぼつかないことはいうまでもない。
最近の中国は、この言葉の戦いで日本に挑んできているわけで、それは20世紀の後半から21世紀という時代の世界情勢が、そう安易に軍事力の使用を容認しないから、言葉の戦いで、口角泡を飛ばして議論するという形態になりつつあるが、日本はそれに対して正面から立ち向かうことを忌避している節がある。
その根底には中国というのが今や日本の商売の得意先、つまり経済の市場としても、投資先としても、十分に魅力ある存在になりつつあるので、それを失いたくないという下心があるためだと思う。
だからいくら相手が歴史を捏造して、全くの架空話を持ち出しても、その真偽を問いただすという努力を避けている。
私は南京大虐殺を全く否定するものではない。
旧日本軍が南京に凱旋したとき、少なからぬ無益な殺傷があったことは想像できる。
ならば、敵に都市を占領さたれとき、負けた側は如何なる対応を取るか、その時の状況を我々の対応と較べてみると、我々の敗北に際して勝者のアメリカ軍・マッカアサー元帥が厚木に降り立ち、横浜に進駐し、その後東京に進駐した時の我々、敗戦国側の対応と較べて、その相違をどう説明するのかといいたい。
あの事件の中国側の対応は、南京市長をはじめ中国側の官僚、軍隊が日本の侵攻を前にして蜘蛛の子を散らすように四散した後の情況に、誰が殺しかもわからない死体がゴロゴロ転がっていた、ということであって見れば、それに関連して多少の無益な殺生があったとしても不思議ではない。
だから南京で無益な殺生が全く無かったとは言えないだろうが、その無益な殺生の総てを日本軍がしたという論拠はまことに乏しいといわなければならない。
その虐殺の大部分は、中国人が中国人を殺したにもかかわらず、それを総て日本の所為にしたという部分がかなりあると思う。
当時の中国の兵隊というのは特に質が悪く、戦闘が不利になると、自分たちの同胞としての市民や農民から略奪し、暴行をほしいままにし、極悪非道の振る舞いをして逃亡するのが常で、昔から一般市民からは嫌われていた。
国民党軍もそういう人の集まりだったとみなさなければならない。
当時の中国人にとっては人の命などゴミくずのようなもので、人の形をした畜生以外のなにものでもなかったわけで、それがあの時代の(昭和12年ころ)、あの場所(南京)での価値憾であったということを思い起こさねばならない。
今日の戦後世代の我々の価値観と同じ価値観で、当時のあの場所で起こったことを評価してはならないし、それはシナ大陸全域において当時の中国人の普遍的な価値観であったわけで、それを日本憎しという政治的見解にすり替えてはならないと思う。
当時の中国の状況を考えてみれば、外国人の租界あり、国民党の軍隊とそのスパイがおり、共産主義者の軍隊とその同調者がおり、共産主義者のスパイとその巣窟があり、そこにもってきて軍閥があり、盗賊、匪賊、馬賊、共匪、兵匪、官匪等々様々な言葉で形容されているが、まるで原始社会そのものではないか。
誰が中国側の官僚で、誰が国民党軍の兵士であり、誰が共産主義者で、誰が一般市民で、誰が犯罪者なのかさっぱりわからず渾然一体となっていたに違いない。
主権国家の体をなしていなかったではないか。
当時の南京は有象無象の人間の集まった場所というだけで、都市としての機能というよりも、人間社会そのものが成り立っていなかったではないか。
当時はそういう状況であったにもかかわらず、それを今日の価値観で語るものだから、彼ら中国人は我々を極悪非道な民族だと声高に叫ぶわけである。
自分たちの恥、つまり自分たちが彼らの同胞を際限も無く殺傷した、という彼らの恥を覆い隠すために,我々日本というものスケープゴートに仕立て上げ、それを声高に叫んでいる構図である。
そして言葉で言い立てるだけでは物足らず、南京大虐殺博物館なるものまで作って、それで反日、排日運動の梃子にしようとしているのである。
この博物館などはしょせんユニバーサル・スタジオ・ジャパンのパビリオン程度だと思うが、日本軍がしただろう、という残虐行為をマネキンやその他のデイスプレーを使って展示したものと想像するが、これこそ歴史の捏造以外のなにものでもない。
広島の原爆ドームやアウシュビッツの強制収用所とは根本的に違うわけで、そういう歴史の証拠として後世に残すとすれば、むしろ日清戦争で登場した北洋艦隊の「定遠」という軍艦などならばまだ我々は納得がいく。
仮に、我々が東京空襲や名古屋空襲で被害にあった様をいくら屋内展示場で展示して、それによって反米教育をしたところで、我々にとっては意味を成さないのと同じで、こんな程度の反日教育で効果の出るうちは、中国人の本質そのものが疑わしいということの証明にしかならない。
彼ら中国人は、彼らの土地で日本と戦う前に、中国人同士で戦っていたわけで、彼らの行なった辛亥革命の犠牲者、軍閥同志の死闘、長征の犠牲者、国共内戦の犠牲者、その後の文化大革命の犠牲者をどう説明するのか聞いてみたいものだ。
彼らは自分たち同志の殺し合いは容認し、その歴史的事実を黙殺しているわけである。
それは自分たちの歴史なのだから、そこではいくら人が殺されようが一向に構わないわけだが、日本人から殺されると中華思想、華夷秩序ががたがたと音を立てて崩れるような感じを持ち、身の毛もよだつ思い駆られるというわけだ。
その思いが嵩じて、彼らの恥辱の象徴として南京大虐殺博物館というものの出現となっており、それを通じて彼らの後世を託す若者に反日を植え付けようとしているのであろう。問題は、そんなものをユネスコの世界遺産に申請して、地球規模で日本を未来永劫叩きのめそうとする発想にある。
我々は明治維新で富国強兵をはかり、それに成功して台湾を統治し、朝鮮半島を併合し、シナ大陸に足場を築こうとして結果的にその版図拡大は挫折した。
その挫折の直接的な原因は、アメリカと戦ったことにあったが、その結果としてそれ以前に獲得した総てのものを失ったと思い込みがちであるが、この情況の流れには案外中国とのかかわりがその底流にあったのかもしれない、と思えるようになった。
というのも、日本をアメリカと戦わせるように仕向けたのは、案外中国であったのかもしれない。
大陸国家、つまりロシアとかシナという国家ないしは民族というべきか、そういうところでは周辺部から攻められたとき、奥に奥にと逃げ込めば、大抵の場合攻め入るほうの補給線が延びきってしまって、最終的には攻め切れなくなってしまう。
ロシアを攻めたナポレン然り、ヒットラー然り、そして日本もこの罠に見事に嵌ったような気がしてならない。
日本国が満州国を作ったとき、リットン調査団というのが来て、満州事変が本当に我々の自存自衛の戦闘であったかどうか、ということを調査したが、この時このリットン調査団を丸め込んだのは案外中国側の策謀であったのかもしれない。
我々は国民的かつ民族的に、非常に淡白な国民性、民族性を持っており、正直にものを言ってしまうが、我々以外の民族では、こういう場合に権謀術策を弄し、ブラフを掛けたり、裏取引をしたり、密約をしたりという小細工が上手なわけで、それを国益を背景にそういう術に長けているわけで、アメリカに経済封鎖をさせたり、国際連盟で日本の主張を無視したり、という根回しが案外中国主導で行なわれていたのかもしれない。
我々は中国と戦っているので、この戦争は日中間の問題だと思い込みがちであるが、相手は全世界に向けて日本の非を鼓舞宣伝に努めていたわけで、それによって世界の国々は、日本につくか中国につくか、それぞれに国益に図って、結果として連合軍というものが形成されたのではないかと思う。
その時に中国の首脳、一応の主権を代表するものとしては、蒋介石がいたわけで、彼は中国本土では一介の軍閥に過ぎなかったが、彼のネットワークというのは、全世界的で繋がっていたと見るべきだと思う。
その蒋介石が台湾に逃げた時点では、もう彼のネットワークは神通力を失っていたわけで、その結果として世界から見捨てられたと見るべきであろう。
しかし、日中戦争の間は、彼のネットワークは立派に生きて、その神通力は世界的に機能していたが、その神通力が通用しなかった地が、他ならぬ彼の地盤の中国本土であった。
このように、中国人というのは日本を叩くためならば見栄も外聞もかなぐり捨ててでも日本を貶めたいと思っているわけで、それは日本が夷荻で、彼らの視点から見ると野蛮人だから、という思い込みに他ならない。
我々、日本政府としては、こういう報道がなされた場合、その真偽を即刻確かめ、事実だとすれば、そういう国家的規模の誹謗中傷には厳重に抗議すべきだと思う。
外交というのは言葉の戦いということを寸鉄も忘れてはならないと思うし、軍事力の伴わない言葉の戦いでは、いくらしすぎてもしすぎるということはないはずである。
それと同時に相手に抗議するだけではなく、世界に向かって相手の誹謗中傷を鼓舞宣伝することも必要なわけで、商売相手だから相手を慮る、という日本流の謙虚さというものは必要ないと思う。
この数年来の北朝鮮の振る舞いを見てもわかるように、主権国家なるものがいくら信義にも劣るような行為をしても、それに武力が伴っていない限り、世界は全く無関心ではないか。
北朝鮮の日本人拉致問題というのは人命が関わっているが、中国の南京大虐博物館をユネスコの世界遺産に登録するしないという問題に関しては、人命が関わっているわけではないので、こちら側も大いに声を大にして抗議をすべきだと思う。