TVたっくる
11月29日、会社から帰ってきて夜民放でビートたけしが総合司会をしている「TVタックル」という番組を見た。
ビートたけしは私がもっとも嫌いな芸能人の一人で、普通は彼の番組を見ることなどほとんどないが、この日は教育問題を扱っていたので、他のレギュラー・メンバーやゲスト・メンバーがどういうことを言うのか興味があってみていた。
ビートたけしという人物の語り口は、どうしてああも人を馬鹿にしたものの言い方をするのであろう。
彼本人の問題というよりも、彼を司会に起用する局側のセンスの問題だと思う。
彼個人について言えば、放送する側にとっても、視聴する側にとっても、つまり放送業界にとって、一番ふさわしくない人間のはずだが、それが「彼のキャラクターが面白い」というだけの理由で司会に起用されているところに日本の文化のレベルの低さがあるように思える。
彼の悪口はさておき、この日のテーマは教育の問題であったので、他の人の意見を傾聴するつもりで構えて見ていた。
日本の教育については前々から非常に関心があったので、こういう態度となったのであろうが、目下の問題は、小泉首相の唱える三位一体の改革に関連して、義務教育に対する国の負担を大幅に見直し、同時に地方の自主性に応じて、教育の権限を大幅に地方に委譲するという方針に対して、論議が沸騰している。
この改革案に対して、地方の側は「大いに権限を委譲して地方の自主性を重んじてくれ」というし、文部科学省、つまり国の側、自民党の一部では、「それでは義務教育が地方によってばらつきが出来てしまうではないか」といって反対しているわけである。
しかし、我々の考えている義務教育という概念は、やはり明治維新の時代の発想ではないかと、この番組を見て思った。
我々が無意識のうちに描いている義務教育という概念は、100年も前の発想ではないかと考えさせられた。
確かに、明治維新で、文明開化を目指していたころの日本では、国民の全部に均等の知識を与える、国民の下のほうのレベル・アップをはかるということは、国家としての至上課題であったに違いない。
義務教育という言葉は、国民は自分の子弟にミニマムの教育を受けさせなければならない。
「自分の子供に初等教育を受けさせることは国民の義務だ」と言うことだったと思う。
国家の側としては、国民が義務としてミニマムの教育を行なうにあたって、その受け皿として、それを補償するために、日本全国津々浦々に小学校を作り教員を配置したのではないか考える。
そして、その結果としての我々は富国強兵に邁進し、様々な戦争を経験したことで今日の現況を得ているのである。
江戸時代の封建主義的思考から脱却して、近代化を邁進するためには、どうしても教育の充実ということは克服しなければならない条件であったが、今日の状況というのは、100年も前の状況とは完全に異なっているわけで、この変化を抜きにして同じ発想で教育を語るということは許されないことなのかもしれない。
100年も前ならば「貧乏人の子沢山」というのは極当たり前の状況であったが、今日の状況は、日本の何処を見てもそういう状況は転がっていない。
戦後の教育を受けた私でさえ、中学校のときは1クラス60人で9クラスもあった。1学年で500人以上同級生がいたわけである。
ところが今では都会でも田舎でも、1学年30人程度で、江戸時代の寺子屋の規模である。
時代の変化というのは児童の数の問題だけではないはずで、家から一歩外に出れば車の洪水で、家の中でコンピューター・ゲームを指先でちまちまする遊びをせざるを得ない状況である。
こういう社会の情況の変化、学校を取り巻く環境を考えれば、100年も前の教育理念が現在に通用しないことは理の当然である。
我々の国の義務教育が、「地方地方によって格差があってはならない」という発想は、一見整合性があり、正しいように見えるかもしれないが、時代にマッチした考え方ではない、ということは素直に認識しなければならないと思う。
我々の子供の頃は、地方に旅行するとその地方地方の特色のある風俗が見られたもので、今でも旅を愛する人は、その違いを楽しんでいると思うが、今地方にいっても風俗、特に子供の格好、服装というのは都会と全く変わらない。
いわずと知れたテレビの影響で、地方の風俗というものは今なくなってしまっている。
半世紀も前ならば、都会の子供は小奇麗で、こさっぱりとした洋服を着ていたが、田舎の子供は青っ洟をたらして、着物の裾を鼻水でてかてかに光らせていたものである。
これこそ都会と田舎の格差であり、文化の不均衡であった。
こんな状態が戦後もしばらくは続いていた。
こういう状況下では、確かに義務教育は国家の責務として、国民が社会生活を円満に出来るようにミニマムのものを、格差の出来ないように満遍なく普及させねばならなかったであろう。
この番組の中で、あるコメンテーターがいじめについて「子供があるグループでいじめにあっても、仲間が大勢いるならば他のグループにはいることが出来るが、今は子供の数そのものが少ないので逃げ場がない」と言っていたが、確かにそうだと思う。
私の経験でも、同級生が500人もいると、あっちの仲間こっちの仲間という具合にクラスを超えて様々な仲間と交友したものだ。
クラスを超えて仲間がいたものだから、教科書を忘れてきたときなど、その授業のない仲間と教科書の貸し借りをしたものである。
そして他のコメンテイターは「今の子供のキャパシテイー(収容能力)は昔の子供とは比べものにならないくらい高いものがある」と言っていたが、これも私自身実感として納得するにやぶさかでない。
このことは私の3歳の孫を見ているとまさしくそのキャパシテイーの高さを感じる。
私の孫を見ていると、教えればなんでも吸い取って吸収していく。
嫁いだ娘が自宅の近くに住んでいるので、いつもパラサイトされているが、彼女がつれてくる3歳の孫を見ていると、そのキャパシテイーの高さにはほとほと感心する。
「あいうえお」は既に2歳半ぐらいでマスターしてしまって、カタカナも今ではだいぶマスターしかけている。
そしてアルファベットは既に完全にマスターしてしまっている。
子煩悩なお爺さんが、孫を可愛がりながら、戯れつつ、面白半分に赤ん坊に色々なことを教えると、それを吸い取り紙がインクを吸うように、真綿が水を吸うように、どんどん吸収してしまうではないか。
こんな子がこれから先、幼稚園や小学校に上がっていくと、その授業がちょっとも面白くなく、授業を馬鹿にし、授業をもてあまし、最終的には浮き上がってしまって、先生からは嫌われ、厄介者扱いされ、落ちこぼれるのではないかと心配でたまらない。
授業が面白くないからきっと教室内では叱られ、結果として落ちこぼれ、異端者として、授業不適格者という評価を受けるのではないかと思う。
私はもともと学校が生徒にくだす評価というものを信用していないので、私個人としては何ら問題はないが、社会とか、世間というのはそうではなく、学校の評価を金科玉条と信じている節がある。
生徒が学校に対して素直に従わないと、学校側が意地悪をする節があって、生徒の進路を学校側が握っている限り、生徒は学校に従順にならざるを得ない面があるように思う。
生徒の進路を学校が握るということは、父兄のほうの「自分の子供を少しでも良い学校に進ませたい」という欲求を、学校側が逆手に取っているわけで、父兄の側にこの欲求がある限り、内申点、内申書というのは学校側の切り札になる。
昔はこの欲求が左程強くなかったので、学校側は好きなようの生徒をリードできたが、戦後、民権意識が強くなったものだから、父兄の学校に対する発言権が強くなってしまい、学校側も対抗上、子供の将来、つまり「少しでも良い学校の進ませたい」という親の願望を人質にとって、父兄を黙らせるという手法を講じているものと考える。
子供のキャパシテイーが非常に高くなったにもかかわらず、制度のほうが100年も前のままでは、当然枠にはまりきらない面が出るのは当たり前だと思う。
21世紀になると、かっての日本をここまで持ち上げてきた義務教育の理念というものも時代遅れになってきたのではないかと思う。
今日のように、どこの家庭にもコンピューターが入って、幼児でもマウスをいじくりまわすことの可能な時代になれば、その時代状況に合致した教育というものが必要なことは火を見るより明らかなことだと思う。
ところが現在では、その時代状況にあった教育というものがまだ確立されていないのではないかと思う。
コンピューターが社会に蔓延しかけたとき、IT格差ということが話題になったことがある。
コンピューターを使える人と使えない人では社会的に受ける恩恵に大きな較差がでるという話であった。
これは車に乗れる人と乗れない人で社会的な格差があるかどうかという問題と同じだと思うが、文明の利器としてのコンピューターが使えないということは、それだけ本人が損をしていることは確かである。
しかし、だからといって社会的な格差を云々するほど大きなものではないと思う。
コンピューターを使えない人には従来の手法が残されているわけで、従来の手法では非能率だから能率の良いコンピューターを使っているだけのことと考えれば、コンピューターが使えないからといってそのことがそのまま社会的な弱者になってしまうというものではない。
ところがこれからの社会、21世紀の社会は好むと好まざると完全にコンピューター社会になると思う。
そういう状況を目の前にして、幼児のころからコンピューターを触る機会のある子供というのは、21世紀のコンピューター社会を生きぬく上で非常に有利なことは目に見えていると思う。
それを見越して、既に今の小中学校でもコンピューター教育が取り入れられているが、それを教える先生のほうが不足していると思う。
今日のように極めて複雑な社会になってくると、社会の需要を満たす教育を実施するためには、それに対応する先生のほうが不足していると思うし、そういう先生はそう早急には補充できないと思う。
今の日本の社会というのは、実に複雑怪奇な状況を呈しているわけで、64歳の私でも10年前,20年前には想像もつかないような状況になっている。
学校の英語教育の現場で帰国子女の扱いには大いに困っているのではないかと思う。
会話に関していえば先生よりも生徒のほうが断然上手いわけで、それはコンピューターについても言えるわけで、先生よりも生徒のほうが断然博識で、先生のほうが太刀打ちできないという状況が往々にしてあると思う。
それと、外国から来た労働者に対する子女の教育なども困った問題だと思う。
こういう状況は10年目、20年前には想像も出来ないことであった。
私の教育に対する認識も、従来からの既成概念から一歩も出るものではなく、ついつい日教組に対する悪口に終始しがちであるが、今の教育の問題というのは、もう日教組に対する八つ当たりでは解決できない状況に陥っている。
我々の社会そのものが、教育の問題を内包したまま、かっては想像も出来ないような異質なものに変わってしまっている。
特に最近の言葉でNEETというのがある。
働きもせず、それかといって学校にも行かず、家にこもっている若者のことらしいが、いい若者が働きもせず学校にも行かないというのが私には信じられない。
その背景には、親が経済的に豊で、一人ぐらいの人間ならば、例え無為徒食の者であったとしても、食わせていけるということがあるらしいが、こんな状況が出てくるということ自体が、いよいよ日本の世紀末が近づいてきたということであろう。
この問題を語るとき、我々の目線は働かない若者のほうに向きがちであるが、問題は若者にそういう状況を許している親に向けるべきではなかろうか。
若者の問題というよりも、その親の問題だと思う。
息子や娘が働かなくても、食わせてやれると思い込んでいる親の責任の問題だと思う。
働きもせず、勉強もしない若者を、意味もなく養い続けるということは、ある種の罪悪だということに、親のほうが気がついておらず、自分の子供が社会人として自立できていない半人前の存在だということを、親自身が自覚していないということだと思う。
親の責任放棄だ!
親としては自分の子供を自立させて始めて親の責任を果たすということである。
こういう若者の親というのは、まぎれもなく戦後の民主教育を謳歌してきた世代で、子供の目線で教育を考えてきた世代である。
教育を押し付けるのではなく、自らか考えることを学ばせる、などと奇麗事で通してきた世代である。
子供の目線で教育を考える、などと馬鹿げたことを信じてきた世代がNEETといわれる親の世代である。
戦後の日教組が推し進めてきた亡国の論理が見事に花開いた結果だと私は思う。
戦後の日教組というのは100%共産主義者であったわけで、旧ソビエット連邦や今の中華人民共和国の利益代表として、こういう外国の手先となって、日本を内側から弱体化することに情熱を掛けていた。
口先では「将来の日本のため」とか「国民のため」などと奇麗事を並べて、外国勢力に媚を売っていたわけで、私個人としては彼ら共産主義者から、やつらと同じ国民と思われるのは迷惑千盤である。
しかし戦後の日本の教育界は、完全に彼らに牛耳られて、その結果として21世紀の初頭に、見事に亡国の民を作ることに成功を見たわけである。
旧ソビエット連邦が崩壊して既に10年以上が経過して、今、共産主義を口にする人さえいなくなったが、共産主義というのは人間の発明した偉大な思想ということは昔も今も変わらないと思う。
その壮大な実験場が旧のソビエット連邦であり、中華人民共和国であったので、現在の日本でも、その影響というのは連綿と生き残っていると思う。
旧ソビエット連邦が崩壊して、日本の共産主義者たちも自分たちの指針を見失ったことはいうまでもないが、日本の共産主義者たちが目指した理念、理想の残滓、廃墟、あとかた、朽ちかけた遺構というのは、いまだに残っているわけで、それが地震の際の液状化現象のように噴出したのが、今、NEETと呼ばれている若者の問題だと思う。
彼らの目指していた理想が今ぼつぼつと具現化しだしたのがNEETと称せられる若い日本人の出現であろうと思う。
このことはNEETと呼ばれる若者に責任があるわけではなく、そういう若者をはぐくみ、育て上げた親の側に大きな責任が存在するものと言える。
若者自身は、私の孫と同じで、全く白紙の状態であったが、それをそういう風に育て上げたのは戦後の民主教育なるものを身をもって体験してきた彼ら若者の親の世代である。
親だけではなく、その若者を取り巻くあらゆる人間が、戦後の民主教育の名の下に、日本人を駄目な方向に、人間として全く価値のないものに仕立て上げたわけである。
NEETと称せられる若者、つまり働くこともせず勉強もしようとしない若者を駄目人間として、人間として価値のないものと認定すること自体、この親の世代は否定するに違いない。
親の側にそういう認識があるが故に、こういう若者が生まれてきたのだ、ということすらきっと理解していないに違いない。
我々が子供の時のように、「貧乏人の子沢山」という状況が極当たり前であれば、良い若者が働かないなどということは考えられない。
働かなければ生を維持することすら危うかったからである。
かっての日教組が理想とした教育は、皆が一様に東京大学のような高等教育を受けることの出来る環境を作ることであった。
日本の大学を全部東京大学と同じレベルにして、そしてそこには全員が進学できるようにすべきだ、というのが日教組の究極の理念であった。
しかし、それはあくまでも絵に書いた餅に過ぎず、画餅ではあるが、その夢の実現を真剣になって追及しようとしたのが日教組という共産主義者の集団であった。
不思議なことにこの構図そのものが昔、日本が戦争に嵌まり込んでいった構図と全く同じではないか。
大東亜共栄圏の確立、五族協和のアジア主義というのは、正に理想、理念としては立派なものであったが、それはあくまでも絵の書いた餅に過ぎず、全く現実性がなかったにもかかわらず、我々は挙国一致でそれに立ち向かっていったではないか。
戦後、日教組が理念として目指そうとしたことと、我々の先輩諸氏が戦争に突き進んでいった構図が全く同じではないか。
日教組の掲げる主張は共産主義であったが、我々が戦争に突き進んでいった時の主張は軍国主義で、我々が国を上げて何かをしようとすると、主義主張がまったく反対のベクトルであったとしても、行為と行動においては全く同じパターンを踏襲しているではないか。
戦争で敗北した我々には「国敗れて山河あり」であったが、共産主義のソビエット連邦が崩壊した後の日教組は、彼らの闘争の指針を失ってしまい、一見挫折したかにに見えたが、あにはからんや彼らの究極の目的である日本を亡国の淵に追い込むことでは完全に成功したわけである。
日本が復興を遂げ、高度経済成長を遂げ、人々の生活が豊になると、共産主義の唱える夢物語というのは魅力をしなってしまい、以前は一生懸命活動して馬鹿な夢を追っていた人々も、現実の生活を直視し、目の前の現実に自己を合わせるほうにより幸せを感じるようになったわけである。
ところが日常生活では一見平和を維持しているように見えていたが、精神のほうには相変わらず共産主義の残滓が残っていて、そう極端な思考転換が出来なかったものだから、我が子の育て方に自信をなくし、自信がないものだから腫れ物に触るような育て方をしたので、その結果としてわけの判らない世代が誕生したということだと思う。
戦後の民主教育を受けた世代が、人の親となってみると、自分の子供の育て方がわからず、子育てに自信を持つことなく、ただなんとなく飯を食わせて大きくしたので、こういう人間が生まれてきたものと思う。
NEETと称する人種が、日本で生誕するまでの日教組の目指した教育というのはまことに罪が深いと思う。
罪が深いばかりではなく亡国的な行為だったと思う。
もっとも、日教組の共産党員というのは、旧ソビエット連邦や中華人民共和国の共産党からの指令で、自国民の同邦のことよりも共産主義という思考に忠実たらんとしていたので、内側から日本という国、国家そのものを崩壊させることに奔走していたわけで、その具体的な行為として秩序の破壊ということが普遍的に採用されていたわけである。
地球上のあらゆる組織で、組織である以上その組織を維持するには秩序というものが不可欠で、秩序のない組織というものはありえない。
暴力団からマフィアにいたるまで、人間の作った組織である以上、その組織には秩序というものが自然発生的に生まれる。
明文化されたものもあれば、明文化されず伝承とか伝統という名目で、文字には表されないまま昔から言い伝えられてきたものもある。
しかし、これらは文章で書かれていようといまいと、それは組織を維持する秩序であることには変わりない。
それが暴力団やマフィアであれば血の掟であり、近代国家であれば憲法を頂点とする法律である。
そして、組織というものの実態が暴力団であれ、マフィアであれ、会社や企業であれ、国家であれ、その組織を構成している構成員は率先してそういうルール、いわゆる秩序に従わなければ、如何なる組織でも内部崩壊して、組織そのものが維持できないことは論を待たない。
ところが共産主義者というのは、まず最初に革命ありきで、革命のためには手段を厭わないが、そうそう安易に革命などというものが起こせるわけではない。
しかし、「革命を起こしてその後にユートピアを作るのだ」という信念を貫くためには、その前に革命の起きる状況というものを作り上げなければならない。
「共産党宣言」を著したマルクス自身が、その本の冒頭に、「共産主義というのは幽霊だ」と言っているが、このマルクスの言葉は全く至言で、共産主義というのは正に怪物的な幻惑で、つかみ所のない幽霊そのものである。
問題は、革命の前段階の状況を作り出すための秩序の破壊という行為である。
日本共産党、中でも日教組というのは教育現場でこれをしたのである。
彼らは日本の内部から、健康な肉体に宿ったがん細胞のように、体の内部から徐々にあの手この手で健康な細胞を蝕んでいった結果が今日、NEETと称する若者の出現である。
彼らは階級制度というものを諸悪の根源と捉えているので、生徒と教師の立場さえ否定したわけである。
だから「生徒の立場でものを考える」という発想が生まれ、「生徒の目線で考える」という発想が生まれたのである。
人にものを教えるという行為の中で、教えるものと教えられものが同じ立場に立っていては、教えるという行為は成り立たないではないか。
こういう発想の延長線上に、幼児に躾をするということも、年長者が弱者を抑圧するという感覚で捉えたものだから、家庭内で子供に対する躾がスポイルされてしまったのである。
今、NEETと言われている親の世代がこういう間違った平等主義の中で教育を受けてきたので、親子関係も友達感覚になってしまい、年長者に対する応対の仕方も、仲間感覚になってしまったので、家庭崩壊が進んできたものと考える。
共産主義者が階級闘争と称して階級制度を糾弾するのもおかしなことである。
彼ら自身の共産党内でも立派に階級制度が生きているではないか。
彼らが階級制度を糾弾するのは、ようするに他人の、他国の、自分にとって不都合な、階級制度を糾弾するのであって、自分たちの組織は立派な階級制度を維持し、鉄の団結で以って秩序を維持していたではないか。
要は、自分たちにとって不都合なものはすべて相手が悪いという論法で、秩序の破壊を繰り広げていたわけである。
自分にとって不都合なものは総て相手の所為にするというのも、ある意味では極めて人間の本質を突いているように見えるが、倫理的に見ればこれほどアンチ・モラルは発想もまたとない。
普通の人ならば自分にとって少々不都合であっても、それが法規で決められたものや、社会通念上の普遍的なことならば、自分の方を妥協させて「全体に尽くさねば」という発想になる。
ところが共産党員の場合は、自分にとって不都合であれば、法律のほうが悪いから自分は従わない、という論法になるのである。
権利と義務を履き違えて、権利は何処までは追求するが、義務の方は自分にとって不都合だから知らぬ存ぜぬということを押し通してしまうのである。
こういう思考の元で育てられ、生育し、教育を受けた人達が、今、NEETと言われている、働かない、学ぼうとしない、努力しようとしない若者である。
判りやすく一括りに言ってしまえば、団塊の世代の子息がNEETであるということである。
この団塊の世代というのは、戦後の日教組の民主化教育というものをモロに受けた世代で、日本の共産党員によって完全なる亡国教育を受けてきた人達である。
普遍的なモラルを持った人間からすれば、まことの許しがたい行為で、彼ら日本共産党員の片割れとしての日教組が行なった教育は、日本人の若者の精神的荒廃を招く方向に導いており、そしてそれは大成功を収めたわけである。
学校間の格差を是正するという名目で、学力の底上げを図ろうとしたが、それは結果として優秀なもの、出来るものの能力を押し殺すことをして、個性の尊重と称しながら突出したものを諌めて、均一化した横並びの風潮を奨励したではないか。
一般論として小中学校、乃至は高校、大学においても、生徒や学生というのは精神的に又思考的にも白紙の状態であるはずだから、そういう白紙の子供や学生を扱う先生というのは、思想的に不偏不党でなければならず、完全にニュートラルでなければならないと思う。
そういう若者の前に立つ先生や大学の講師が、一政党の政党員であってもらっては子供を預ける親としてはたまったものではない。
憲法で保障する「思想・信条の自由」というは、自分の信ずる信条を公の場で布教、折伏しても構わないというものではない筈である。
個人としては如何なる宗教、如何なる信条を信じようとそれは自由であるが、自分の信ずるところを公の場で人に勧めることは許されていないと思う。
日教組というのは労働組合であって、組合の仕事と公務をごっちゃにして、共産党の方針に添って勝手に授業をしてもらっては子供を預けている親としてはたまったものではない。
こういう日教組の教育をドップリ受けた世代は、個人の尊重ということをことさら強調し、何事に対しても押し付けでことを処理することに躊躇し、そういうことには強く反発しなければ、ということを強く意識しているので、人に強制的に物事をさせるということを徹底的に忌み嫌う。
そのことは、裏を返せば自分の子供の躾さえも出来ないし、しようとしないということである。
子供と同じ目線で物を考える親、子供と同じ視線で物事を教える先生であったとすれば、躾も教育も成り立たないではないか。
躾も教育もある程度の強制力が伴わないことには成り立たないわけで、「子供の嫌がることを押し付けてはならない」ということであれば躾も教育も全く成り立たなく、ただただ我儘を助長するだけと言うことになる。
NEETといわれる若者はまさしくそれではないか!
「子供の自主性を重んずる教育」などと口先では奇麗事を並べてはいるが、それでは教育そのものをしない、ということと同義語で、それが良い事だと勘違いしているのである。
人間として躾が出来ていないということは、もうそれだけで人間失格であり、人間として生きている意味がないにもかかわらず、そういう人間でも一人前の社会人として扱わねばならないと思い込んでおり、それを他人にも強要するから始末に終えない。
NEETといわれている人間でも、夫々の個人は様々な能力を兼ね備えていると思う。
一人一人の人間は様々な能力を持っていながら、それを社会に反映させられないというのは、社会的にも大きな損失であろうが、そういう若者に、人間としての基本的な躾がなされていないということは、完全に親の責任と言うべきで、親がだらしなかったから結果的に社会に大きな損失を与えた、ということをそういう親に判らせなければならないと思う。
この社会的な損失の遠因は、戦後教育の中で日教組の示した民主教育と言うものの負の側面が露呈したことだと思う。
この地球上で生きている人間で、自分の好きな職業についている人などと言うのはそうそういるものではないと思う。
大部分の人は、自分の職業が心から好きというわけではないが、妻子を養うため我慢してそれをしているのではないかと思う。
この「我慢」ということは人が生きていくうえで一番肝要なことではないかと思う。
戦後の民主教育というのは、この「我慢をする」ということを否定的に捉えて、「我慢する必要はない、我慢しなければならないのは社会が悪いから社会のほうを変えるべきだ」ということを執拗に若者に教えてきたので今、NEETなどと称する若者が増えたものと考える。
世の中の景気不景気というのはサイン・コサインのカーブと同じで、常に変動しているわけで、学校出たての若者がそう安易に自分の好きな職業に就けるなどということはありえない。
その前に、五体満足な若者ならば、何はともあれ、まず自立するということが先決だと思う。
自立ということを考えれば、親元でごろごろというわけには行かず、好むと好まざると職業に就かねばならず、NEETなどということにはならないはずである。
自立できない若者というのは、もう完全に社会人としては人間の値打ちのないものといわねばならず、人間失格である。
NEETと称する若者の出現は親の責任だと述べたが、親が子を躾ける環境というのも、私が子供の頃と比べると大きく変わってしまったことは否めない。
第一、今の子供には家の中で家事を手伝わせようにも、手伝わせる仕事がない。
昔ならば、ご飯を炊くにも、風呂を沸かすにも、子守りも、井戸の水汲みも、庭掃除でも、子供に手伝わせるべき仕事があったが、今の家庭には子供にさせるべき仕儀が全く存在しない。
だから子供の方は手伝った駄賃に小遣いを貰うという感激の場がない。
子供は勉強だけをしていればそれでいいわけであるが、勉強というのはいくらしてもしすぎるということもない代わりに、いくらしても必ずしもトップになるということもないわけで、ある意味でむなしい作業なのかもしれない。
キャパシテイーが大きく、吸い取り紙がインクを吸収するように、なんでも吸収する頭脳の持ち主が、学校という環境の中に入れられると、そのもてる能力を思う存分発揮すると、異端者として、学校の方針に合わないものとして、皆との足並みを乱すものとして、抑圧されてしまうのではないかと思う。
こうなると当人は学校に行っても面白くないわけで、仲間のいじめにあうよりまえに、先生とのコミニケーションが破綻してしまって、心のよりどころを失ってしまうのである。
しかし、そのことは家庭では理解されず、親としてみれば先生との確執よりも、むしろ仲間とのいじめに問題があると思い込んでしまう。
確かにいまどきの子供は先生よりもものを良く知っていると思う。
子供のほうが先生を超えているにもかかわらず、学校としては、その現実を受け入れるわけにはいかないわけで、子供の方を学校のカリキュラムに合わせようとする。
これでは授業を受ける立場の生徒の方は面白くないないと思うのも当然だ。
つまり、学校の使命というものが、明治時代に確立された学校教育の理念、義務教育の概念とかけ離れてしまっているわけで、教育制度そのものが21世紀という時代に合わなくなってしまっていると思う。
我が家の例を見ても、家の中にはテレビがあり、ビデオがあり、コンピューターがあるわけで、これが特別なことではなく普通の家庭の状況であり、3歳の孫がテレビのスイッチをいれ、ビデオを自分で見て、コンピューターのマウスをいじりましているのである。
明治時代の3歳の子供とは完全に別の人間だと思ってかからねばならないと思う。
今の日本の3歳児に代表される幼児を、明治時代の人間が見たとすれ、エイリアンに映るに違いない。
特別に教えたわけではないが、3歳の子供が既に「あいうえお」をそらんじ、数は百まで数え、アルファベットまで知っているのである。
これは特別に教えたわけでわけではなく、毎日の日常生活の中で、例えば風呂の中で数を数えたり、散歩のとき商店の看板を見たりして、なんとなく自然に覚えてしまったわけで、21世紀の子供というのはこういう子供が多くなると思う。
昔から「幼児のときは神童で、途中は天才で、大学を出るとただの人」という俚諺があるが、これは幼児の時の才能を学校教育を経ることで総て押しつぶしてしまうということではないかと思う。
我が家の例を見ても、今の子供のキャパシテイ―はとてつもなく高いものがあるといわなければならないが、教育の制度の方は、それに十分対応しているとはいえないと思う。
こういう状況から鑑みて、全国一律の義務教育というのはもう完全に時代遅れになっていると考えるべきだ。
それと同時に日教組が過去に推奨した学校間の格差の是正ということも、完全なる間違いであったことを素直に認めなければならないと思う。
学校間の格差を是正するということは、間違った平等意識の発露で、何でもかんでも平等でなければならないと考えるところが共産主義者の共産主義者たる所以である。
人は大昔から十人十色といわれているように、一人一人みな違っているのに、それを皆一緒でなければならないという発想は、完全に基本的人権の尊厳を踏みにじる発想である。
小泉首相の唱える三位一体の改革論議の中で、全国一律の学校教育を維持しなければならない、という発想は完全に時代遅れの思考だと思う。
テレビがこれだけ普及して、中学生の服装など、もう都会も田舎も区別つかないような状況下で、全国一律に同じ教育内容でなければならない、というのは明らかに明治維新当時の発想から一歩も出るものではない。
あの時代には確かに日本全国津々浦々に同じ教育内容でなければ、国民の間に知育、知識の格差が生じ、不公平、不平等が蔓延したかもしれないが、今日ではもうそういう危惧は取り越し苦労に過ぎないものになったと思う。
それよりも、地方に積極的に個性的な教育機関を設立して、そういう特色のある学校には、全国から生徒や学生が集まるようなシステムを構築したほうが将来の日本にとってよりベターだと思う。
大昔でも「孟母三遷の教え」という言葉があるように、自分の目指す教育を求めて、個人のほうが学校を探してそこに行くという発想はあったわけで、社会全体から見てそのほうがより合理的だと思う。
それと教育に関してもう一つ問題にしなければならないことは、あまりにも学校法人としての学校が多すぎると思う。
教育ということが金儲けの手段と化している。
資本主義社会なのだから、基本的には教育を金儲けの手段としても悪いことはないが、それにしてもこういう金儲け主義の学校には品位がない。
日本が学歴社会になった原因も、明治維新以降の教育の普及に伴って、官立の大学のものが優先的に官吏になる、なれた、なったという実績から、学歴社会というものが自然発生的に出来上がったものと考える。
東京帝国大学の法学部卒業のものが官吏としての最優遇されたわけで、それから派生的にピラミット型に社会的な地位が形成されたものだから、品位のない下賎な庶民は、少しでも良い大学にいけば、それだけ社会で有利になれると勘違いしてしまったわけである。
今日の諸悪の根源はすべからくここにあると思う。
学校を出ると社会的に有利な地位を獲得できる、ということがわかると、世の中の下賎な下々のものが大挙して大学の門を潜るようになった。
この勘違いは人を採用する側も同じような錯覚に陥って、少しでも良い大学から人をとれば間違いないだろう、という思い込みに嵌ったわけである。
それで東京大学を頂点とするピラミット型の学歴社会というものが出来上がったのはいいが、下賎な庶民は、大学でさえあれば行かないよりは行ったほうが得であろう、と浅はかにも考えたわけで、その考え方に便乗して金儲けをしようと企んでいたのが泡沫大学の乱立である。
馬鹿な学生を、高額の入学金を取って4年間遊ばせておいて、後はもっともらしく卒業証書を発行しさえすれば、それで教育という崇高な仕事したことになるわけで、金儲けの手段としてこれほど大義名分の立派な業界も他にあまりないのではないかと思う。
戦後、旧帝国大学が整理され、高等専門学校が統合されて新たに国立大学が各県に一校ずつ設立されたとき、駅弁大学と揶揄されたが 今日の私立大学の乱立というのはどう表現したらいいのであろう。
泡沫大学に較べればまだ進学予備校のほうがはるかに健気に見える。
何故、今までの文部省はこういう泡沫大学を認可、許可したのであろう。
これもやはり「教育をする機関というのは多ければ多いほど良い」という明治維新以降の日本の教育に関する潜在意識がそうさせたのであろうか。
こういう泡沫大学を出た若者は、大学を卒業してから専門学校に行っているようで、これでは順序が逆なのだけれど、本人たちは大学が高等教育の場で、自分たちはその高等教育を受けたのだという意識がまったくないからこういう逆転現象をなんとも思っていないのであろう。
大学と名のつく遊園地で、良い若い者が4年間も遊んで暮らせるということは、まことにありがたい世の中だと言わなければならないが、本人達はまったくそういうことを感じてはいないと思う。
大半のアジアの国、いや地球上の大半の国ならば、徴兵制の元で兵役につかなければならない年頃で、とても遊んで暮らせる状況ではないはずである。
しかし、日本ではそれが許されているわけで、そのこと自体が、日本という国が世界でも余程異質な国ということであろう。
こういう人達がいわゆるNEETの予備軍であろうと思う。
NEETの若者というのも、一人一人の個人は様々な能力を秘めていると思うが、その能力を出し切れないまどろっこしさ、その原因というのは一体なんであろう。
その若者の親の育て方が悪かったといってしまえば実も蓋もないが、仮にそうだとしても、その個人の持った能力を引き出す方法というのは全くないものだろうか。
恐らくそういう人達のコンピューターの扱う能力というのは並大抵のものではないと思う。
そして多分、想像する範囲では、そういう人達の漫画を書く能力とか、文章を書く能力というのも相当なものを持っているのではないかと思う。
そういう能力を個人的には秘めていても、その人が社会に出てきて人と交わりながら事を為す喜びというものを本人自身が会得しないことには解決策にはならないわけで、そこが難しいところだと思う。
勉強もしない、働くこともしない若者というのは、物事を達成した時の喜びというものを知らないのではないかと思う。
それでいて親にパラサイトしている限り、食うことだけは難なく出来るわけで、飢えるということを知らないので、世界中どこに行ってもこんなもんだと思っているに違いない。
NEETの若者に如何に社会復帰させるかという問題の中で、彼らの秘めたる能力をそのまま直接社会で生かすということはまず考えられない。
今、現在、世の中で活躍しているあらゆる人々は、好きなことを好き気ままにやっているわけではなく、一見そう見えても、人が想像しきれないほどの努力を見えないところでやっているわけで、そういう努力をしないで働きたいといっても、それは無理というものである。
社会に出て働くという前に、自分が苦痛と思うことでも、しばらくの間はじっと我慢する根性、根気、我慢する努力、我慢する勇気をつけることが先だと思う。
何事にも我慢することが出来ないので自分の殻に逃げ込もうとしているわけである。
こういう子の親は、自分の子に我慢するということを教えなかったのである。
最近おきた事件を見ても、いい年をした若者が両親を殺したり、集団で自殺したり、集団でレイプしたりする事件を見ると、本人よりもそういう息子や娘を育てた親がいい面の皮である。
一言でいえば馬鹿だ。
自分の息子に殺されるような親は、育てた親が馬鹿としか言いようがない。
他にどういう言い方あるのであろう。
親自身が蒔いた種を自分で刈り取ったとしか言いようがないではないか。
全く本人ともども何とも救いようがない。
「衣食足りて礼節を知る」といわれているが、この礼節を知る人というのは、極めて倫理的に崇高な人でなければ礼節を知るということにはならないのではないかと思う。
有象無象の下賎な人は、いくら衣食が足りても礼節を知るという精神性の高さは望めないと思う。
衣食足りて礼節を知るほどの人は、相当に精神的に高貴な方でなければ、とてもこう言えたものではない。
ここで問題となってくるのが社会的な地位のある人の犯罪である。
一番目新しいところでは新日鉄の社長の御曹司が相続税を誤魔化した事件であるが、それとは次元が異なるが、そもそも企業を潰してしまうような経営者というのは、犯罪者に匹敵するほどの罪作りな人達だと思う。
直接、刑事罰には当たらないかもしれないが、自分の会社を潰してしまうということは、どこかに犯罪に近い不法ぎりぎりの行為があったから会社が潰れるわけで、正々堂々と生業にいそしんでいれば会社が潰れるなどということはそうあるものではないと思う。
それから脱税をするという行為も、極めて反社会的な行為だと思うが、どうも世間では追徴金さえ払えば免罪される、という軽い感じで受け入れられているようだ。
が、しかし、モラルということを考えるとそう安易なことではないと思う。
税というのは、水戸黄門のテレビドラマに出てくる悪代官が領民に過酷な税を課すというイメージで捉えがちなので、それを免れようという行為に対して、案外寛大な心証を持ちがちであるが、そういうものではないと思う。
人が汗水たらして働いて金を儲ける。その儲けた金の一部を税金として国家に献上するということは主権国家の国民としての当然の義務である。
人が汗水垂らして働けるということは、そのこと自体が既に国家の恩恵の元で成り立っているわけで、国家の恩恵の元で金を儲けることが出来たならば、その儲けた金の一部を国家に献上するのは当然のことだと思う。
「俺が一生懸命働いたのだから、儲けた金は全部俺のものだ」ということは成り立たないと思う。
無人島に流れ着いたロビンソン・クルーソーならばそういうことが言えるかもしれないが、今の我々の社会というのは、様々な人がお互いに連携しあって成り立っているわけで、「俺一人が一生懸命働いた」といったところで、他人の関与、または社会の基盤と関わり抜きではありえない。
それがあって始めて社会的な恩恵の中で一生懸命働くことが出来た、ということに繋がるのである。
そのことは国家に庇護の下で一生懸命働くことが出来、結果として金儲けに成功できたわけで、その恩返しに何がしかの金を国家に返上することはモラル的にも義務となる。
新日鉄の社長の御曹司の9億円もの相続税のごまかしと言うのも、金持ちのする行為としてまことに情けなく、浅ましく、破廉恥極まりない行為だと思う。
金持ちとして、その心はあまりにも意地汚いではないか。
使いきれないほどの金を持ちながら、なおも税金を誤魔化そうなどと考える人間は、人間として最低だと思う。
税金を誤魔化そうと考えている人間は、この世の中に掃いて捨てるほどいることは十分承知している。
そういう人達というのは皆が皆、下賎で、品位がなく、卑しくて、浅ましくて、貧乏人根性の持ち主で、権利のみ主張して義務を果たすことを忌み嫌う人達で、モラルの欠けた人達であるが、社長の御曹司が相続税を誤魔化すということは、こういう人達と道徳的に同じだということである。
新日鉄の社長の御曹司がこうであっていいものだろうか?
そうまでして親から貰った遺産に固執し続けたいものだろうか?
金持ちほどけちだというが、まさしくそれではないか。
財産と税の問題というのは、人類にとってもっと古典的な悩みの1つであろうが、「税を納めたくない」、「税を誤魔化したい」というのは、人間の基本的欲求だとは思うが、それは持てるものの悩みで、財産を持っていないものはまことに気楽なものだ。
しかし、基本的には人間というのは一人で生きれるわけではなく、社会的な連携の中で生かされている、社会的な恩恵を受けながら生きているということを考えたとき、その社会的な連携、社会的な恩恵を維持するためのコストというものは、皆が出し合わなければならないと思う。
そう考えたとすれば、税金というのは国民が競って、率先して払ってしかるべきだと思う。
確かに、汗水たらして働いて、一旦自分の手の中に入ってきたものを、再び税金として持っていかれるのは悔しいし、むなしく感じるのも人間としては当然の感情だろうと思う。
けれども、今、元気に働くことが出来、住む家もあって食うに困らない状況であれば、少々のことは我慢し、受容しなければならないと思う。
食っていけないほど税金を取られたというのであれば問題であるが、そうでない限り、法の定めには従うよりほかにないと思う、
世の中には。節税という考え方が合って、これは脱税に較べればかなり穏健な考え方であるが、この節税というのも大いに考えさせられる行為だと思う。
西部グループの堤正義という経営者は、コクドという会社を使ってかなりの節税をしていたようであるが、節税は脱税よりはまだましとはいうものの、その深層心理においては「脱税をしたい」という願望と紙一重なわけで、モラルの面からすれば誉められた行為ではないと思う。
法の目を合法的にかいくぐれば、それは節税という言葉で容認されがちであるが、税金を納めたくないという深層心理の面では脱税とまったく同じなわけで、合法的に法の網の目をかいくぐろうという発想においては、決して褒められた行為ではない。
税金を少しでも免れたい、という深層心理の面では不道徳とぎりぎりの線である。
既に何度も言っているように、今日の大企業の経営者というのは、無学文盲のものがなっているわけではない。
高等教育を受けた立派な大学を卒業した人達が企業を経営しているわけで、そういう人達が税金を免れようと画策するということは、一体どういうことなのであろう。
単純に物事を考えれば、高等教育を受けた人達というのは、既にもうそれだけで社会の恩恵に浴し、社会の恩典に浴しているわけで、もうそれだけで社会に対して何らかの恩返しを考えなければならない立場だと思う。
社会の恩典の一翼として、高度な教育を受けることが出来、その結果として立派な企業に就職でき、その企業のトップの地位まで登りつめたとしたならば、普通に常識を備えた人間ならば、当然、社会一般に対し恩返しということに思いが至るのが当然だと思う。
この場合、一番手っ取り早い恩返しというのが、決められた税金を耳をそろえて納めるということである。
税金というのは不思議なもので、自分から申告しないことには税金の額というのは決まらないわけで、沢山申告すれば税金も多くなり、少ししか申告しなければ税金も安くなるわけである。
それで下賎な人々は、自分の儲けを少しでも少ないほうに申告して、節税、脱税ということをするわけである。
この発想そのものが実にさもしい発想で、下賎そのものであり、卑しさのもっとも顕著な具体的な現れである。
西武グループの堤正義のコクドというのは、儲けていながら赤字経営に見せかけて、税金を免れていたわけで、これほど悪質、下賎、卑しい企業家もまたとないのではないかと思う。
人間、死んでしまえば金を持って三途の川が渡れるわけでもないのに、生きて恥を曝すのも格好の良いものではない。
清貧という言葉があるが、人間の生き様として、この方が余程格好よく映る。
生涯に使いきれないほどの金を持ちながら、それでも尚税金として自分の国に金を納めることを拒もうとする拝金主義者は、総ての人から唾棄されたとしても尚怨み足らないと思う。
人間としての屑以外のなにものでもない。
それにつけても三菱自動車のクレーム隠しとか、旧東海銀行、UFJ銀行の融資先のデーター隠し事件というのでは経営者の教養というものが全く一文の値打ちもないということを如実に露呈している。
今時の会社の経営者で、大学を出ていない人、高等教育を受けていない人というのはほとんどいないと思う。
昔は松下幸之助や本田総一郎などという経営者は高等教育を受けていなくても自分の会社を大企業にまで発展させたが、今の大企業の経営者で、高等教育を受けていない人というのはまずいないと思う。
三菱自動車の経営者でも、旧東海銀行の経営者でも、おそらく高等教育は受けていると思うが、その受けた高等教育がモラルの向上には何一つ貢献していないから、クレームを隠したりデーターを隠すという品位のないことをしでかしたと思う。
本人達にはクレームやデーターを隠すということの意義、意味、本質さえ理解していなかったのではないかと思う。
だとすると大学で高等教育を受けた意義というのは一体どういうことなのであろう。
大学に入学して4年間高等教育を受けて、それがモラルの向上に何一つ反映していないということは、高等教育というものを一体どう解釈したらいいのであろう。
モラルを失する、モラルがない、アンチ・モラルということは、そのまま下賤ということに直結するわけで、大学にまで進んで高等教育を受けても、なおモラルがないままだということならば、その高等教育というのは一体なんであったのかといわなければならない。
問題の本質は、高等教育を受けたからモラルが向上するのではなく、最初からモラルのない下賎なものが高等教育を受けたとみなすべきだと思う。
モラルというものは学校で教わるものではなく、家庭内の躾で身に付くものである以上、学校教育ではモラルの向上というものは望めないと思う。
問題は、元々下賎なものが高等教育を受けると、さもモラルの高い、品位の備わった、高貴な人間に成り変れると勘違いするところにある。
橋本竜太郎の政治献金の記帳漏れなどという事件も、本人の品位のなさが見事に現れているといわなければならない。
先ほどの三菱自動車の話に戻すと、物を作る側としては大量生産の過程で不良品の混じることは往々にしてあることだ。
一台の車を作るのに何人の手を煩わして出来上がるのか知らないが、大勢の手を煩わせて出来上がる以上、その過程で誰か一人がミスすれば、それは欠陥となってクレームに直結してしまう。
だから物作りにはクレームがついてまわることは不思議でもなんでもないが、そのクレームを隠すということは、完全に経営者のモラル、良心の領域の問題に帰結する。
物作りにはクレームという欠陥がついてまわることが必然である以上、顧客からのクレームには誠心誠意、素直に応えるべきで、それを隠すなどいうことは言語道断の措置である。
企業として、その企業のモラルがマスコミ等でとり沙汰されるほど、大きなマイナス・イメージも他にないわけで、そのことが三菱自動車の経営陣には判っていなかったのであろうか。
こんな馬鹿な話もないと思う。
旧東海銀行、UFJ銀行の、不良債権に関する融資先の資料を隠してまで監査を免れようとする行為も、三菱自動車のクレーム隠しと全く同じ精神構造といわなければならない。
これが優秀大学を卒業した人を大勢擁している銀行経営者の考えることであろうか。
映画やテレビドラマによくある、暴力団の経営するダミーの闇金融会社が、当局の手入れがあるからといって、あわてて帳簿を隠すのと全く同じ構図ではないか。
こんな安っぽいドラマ仕立ての経営を、大企業、大銀行、日本の優秀な大学を卒業して、経営のトップにたった優秀であるべき面々が、よってたかって真剣にやっていたのであろうか。
これが優秀な大学を出た優秀な経営者のすることであろうか。
結果から見れば、三菱自動車の経営者も、旧東海銀行、UFJ銀行の経営者も馬鹿であった。
馬鹿と言う以外言葉がないではないか。
企業としてのモラルを欠いた経営者であった、ということが隠しようもなく自明になってしまったわけで、その事実を世間に大きく公表したに等しく、あの事件で三菱自動車もUFJ銀行も、企業としてのイメージが著しくダウンして、モラルを欠いた企業だ、というマイナスのインパクトを世間に与えたことはまことに大きいものがあったと思う。
信用回復はママならないものと考える。
三菱自動車もまことに情けないことをしたものだ。三菱のグループ内で何とか下支えするほかないと思う。
クラッチ・ハウジングに亀裂があったとか、車輪のハブが外れる、などということは素人には考えられないことだが、起きたことが事実ならばそれは素直に認め、すぐさま善後策を考えなければならないことはいうまでもない。
21世紀にはいって、人間が月にいって帰ってくる時代になっても神がかり的なジンクスというのは歴然とあって、こういう不具合、事故というのは重なるわけだが、現場の人々がいくら一生懸命、慎重に仕事をしても、起きるときには立て続けに起きるものである。
事故は人為的な力で避けえなかったとしても、事故に対する対応の仕方というのは経営者の心根1つでどうにでもなるわけで、だからこそそこに経営者としての人間的品位、品格、モラルが浮き出てくるし、下賎なものならば浅はかさがにじみ出てくるのである。
自社製品の欠陥が見付かり、顧客からクレームが来たとき、その事実を隠してその場を糊塗しようと図る経営者は下賎そのものだと思うし、モラル・ハザートそのものだと思う。
こういう企業経営者は一族郎党、獄門、張り付けにしなければならないと思う。
高等教育を受けた大企業の経営者がこのようにモラルを欠くということは、経営者というものをある特殊な人間の塊としてみた場合、明治維新以降の我々の価値観では、立派な人、立派な業績をなした人という過去の価値観が完全にひっくり返ってしまったということである。
我々、凡俗な人間から大企業の経営者というものを眺めた場合、道徳的にも、頭脳的にも、モラル的にも並外れて立派な人というイメージを払拭しきれない。
これが過去の経営者のイメージだったと思う。
ところが企業の不祥事がこうもマスコミに暴露され続けると、企業経営者のモラルというものは信用できないということになってしまった。
この遠因は、日本の高等教育というものが就職のための予備校的な存在にあるところに原因があると思う。
大学に進学する大部分の人間は、学問を究める目的で大学に行くのではなく、就職のための下準備という位置付けで大学というものを捉えているからだと思う。
これは明治の初期に大学、つまり高等教育機関というものを考えたとき、大学を運営する側と、その恩典を受ける側で、思惑の違いが最初から存在していたのではないかと思う。
高等教育を運営、つまり施す側はあくまでも学問という範疇にこだわり、学問を普及させる、させなければというコンセンサスを持っていたと思う。
ところが明治時代の国家としては、帝国大学で高度な学問を身につけた若者を世に放つことによって、国民全体の文化レベルが少しでも向上すれば、という思惑があったものと考える。
これはこれで意義があったが、その後帝国大学を始め、いわゆる私学の大学も乱立するようになると、官界の側も、企業の側も、そういう高度な文化レベル、教養・知性を身に付けた人を採用して、そういう人達の波及効果を狙うようになった。
結果として、よい大学を出ればそれだけ良いポストが約束されるということになったので、学問ということよりも、就職先のほうに感心が行ってしまったわけである。
しかし、これも大学が多くなったとはいえ、まだまだ限られた者しかいけなかった時代には何ら問題はなかったし、それなりの効用もあったが、今時のように大学が幼稚園化したような時代には、就職の予備校ですらない。
まして学問とは程遠いものとなってしまったわけで、それでもわけのわからない大学が次から次へと誕生してくるというのは一体どういうことなのであろう。
こういう状況では、もう大学に教養や、知性や、モラルを期待するほうが既に間違っている。
今の幼児、赤ん坊というのは、かっての日本の赤ん坊、10年前、20年前、50年前の赤ん坊とはまるで違ったものとなっていることは強く肝に銘じておかなければならないと思う。
確かに、頭があって、可愛い手があって、可愛い足があることに変わりはないが、生れ落ちる瞬間から、昔の赤ん坊とは違っているわけで、だからこそ今の幼児を昔の子供と比べるとそのキャパシテイーがとてつもなく大きいということになる。
このキャパシテイーの大きな子供を、その能力を生かしたまま育てようとすれば、教育というものを根本から考え直さなければならないと思う。
NEETの問題もそういうところに起因していると思う。
子供を取り巻く環境、若者を取り巻く環境というものが全く変わってしまっており、我々の従来の考え方では、こういう幼児や若者に対応する術を持っていないのではないかと思う。
3歳の幼児がコンピューターのマウスをいじって、画面の変化を楽しむことは子供らしい遊びではないので、止めさせて外で遊ばせようとすると、外は車の洪水で、それでも外の空気を吸わせようとすると、逆に車に載せて公園までいかなければならない。
社会そのものが昔と完全に変わってしまって、「子供は風邪の子だから外で遊べ」と、いえない状態になってしまっている。
子供が外に行けば行ったで、幼児誘拐にあったり、意味もなく刺されたり、殺されたりと、子供にとっても居場所がない状況である。
こういう状況を考えてみれば、必然的に国が義務教育を全面的に下支えしなければという発想は、確かに時代にマッチしていないと思う。
地方が地方に合った教育システムを構築して、子を持つ親の方は、乃至は教育を受ける本人が、自分にあったシステムのところを選択するという風にしなければならないと思う。
大学は既に大学法人として昔のように文部省、いまは文部科学省の元を離れ、大学独自の経営方針で運営されるようになっているわけで、大学にとっては自校の個性を大いにアピールする機会が与えられている。
教育制度にまで地方の権限を委譲すると、義務教育に地方によって格差が生じる、という考え方は大いに説得力があるように聞こえるが、その言葉にだまされてはならないと思う。
我々の生きている21世紀の日本では、もう義務教育という言葉さえ死語になりつつあると思う。