アホか!!!04・12・25

本音で語ろう!

 

放送界の知性

 

2004年(平成16年)12月19日の日曜日の晩にNHK TV で今回のNHKの不祥事について海老沢会長自身が番組に登場して、ある種のつるし上げのような格好で弁明をしていた。

今回の事件では会長に辞任を迫る声が多く聞かれたが、ここに我々同邦の無責任体制が見事に露呈していると思う。

会長に辞任を迫る側は、それを言う事で自分は世直しにいくらかでも寄与しているつもりであろうが、それはある意味で無責任体をこれから先も温存するということに気がついていない。

社長や会長が不祥事のたびごとに辞任すれば、その後その組織が清廉潔白になると思っているところに阿呆さが見える。

社長や会長に「不祥事を起こした当人を解雇せよ!」と言うのならば論理的に整合性があり、まだ理解できるが、会長自身に「辞めよ!」といったところで過去に起きた事件の解決にはならないではないか。

この見解に固執しているのがNHKの労組の執行委員であるが、こういうところに革新系というか左翼的な歪んだ発想が残っている。

退位を迫られた会長が、「ハイそうですか!」と多額の退職金をもらって、さっさと辞めてしまったとしたら、問題解決には全くつながらないではないか。

組織の中で不祥事が起きたとき、外部の人間は安易に責任者に{辞めよ!}と詰め寄るが、これは無責任きわまりない発言だと思う。

そういうときにこそ責任者に再犯防止と、秩序維持、ないし倫理観の引き締めを迫るべきで、それをただ「辞めよ!」ではあまりにも能がないと思う。

どんな組織にも悪人はいる。

銀行でも、学校の先生でも、公務員でも、警察官でも、民間企業でも、組織を内部から蝕む悪人はいるもので、NHKだけにそういう人がいるわけではない。

我々は、組織には必ず悪人はいるという前提に立って物事を考えなければならない。

社長とか会長などという人の職責というのは、通常の経営責任も当然だが、その上に不祥事が起きた時にどう対応するか、という決断が期待されているわけで、組織の下部のものが不祥事を起こすたびにトップが辞めていては、それは無責任体制を助長するだけで、ことの本質を解決することにはならない。

組織体には、どんなに優れた組織でも、数ある人間を内包している限り、腐敗した人間が紛れ込むことは防ぎようのない必然的なことだと思う。

これはNHKだけの問題ではないと思う。

あらゆる組織という組織で、内部の腐敗ということは免れないことだと思うが、ピラミット型の組織の中間層で不祥事が起きた場合、その対応の仕方には2通りあると考える。

その1つは「トカゲのシッポ切り」といわれるもので、もう1つが「頭の挿げ替え」ということである。

海老沢会長に「辞めよ!」ということは、この頭のすげ替えを要求しているわけで、いくらトップが変わったところで、組織そのものが入れ替わるわけではないので、不祥事の再犯防止ということにはまったくつながらないと思う。

仮に、組織そのものが入れ替わったところで、その組織を人間が管理し、人間が運営している限り、不祥事というのはついてまわると思う。

ならば組織内から不祥事を出さないようにするには如何なる手法があるかといえば、これは厳重な罰則以外にそれを阻止する手法、手段というものがないと思う。

罰則規定がなければ人間が規則を守れないというのは非常に哀れで、物悲しいことである。

しかもそれが優秀な大学を出た人の集まる立派な組織であったとすればなおさらである。

我々の社会が人間の集まりで成り立っている以上、この現実は変えようがないと思う。

それは宿命という言葉でしか表せないと思う。

悪事を働く人間は何処にもいると考えれば、今回のNHKの番組制作費のネコババとか、バック・リベートの問題というのは、完全に刑事事件なわけで、それは司直に委ねるほかない。

ただ「NHKだから」といって大騒ぎする背景には、NHKは受信料で経営が成り立っていから、大衆の納めた受信料が職員の私利私欲に流れたとなれば、払っている人に申し開きが出来ないという点で、問題が大きくクローズアップされている。

ところが、そういう言い方をしている人に案外受信料を払っていない人がいるのではないかと思う。

民間放送は放送を通じて宣伝をすることによって、宣伝料をクライアントのほうから取っているので、それが放送局の収入となり、それで経営が成り立っているが、NHKに限ってはほとんどの国民から受信料というものを取って放送が成り立っている。

受信料を取っている放送局が、公金を私用に使われては我慢ならない、という反発が大きいのもある程度は理解できる。

それが故に組織体の中の単なる不祥事が受信料の問題にまで広がっているのである。

しかし、このNHKの受信料というのは今の日本に住んでいる全世帯できちんと払っているとは思われない。

世間にはNHKの受信料不払い運動というものまであって、受信料を払わないことがある種のステータスにまでなってしまっている節がある。

受信料を払わないことを自慢たらしく公言し、そのことがさもインテリーかのように勘違いしている馬鹿がいる。

NHKが受信料を国民から徴収するという意味は、これが国営放送ではないということの強力な証になっている。

それが為、会長の元に経営委員会というものがあって、これがNHKの最高の意思決定機関だということが19日の夜の放送で明らかになり、我々の知るところとなったが、問題はNHKが国営放送ではないというところが非常に重要だと思う。

NHK,日本放送協会というのが国と直結しておらず、国とイコールで繋がっていないという事実は非常な重みがあると思う。

この宇宙船地球号の上には190近い主権国家があるが、その中で放送局を直接持っていない国というのは非常に少ないのではないかと思う。

国家の民主化の度合いが低いところほど国営放送というものを維持しているのではないかと思う。

アメリカには国営放送がないと思うが、それは民主化の度合いがそれだけ進んでいるということでもある。

国家が情報を一手に握るということは、それだけ国家運営にとっては有効なことで、日本ではそうなっていないということは、非常に民主化の面で進んでいるということだと思う。

NHKは国営放送ではないが故に、受信料というものを取らないことには運営が出来ないわけで、それが為非常に厳密に不偏不党を貫かねばならない。

特定の集団や、特定の組織に偏ることなく、極めて純粋に中立を維持しなければならない。

NHKの会長のもとにある経営委員会というのは、その厳正中立を維持するために存在するのだと思うので、このセクションがいちいち下部社員の不祥事に関わるというのもおかしなことになる。

しかし、阿呆な国民大衆というのは、そこまでNHKに要求しているわけで、まさしく衆愚という言葉でしか言い表せない。

私の個人的な意見では、NHKが厳密に不偏不党を貫くことは今後とも続けてもらいたいし、その上に国民の良識というものを世論に迎合することなく貫いてもらいたいと思う。

我々、日本人の見本、日本民族の機軸となる姿勢を貫いてもらいたいと思う。

例えば、今の民放のテレビ番組というのは実に見るに偲びない。

多少とも見れるのはドラマぐらいしかないが、民放テレビというのはクライアントの意向で、どれだけでも堕落するので、実に見るに偲びない。

しかし、我々の世代の者がいくら見るに偲びないといっても、片一方にそういうものをのぞんでいる若い世代がいるわけで、民放としてはそういう世代に媚を売ることに、いささかも良心の呵責を感じていないのが現状だと思う。

古い世代と若い世代の価値観の相違だ、といって片付けてしまうにはあまりにも無責任な事柄ではないか。

こういう状況下で、NHKならばこそ、日本人の良識としての見本を示す放送をしてもらいたいと思う。

人を批判することは実にたやすいことだ。

民間テレビ局というのは、視聴率という数字に縛られて、この視聴率がクライアントの契約に大きくかかわって来るので、どうしても視聴率の高い番組というものを目指さなければならない。

ところがこの視聴率というものが、結局は日本の新しい文化、新しい大衆の好み、新しい愚民の嗜好というものを反映しているわけで、そういう大衆を相手にして高い視聴率を確保しようとすると、どうしてもそちらのほうに迎合しなければならない。

文化としてのレベルの低いほうに際限なく下げ進み、最低のレベルで各局足並みをそろえなければならない。

そのことは番組の内容がどんどん低落していくという結果になる。

テレビ番組を作る方は面白ければ良いというわけで、誰が面白がるかということを考えた場合、文化の程度の低い一般大衆が大口を開けて笑っている情況を想定しているわけで、そういう人が見てくれればそれでうけていると思い込んでいるのであろう。

民放の低俗化に対しては、私はクライアントの方にも責任があると思う。

あまりにも品のない、低俗な、そして馬鹿らしさをと通り越したような愚劣な番組にもきちんとクライアントはついているが、民放に限っていえばクライアントの方がもっともっと良質な番組に積極的に関わって、愚劣な番組には契約をしないという態度を推し進めてもいいと思う。

放送業界の実情については何も知らないが、低俗な番組はその放送料も安いので、経費節減のためそういう低俗な番組にもクライアントとして企業名を出して、宣伝してもらいたいという心理があるのであろうか。

そういう傾向に対してせめてNHKぐらいはクラインアントという存在がないだけに、日本人の知性と理性で以って、日本の良識を兼ね備えた番組に徹してもらいたいものだ。

大衆に迎合しつつあると思われてならない番組に、日曜日の昼に放送される「素人のど自慢」がある。

そして年末の「紅白歌合戦」がある。

国民全体の傾向としてNHK離れ、NHKの受信料不払い、というものが前々から問題になっているが、NHKが無理にでも視聴率を回復しようと努力すればするほど、人はNHKから離れていくのではないだろうか。

視聴率を回復しようと努力することは、番組の低俗化を伴うわけで、NHKに限っていえば、視聴率を問題にする必要は最初からないわけで、その分、信念を持って良質の番組を作ることに専念したほうがいいと思う。

「のど自慢」や「紅白歌合戦」が面白くなくなって来た最大の理由は、出演者のパフォーマンスがはなはだ極端になってきて、逆に興ざめの情況に達しているからだと思う。

歌の振りの粋を通り越して、吉本喜劇に近いようなものまであるわけで、あんなことは本放送の前の段階で淘汰しておくべきだと思う。

 

 

学歴偏重主義

 

それはさておき、NHKを批判することも実にたやすいことで、人は安易に悪口を並べ立てるが、いくら悪口を並べたところで、それだけでは何も改善はされないわけで、不祥事というのは次から次へと形を変えて出てくると思う。

今の日本で、既存の組織の一員になるということは、そうそう簡単なことではないはずである。

公務員であろうと、学校の先生であろうと、NHKであろうと、他の民間放送局であろうと、幾つかの関門を潜り抜け、選抜されて、篩をかけられたものだけが、その組織の一員になりうるわけで、好きだからとか、やってみたいからとか、という単純な動機だけではなりえない職業だと思う。

その篩の一番根底にあるものが、いわゆる学歴というもので、高等教育を受けていないもの、受けられなかったもの、高等教育を否定したものでは、今の日本の既存の組織には入り得ないと思う。

そのことを逆の視点から見れば、今の既存の組織を構成している人々は、すべからく高等教育を受けた方々で構成されているということである。

すると、今回NHKで起きた不祥事、番組制作費のネコババ、乃至は着服という不祥事は、高等教育を受けた立派な人が引き起こした犯罪ということになる。

これはNHKだけの問題ではなく、今の日本でニュースとして流されているあらゆる事件が、こういう本来立派であるべき人々で引き起こされているわけで、NHKだけが特異であったわけではない。

警察官のカラ出張事件でも、学校の先生のセクハラ問題でも、公務員の公金横領事件でも、総て本来立派であるべき人々がしでかしているわけである。

問題の本質は、基本的に、本来立派でなければならない人が、何故、不祥事を引き起こすのか、というところにあるものと考える。

ところが、世間では不祥事が起きるとそのトップを責めるのみで、社会の底流に脈々と流れている、本来、立派であるべき人の倫理観の欠如という側面を追求しないのはどうしたことであろう。

それは世間というものが、自分たちも高い学歴を誇り、中産階級以上の生活をして、恵まれているから、犯罪を犯す人、不祥事を引き起こした人と同じレベルにいるものだから、そこの違和感を感じていないからであろうと想像する。

ここで云う世間、つまり物言う世間というのは、いわゆる中産階級としての大衆という意味で、その人達と組織のトップとはやはり階級闘争的な僻みやら、妬みやら、羨ましさがあるが故に、トップにだけ矛先が向かうのではないかと思う。

世間という雲を掴むような有象無象の大衆と、組織のトップでは、やはりあらゆる点で格差が歴然と存在するわけで、その組織の中で不祥事が起きれば、「トップは何をしているのだ!」という非難の声となるものと考える。

戦後60年という時間の流れの中で、今の30代40代という社会の最前線で活躍している人々は、すべからく高等教育を享受し、高い学歴を誇る人たちだと思うが、そういう人達が高学歴のわりには一向に倫理観に優れているとは思えないのは、一体どういうことなのであろう。

私は生来、阿呆だから、大学というのは高い教養と知識、知性というものを習得するためにあるものだと思い込んでいたが、世間の動向を見てみると、そうではなくて、いわゆる既存の組織に入るための免罪符、あるいは通行手形を得るところとなっており、そのための手段、手法に成り下がっている感がする。

明治時代の高等教育というのは、基本的に、その教育の本来の目的に沿った線で運営されていたと思う。

運営されていたというよりも、社会全般にそういう雰囲気があったように思う。

江戸時代の封建主義思想から脱皮して、新しい社会を目指そうと考えたとき、日本の当時の社会というのは、今の言葉でいう国民と称する総ての大衆は無学文盲に近い情況であった。

そういう状況下で、明治新政府は国民の教養全般をレベルアップしないことには近代国家の建設はおぼつかないと判断したものと考える。

そういう思惑の元で、学制が制定され、高等教育が実施され、その結果として富国強兵に繋がったわけで、その延長線上に、我々の祖国は一旦は灰燼と化してしまった。

ところが60年前に一旦は灰燼と化してしまった我々の祖国で、生き残ったわが民族は、再び不死鳥のように蘇ってきたわけであるが、不思議なことに学問というか学歴というものに対する信仰は、国土が灰燼と化しても一向に絶えることなく、わが民族の潜在意識として息づいていたのである。

この学歴、学問に対する信仰というのは、知らないことを知りたいという向学心の現われではなく、「人が行くから我も行く」という極めて自主性のとぼしい思考で成り立っているような気がしてならない。

私の親父の世代、つまり明治生まれの世代の人は、純粋に向学心で進学したいと本人が思っていたとしても、なかなか周囲の情況がそれをゆるさなかった。

つまり家が貧しくて、そういうゆとり、つまり向学心を十分に満たす余裕が一般大衆の家庭にはなかった。

やむをえず進学をあきらめるというケースは掃いて捨てるほどあった。

この時代でも、学歴が就職のために非常に有効かつ強力なパスポートだと考えていた人もいるにはいた。

ということは、そういう学生を受け入れようとする組織のほうにも、学歴というものに対する期待があったわけで、大学を出てきた社員には特別な待遇で遇するという情況が罷り通っていた。

我々の社会における学歴偏重主義というのは、基本的には、組織の側が高学歴の人材を優遇するという点にあると思う。

これは当然の成り行きで、幾重もの篩をかいくぐって、学識、経験の豊な人材ならば、あらゆる状況下でその対応の仕方に期待が持てるが、この道一筋何十年という人では、当然、対応の仕方が違ってくるわけで、それが組織の運営、企業の経営という状況になれば、歴然と現れることは火を見るより明らかである。

問題は、高学歴ならば良い企業、良い組織に入り込めるから、誰も彼もがそれに向かってわき目もふらずに駆け寄るという集団心理である。

それは目の前にぶら下げられたにんじんを追いかける馬と同じで、この群集心理、この集団心理、この付和雷同性が、我が民族の潜在意識として存在するということである。

この「高学歴ならばそれで人生万々歳」と思い込んで、わき目もふらずにそれに突っ走る単純な思考が、今日の日本のあらゆる問題に影を投げかけていると思う。

大学、高等教育の教育というものが、学問の追及ではなく、就職予備校としてしか機能していないので、そこでは倫理観の醸成や、常識の涵養とか、モラルについての考察というような精神面の向上には何一つ役に立っていないわけである。

 

人の本質としての倫理

 

この地球上に住む人類で、生きていくための倫理観とか、常識とか、モラルというのは学校教育で教えるべきことではないことは理解すべきである。

そういうものは親と生活を共にする間に、親から教えられ、親の生活を見て見習い、本人が自ら習得すべきものであって、学校教育で先生が教壇の上から押しつけるべきことではない。

ところが戦後の我々の生活というのは、家庭では夫婦共々汗水たらして働かねば食って行けなかったわけで、その子供は親との接触のないまま、親の庇護を受けようにも受けられないまま、目前の義務教育に順応するほかなく、結果として親の生活を傍観しながら成人に達したのである。

親も子供も、生活の中で倫理観や、常識や、モラルをじっくり考えるよう余裕などなかったわけである。

そういう中で育った子供は、成人に達するや否や、「貧乏からの脱出には高学歴を得るほかない」と思い込んで、高等教育を目指し、良い企業なり、良い組織にもぐりこんでは見たものの、本人のもつ本質の卑しさは学校教育ではいささかも是正されていないものだから、しばらくすると馬脚をあらわすという構図だと思う。

昨今は人権意識が向上して、犯罪者にも基本的人権というものがある、などと奇麗事をいう輩が多くなったが、犯罪者だからといってすぐさま殺してしまうという状況ならば、犯罪者の権利も考えなければならないが、身内から犯罪者を出すということは「一族の恥だ!」、という認識ぐらいは今後も持ち続けて欲しいものだと思う。

家族の中から、乃至は、一族の中から、警察のお世話になるものが出ることは、まことに情けないことだ、という認識ぐらいは持っていただきたいものだと思う。

巷には、官庁のトップになっても、企業のトップになっても、組織のトップになっても、警察のお世話になる人がいるが、そういう人は自分が直接犯罪を犯したのではないとしても、警察から事情聴取をされたというだけで、恥ずかしいことだという認識を持たなければならないと思う。

警察にも不祥事はあるが、警察も悪いことをしているのだから、俺がしてなにが悪いということにはならないと思う。

少なくとも官僚にしろ、民間企業にしろ、組織のトップになるような人は、組織内は当然のこととして、社会一般に対しても、モラル的にも、倫理的にも、常識的にも、見本となるような行為、行動をして当然だと思う。

UFJ、旧東海銀行の経営幹部が査察の資料を隠すなどという阿呆な事をするようでは、下で働いている人達はまことにやるせない気持ちだろうと思う。

三菱自動車のクレーム隠しでも同じことがいえるが、今、現実に稼動している企業なり組織では、その構成員の中間以上のポストにあるひとは、ほとんどが最高学府を修めた人達でしめられていると思う。

昔の炭鉱や、沖仲仕や、ヤッチャ場というような職場とは違うわけで、そういう立派であるべき人達が組織を構成していながら、どうして内部で不祥事が起きるのかをもっと掘り下げて考えなければならないと思う。

ひとつはっきりといえることは、そういう不祥事を起こす人、公金を横領したり、査察の資料を隠したり、クレームを隠したりする人は、その人の持って生まれた本質そのものが卑しい、心が下賎だということを声を大にして糾弾し、肝に銘じて我々は認識しなければならないと思う。

昨今は、人様の本質を「卑しい」とか「気高い」という言葉で言い表すことを人々はためらって、それが為、我々は奇麗事を並べて、誰も傷つけないようにと心配りするあまり、単刀直入の表現を遺棄する傾向がある。

しかし、これが世間一般をぬるま湯的な曖昧模糊とした状況に陥れていると思う。

人の心を傷つけるようなことをしない、してはいけない、という発想の延長線上に、犯罪者にも人権がある、という極めて善意に満ちた奇麗事の思い上がりがあるものと考える。

奈良で幼児が誘拐されて、その犯人がまだ捕まっていないと、「警察は何をしている。住民は不安でたまらないではないか」という言い分になるが、これと犯罪者の人権とは何処でどう結びつくのであろう。

犯罪者の人権なんどと叫んでいる人は、自分が犯罪とは全くかかわりのない立場で、大衆受けするように奇麗事を並べているだけで、実際に犯人がうろうろしている地域では、そんな奇麗事は通用しないと思う。

我々が警察の世話になるということは、非常に恥ずかしいことだ、という認識がないものだから、安易に犯罪を犯すものと考える。

そもそも犯罪というのはモラルのない人が引き起こすわけで、このモラルの欠如というのは、社会的地位の有無に関わらず、教育のあるなしに関わらず、如何なる組織に籍を置こうがありうるわけで、モラルがないから順法精神が欠如し、最終的には法に触れ、結果として警察の世話になるということである。

そしてNHKの職員が警察の世話になる、旧東海銀行の経営担当者が警察の世話になる、三菱自動車の経営者が警察の世話になるということは、その根本のところにあるモラルの欠如という点を、本人も、世間ももっともっと厳密に考えなければならないと思う。

そのためには相手の心情を慮ることばかりを考えて、奇麗事を並べ立てたところで何も解決には繋がらないわけで、単刀直入な簡潔な言葉で相手を糾弾しなければ、相手は自分のモラルの欠如に恥じることもなく、自分がモラルを欠いていることにすら気がつかないと思う。

人間の心の「卑しさ」と「気高さ」というのは、この混迷の時代にはもっともっと深く考えるべき課題だと思う。

戦後の復興の中で、我々はより良い就職を求めるあまり、猫も杓子も高学歴を追い求めて大学に進学し、今そういう世代の人達が現実の社会の一線で活躍しているわけだが、社会全般が高学歴となって文化的レベルの底上げには効果があったものと思うが、それがモラルの向上という点にも影響が出ているであろうか。

人間の心の「卑しさ」とか「気高さ」というのは、その人個人の資質ではないかと思う。

卑しい資質を持って生まれた人は、いくら高等教育を授けてもその心が気高くなるということはないと思う。

心の気高い人は、例えホームレスの生活をしていても、心の気高さというものは失っていないと思う。

ことほど左様に、倫理観というのは付け刃では是正できるものではないと思う。

ところが昨今の風潮というのは、個人の持つ倫理観で人を判断するのではなく、その人の能力で以って人を判断してしまうので、倫理観の欠如した人達が組織のトップに躍り出るという現象が起きるものと考える。

近代の産業国家、つまり国家というものを近代化する過程において求められる人間の能力は、事を如何に上手く処理できるかという対応能力が重要なファクターになるこというまでもなく、そのことは容易に理解できるが、あまりにもそれが優先されてしまって、それだけが人間評価の基準になってしまった。

経済発展を目指そうと思えば、人の心の優しさとか、人を慮る心根の暖かさなどというものはマイナスの要因にしかならないわけで、それを重視していては、企業なり、組織なりが行き詰まってしまうので、人は冷酷に振舞わなければ所属する母体が消滅しかねない。

 

民主化の弊害

 

そして世間一般の流れというものは、大いにマス・メデイアに依って鼓舞宣伝されるわけで、江戸時代ならばせいぜい口コミと瓦版程度のメデイアしかなかったものが、昨今では新聞、雑誌、ラジオからテレビというメデイアまであるわけで、それによって世間の欲求というのは、全国一律に、同じ傾向が醸成されてきたと考えざるを得ない。

この部分を私は「わが同邦の付和雷同性」と呼んでいる。

この全国一律に同じ傾向というものの中に、戦前の富国強兵を標榜する軍国主義も内包され、戦後の学歴偏重主義というものも内包されていると私は思う。

戦前の軍国主義の蔓延する前には、帝国主義的植民地支配というのもあったわけで、戦前にそういう情況を呈したもうひとつ前には、明治新政府の学問重視、学問を身につけることで個人の欲望を満たすことは良い事ですよ、という価値観を醸成したという事実を真摯に受け止めなければならないと思う。

明治新政府がそういう過程を経たのは無理もないことだと思う。

徳川幕府を倒し、新しい政府を作ってみたら、日本の周囲は西洋先進国が鵜の目鷹の目で、わが祖国の覇権を狙っていたわけで、当時の政府の要人とすれば、一刻も早く西洋並みの近代国家を作り上げなければ、という焦りを感じていたに違いない。

そこで旧時代の身分制度を無視して、士農工商という全域から頭の良い若者を集めて、学問を授け、そうして学問を習得した若者を野に放つことで、国民全体の知的底上げを試みたわけである。

この時、旧時代の身分制度を無視して、全国民の中から無差別に、一定の関門を抜けたものを平等に教育したということは、今の言葉で言い表せば非常に民主的な措置を取ったということになる。

しかし、物事は表裏一体をなしているわけで、民主的な措置とは同時に玉石混交の人間をかき集めたということにもなるわけである。

ここに、高学歴の人、つまり人々をリードすべき立場となった人々の中にも、心の卑しい人が紛れ込む原因があったと言ってもいいと思う。

旧時代の階級制度の元でも、士分の人達が全員、清廉潔白であったかといえば当然そういうことはないだろうと考える。

逆に、農民、商人、職工の中にも、心の気高い人はいたに違いないと思う。

ならば無差別の集団から選抜したところでたいした問題はないではないか、という反論になるが、問題は、社会の進展とともに個人の欲求のほうが変化してきたということを考えなければならない。

21世紀においてもまだまだ近代化をなしえない国家というものが地球上には残っているが、そういうところでは官僚が自分の地位や立場を悪用して、賄賂やリベートを要求するということは日常茶飯事になっている。

これは倫理観の欠如の典型的な例であるが極めて単純な犯罪である。

だから許されるというものはないが、我々の今の社会の不祥事というのは、こういう単純なものではなく、高度な教育を受けたものが、高度な社会システムの中で、巧妙に私利私欲をむさぼっているわけで、高度な教育を受けたものが冒すという点に最大のポイントが潜んでいると思う。

高度な教育を受ける過程で、心の卑しい人の倫理観が、気高い心根に変化するという、精神の進化が全く見られないところに人間の業のようなもの感じる。

明治新政府の教育に対する理念というのは、学問を通じて国民に奉仕することではなかったかと考える。

つまり、無差別に大衆の中から選抜された学生は、国家から授けられた学問を修めることによって、それを終えた後は国家に対し、乃至は国民に対して奉仕することが期待されたのではないかと考える。

こういう理念の下で、高等教育が実施されると、無差別な大衆から選抜された学生というのは、一生安泰な生活が保障されるということが全国民が承知することになる。

すると結果として、砂糖に群がる蟻のように、猫も杓子も学問を求めて高等教育の場に殺到するという現象を呈してきた。

今考えてみると、これは制度に欠陥があったといえるかもしれない。

つまり、能力のある若者をたった1回のペーパー・チェックで選別し、それに安い授業料で高等教育を授けたら、その恩典を受けた学生は、卒業後国家に対して何らかの返却を義務つけるべきでなかったかと思う。

戦後、義務教育の場で先生が不足したとき、学芸大学では学生に奨学金を出し、その奨学金には卒業後何年かは先生として学校に勤務をすることが義務付けられていた。

国費で運営されている高等教育の機関には、総てこういう措置が必要ではないかと考える。

国立大学(今はこの言葉も死語となったが)の医学部を卒業して、安い国費で医者になったにもかかわらず、卒業後は開業医として天文学的は収入をえながら、奨学金は未返納で、税金は脱税するでは、あいた口がふさがらないではないか。

国家の制度を私利私欲の実現に使うという発想は、下賎なものの知恵で、倫理的には許されることではないが、制度に不備がある以上、犯罪にはいたらない。

こういう例からも類推できるように、安い国費の学生には、卒業後が何らかの形で国家に対して恩返しを義務付ける制度を設けておかなければならないと思う。

高等教育を受けるほどの人間が、そういう措置がないことには自分の受けた恩というものが理解できないというのも、如何に下賎か、如何に心が貧しいか、如何に卑しいかというとことだと思う。

教育という世渡りの通行手形を得るのに、経費の高いところよりも安いところのほうが良いに決まっているが、それを求める人が多いとなれば、それをビジネス・チャンスと捉える人が出てくるのも不思議ではない。

そういう事情に答えるため、当然、私学というものも出来てきたわけで、その延長線上に入試競争というものが出てきたものと考える。

高等教育を受けて、本来ならば人品卑しからぬ立派な人でなければならない人が、モラルを欠いた行為、行動をする、その原点のところには、従来の階級制度を無視して、士農工商の別なく無差別に有象無象の一般大衆から学生を選抜したところに、玉石混交のもとがあると思う。

これは民主化に逆行する発想であるが、民主化というのは総て善だ、と思うところにボタンの掛け違いの原因が潜んでいると思うし、世間では奇麗事だけが罷り通って、汚い真実を覆い隠す傾向があるので、私は敢えてそのことに問題提起をしたい。

 

 

親の責任

 

人間は社会生活を営む動物であることは論を待たないが、この社会生活をするということは、周囲の情況に応じて精神の育成がなされるということだと思う。

人間は肉体の発達とともに、精神も発達することはいうまでもないが、この時精神の発育段階では、周囲の情況に即応した発達を遂げると思う。

つまり、赤ん坊として生まれた一人の人間は、最初は親の庇護のもと、その親の影響を受け、その次には親の所属する部落、集落、つまり地域社会とのかかわりの中で生育し、自我に目覚めた時点で、個人としての意志を持つようになるのが普通の生育段階だと思う。

問題はここにあると思う。

つまり、いくら立派な人でも親の影響なしで成人に達した人はいないわけで、倫理観というのはこの親の影響の中で育成されるものだと考える。

俗に「三つ子の魂百まで」といわれているように、幼児の時に受けた親の影響というのは、成人に達したからといって、そう安易に消し去ることはできないと思う。

これも先人の残した言葉で「氏素性」という言い方があるが、倫理観とか、モラルを問う場合、これが大きく物をいうように思う。

親が水のみ百姓ならば、その親の元で育てられて成人した人間は、百姓根性が抜け切れないと思うし、親が商人であれば、その元で成人した人は商人魂というものが抜け切れないと思う。

しかし、今の私達の社会はこんな単純なものではないわけで、親が百姓だとか商人だとかいう単純な区別は仕切れない社会に生きている。

今の農家というのは完全に農業経営者であり、今の商人というのはコンビエンス・ストアーの店長なわけで、昔のイメージではつかみきれないことはいうまでもない。

しかし、それでも子供は親の背中を見て育つわけで、子供に背中を見せることで、その親の倫理観やモラルが子供に伝わるものと考える。

今の我々の社会では、親が子供に自分の背中を見せてやれないところに不幸がある。

それが為、親の倫理観が子供に伝わらないという面があると思う。

倫理観とかモラルなどというものが学校教育の場で教えるものではなく、子の親が毎日の生活の中で、自然に語り合い、語ることで教え、納得させ、自覚させるべきもので、これだけ取り出して特別に教えるというものではない。

戦後の民主教育の中で、男女同権が大いに叫ばれ、男女が同一労働、同一賃金が究極の目的だったけれども、女性が男性と同一の賃金を得られるとなると、その賃金が失うことが惜しくて、女性が親業を放棄してまで、勤めに出ようとする。

それでは家庭内における子供の教育が疎かなるのは当然であるが、そうなると「親に変わって子供を育てる施設を作れ」という要求になって来る。

こういう状況が出てくると、世の知識人というのは「それはもっともな要求だ!」ということで子供の養育を放棄する親を責めるのではなく、勝手な言い分を通そうとする個人を責めるのではなく、施設を作らない自治体のほうに矛先を向けてくる。

ここに世の知識人としての奇麗事で済まそうとする、良い格好シイの無責任極まりない発想が垣間見れる。

子供が生まれたら、「それを育て上げるまで子の養育に専念しなさい」と、親に対して「子育てに専念せよ」と、厳しく冷酷なことは知識人としては言えないわけである。

戦後の風潮として、夫婦共稼ぎが普遍化したことは歴然としているが、ここに昨今の世の乱れが圧縮されていると思う。

夫婦と子供が食うだけならば夫の収入だけでもやってやれないことはないと思う。

ところがこの夫婦が、家は欲しい、車は欲しい、子供は大学まで行かせたい、という個人的な欲望を満たそうとすると、夫婦共稼ぎでもおっつかないという現状があると思う。

ここでも世の知識人というのは、「あなた方は欲張りすぎだから自分の欲望を少しセーブしなさい」ということは言わないわけで、個人が欲望を満たすために努力することは良い事だと、奇麗事をいうわけである。

こういうことは基本的には良い事に違いない。

それに向かって誠心誠意、努力することも良い事ではある。

しかし、その結果として子は親の背中を見ることなく、親も忙しくて子供の相手などできず、子供の養育がおかしな方向に向かっていることに気がつかないまま、子の方は勝手に成人に達してしまう。

世の知識人や評論家と称する無責任な人達は、夫婦共稼ぎで個人の欲望を追及することは良い事だから、それはフォロー・アップしなければならない、と奇麗事で済ませ、誰からも顰蹙を買うことなく、他人事なのだから全く無責任に、格好の良い事ばかりを言い続け、その結果として青少年の非行の問題が噴出しているではないか。

子供にとって一番母親の庇護が欲しい時期に、人に預け、学校から帰ってきても家に誰もいない、という情況がどれだけ子供の心を蝕んでいるのか考えたことがあるのであろうか。

世の知識人や評論家といわれる人々は、「食うに困らない限り、幼児を抱えた母親は子育てに専念しなさい」と何故言えないのであろう。

「自分の欲望を満たすために子供に犠牲を強いてはいけない」と何故言えないのであろう。

夫婦共稼ぎだからといって、その子供達が皆が皆悪くなるというものではない、ということは当然であるが、確立からいえばそういうことがいえると思う。

それはタバコを吸うと癌になるという論法と同じで、確かな根拠があるわけではないが、確率からいえばそういう結果が出るというのと同じだと思う。

夫婦共稼ぎという定義も、昔と今では大いに異なってきているわけで、昔でも稼ぎ手というのは男性だけとは限らなく、家庭内工業とか百姓の家では女性も家業の中で大いに夫を助け、夫婦共に働くと云う形であった。

当然、貧乏人の子沢山といわれる状況下で、子供達は夫々に親の背中を見て育ったものと考える。

親の生き様、親の考え方というものを見よう見まねで習得し、親を通じた集落の付き合いで、社会一般の秩序というものを学び取っていったものと考える。

それに較べると昨今の夫婦共稼ぎというのは、母親までサラリー・ウーマンとして家の外で働くわけで、残された子供達は当然鍵っ子ということになる。

子供たちは親の背中を見ようにも見れず、子供自身もクラブ活動とか塾とかで多忙を極め、親との接触は全くないわけで、これでは親の倫理観、親の生き様、親の考え方というもの知る機会がまったくないまま成人になってしまう。

下賎な人の驕り

 

私は警察関係のことには詳しくないが、犯罪を犯す人には再犯が多いと聞く。

つまり悪い事をする人はなんども同じ事を繰り返すということだ。

これは人間の持つ真実の一部だと思うし、人間の本質だと思う。

それは同時に、悪いことをする人の家族.家系にも同じようなことをする人が偏っているのではないかという気がする。

人間の倫理観とかモラルというものが親の影響、周囲の影響というものから出来ているとすれば、当然そういうことが考えられても不思議ではない。

昔、結婚とか就職というときには、聞き合わせということをしたものである。

これはつまり人間としてのババ、トラブル・メーカーとか、欠陥人間をつかみたくないという自己防衛の措置だったと思うが、昨今はそういう選別が人権問題のうえから禁止されている。

そのことによって犯罪歴のある人間でも、それを隠匿することが可能になったが、そういう人をつかまされた、つまり採用してしまったとき、企業なり、婚約者なり、組織のほうは、実害が出たとき誰がどうそれを償ってくれるのであろう。

元犯罪者だとて、その後何もトラブルを起こさなければ、それはそれでまことに結構なことであるが、犯罪者には再犯が多いとなれば、雇用する側としては自己防衛の手段を講じたくなるのは当然ではないか。

人権問題を擁護する立場の人というのは、耳に心地良い表面上の奇麗事ばかりを並べて、悪人の人権は過大に評価するが、それに直面せざるを得ないほうにはまことに冷淡なわけで、既存の組織、大企業、官公庁というのは悪の権化かのような見方をしている。

企業にしろ、官公庁にしろ、あらゆる組織で、人材を確保しようというときに、敢えて倫理観の欠如した人や、モラルを欠いた人を取る必要はないわけで、出来うれば立派で誠実な人を採りたいというのは当然のことであり、そのためには多少の身上調査のようなことでもして、篩に掛けたいとい思うのは必然的な流れだと思う。

個人の倫理観やモラルというのは、ペーパー・チェックでは選別できないわけで、何事もペーパー・チェックが優先する場では、それが為不幸にして篩から漏れる人も大勢いることは否めない。

NHKの番組制作費を誤魔化した人だって、旧東海銀行の資料隠しだって、三菱自動車のクレーム隠しだって、完全にモラルの低下という意外に言い様のない事件なわけで、こういう人達が、この地位に登りつめるまでには、相当な篩を潜り抜けてきたわけであるが、その何度も潜り抜けた篩でも、倫理観の欠如とかモラルの欠落というのは発見できなかったわけである。

その結果として、トップの地位にまで登りつめたにもかかわらず、最後に警察の世話、司直の手に身を委ねなければならないことになったのである。

普通の社会人が警察の世話になるということは非常に恥ずかしいことである。

何といっても、その人の倫理観が欠けていたことに、本人は恥じ入らねばならない。

モラルを欠いた人間であることに、本人は大いに恥じ入らねばならない。

警察の世話になるということは、そういうことでなければならない。

人が泥棒をするということは、「人のものを盗ってはならない」という、普遍的な倫理に欠けているから、それを犯した人は警察が捕まえ、裁判所がその倫理観の欠け具合を吟味して処罰を下すわけで、本人は自分がその倫理観が欠けていた、という事実に対して、非常に恥じ入らねばならない。

普通の家庭で、家人の誰かが警察の世話になったとなれば、恥ずかしくて隣近所が歩けない、というぐらい恥じ入らねばならないことの筈である。

こうあからさまに犯罪を犯した人を糾弾すると、また人権擁護団体からクレームがきそうであるが、犯歴のある人でも刑に服して社会復帰すれば、もうそれ以上の制裁はしてはならないということは当然のことである。

しかし、倫理観やモラルを正常に持ち合わせている一般社会人としても、犯歴のある人とは関わりたくない、という素朴な感情は、どうにも御し難い衝動だと思う。

レ・ミゼラブルのジャンバルジャンは、自らが生きんがために盗みをしたが、NHKの番組制作者や、旧東海銀行の副頭取、三菱自動車の社長などが犯した犯罪は、これほど差し迫ったものであったであろうか。

盗まなければ自分の命が危ないというような差し迫ったものではなく、普通の仕事を普通のレギュレーションでこなしていれば犯さずに済んだはずではなかったか。

この普通にこなしていればよかったところを、手を加えたがゆえに馬脚が現れて、罪を犯すという結果を招いてしまったものと考える。

普通の仕事を普通にこなさなかったところに、常識から逸脱し、倫理観の欠如が露呈し、モラルの欠落がにじみ出てしまった、ということである。

ことの本質は、普通のルーチン化した仕事を普通に処理しなかったところに、常識からの逸脱があったわけで、そのことが即ち倫理観の欠如であり、モラルの喪失であったのである。

これはジャンバルジャンが燭台を盗むことが罪に触れることを知りつつ、それでも生きんがためにしなければならなかったのとは対照的に、個人的には生きるゆとりは十分すぎるほどあるにもかかわらず、会社のためと称しながら、自らの保身のために、もっといえば自らの欲望のために、相手、監督官庁や司直を舐めて掛かったわけである。

ここに下賎な人間の驕りの構図が見え隠れしている。

これが「功成り名を成した人」の熟れの果てであるとするならば、家族や親ならずとも、まことに情けないことだと思う。

「下賎」という言葉の対極には「品の良さ」という概念が存在するが、人間の品というのは、3代を経ないことには身につかないといわれている。

「あさましい下賎さ」とか、「品位の気高さ」というものが、心身ともに身体に染み付くには1代では無理で、どうしても3代ぐらいの時間が必要だということであるが、人間の3代の時間というと約100年ぐらいではないかと思う。

大雑把に捉えて明治、大正、昭和という時間の流れが、その人間の3代という時間と合致するのではないかと思う。

そう考えたとき、我々、特に戦後の民主教育を受けた世代では、江戸時代に続いていた身分制度を明治政府が廃棄したことを新しい民主化の勃興というふうに捉え、良い意味で解釈して教わってきたと思う。

士農工商という身分制度を崩壊させたことは良い事だという認識に立って歴史というものを捉えてきたと思う。

そこで近代化を促進させなければならない新政府は、万民の中からペーパー・チェックのみで官吏を採用するようになると、ペーパー・チェックのみが人の価値を測るバロメーターになってしまった。

人間の持つ倫理観とか、モラルとか、正義感とかいう精神の内側のものは、他人には計り知れないもので、ましてやペーパー・チェックなどで窺い知ることの出来ないものである。

夫々の個人が、究極の選択を迫られる場面に遭遇しないことには、その人の正義感とか、倫理観、モラルというものは具現化しないわけで、その時になって始めて、その人の品位が人目に付くということになる。

ある個人の品位が人の前に露呈するときは、悪いケースしかないわけで、公金横領で捕まるとか、監督官庁に資料を隠したとか、クレームを隠したというように、正義感、倫理観、モラルの欠如が露呈して始めて、その人の品位が問われるわけで、それがなければその人の社会的地位が優先して立派な人で通ってしまっている。

ある人の精神がいくら気高いといったところで、その人が毎日毎日気高い精神で日常生活を送っていたとしても、それは人間として普通のことなわけで、マス・メデイアにとってはニュースのネタになり得ない。

しかし、人間が集まって織り成す社会では、このニュースのネタにはならない、普通に気高い精神で毎日を過ごすことが如何に大事で、法に触れるようなことはしない、というミニマムの気高さでもって日常生活をすることの重要さ、というものは全く無視され、埋没してしまっている。

公金横領で捕まるとか、監督官庁に資料を隠したとか、クレームを隠すような下賎な人は、その人個人がたまたま魔が刺して悪事をはたらいた、という類のものではない。

大学を出、高等教育を受けて優秀であるべき人、名誉ある社会的地位を占めている人が、たまたま出来心で悪事に手を貸したという類の犯罪ではない。

こういう人達は生れ落ちたときから、その心が腐っていたわけで、その心の腐敗というのは、3代前にまでさかのぼるのではないかと思う。

心の腐敗とペーパー・チェックの優劣とは何ら因果関係はないわけで、いくら学校の成績が良くても、心の腐敗というのは学校教育では是正不可能なことだと思う。

 

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