小野田寛朗

戦後60年の憂鬱
   その9

自然の摂理

 

9月3日(平成17年)の昼間のNHK TVではルパング島で約30何年間も一人で戦い続けた小野田寛朗氏のインタビューを放映していた。

私も彼の生き様には非常に関心を持っていたので、ついつい引き込まれて見てしまったが、彼はやはり戦後の日本人が無くした何かを持っている。

戦後の我々が無くしたものが何かという場合、これは戦後生まれのものの責任のように言われているが、本当はそうではないと思う。

彼は今82歳ということであるが、戦後の我々が骨抜きになったのは、この世代の戦争後遺症ではないか思う。

彼の場合、戦後もかなり長い間、わずかな部下と戦争を継続中であったので、この後遺症にならなかったので、戦前の日本人の持っていた何かが消えなかったのではないかと思う。

彼は戦後生まれの若い質問者に、ジャングルの中でのことを聞かれていたが、彼の胸中にある信念は、やはり、あのベネジェクト女史の著した「菊と刀」の中にある「恥の文化」であったようだ。

彼と同世代の昔の日本人には、確かに「恥の文化」というものが残っていたと思う。

彼は戦後もジャングルの中に残っていたからこそ、昔の日本人の「恥の文化」を維持し続けていたが、彼と同世代の同胞で、生きて復員してきたり、幸にも生き残った彼と同世代の人々は、戦後この「恥の文化」というものを奇麗さっぱり捨て去ってしまった。

あの戦後の混乱の中で、戦争中の同胞の統治の手法、政府、軍部の虚偽のあり方を、その他諸々の失政を憎むあまり、自らを律していた恥と言うものを捨て去ってしまった。

しかし、彼の場合は情報から隔離されていたので、生き残った同胞の浅ましい姿を目にする事がなかった故、昔のままの「恥の文化」を温存し続けていたように思える。

「恥の文化」とはイコール敵愾心である。

やられたらやり返す。殴られたら殴り返す敵愾心である。

叩かれても叩きかえそうとしなしない心根、そうしようとしない覇気の喪失が、人として「恥ずかしい」という気持ちにつながるわけで、それがあの戦争で生き残った同胞にはさっぱり残っていないということである。

あの奈落の底に突き落とされた状況からは、そこで仮に生き残ったとしても、「仇を討つ」などという発想が生まれて来ないというのは、敵愾心を失い、そのことを恥じる心境に至らないからである。

それに引き換え、小野田寛朗氏の今の自然塾という事業は、この地球上に美しい日本という民族を残すという点に主眼があるらしい。

「仇を討つ」ということは何も人殺しをするという意味ではなく、別の生き方で人としての、日本人としての尊厳と誇りを維持するということである。

人間として、尊厳と誇りを維持するということはきわめて自然人の生き様であって、人として生まれてこれを失ったら人としての価値は存在しないのではないかと思う。

人には自然界の動物とは違って、人としての尊厳と誇りがあるからこそ、万物の霊長とたたえられているのではなかろうか。

自然界の野生動物では弱肉強食、適者生存、自然淘汰が自然界のルールになっていて、その中では強いものは弱いものを倒してなんら良心の呵責にさいなまれるということはない。

弱いものは倒されて当然という真理で輪廻転生を繰りかえしているものと考える。

しかし、人間は万物の霊長なるがゆえに、ものを考えるということが出来る。

そしてものを考えるがゆえに、考えすぎて、自然界の真理をも超越してしまう発想に至っているものと思う。

それが弱者救済という思考で、弱いものは助けなければならないという発想である。

しかし、これは自然界の摂理には反しているわけで、それでも尚それに立ち向かうということは、人類の奢りの思考だと思う。

弱者救済という発想は、人が人として小さな集落を形成したとき、その集落のなかでは隣人同士助け合わないことには、集落そのものの存在が危ぶまれていたからこそ、自己の生存のためにはお互いに助け合って、集落を維持しようと言う発想だと思う。

野生の肉食動物が自分の家族や同族内では殺し合い、食い合いをしないのと同じだと思う。

その集落が他の集落と利害得失が衝突するようなときには、当然、自然の摂理が有効に機能するわけで弱肉強食の論理が優先するものと考える。

今の言葉で表現するとすれば、戦争という状況に至れば、弱者救済などという理性はどこかに吹き飛んでしまって、弱肉強食の自然の摂理のままに行動すると思う。

要するに、弱者救済ということは豊かな社会で精神的にもゆとりのあるときでなければ成り立たないわけで、そういう状況下で始めて自己保存のために機能するのであって、そうでない状況下では、自然淘汰が歴史の流れになっていると思う。

自然淘汰こそが、この地球上に住むありとあらゆる生き物の現実の姿のはずであるが、人間は考えることの出来る生き物なるがゆえに、考えすぎてこの自然の摂理に抵抗しようとしているものと思う。

自然界には人の英知では克服できない自然の循環というものがあると思う。

数日前にテレビで放映していた、アメリカのイエローストーン国立公園の自然の生態を見ると、おとなしい鹿の仲間のエルクが増えすぎると自然の生態系を壊してしまうということである。

そこでその天敵の狼を移入すると、自然の生態系のバランスが取れるということである。

つまり、おとなしいから、弱いからといって過保護にすると自然の生態系が破壊してしまうということである。

この公園内に生息するエルク、狼、コヨーテ、白頭鷲、地リスという様々な生き物は、それぞれに関連しあっているわけで、おとなしいエルクならばいくら増えてもよさそうであるが、おとなしそうに見えるエルクでも、増えすぎれば自然界の生態系を崩すということである。

このイエローストーンの生態系を地球規模に拡大してみれば、人間が長生きしてお互いに殺しあうことを回避し続けたとしたら、地球上の自然界の生態系は遅かれ早かれ崩壊すると思う。

だからといってお互いの殺し合いを奨励するつもりはないが、人間が長生きすることは良いことだ、という人類誕生以来の過去の認識に依拠している限り、この地球のキャパシテイーを越えるときがくるのではないかと思う。

過去の人間の生き様も、自分たちの住んでいるテリトリーの拡大を目指して抗争を繰り返してきたわけで、いわば自分の領域のキャパシテイーの拡大であったわけである。

自分の仲間、自分と同族の数多の人々の生存権を賭けて、血で血を洗う抗争を繰り返してきたのである。

そこで、当然、この抗争に勝った側は、自分たちの都合によって、自分たちが得するように、自分たちの払った代価に見合う対価を求め、古代ならは負けた方を奴隷として殺傷与奪権を握ったわけである。

負けた方は、当然、そこで敵愾心というか、反抗心というか、復讐心というか、悔しさというか、「次は見ておれ、何時の日か仇を取るぞ」、という気持ちが芽生えるのが自然の人間の感情ではないかと思う。

勝った方は勝った方で、そうはさせじと手練手管で策を労するが、負けた方も負けた方なりに、手練手管でそれに対抗する手段を講じるのが人間の過去の歴史であったのではないかと想像する。

 

自然への回帰を忌避すること

 

それが政治であり、外交交渉というものではないかと思う。

ところが世の中が進化してくると、こういう人間の生き様というものを講釈することを生業とする人々が現れてきた。

太古の人間の集落のように、集落の人間の全員が、農業なり狩猟に刈り出されている時代ならば、こんなことを考える専門職の存在はありえなかったが、人々の生活が進化してきて、分業が可能な時代になると、ただただ体を動かすだけではなく、脳を働かせて、人を叱咤激励する職業が誕生してきた。

知識とか教養というものは、直接的に生産に携わっている人々にとってはまったく無用の長物であるが、いわゆる貴族、有産階級、富裕階級にとっては暇つぶしにはもってこいのもので、新しいアイデアがまた新しいアイデアを繰り出して留まるところを知らない状況というものが生まれた。

それが現実を超越した理想論というものが生まれるもととなったわけである。

文化と文明の進化は、知識とか教養というものを広範な人々にも満遍なく浸透させるようになったわけで、その結果が今日の世界の状況、日本の状況になっていると思う。

問題は、戦後の日本人の考え方が世界の人々の考え方より非常に理想論に近づいているということである。

そのことはとりもなおさず、自然の摂理から大きく逸脱しているということに他ならない。

俗に言われているように、「日本の常識は世界の非常識で、世界の常識は日本では非常識」になっているという言葉のとおりである。

世界は自然の摂理に沿った生き方をしているが、我々は世界とは反対の思考をしているので、自然の摂理に逆らって生きているということになる。

自然の摂理に逆らうような発想・思考というのは、人間の奢り以外の何物でもないと思う。

人間の生き方が進化してくると、様々な仕事が分業化されるようになって来た。

額に汗して現場で働く人から、口先3寸でしこたま利益を得ようとする人まで、様々な職業が細分化されてきたことは、人間の社会、ひいては産業の分業化ということであろうが、その中で大衆に向かって公序良俗を説く専門の人々が生まれくるようになってきた。

いわゆる教養人とか知識人と呼ばれるような人々で、中でも大学教授という肩書きには一般の大衆はきわめて弱い。

だから胡乱な大衆は、大学教授の言うことは正しいことだと勘違いするケースが非常に多くなった。

それは同時に、大学教授が大衆受けする話をすることによって生業が成り立つということでもある。

ここで問題としなければならないことは、まだ若い学生を指導、訓育、教導することが使命の大学教授が、そういう若者に偏った教育をしていいものかどうかを考える必要があると思う。

日本の近代史を紐解くまでもなく、これは戦前にもあったわけで、大学という象牙の塔が軍国主義を煽ったという場面も少なからずあったと思わなければならない。

その反作用で、戦後はそのベクトルがすべて逆向きになってしまって、大学といえば真っ先に反政府という構図が出来上がっている。

この極端な振幅のゆれ、極端から極端に走る知識人の思考、大学、最高学府のあり方というものを我々はどう考えたらいいのであろう。

これが教養人、知識人、学問を究極にまで修めた人の生き様なのであろうか。

人は旅行するとき、自分の乗る列車をあらかじめ想定して、あの目的地に行くにはこれに乗らなければならないと考えて列車を選ぶ。

僻地の駅では選ぶ列車は上りか下りの、始発駅か終点の駅かの二つの選択しかない。

けれども、東京駅や新宿駅、上野駅、はたまた名古屋駅では自分の乗る列車の行き先というものをよくよく確かめてからでないと、とんでもないところにいってしまう。

あわてて行き先も確かめずに乗ったら最後、何処に持っていかれるかわかったものではない。

人間の思考もこれと同じで、自分の目的がキチンをしている人ならば、それにあった選択が出来るが、自分が何処に行きたいのか、何をしたいのかはっきりと定まっていない人が、大学という伏魔殿にたどり着いたとき、その若者に誘惑の手を差し伸べるのが教養人としての、知識人としての、大学教授ということになる。

思想的に白紙の状態で入学してきた若者が、共産主義者の大学教授から偏った教育を受けて、「政府や、官僚や、自民党は悪人ばかりだ」などと教えられて日にはたまったものではない。

こんな現状で日本が良くなるわけがないではないか。

戦後60年、我々は文字とおり無から復興した。

60年前の東京の写真を見るがいい。

国会議事堂の前で畑を耕しているではないか。

この復興の原動力は直接的にはあの戦争に生き残った人々の血と汗の結晶だろうと思う。

逆説的な言い方をすると、戦後の復興をなさしめたエネルギーと同じものがあの戦争遂行にも発揮されていたと見るべきだと思う。

文芸春秋、平成17年11月号には「日本破れたり」という特集記事で、6人の論者が座談会をしているが、その結論として、日本軍のトップはなっていなかったが、下層の兵隊は実に良く戦った、と締めくくられている。私もそう思う。

政治というものはトップの旗振りだけでは動かないもので、国民全体の下からの鳴動が無いことにはありえないものと考える。

敗戦という状況で、戦後の日本人は、自分たちを統治するものを信用しなくなってしまった。

そういうことを喧伝したのは言うまでもなくマスコミと大学教授を筆頭とする知識人たちで、それは、その前の軍国主義のゆり戻しともとれるが、軍国主義をフォローしたのもマスコミであり、大学教授をはじめとする知識人であったことも忘れてはならない。

それと同時に、戦後の復興をなさしめたのは、こういう教養人ではなく、額に汗して実際の労働に寄与した人達であったことも忘れてはならないと思う。

教養人というのは、戦争にしろ、戦後の復興にしろ、政治にも経済にも何一つ寄与する存在ではない

戦後の復興期には政治と経済は完全に分かれてしまって、経済はただただ生きんがために食い物を得るという一点にだけ集中することによって、それが徐々に波及効果をもたらしたと考えていいと思う。

それは同時に、生きんがために恥も外聞もかなぐり捨てたということでもある。

誇りや、名誉や、自尊心で人間が生きていけるか、という反証でもあったわけだ。

いわば動物の基本的本能に立ち返ったということでもある。

動物の基本的本能に立ちかえったということになれば、その他の精神的な面においても、そこまで行かなければならないと思う。

ところが、動物としての潜在意識の面においては、人としての理性が作用して、本能への回帰にブレーキが掛かってしまった。

つまり、弱肉強食、適者生存、自然淘汰という自然界の法則のとおりに回帰することに対して、人間としての理性がそれを許さなかったのである。

それは、自然の摂理に対して、良いとこ取りに徹してしまって、自分にとって都合のいいところだけ自然に回帰し、都合の悪いところは、人間としての理性がブレーキの作用をしたというわけである。

自然に回帰した部分とは、自分の欲求を満たすために死に物狂いに働いたというところで、人間の理性がブレーキの作用をした点は、再度の戦争で人が死ぬことを忌避するという部分である。

あの戦争の前までは、ABCD包囲網で我々が座して死を待つことは大和魂の沽券にかかわり、民族の存続のためには対米戦も打って出る事が我々日本民族の大儀であった。

ところが、あの戦争の後では、如何なる理由があろうとも武力の行使は許されず、我々の民族の名誉と誇りを維持するのは我が政府の役目で、一般国民の血を流さねばならない状況を作るのは政府の責任であるから、そういう時は直ちに政府が交代すべきだという論法である。

しかし、これでは何も問題解決にはならないが、国民の血を流すぐらいならば問題を早急に解決することはない、先送りすればいい、ということが大儀となったわけである。

戦後の日本人は、我々の政府を我々の政府とは認めず、何か他の宇宙から来たエイリアンが日本国民を統御しているかのような感覚で捉えている。

人が自然の摂理のままに動くとしたら、それは正直に、単刀直入に言って、野蛮そのものと言わねばならない。

殴られた殴りかえす、足を踏まれたら踏みかえす、盗られたら取り返す、というのは人として自然の行為であり、自然の摂理のままの生き様であるが、これをストレートに実施すれば、現代人はきっとその人を野蛮人と決め付けるに違いない。

しかし、現実の世の中というのは、今でもこの強いもの勝ちのルールが生きているわけで、腕力の強さが人々を支配していると思う。

確かに主権国家の中という条件下では腕力の強さよりも法の権威が人々を支配しているかのように見える。

これは国家と個人という対立軸が存在するからそうであって、グローバルな世界、地球規模で見て、主権国家同士が虎視眈々と祖国の国益を伺っている状況下では、国際法の確実なる施行という事はありえないわけで、その中では野蛮きわまる行為が罷り通っているのである。

これを是正するためには新たな流血を経ないことには是正できるものではない。

いわば地球規模でみて、国連の191カ国の存在というのは、ある意味で無法地帯ということでもある。

強いもの勝ちの世界、弱肉強食の世界、適者生存の世界、自然淘汰の世界なわけである。

ここでは日本人の知識人のいう理想とか理念とか博愛精神とか、人道主義とか、弱者救済とか、その他様々な奇麗事は一切通用しないのである。

そもそも国連というもの設立の趣旨からして、強いものの仲間意識、強いもの同士の仲良しクラブであったわけで、平和の構築という美名の下で、弱いものの台頭を抑え、弱いものの実力行使を押さえ込むという前提で出来ているわけである。

国連の常任理事国、拒否権を持っている常任理事国というのは第2次世界大戦のとき、つまり60年前の連合国であったではないか。

国連というものが国際法の番人という立場であれば、湾岸戦争はありえなかったし、歴史を60年を遡って、戦後のあらゆる戦争というのはそこで絶滅していたはずである。

ところが戦後の歴史そうはなっていないではないか。

つまり、国連においても理想と現実は大きく乖離しているということである。

国連といえども、人間の現世を改める能力を持ちえず、人間というのは結局のところ、人間が基本的に持つ煩悩によって生き続けるということに他ならない。

普通の主権国家という枠の中では、法というものが国家権力によって施行され、具体的にそれを実行有らしめるのは警察力であるが、主権国家の集合である国連には、この国家の枠に相当するものが存在せず、主権国家の法律に相当する国際法というものは出来ても、それを実行せしめる国際警察力というものが存在していない以上、それはただの経文に過ぎない。ただのバイブルに過ぎない。

それを遵守するかしないかは、それぞれの国家が自分の都合によってどういうふうにも判断できるわけで、国際法を犯したといっても違反者を拘束する警察官がいないわけである。

アメリカがそれをしようとすると、冷戦中ならば旧ソビエット連邦や中国が対抗措置をとるわけで、逆にソビエットや中国がそれをすれば、アメリカが対抗手段を講ずるわけで、それはホットな戦争ではないが、決してそれでことが解決できるわけではない。

その上、これら常任理事国はいづれも核保有国で、あだや疎かに相手に関与しようものなら、いつ何時核戦争になるかもしれないわけで、アメリカが如何にスーパー・パワーを持っていようとも、そう安直にコミットするわけには行かない。

当事国にすれば結局のところやり得で終わってしまっている。

そのことは結局のところ強いもの勝ちという事である。

正義も、善意も腕力の強いものにはかなわないということである。

 

安全弁としての外交カード

 

戦後の日本の進歩的知識人というのは、日本という小さな小さな井戸の中から青い天を見上げて、理想論ばかりを声高に叫んでいるだけである。

事態がどうなろうとも自分とは全く関係がないわけで、自分がマスコミに騒がれてさえいれば、それで禄を食むことが出来るわけである。

こういうのを本当の言葉で言えば、偽善者というのであるが、偽善者の言うことは理想論であるだけに、誰も正面から反論できないのである。

「戦争反対」ということは大声で言えても、「北方領土の解決には実力行使しかない」、「北朝鮮による拉致被害者の救済には実力行使しかない」、ということはいえないのである。

しかし、現実はこの方法しかないのである。

だから結果として、知識人の言い分としては、「日本政府が悪い」、「政府がきちんと外交的に解決しないから悪い」、という言う方しかないのである。

矛盾の矛先を、相手に言うのではなく、自分たちの政府にぶつけるほかないのである。

北方領土を不法占拠しているのは旧ソビエット、今のロシアであり、日本人を拉致したのは北朝鮮であるにもかかわらず、悪いのは日本政府だという論拠である。

こんな馬鹿な話もないはずだ。

小泉首相が靖国神社に参拝すると中国や韓国からその度ごとに文句を言われるので、日本国内では「中国や韓国が文句をいって来るから、小泉首相は靖国神社を参拝するのをやめよ」と、加藤紘一や河野洋平が言っているが、こんな馬鹿な話もない。

日本中のメデイァも、自分の国の首脳が靖国神社に参拝すると、それを一斉にニュースとして流し、それに対する中国や韓国の反応もこと細かく報じている。

これを地球規模に拡大して、主権国家を一軒の家、家族と置き換えてみれば、その家長が、その家の先祖神、ないしは鰯の頭でもいいし、一枚の御幣でもいいが、その家の者、つまり家族が心の拠り所にしているものにお参りすると、隣の人が文句を言うのと同じなわけで、こんな馬鹿な話があっていいわけないではないか。

アメリカのブッシュ大統領やイギリスのブレアー首相が教会に行くたんびに他所の国が文句をいうかと言いたい。

中国も韓国も日本を馬鹿にしているわけで、それは無理もないと思う。

旧社会党の面々は言うまでもなく、宮沢喜一や、後藤田正晴、加藤紘一や河野洋平のような人間が日本の自民党内にいるというだけで、相手は日本を馬鹿にするに十分な根拠となっていると思う。

まして日本のマスコミ、日本の進歩的と称せられている教養人、文化人、知識人というような人々が、皆、中国や韓国の言い分を由とするような国は、先方から馬鹿にされても致し方ない。

この問題の根底のところには、日本人の側が相手に知恵をつけたという部分がかなりあるように思われる。

旧日本社会党や、朝日新聞の中国駐在記者たちが、相手の関心を得ようと、祖国を売った節がある。

祖国を売る同胞、相手の関心を得ようと知恵をつける国会議員も、大雑把に言ってしまえば目先の自己利益に捉われていたわけで、それと同時に相手の本質を良く知らなかったという面もあると思う。

それに便乗した自民党内の物分りの良い、奇麗事で済まそうとするいわゆる開明派と言う様な人々までがそれに便乗してわけで、この目先の自己利益に目を惑わされるという部分に、相手から舐められる根源的な理由がある。

相手のいうことは、日本に対して言っているだけではなく、同時に自国民に向けても発信しているわけで、中国の首脳、韓国の大統領の日本批判というのは、批判の当事者の日本向けの発信だけではなく、中国人に向けても、韓国人に向けても自己の行為をPRしているのである。

その事は、自国民に向けてそういう発信をしないことには、自分の足元が揺らぎかねないという場面でもある。

外交というのはあくまでも国益の追求であるわけで、国益という場合、自分の国の安定という要因もそこにはあるはずである。

何もドンパチのホットな戦争の抑止だけが外交問題ではないわけで、自国民が如何に安心した平穏な心持になれるか、ということも大いに外交の底流足りえる。

中国や韓国の日本批判も、中国国内、韓国国内の安全弁になっていると考えなければならない。

彼ら中国の首脳や韓国の大統領は、日本を叩くことで、国内の結束を固めているわけで、旧社会党の発言や朝日新聞が彼らの言い分に同調するということは、彼らの国益に奉仕しているということである。

だから基本的には彼らが何を言おうが、我々の側としては、それにいちいち反応しなければ彼らの言い分は暖簾に腕押し、いわゆる肩透かしにおわってしまう筈である。

彼らが一言口を開くたびに、我々の側で右往左往するものだから、彼らからすれば日本に対して靖国神社の問題を出せばこれは外交カードとして使えるということになるわけである。

教科書の問題を出せば、これも外交カードとして十分効果があるということになるのである。

彼らが何を言ったとしても、我々の側で通り一遍の客観的なニュースとしてだけ流して、政府も、マスコミも冷静に対応しておけば、彼らとしてはその問題を外交カードとしては意味を成さなくなるはずである。

彼らが一言言うたびに、我々の側で大騒ぎを演じてしまうので、彼らの側ではこの問題を出せば日本の国論が沸騰する、つまり外交のカードとして十分の価値があるということになってしまうのである。

我々の側で大騒ぎを演じているので、中国の国内では人々の関心がそちらに向き、中国国民の不平不満を拡散することになり、ガス抜きの効果を挙げるということにある。

韓国についても全く同じである。

中国の首脳の言った言葉は、確かにニューズとしての価値があるが、それを客観的に報道するのみで、我々の側でああでもないこうでもないと余分なコメントをするものだから、彼らはそれを外交カードとして利用するのである。

我々は有史以来大陸から文化の移入ということをし続けてきた。

これは向こうの人も、我々も、歴史認識として、また潜在意識として刷り込まれてしまっていることは間違いないが、近代から現代というのは、有史以来、連綿と続いてきた伝統的かつ古典的な思考では成り立たないわけで、どこかで潜在意識の脱皮をしないことには、現在の科学技術の進歩には迎合できないのである。

中国や韓国の人々が日本を舐めて掛かっているのは、有史以来の潜在意識から十分に脱皮できていないからであって、もういまどきの世界は、そういう意識では成り立たないところに来ているのである。

確かに、我々、日本というのは、文化そのものが中国と韓国の下流に位置していたことは歴史的に歴然たる事実であろうが、日本が明治維新を経験したということは、それまでの潜在意識をそこで断ち切ったということで、それに引き換え、中国も韓国もそういう潜在意識の断絶ということを経験していない。

 

時代と共に変わる大儀

 

中国の共産主義革命、毛沢東率いる中華人民共和国の誕生というのは、所詮は、中国4千年の歴史の延長線上の出来事で、秦の始皇帝のやっていることと寸分と変わらないではないか。

それに引き換え、我々は潜在意識の変革ということを二度経験している。

最初は言うまでもなく明治維新であったが、二度目はあの敗戦である。

二度目の変革で、我々は民主主義というものを確実に自分のものとしたわけであるが、この民主主義というのは共産主義と同時に並存する宿命を背負っていたわけで、この二つの考え方というのは昇華すれば何処かでつながってしまうと思う。

究極にまで登りつめれば同じ到達点に至るものと考えるが、問題はそれまでの過程である。

それを追い求める人々は、実に純真で、健気で、理想に燃え、労をおしまない人達だと思うが、結論からいえば終点、到達点というのはありえないと思う。

共産主義の理念というものは実はすばらしいものだと思う。

「働かざるもの食うべからず」、「同一労働同一賃金」という考え方は実に人間の理想、理念に近いものだと思う。

しかし、人間の集団というのは、誰かが何処かで管理しなければ、生存しきれないわけで、リーダーのいない人間集団というのは存立し得ないものと考える。

「働かざるもの食うべからず」といっても、誰かが「お前は働かなかったから飯は無しだ」という人がいなければならない。

「同一労働同一賃金」といっても、誰かが「確かにみな同じように働いた」ということを認定する人がいなければならない。

階級を否定している共産主義も、それを実践に移そうとすれば、何所かで人を管理するシステムを作らねばならず、それはとりもなおさず階級というものを新たに作らねばならないということで、だとすれは、それは共産主義が否定する封建主義社会となんら変わるものではないということになってしまうではないか。

階級闘争ということはありえないということになってしまう。

階級闘争という言葉は、さも整合性があるように聞こえるが、何のことはない、ただ人の足を引っ張る行為に過ぎないではないか。

我々は先の大戦で敗北したことによって、アメリカ流の民主主義というものを無理やり押し付けられた。

無理やり押し付けられたことによって、我々は民主主義というものを履き違えた部分が相当にある。

履き違えたというよりも、それと共産主義とがごちゃ混ぜになってしまって、民主主義と共産主義がオーバーラップしてしまい、その峻別が不可能になってしまった。

それは両方の良いとこ取りのようでもあるが、同時に、それ故に堕落の原点ともいえる部分があると思う。

そういう状況下で今日の我々は自由と平等を謳歌しているが、これが相当の曲者である。

先に、旧社会党の面々が中国に我が政府の盲点を御注進に上がり、朝日新聞が中国の提灯持ちのような記事を流し続けていることを述べたが、こんなことが中国側で可能だろうか。

中国の新華社が、中国の党首脳のスキャンダルを報じれるであろうか。

そんなことをすれば、当然、反逆罪か適用されるに違いない。

命があれば、国外追放処分で済むが、運が悪ければ、そのまま死に直結しているのが現状ではないかと思う。

ところが我々の国では自由と平等が確立されているので、直接人でも殺さない限り、司直の手にゆだねるということはありえない。

明らかに祖国の国益を損なうような行為でも、自由と平等の理念に囲まれて、そういう人こそ文化人であり、教養人であり、大学人だと思い込まされている。

自分たちで相手の国益に奉仕しておいて、それが功を奏して、外交がギクシャクすると、諸手をあげて大喜びしながら「自分たちの政府が悪い」という言い方で、自分の祖国を糾弾しているのが現状だと思う。

そういう人でも、この国では生きていけるということは実にありがたい国といわなければならないが、そういう人に限って、そのありがたみが判っていないと思う。

旧のソビエット連邦や今の中華人民共和国は言うまでもなく共産主義国家であった。

共産主義国家というのは一党独裁でないことには成り立たないわけで、共産主義というものを何が何でも普遍化しようするものだから、常に現体制の破壊ということが付いて回るが、破壊された後に出来た新体制も、時が過ぎればすぐに旧体制となり、再び破壊の対象となってしまう。

旧体制の破壊ということは、そこで粛清という殺戮が恒常化しているということである。

旧ソビエットの共産主義による国家統治ということは約75年で潰えてしまった。

今の中国は、ようやく半世紀を経過してわけで、ぼつぼつ共産主義による統治の臨界点に近づきつつあるように見受けられる。

無理もない話で、共産主義によって上からの統制で国民の教育レベルが向上してくれば、現体制、つまり共産党による一党独裁政冶に批判的な思考がふつふつとわきあがってくることは自然の流れである。

共産党である限り、常に既存の組織、体制に対して批判的な思考が作用しているわけで、いわば階級の下のものは常に下克上のチャンスを伺っているわけで、それは共産党という組織が潜在的に持つ宿命だと思う。

共産党といえども、党の幹部と下部組織、党員とそうでないものの格差というのは歴然とあるわけで、だとすれば他の政治体制と少しも変わらないわけで、共産主義でなければならない、ということにはならないはずである。

だから旧ソビエット連邦はわずか75年で崩壊したではないか。

ところが自由主義体制の下では、人々は個人の自由が尊重されているので、政治家を志すものも、金儲けに専念するものも、ホームレスにあこがれるものも、等々自分の意志で自由に行動できるので、自由と我侭がごっちゃになってしまい、自分の祖国を売るような行為でも、断固として取り締まれない状況になっているのである。

しかし、何事にも程度というものがあるのが道理で、その程度、公序良俗に反するような程度を越すと規制の網がかけられるのは、ある意味で自分で天に唾してそれが自分に降りかかってくるようなものである。

ところが戦後の日本の知識人というのは、この論理がわからないわけで、この程度を越すという認識が極めて希薄である。

民主主義というものは、何処までも個人の自由は開けているものだ、という認識によっている。

程度を越すという概念がわかっていない。

自由の程度がわからないから、個人の我侭と混同してしまっている。

報道の自由を振りかざして、何処までも特定個人のプライバシーを暴こうとするものだから、その対抗手段としてプライバシーの保護という概念が出来上がってきたわけである。

報道の自由ということは確かに重要なことであるが、だからといって報道する側は何をやっても許されるというものではないはずで、マスコミ関係者というのは何処までなら許されて、何処からは僭越な行為だ、という理性が働かないから、報道される側、取材される側は、プライバシーということを声高に叫ばねばならない状況になるわけである。

マスコミ業界というのは、天に向かって唾を吐いたわけで、それが自分に降りかかってきて、プライバシーの保護というもので取材、行動が制限されることになるわけである。

自由と平等ということを履き違えて、報道という大儀のためならば何をしてもいいのだ、と思い込んでしまった結果であるが、問題は報道に携わる教養人とか知識人と言われる人達が、この思い込みに陥ってしまうということである。

いわゆる公序良俗の程度が理解できずに、報道という大儀を振りかざすことによって、人としての理性と知性が麻痺した、報道人、マスコミ関係者の存在である。

我々、同胞の生き様には、こういう場面が往々にしてあるような気がしてならない。

先の大戦に嵌まり込んでいった過程を見ても、我々は人としての理性と知性で世界の動きを見ていれば決してあのような過ちは犯さずに済んだのではないかと思う。

大儀というものは時代と状況によって如何様にも変化するものであって、決して固定化されたものではない。

そしてそれは国民の大部分の希望と願望を具現化しているわけで、国民の下支えがあって始めて大儀となりうるのである。

一旦大儀というものが確立すると、もう猪突猛進するのが我々の同胞の生き様ではなかったかと思う。

前に述べてマスコミ業界の規制だって、大儀を振りかざして猪突猛進した結果が規制を招いたわけで、我々の生き様にはこういう場面が非常に多いと思う。

戦前の「鬼畜米英」というスローガンも当時では立派な大儀であったわけだし、戦後の民主化の名のもとの反政府運動というのも立派な大儀であったわけである。

 

成熟しきれない知識人

 

自分の国の統治者に対して全面的に信頼している国民というのはこの世にありえないと思う。

如何なる主権国家の国民も、自分か統治されている限り、統治しているものに対して、全面的に依存するということはありえず、何処かに不平不満、不安、違和感を持ちながら生きていると思う。

ただ民主主義の社会というのは、そういう不平不満をあらわに表現しても許される、つまり不平不満を言える自由というものがあるわけだが、これが共産主義の国家ではこういう自由は存在しないことは歴史が示している。

民主主義の社会体制では、国民を統治する手法に選択の余地を残しているが、共産主義国家ではその選択の余地が全くないのである。

ところが、その共産主義の掲げる理念、理想というのは、人間ならば誰でも賛同せずにはいられないような美辞麗句で飾り立てられた奇麗事が掲げられているので、人々はそれに惑わされてしまったのである。

一方、民主主義とか自由主義というのは、人間の基本的な原理に根ざしているので、見ようによっては野蛮な要因を含んでいるように見える部分も多々ある。

人間の基本的な原理の部分に、金権政治だとか、腐敗政治という言葉が飛び交っているが、これは共産主義体制であったとしても、それを実行しているのが人間である以上、人間の基本的な部分というのは残っているが、それの掲げる理想や理念が立派であるが故に、それが見えてこないだけのことで、体制そのもの中には基本的な人間の業というものを内包している。

戦後の我々の祖国というのは、いうまでもなく民主主義の体制で、自由主義を信奉してきたわけであるが、この民主主義と自由主義の中で、知識人といわれるような人々の間で、その自由と平等を履き違えているのではないかと思われるような人が大勢いることが問題なわけである。

知識人とか文化人、教養人とか大学教授といわれるような人々は、当然、無学文盲の大衆とは違うわけで、高等教育を受けた方々だと思うが、そういう高学歴な人が自由と平等の限界に気が付かないということは非常に由々しき問題だと思う。

つまり、公序良俗の限界がわからないということは非常に由々しき問題だと思う。

私が推測するに、こういう高学歴の方々は、それまでの生育の過程で、共産主義というものに非常に興味を持ち、もともと頭が良く素直なるがゆえに、共産主義のとなえる理想、理念に共鳴する部分が多かったものと考える。

それに引き換え、現実の世界は自由主義なるが故に、金権政治や、汚職に伴う政治の腐敗、金儲けに目のない企業の浮き沈み等々を見るにつけ、持ち前の純真さと正義感が現実の体制を容認できない、否定したくなる、という思いに浸ったとしても不思議ではない。

この若者、純真で、健気で、汚れを知らない若者の心情というのは、何時の世の中、如何なる国、民族においても社会の変革の原動力になっていることは疑いの余地がない。

しかし、その青臭さも年齢を重ねるに従い色あせて、理想や理念で人は生きていけれないということを悟らねばならない。

人間が誇りと名誉だけでは生きていけないのとおなじで、理想や理念だけでは人は生きていけないわけで、そのことにある程度の年齢に達したときに気が付かねばならない。

戦後の日本の知識人とか文化人、教養人とか大学教授というような人々は、戦後60年たってもいまだに青年の青臭さを引きずって生きているわけで、それでも、つまり精神的に大人になりきらないままでも生けていける有難い世の中に置かれているということである。

共産主義の究極の目的は、常に現体制を壊すというところにあるものと考えるが、日本の今の状況の中で、日本共産党員だけが共産主義者ではありえないものと思う。

昨今の選挙では、日本共産党はあまり勢力を拡張しているようには見えないけれど、自分自身が共産主義者などとは本人自身が思ってもいない人達というのが相当に存在すると考える。

日本共産党というのは、自分自身が共産主義者だと自覚した人達の集まりであって、自分自身では全く自覚していない共産主義者というものが相当数いるものと考えざるを得ない。

巷間に普通に生活をしている人は、誰も首から「私は共産主義者です」と看板を下げているわけではないし、我々の祖国は、思想・信条の自由が保障されているので、共産主義者だとて法に抵触しない限り大手を振って生きていけるわけある。

ところが、ここで法に抵触する場面があるとすると、共産主義者でないものは「法があるのだから、その線を越えてはならない」という思考をする。

ところが共産主義に被れた人の発想は、「私がしたいことを法が規制することは法のほうが悪い」という発想にいたるわけである。

ここに共産主義者が現行体制を破壊する方向に思考をめぐらす根拠が存在するのである。

法が悪ければ、それを民主的な手法、つまり議会を通じて改正するというのならば、これは普通の民主的体制であるが、共産主義というのは、そこで革命で以って法を改正しようとするところがそれの持つ特殊性である。

問題は、「私がしたいことを法が規制することは法のほうが悪い」という発想である。

先に述べたマスコミの取材とプライバシーの関係でもこれが言えているわけで、「私がしたいこと」というのは、徹底的な個人の私生活の暴露であるわけで、それが如何に公序良俗に反するか、ということがマスコミ関係者には判らないから、何処までも個人の自由を押し捲るのである。

この場合、そういうマスコミの行き過ぎを制限しようとすると、「言論の自由を侵す」という論法で我を通そうとするのである。

これはただ単なる我侭であるが、自分の我侭が通らないと、法が悪いとか、政府が悪いとか、行政の責任だと言う論法で自分の我侭を通そうとするところが共産主義に被れた人の特徴である。

こんなことが彼らの理想とする共産主義国で通用するであろうか。

彼らの国では一遍の通達で、それは意図も簡単に犯罪者になってしまうではないか。

戦後の日本の中で、自分では意識していない共産主義者の存在というのが非常に大きく影響を及ぼしていると思う。

それを人々は民主化という言い方で、歓迎しているふうであるが、共産主義というものが本質的に持っている現体制の否定ということは、まことに由々しきことだと思う。

現体制の否定ということは、言葉を変えれば秩序の破壊ということに他ならないわけで、これの奥底に潜んでいる潜在的な欲求というのは、自由と平等を大儀とする我侭である。

自分の我侭が通らないときには、それは自由と平等が侵されているからだと、言い包めるわけで、その向こう側には政府の怠慢があるという論法で開き直るのである。

言葉というものは非常に厄介な代物で、中国や韓国が小泉首相の靖国神社参詣を非難するのも、言葉で行われているわけだが、言葉というものはどういう風にも言えるし、どういう風にも受け取れる。

だから先方の言ったことに言葉で以って言い返せば、先方は自分の都合のいいように、その言葉を理解するわけで、こちらの意図をそのまま受け入れるかどうかは先方しだいである。

だから我々も先方の言ったことをそのままストレートに受け入れる必要はないわけだが、ここで我が方の中国寄り、韓国寄りの知識人たちが活躍して、先方の言ったことはストレートに受け入れて、同胞の政府を糾弾し、先方の提灯持ちに徹するのである。

この先方の提灯持ちを嬉々としているのが、日本の知識人、教養人、学者といわれる人々なわけで、これこそ隠れ共産主義というものである。

自分では共産党の党員になる勇気もなければ、街宣活動をする勇気もないが、信条的には共産主義者という人達が、奇麗事で糊塗を得ようと偽善者ぶっている姿である。

日本の知識人層がどうして反政府のポーズをとるのかといえば、やはりそれは先の大戦の暗い過去が影響していうると思う。

つまり、先の大戦では政府に一般大衆が迎合したことによって我々は奈落の底の落ちた、という体験から脱しきれていないからだと思う。

このときの反動で、我々は祖国の政府を信用してはならない、という教訓を得てしまった。

そこにもってきて、戦後の日本を統治したアメリカは、戦前の軍国主義の復活を極度に恐れ、徹底的な民主化政策を採った。

このアメリカが施した民主化政策というは、丸々共産主義の路線と軌を一にしていたわけで、我々はアメリカ占領軍によって、共産主義革命をしてしまったのと同じ効果をもたらしたのである。

政治体制こそ共産党一党独裁にはならなかったが、民主主義の多党政治の中で、革命という言葉こそ使われなかったが改革という名の下で、実質、共産主義革命がおきていたのである。

これは我が同胞の極めて狡猾な部分で、共産主義という人間の理想と理念を最大限に具現化しょうとする考え方の良い所のみを取って、悪いところはそのまま切り捨てたということに他ならない。

それはそれで結構なことであったが、良い所のみ取ったつもりでも、度が過ぎれば災いをもたらすようになってきたのが今の日本の現状ではないかと思う。

この度が過ぎるという部分が最大の問題なわけである。

度が過ぎるということが、程度をわきまえないということにつながるわけで、度が過ぎるかどうか、程度をわきまえるかどうか、を判断して警告を発することが教養人とか知識人とか、大学教授というような人々の使命のはずであるが、こういう人々が真っ先に度を越え、程度を無視して、極端に走るから混迷に陥るのである。

教養人が度を過ごして程度を無視することが出来るのも、自由と平等の保障があったからこそそれが出来たわけで、そのことは同時に、この天与の権利を私物化しているに等しいことだと思う。

この自由と平等の権利をあまりにも拡大解釈して、自分の我侭の領域にまでに私物化したりすれば、きっとそのうちにまたその反動として、規制の網が被せられるようになるに違いない。

いわゆる天に唾すればそれが自分に降りかかるということがおきるものと思う。

それをコントロールするのが人としての理性のはずであるが、教養人といわれる人々が、その理性を失ってしまっているということだと思う。

最高学府を修めたような人が理性を失えば、それはただの一般大衆となんら変わるところがないわけで、逆に一般大衆からすれば、教養人のいった言葉を有り難がる必要はないということになってしまう。

つまりポピュリズムということになってしまう。

 

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