政治について  04・10・04

第2次小泉内閣

 

メデイアの愚

 

平成16年(2004年)9月27日、月曜日に小泉首相は内閣改造人事を発表した。

今回の人事は小泉純一郎が本人の政治的課題を成就するための大きな布石である、と本人自身も言い、傍目に見てもそういう感がする。

小泉純一郎という人は、前々から郵政の民営化ということを旗印にし、その旗印を大きく掲げて自民党内の党首選にも堂々と手を上げ、その選挙戦を勝ち抜いて自民党党首にもなり、内閣総理大臣にもなったわけで、過去の自民党の中でこういう経緯で党首を獲得した人はいなかったのではないかと思う。

つまり、新しいタイプの政治家といってもいいと思う。

過去の自民党の政治家というのは どうしても日本人特有の、日本民族固有の、「和の精神」で以って、村長(むらおさ)的な談合で、金と派閥のバランスの上になんとなく首班が決まる、という曖昧模糊とした意思決定の仕方で党首を決め、そうして決まった党首が、再び金と派閥の利害で以って大臣のポストを振り分けるという図式が多かった。

それに較べると小泉純一郎の政治手法というのは相当に合理的精神に富んでいると思う。

彼は、自民党内では変わり者といわれていたようであるが、彼が変わり者であったのではなく、自民党の組織そのものが時代遅れの体質で固まっていたわけである。

政治の世界にも世代交代が進んできたわけで、もう明治・大正生まれの政治家では時代感覚のずれがどうしようもなく修復不可能になってきたわけで、21世紀になれば政治の世界にも昭和生まれの若い世代が若い感覚でことに処さなければならない時代になってきたということである。

それで9月27日に新閣僚が発表されると、NHKのニュースはそれを報じていたが、この記者会見のニュース場面では夫々の新大臣がコメントを述べていた。

ところが、この新大臣がコメントを述べて質疑応答の場面になると、何処の記者だか知らないが、登場してくる新大臣に揃って同じ質問を繰り返す馬鹿がいた。

その記者が聞きたがっていることは、新大臣に任命されたものが、小泉首相の唱えている郵政の民営化に賛成か反対かということを聞きたがって、執拗に食い下がっていた。

その記者は、小泉純一郎という人物が、首相になる前から郵政の民営化ということを公言していた、という事実を知らないのだろうか。

小泉純一郎だとて、他の自民党総裁だとて、総理大臣または党首になったからといって、次の日から自分の考えていた改革ができるわけではない。

そんなことは考えるまでもなく、理の当然である。

小泉氏も最初の組閣のときは論功褒章的に党首、総裁、総理大臣というポスト獲得に貢献してくれた人に報いたい、という日本人としては当然の信義を貫きたい、という気持ちがあったのであろう。

それで田中真紀子を外務大臣に据えたところ、これがとんでもない食わせ物で、田中角栄という過去の名声の残滓以外何もとりえがなく、トラブルだけを撒き散らす人物ということが判り、あっさり首の挿げ替えをしたわけである。

それはさておき、小泉純一郎とすれば第2次改造内閣では彼自身としても自分の所信を貫きたい気持ちも大きく作用したに違いなく、それを実現するための布陣を敷いたと思う。

だとすれば当然のこと、彼の手足となって働いてくれる人で彼の周りを囲むということは極普通の措置で、記者会見に集まっている日本のメデイアの記者というのは、それがわからない人達であろうか。

こんなことは日本の新聞を読める人ならば当然判っていることで、小泉氏は自分の公約を実現するために、基本的に彼の公約に賛成している人を集めた、ということは自明のことのはずである。

その自明のことをわざわざ聞くということは、馬鹿の上塗りというものである。

マス・メデイアというのは何処の国のメデイアでも無責任な存在で、自分の報じた結果には一切責任を負わない。

だからマス・メデイアの受け手としては自己防衛しなければならない。

マス・メデイアに対する自己防衛ということは、メデイアの報ずることを頭から信用してはならない、ということである。

このことを物つくりの現場に置き換えて考えて見ると、メデイアの報ずるニュースというものを商品と置き換えて考えた場合、メデイアの報ずることが信じられないということは、彼らは欠陥商品を人々に押し付けているということに他ならない。

社会人のあるべき姿として、「彼らのいうことは信じてならない」、又は「信じられない」という評価ほど悲しいことも他にないと思う。

9月27日の新閣僚の記者会見で、出てくる新大臣の全部に、「貴方は郵政民営化に反対ですか賛成ですか?」と聞く馬鹿な記者に対して、テレビの前の視聴者は「馬鹿!引っ込んでおれ!」と叫びたくなってしまう。こういう馬鹿な記者を送り込まなければならないメデイアの方も頭の痛いことであろう。

記者クラブとか、記者会見場に詰めている記者というのは、メデイア側の組織内においても末端のもので、メデイア側の大物はあんな場面に現れることはないと思うが、インタビューや質問を受ける側は、相手がいくら馬鹿だと思っても、それを態度や口には出せないわけで、それをこらえることはきっと難しいことではないかと思う。

彼らにしてみれば「オフレコだよ!」と断っておいても、それをもらす記者がいるということは、取材する側とされる側の間に信義がないわけで、彼らは彼らでそのマス・メデイアの曖昧性を逆に利用することもある。

公人としてはマスコミに対して非常に弱いわけで、相手がいくら馬鹿だと思っても、それを面と向かって罵倒するわけにはいかない。

取材する側、インタビューをする側というのは、相手から怒鳴られたり、馬鹿にされたり、足蹴にされることがないものだから、相手よりも偉くなったような気分になってしまって、居丈高な態度をとるようになってしまう。

公人としては非常にマスコミに対して弱い立場で、記者の印象を阻害するようなことをいえば、それこそ嘘八百を並べられた記事にされてしまう。

記事がまったくの嘘であったとしても、公人の側には反論する術はないわけで、どうしても承服できないときは訴訟に訴えるほかない。

訴訟を起こしても結論が出るまで時間がかかるので、解決したときは既に時期を逸してしまっているので、何の意味もないことになる。

内閣官房長官の記者会見というのは毎日2回行なわれているようであるが、この記者会見、今は細田内閣官房長官が対応しているが、この時に記者側の愚問には徹底的に記者を論破して、恥ずかしくてその場におれないような言質を投じてやれば、少しは公人としての威厳も保てると思う。

ところが質問を受ける側が、下手に下手に出るものだから、相手が増長してしまうわけである。

内閣官房長官の一日2回の記者会見というのは、政府のしていることを国民に開示するという意味で非常に良い事だと思う。

しかし、それは官房長官が一方的に事実を述べるだけでもいいわけで、淡々と事務的に報告しておいて、後の質疑応答は取り付く島のない様なぶっきらぼうのものにしてやれば、記者団としては非常に困ることになるのではないかと思う。

記者が質問をする、その質問をするときに、目上の者に対する態度から、言葉使いに至るまでいちいち上げ足を取ってけちを付け、記者を育てた親から学校に至るまで徹底的に非難嘲笑しておいて、そういうところに時間をかけ、質問の本旨をはぐらかし、最後に質問の本旨にほんの少しだけ答えてやったとしたらきっと面白いと思う。

従来、人間は個人の考えを文字という形にして多くの人に伝える。

広く後世に伝えるということは良い事だ、という認識でその表現方法や伝達方法を創意工夫してきた。

ところが近世になると、その素朴な認識を乗り越えて、それを統治の手段として利用しようと考えるものが現れたわけで、個人の意思や思考を伝えたり、広めたりする手法とアイデアが、政治的に利用されるようになって来た。

統治するものとされるものの間に、情報の伝達の手段・手法としてメデイアというものが介在するようになると、政治の目的のひとつがメデイアを支配するという形にならざるを得ない。

依って、独裁主義国家ではメデイアは統治者の直接管理になりがちであり、民主国家では統治システムとは別の存在として、統治するものを批判する自由と裁量が許されている。

メデイアというものは情報を食い物にしているわけで、消費者、乃至は情報の受け手としては、メデイアの食い散らかした後を押し付けられているだけである。

その食い散らされた後の情報の中には、真実もあれば虚報もあるわけで、1から10まで、まともに受け取れば大やけどをすることになる。

この虚報の部分は本来ならば欠陥商品のはずであるが、商品が情報という形のあるものではないので誰もそれが欠陥商品であることに気がつかない。

そしてメデイアの方も虚報を流したことに対して、それが情報として欠陥であるという認識は全く持っていない。

情報の送り手と受け手の接点が記者会見という場であり、ここでは最初、メデイア側が情報の受け手になって、それが新聞記事なり、テレビの映像として広く伝達されるのである。

この記者会見の場で、情報の送り手としては当然内閣官房長官であったり、新しく任命された新任大臣であったりするわけである。

ところが、ここで発信者の言葉を如何に第3者、つまり消費者であり、読者、視聴者に伝えるかという裁量権は、この情報の最初の受け手であるところの記者、つまりメデイア側にあるわけで、最初の送り手としては少しでも真意を伝えようと思っても、この段階で歪曲されることが往々にしてあり、それを恐れて言葉を選んで語らねばならないし、記者を頭ごなしに叱り付けたりすれば、その仕返しとしてあらぬ虚報を流される危険性があるわけで、記者に対して下手に出なければならないという仕儀になる。

民主主義の政治体制の中で、公人というのは基本的に国民に支持された存在でなければならず、本音をストレートに吐露すれば、天に唾するようなもので、自分に災禍が降りかかってくる。

だから政治家などと称せられる人々は、そういうことを生理的に理解しているので、本音をモロに言うということはしない。

それについては典型的な事例を見た。

平成16年10月3日の民放テレビのサンデー・プロジェクトという番組で、9月27日に就任した新外務大臣、町村信孝と石原慎太郎、岡本行夫の3人が討論する場面で、2人がいくら良いアドバイスをしても新外務大臣、町村信孝はなかなか首を縦に振らなかった。

石原慎太郎と岡本行夫の言う事は極めて正論であり、整合性のある論理であるが、大臣ともなれば大臣としての立場もあるわけで、いくら良いアドバイスだったとしても素直に「ウン」と言えない部分があることはよく理解できる。

いくら石原慎太郎が東京都知事だとしても外務省とは無関係な立場だし、いくら岡本行夫が外務省出身だとしても、現役を退いているわけだし、個人のアイデアをそのまま国政に流用するなどということは出来るものではない。

だから町村信孝はのらりくらりと逃げまわっていたが、これはその様子がテレビの画面で放映されているので、その言葉と態度は真実の姿として国民の前にさらけ出されているということである。

だから町村信孝新大臣も、そう安易に承諾できないことは理解できる。

 

外務省の官僚

 

ここで考えなければならないことは、大臣は内閣改造ごとにすげ変わるが、その大臣が統括する官僚の方は誰が総理大臣になろうとも全く人事の入れ替えということがなされないということである。

政務次官辺りまでは大臣とともに入れ替えが行なわれるが、それ以下の官僚については全く人事の刷新ということはないわけで、ここに組織腐敗の原因があることはいうまでもない。

そして尚悪いことに、彼ら官僚というのは、他所の世界を知らないものだから、自分達がぬるま湯にどっぷりとつかってしまっている、という現実を理解していないということである。

だからこそ石原慎太郎や岡本行夫の指摘となるわけである。

そして新大臣、この場合は町村信孝という新任外務大臣は、この官僚からレクチャーを受けなければならないわけで、大臣といえども何でもかんでも自分の独断でことを運ぶということはありえない。

問題は、官僚の利益擁護が国民全体の利益擁護と繋がっておらず、官僚の官僚による官僚のための利益擁護となっているということである。

 

つまり保身である。

官僚の行動意識が保身にのみ作用しており、国民全体という視点が抜け落ちて、そのため国益という概念が全く存在しないという点である。

官僚という人種が、国民のことを忘れて、自己保存のみに気が向くというのは、考えてみればある程度当然のことである。

高級官僚というのは22,3歳で、昔なら高文、今なら国家公務員上級試験に合格したものが成るわけで、一人の人間が22,3歳から定年に成るまで、同じ環境の中で純粋培養されているようなものである。

他の世界から隔離されて、温室の中で純粋培養されているようなもので、社会人としてあまりにも純潔すぎるので、自分達をフォローアップしてくれている国民というものの存在を忘れてしまうわけである。

国民が一生懸命額に汗して㋩働いて納めた税金で、自分たちが生かされているということを忘れて、自分達の保身にのみ汲々している。

官僚というもののシステムが、若いときに一度関門をパスしてしまえば、その後一生生活が保障されるという点にあると思う。

生活を保障されて、ぬるま湯のような中で、同じような同類ばかりと、競争を避け、競争がないから創意工夫もなく、成果主義もなく、ただただ失敗をしないように保身にのみ気を配っているのが官僚である。

だから公僕とは名ばかりで、国民全体の利益という視点が抜け落ちてしまうわけである。

日本の政治を語ろうとすると、大臣はしょっちゅう入れ替わるが、官僚は全く入れ替わらないわけで、新任の大臣は、この官僚に頼らざるを得ないと思う。

大臣は、官僚の上に立って彼らを押さえ込むことができるとはいうもの、それは理論上の話で、実際問題としては、そう単純なものではないと思う。

だから新任の町村信孝外務大臣がいくらテレビの前で石原慎太郎や岡本行夫から良いアドバイスを受けたとしても、彼にしてみれば、二人の賢者の言よりも官僚の意向を考慮しなければ、あとの仕事が成りたたないと思う。

テレビというのは映っている瞬間の映像というのはまさしく真実そのものである。

ただし、この真実の映像を切り貼りして嘘の報道をでっち上げるということも可能だ、ということを承知した上で、我々はテレビの画面を見なければならない。

ところが、これが新聞の紙面という形の情報になると、とんでもない報道になることが予想される。

かって、佐藤栄作元総理は「新聞は嘘を書くから信用できない、テレビだけに語る」という意味のことをいって物議をかもし出したことがあるが、全く彼のいうとおりだと思う。

町村信孝も、個人としてはこの二人の意見に賛意を持っているとしても、テレビの前で草々軽々に相槌をうつわけにはいかなかったにちがいない。

今の日本は一見平和な状況の中にありつつも、非常に困難な問題を抱え込んでいると思う。

それは外交面でも同じで、難問が山積みしていると思う。

石原慎太郎と岡本行夫の話を総合すると、日本外務省というのはまったく日本の国益という概念を欠落した存在のように聞こえるが本当であろうか。

私にはにわかに信じられないことだ。

尖閣諸島の領有権問題を石原慎太郎が提起していたが、石原慎太郎氏の言う事が本当だとすれば、日本外務省というのは外務省としての体をなしていないことになるが、そんなことがありうるであろうか。

石原慎太郎氏だとて、テレビの前で嘘を言っているわけでもないので、彼の言っていることが現実の問題だとしたら、外務省というのは一体どうなっているのかということになる。

今回、アメリカ軍が世界戦略を見直して、再編成するという件についても、日本の外務省の対応の仕方というのは、岡本行夫氏のいうように、外務省そのものが日本の国益というものを度外視して、自らの保身に汲々しているとしか見えない。

外務省というものが日本国全体の国益追求のためにあるのではなく、外務官僚の温存のためにだけあるという感じがする。

外交ということは、正に古くて新しい問題であるが、国益追及という外交の目的というのは、常に変わらない基軸でなければならない。

その国益という基軸を維持するために、時には戦争に訴えることもあれば、平和裏に言葉の戦いで、つまり騙したり騙されたりという駆け引きがなされる場合もある。

我々はODAで低開発国を支援する、核兵器を作っているような中国にさえODAで金を支援している。

日本人を拉致しているような北朝鮮に食糧支援をする、などということは外交的にはこれほど馬鹿げた話しもないはずである。

ところが今の我々は、それが馬鹿げた行為だ、ということに誰一人気がついていないではないか。

我々は戦後の復興を経験したことで、世界1,2の経済大国になったので、貧しい国に大判振る舞いをすることが人道的に正しいことだと思い違いをしているが、これを外交という面から見れば、これほど馬鹿げた話しもないはずで、金を出す以上その見返りもきちんと確保して当然である。

日本の援助はひも付き、だからけしからんという話もあるが、こういう話が浮上すること自体、日本外務省の怠慢であって、ひも付きであり、見返りを望むものでありながら、それを相手に悟られないように言い包めることも、外務省の立派な任務のはずである。

先の湾岸戦争のとき日本は金だけ出して人を出さなかったから世界中の顰蹙を飼い、軽蔑を買ったが、金を出した以上、日本は立派に貢献したわけで、それを世界に向けてアピールすることは、日本政府の代表としての外務省の最も重要な仕事であり任務であると思う。

外務省に、国益の維持乃至は進展という概念があれば、日本は憲法の制約で人が出せない、という事情を世界中に宣伝・PRすれば、こういう世評が世界中に出まわることはなかったと思う。

国益ということは何も戦争をして領地を広げるという狭い意味だけではないと思う。

そんなことも判らないほど愚昧な人間の集団ではないと思うが、何故、日本の外務省というのは国益を考えない官僚に成り下がってしまったのであろう。

ODAで低開発国にひも付きでない支援をするにしても、ただ闇雲に金をばら撒けばいいというものではないはずで、当然、金を蒔いた効果というものを期待し、計算して行為に移さねばならないわけで、国益という場合、目に見えるものだけとは限らないはずである。

21世紀の外交というものは、18世紀のように園遊会で王侯貴族がきらびやかに着飾って行なうものではなく、極めてビジネス・ライクにことを運ばねばならないわけで、そのための武器はいうまでもなく情報である。

こちらの情報は限りなく出し惜しみしておいて、先方の情報は貪欲に吸収するというのが21世紀の外交の基本となるはずである。

そして主権国家同士の外交ということは、商売人同志で取引するのと同じ論理であって、基本的には如何に効率のよい取引に成功するかどうかという問題に尽きる。

取引である以上、金も大きなファクターになるわけで、日本は憲法の制約で人を危険な紛争地域に派遣できないとなれば、金を上手に外交のカードとして使うことを考えねばならない。

ひも付き援助をひも付きでないように見せかける、というような手の込んだ手法も時には必要だと思う。

ただ相手のいうなりに金を出すだけでは、子供の使いよりも劣ると思う。

普通の国以下の日本、つまり危険な紛争地域に人を出せない日本では、金が一番の武器になるわけで、この金というのは、極めて強力な武器になりうると思う。

ところが、イラクの武装勢力に人質を取られて、人質解放のために人命尊重と言う大儀であっさりと金を払うような使い方をしたとしたら意味をなさない。

私の思うところ、北朝鮮による拉致被害者の解放というのも、こういうケースの延長線上のことではないかと想像する。

 

国連常任理事国入り

 

9月末に小泉首相が国連で日本の国連常任理事国入りの演説をしたということも大きな話題になっていたが、日本の国連常任理事国入りというのは日本にとって好ましいことではあるが、我々には主権国家の主権という認識がない以上、あまり意味を成さないのではないかと思う。

民族の名誉も誇りも意識しない国家が、常任理事国入りしたところで、国連の改革が出来るわけでもなく、世界平和や、貧困の克服に寄与できるわけでもなく、アジアに新たな波乱の渦を撒き散らすだけだと思う。

日本の国連常任理事国入りというのは、あまり真剣に考える必要はないと思う。

そもそも国連というものが権威を失っているわけで、日本は自前の防衛力の不足を国連に頼ろうとしているが、国連が日本を守ってくれるなどということは未来永劫ありえない。

実質、アメリカとの2国間相互防衛でなければ日本の防衛ということは成り立たないわけで、アメリカを外して国連に頼ることなどありないと思う。

国連も創建されて60年以上も経てば、そろそろ組織披露をきたす時期で、機能そのものがデッドロックに乗り上げてしまっている。

今更、日本が常任理事国に入ったところで何のメリットもないと思う。

アメリカは日本の常任理事国入りに賛意を表しているが、アメリカの国連に対するスタンスというのは、国連などあってもなくてもどちらでもいいというもので、国連の権威など一向に意に介していない。

それが証拠に、安保理の決議がなくてもさっさイラク戦争に踏み切ったではないか。

これは安全保障理事会に日本が仲間入りしようがしまいが、アメリカは思ったとおりのことを思ったとおりに実行するということで、アメリカは国連などに敬意を表する気もなければ、崇高な理念を感じてもいないということである。

仮に日本が安保入りを果たして、アメリカの行動をけん制しようとしても、そんなことにはお構いなく、したいことをしたいだけするということに変わりはない。

誰がなんと言おうとも全く聞く耳を持っていませんよ、ということである。

我々は、戦後、国連というものは崇高なものという認識で凝り固まっていたが、現実はそれほど崇高な理念で動いているわけではないということだ。

国連の理念は今でも崇高さを失っていないが、現実の国際政治というのは、その崇高な理念とおりには動いていないわけで、弱肉強食の自然の法則から少しも逸脱できていない。

夫々の国が、夫々の国益に沿って機能しているわけで、崇高な理念で動いているわけではない。

ところが我々は、その理念が崇高なるがゆえに、国連というものは至上の正義とみなしがちで、国連の推し進めることは何でもかんでも正しいことだ、と認識しがちである。

明石康男さんや緒方貞子さんの功績は、人類全体にとって輝かしい実績であり、あれは困った人を救済するという人類愛に満ちた行為であり、心から賞賛されるべき行為だと思う。

問題は、救済しなければならないほどの困った人がどうして出来てくるのかという点である。

一言でいえば紛争の解消である。

この地球上から一切の紛争をなくしてしまえば、救済しなければならないような困った人はいなくなるはずである。

明石康男さんや緒方貞子さんの功績は、紛争の後始末に貢献したわけで、国連の崇高な理念からすれば、その紛争をしないようにすることこそ、その至上課題のはずである。

ところがその命題とは裏腹に、紛争は絶え間なく噴出し、救済しなければならない人は、あとからあとから出てくるわけである。

国連の崇高な理念というのは、困った人を救済することよりも、困った人を出さない方策を講ずることだと思うが、そのほうに関してはまったく無力である。

安保理の決議がないままイラク攻撃に踏み込んだアメリカはけしからんといったところで、何処の国がそのけしからんアメリカに制裁を加えれるのか。

この地球上において、アメリカに制裁を加えれるような国は存在していないではないか。

結果としてアメリカはしたい放題のことをしているということになる。

アメリカが日本の安保理入りに賛意を示しているといったところで、たいした意味はないと思う。

日本の安保理入りにもっとも強烈に反発するのは中国だと思う。

アメリカから日本を見れば、日本はアメリカの属国のようなもので、アメリカと正面から対立することはない、と彼らは考えているに違いない。

ところが中国にとっての日本というのは、極めて政治的に重要なカードなわけで、日本に対する発言でアメリカをも大きく牽制することができるわけで、日本が常任理事国として中国と同じテーブルについてしまえば、そのカードを利用出来なくなるから、決して中国が日本の常任理事国入りを歓迎することはないと思う。

我々は武力でもって国際紛争を解決することを憲法でもって禁じているので、生き馬の目を抜く国際社会では、我々の生存のための武器は金しかないということである。

ところが今の日本人には、この金が武器になるということすら、さっぱり理解されていないようで、「金持ちが貧乏人に恵む」、乃至は「金持ち喧嘩せず」という発想しか持っていない。

札束をちらつかせて相手から妥協を引き出すという発想が全く存在しないのである。

金が武器になるということは、「金を出さない」というブラフを掛けることで、こちらの要求を相手に押し付けることも可能なわけで、日本は今国連への供出金がアメリカについで2番目だといわれている。

ならばこの金を出すことを渋ることで、国連改革を促すことも可能と考えるべきである。

国連に対して、日本のいうことを聞かなければ金を出さない、というアプローチも大いに使うべきだと思う。

それでこそ生きた金の使い方ということが出来る。

我々の古典的な概念では、金に関することは汚いもの、という潜在意識が抜けきれていないと思う。

約10年前の湾岸戦争のとき、我々は金は出したが人を出さなかったので、世界から顰蹙を買ったと思って、それ以降人を出すことばかり問題にしてきたが、考えてみれば、金も使い方によっては立派な武器として機能するはずである。

金が武器になるか、ただの寄付になるのか、という場合、それを左右するのは交渉能力だと思う。

金というカードを使って、相手からいかなるものを引き出すか、又はこちらの言い分を如何に通すか、ということはひとえに交渉能力だと思う。

戦後の我々の歩んできた道を振り返ってみると、敗戦、占領、独立、復興、という過程を経て、高度経済成長を経験したことによって、我々はアメリカに次ぐ金持ちの国になった。

そして国を守るという概念も、自ら銃を持って戦うことを遺棄してきたので、最初のうちはアメリカの傘の下に隠れていたが、今は金持ちの国になった以上、金で国防を買うというあたらしい認識を持ってもいい時期だと思う。

「金持ち喧嘩せず」ではなく、金持ちは金持ちらしく、金で用心棒を雇うという発想を考えてもいい時期だと思う。

在日駐留米軍に対する「思いやり予算」というのは、この発想の具現化したものと思うが、ここで相手を怒らせてしまったら元も子もないわけで、相手、つまりアメリカを怒らせないように日本の用心棒にするというのも政治の手腕であり、外交の妙味だと思う。

 

詭弁を弄する

 

この日のサンデー・プロジェクトでは、自民党の党3役も新たに入れ替わったので、新3役に対して田原総一郎が辛らつな質問を浴びせていたが、この田原総一郎の歯に衣を着せぬ辛らつな問答というのも、ある意味では非常に下品で、相手を馬鹿にした部分がある。

相手に腹を立てさせて、本音を引き出そうとするテクニックかもしれないが、テレビという公衆の面前でそれを実現するというのは、いささか悪趣味で見るに偲びない。

相手との親しさを誇張するため、特に汚い言葉を使っているという風にも見えるが、普通の社会人として、普通の常識の範囲内で、普通に語り合えばいいのであって、特に相手との親しさを無理に誇張する必要はさらさらないはずである。

幹事長の武部勤氏など、田原氏から面と向かって罵倒されて、最初のうちはにこにこしていたがあまりにも田原氏が傍若無人で、相手に対して失礼な発言をするものだから、だんだん顔がこわばってきた。

それを久間章夫と与謝野薫が当人のフォローをして何とかその場を取り繕ったという感じであった。

田原総一郎も、歯に衣を着せぬ辛らつな問答で、相手の本音を引き出すことを職業としているので、インタビューの技巧の一つとして辛らつな質問をもってのぞんでいるのであろうが、それをあまりにも率直に目の当たりにすると、下品さが前面に浮かび上がってくる。

問答の冴えが後退して、下品さが前に出てきてしまう。

石原慎太郎は、彼が北朝鮮に行っている間に奥さんを亡くしたことに言及して、お悔やみの言葉を送っていたが、彼、田原総一郎には、こういう奥ゆかしさというものがにじみ出ているようには見えない。

そして彼も最近では国民に対する説明責任、説明不足という言葉を多用して、例の郵政の民営化の問題に関して、しきりにこの言葉が行き交ったが、政府のしようとしていることを、「説明不足だから駄目だ!」という論拠は成り立たないのではないかと思う。

「説明不足だから」といって相手を詰ることは、自分の勉強不足を相手の説明不足に摩り替えているだけではなかろうか。

この情報化の時代に、文書で公開されれば、もうそれだけで説明不足などいう言葉はなりたたないと思う。

国会審議というものは一つ一つの条文の、行間の言葉を探り、文字の裏の意味を探り、ひとつの言葉を如何に拡大解釈するか、または逆に偏狭に解釈するか、と言うことを争うわけで、そういう言葉の解釈を何度も何度も繰り返し、何処をどうつついても新たな解釈が出てこないようにするのが法案の審議というものでなければならない。

田原氏が武部自民党幹事長をこき下ろした最大のポイントは、武部氏の知名度が低く、党内、党外に彼の名前が響いていなかったという点に尽きるが、「知名度が低いから貴方は馬鹿だ!」という決め付け方は、相手を侮辱する以外のなにものでもなく、これほど論理的に不合理なこともない。

これはテレビという公衆の前で恥をかかされた武部氏よりも、恥をかかせた側の田原総一郎の方に、知性の低さと、マスコミ業界の傲慢さを感じざるを得ない。

テレビの前の公開討論と言う形で、局側がセットしたゲストに対して、恥をかかせることが最近のインタビューの主流になっているようであるが、こんな番組に出るほうもそれだけの覚悟はしているかもしれないが、見ている側としては実に歯がゆい思いがする。

公開番組であるので、その場で喧嘩するわけにも行かず、テレビ慣れした側に自由に利用されるだけで、テレビ慣れしていないゲストの側は、恥のかきっぱなしに終わるわけである。

昔からインテリやくざという言葉があって、マス・メデイアを生業としているものを総称していたが、このインテリやくざというのは、大衆にあることないこと針小棒大に言いふらすので、そのことに依って利害得失が左右されるような人は非常に恐れおののくのである。

特に、政治家という職業からすれば、選挙民に対してよからぬ噂を流されれば、その噂そのものが命取りになるわけで、インテリやくざからコメントを求められれば、言葉を慎重に選んで回答しなければならないのである。

一般大衆というのは、それほどインテリやくざを恐れる必要はないが、それでも事件の当事者ともなれば、しつこく付きまとわれて困ることはある。

昔はこういう職業を賤しむ風潮があった。

新聞記者を売文屋という呼び方をした時代もあったが、堅実なものつくりの業界からすれば、売文業というのは虚業の最たるもので、そういう意味からも人々から卑しめられていたことはうなずける。

ところ昨今のように、政府が通達を出すと、それの趣旨説明を求められる様な時代というのは、国民の文章理解力の低下ということであろうか。

今回、政治課題になっている、郵政の民営化について、それを実行したら国民に対してどういうメリットがあるのか、政府は説明不足であるから国民に対してもっともっと説明する必要がある、と言う趣旨の発言が自民党内からも野党からも有識者の中からも出ているが、こんな馬鹿な話しもないと思う。

郵政の民営化という公約は、小泉純一郎が自民党総裁、内閣総理大臣になる前からの彼の公約で、彼は一貫してその目的にために政治をしてきたわけで、その最終仕上げとして今回それの完全実現を目指して閣僚人事をしたわけで今さら説明不足などという言葉が出る幕はないと思う。

郵政の民営化といっても、全部、四方八方、良い事ばかりでないことはいうまでもない。

当然、その犠牲となる人も出てくることは論を待たない。

つまり、改革には痛みを伴うということである。

しかし、痛みがあるからといって何時までもその痛みを避けていては、一歩も前に進まないわけで、痛みを乗り越えて前進しなければならない、ということは当然のことである。

こういう問題は、往々にして総論賛成各論反対という構図になりがちであるが、小泉首相の郵政の民営化に反対するグループというのは、この各論の部分で夫々に利権が絡んでいるため、総論では賛成しながら、各論になると反対という矛盾に行き当たるわけである。

その時に「俺は利権を失うから、各論の部分では反対だ!」と正直な本音が公然とは言えないわけで、だからその各論の部分において、変更に対する政府側の説明が不足している、という言い草になるのではないかと思う。

我々、日本人の政治というのは本質的に独裁者というものを好まないわけで、「総論では賛成だが各論では反対だ!」というポーズが非常に好きなのである。

「この指とまれ!」式に、何でもかんでも一気呵成に総論賛成、各論も丸ごと賛成というわけには行かないわけである。

大筋としては賛成であるが、この部分だけは承服しかねる、というポーズを取ることが好きなわけである。

丸ご賛成するのではなく、どこかにほんの少し当たり障りのないイチャモンをつけることで、自分の存在感をアピールしようとする。

これは歴史的に見て、農耕民族の伝統的な処世術なわけで、農耕、特に稲作農業を主体とする生産様式の中では、人々が集落を維持し、生産を維持し、民族を絶やすことなく生存し続けてきた処世術である。

それは、近代的な民主主義とは一味違うが、極めて民主主義に近い考え方ではある。

単純な数の論理ではなく、そこには感情が埋没しており、多数決であっさり切り捨てるには忍びないという情緒が入り込んでいる。

つまり大勢の意見を集約し多数決原理で機能しつつも、それが厳格ではなく、少数の意見を多少とも組み込んでやろうという情緒が見え隠れしているわけである。

だから非常に曖昧な束縛となっているわけで、意思が確実に決まったのかどうはわからないままことが先に進むという塩梅である。

これは完全に独裁の対極にある考え方で、日本民族が農耕民族である限り、我々には独裁者というのはありえないと思う。

問題は、この民主的でありそうでそうではない我々物事の決定の仕方にあるわけで、それがため総論賛成各論反対という現象が起きてくるわけである。

小泉純一郎という人は、自民党の総裁選に立候補する時点で、郵政の民営化ということを声高に主張していたはずで、それが受け入れられたから彼は総裁になり、総理大臣になったわけである。

それを今さら説明不足などという言い草はありえないと思う。

ただの言いがかりに過ぎないと思う。

確かに小泉氏が以前から唱えている郵政の民営化という案も、案だけであって中味の詳細について、つまり青写真というものがないことは自明であるが、それをこれから作るわけで、これから中味を詰めて、作り上げようという際に、青写真が無いから駄目だという論法は詭弁以外の何物でもない。

 

農耕的民主主義

 

民主政治というのは言葉の戦いだと思う。

そして民主政治、民主主義というのは、完全無欠で全員の納得するものでもないわけで、それは少数意見の抹殺という厳しい矛盾を内包するものである。

改革を実現するについての少数意見、恩恵からはみ出る人々、既得権益を失って痛みを伴う人々を如何に納得させるか、というところに今後の小泉首相の政治生命が掛かっている。

郵政の民営化ということは、もう既に閣議決定ということで、軌道に乗ってしまった。

そして軌道に乗ったものをいかに終着点にまで持っていくか、ということが今後の課題となったわけである。

その過程において、様々な意見が出ることは致し方ない。

自民党内で小泉氏のやり方を面白く思っていない面々も、国益という大きな枠組みの中で物事を考えるとすれば、既定方針には従わざるを得ないと思う。

だからこそ、そういう面々、つまり小泉氏のやり方に不満を持っている人々は、政府の説明不足という方便で彼の足を引っ張ろうとしているのである。

ここで問題なことは、自民党内の派閥争い、足の引っ張りあいという人間の汚い根性である。

自民党も200人とも300人とも言われるような大きな団体組織であるとすれば、その中で仲の良いもの同志の集まりができることは致し方ない。

しかし、それが同じ仲間の足を引っ張るというのは一体どういうことなのであろう。

野党が自民党の足を引っ張るというのならばまだ分かるが、同じ自民党同士で足の引っ張りあいをする、というのは一体どういう了見なのであろう。

大きな集団の中には必然的に仲良しクラブ的な小集団が出来ることはある程度は致し方ない面があり、それはそれほど目つぼに取ることはないが、この仲良しクラブが横の連携を全く無視して、お互いの足の引っ張りあいに終始するということは大人気ないことだと思う。

郵政の民営化という政治課題についても、色んな視点から眺めれば様々な意見が出てくることは当然だと思うが、少なくとも総論で賛成ならば、各論のほうもその線に沿った解決法を探る努力をすることが同じ志を持つ政党の党員の勤めではないかと思う。

そして政治家のリーダー・シップという言葉もよく耳にするが、これも自民党の中の総理経験者というような人たちが率先して現職総理をフォローする形で党内の意見調整をすべきではないのかと思う。

総理経験者が現職総理の足を引っ張るような発言をしていては、現職総理からますます充てにされなくなって、世代交代がより一層進んでしまうものと考える。

野党が自民党の足を引っ張るというのも程度問題で、この度が過ぎると野党の言う事、乃至は態度が日本人ではないかのような印象を受け、まるで他所の国の利益追求としか思えないような発言が飛び出してくるからこれも要注意である。

小泉純一郎は首相になる前から自民党の中では変わり者といわれていたので、彼を引き上げてくれる先輩、言い換えれば自民党内のドン、ボス、実力者、影武者が少ないので、小泉氏の立場としては若手を起用し、民間からも有能な人材ならば登用せねばならず、従来の自民党の手法が使えなかったため、そこが又自民党の古老の顰蹙を買うということになったものと推測する。

ところが組閣が二度目ともなると、彼も自民党の従来の手法に歩み寄らなければならなくなったわけで、当初の斬新さはいささか薄れた感がするが、それでも従来の自民党の感覚からすれば思い切った人事ではないかと思う。

憂うべきは、小泉首相の唱える改革の足を引っ張ろうとする自民党議員の存在である。

今まで属議員として、郵政(省)という官僚組織の中で、既得権益で以って甘い汁を吸っていた議員が、既得権益を守るために必死になって小泉氏の進めようとする改革に邪魔をし、抵抗しようとするに違いない。

テレビの討論でも、サンデー・プロジェクト(10月3日)で田原総一郎が「民営化するとどういうメリットがあるのだ?」と、自民党の新3役に詰め寄っていたが、こんなことは質問自体が愚問である。

私に田原総一郎が同じことを質問してきたら、「あなた、今頃何を言っているのだ。あなたこそ勉強不足ではないか!自民党の選挙公約を読め!」と逆襲しておくが、新しい自民党3役は公人なるがゆえに、テレビの前で田原総一郎と喧嘩するわけにも行かず、わかったようなわからないような要領の悪い応答をしていた。

メデイア側の人間というのは、事ほど左様に、テレビカメラの前で相手をいくら罵倒しても、相手は決して反撃してこない、ということを予め計算に入れて意地悪な質問を浴びせてくるのである。

この「民営化するとどういうメリットがあるのか?」という部分が説明不足だと言われているが、ならばこの部分を懇切丁寧に説明したとしたら、後はそのまますんなりと法案を通過させるのか、といえばそんな補償は全くないわけで、紆余曲折は目に見えている。

政治を語るとき、何故考えがひとつに纏まらないのか、という点が一番の問題だと思う。

さりとて、全会一致でことが決まるというのも危険なことで、民主政治というのは、ことが決まっていく過程が重要だと思うのだが、その過程が極めて前近代的で、この過程で出来るだけ多くの賛同を得ようとするところが日本的なのではなかろうか。

郵政の民営化というのは、郵便の非効率化の解消と、郵貯と簡保の財政投融資の不具合を是正という問題から出ているわけで、この両面を是正するについてはなんびとも異論はないはずである。

つまり総論では皆賛成なわけである。

ところが、いざ郵便局の業務を小分けして、各部門ごとに独立させ、民間と競争させようという段階に来ると反対が出てくる。

何事にも反対意見というのはあって当たり前で、無いほうが本当はおかしいわけだが、反対意見を勘案している間に、悪戯に時間だけが流れてしまうのも困ったことで、やはり物事にはタイム・リミットというものが必要なことはいうまでもない。

如何なる改革も10年、20年というタイム・スパンでは意味を成さないわけで、せめて長くても5年以内にことを成就させないことには改革の意義を失ってしまうものと考える。

そのためには、政治家の集団としての自民党というものが、目的遂行のために一丸と成らなければならないと思う。

人の考え方にはいろいろあって、それを一つに集約するということは極めて困難なことであるが、政治家の集団としては、その改革を国益という面から捉え、大同小異につくほかないと思う。

 

国益を蔑ろにする愚

 

国益というものは何も帝国主義で領土と拡張することばかりではないと思う。

民間の経営手法と全く同じで、少ない経費でもっとも大きい効果を狙うことが、そのまま国民全体の負担軽減に繋がるものと考えなければならない。

郵便貯金、簡易保険という形で吸い上げた金だから、意味もなく使うというのでは我々はたまったものではない。

郵政の民営化として唱えられている改革改造というのは、その点に注目したわけで、意味もない金の浪費を見直しましょうというものである。

ところが一方では、その意味もない金をしこたま懐に入れている官僚がいるわけで、そういう人達は改革改造が進めば今までの甘い汁を吸うことができなくなるので、それで自分の既得権益を失う部分の改革には反対ということになるわけである。 

ところが民営化に抵抗する側の勢力としては、その本音をストレートに公言するわけには行かないので、首相の説明不足という言い方で、既得権益の部分を守ろうとしているわけであるが、この部分が自民党の古参議員と繋がっているわけで、その壁をぶち破らねば小泉首相の掲げる政治的な公約は前に進まない。

この部分に、国益というものを全く無視した、利権構造が横たわっているわけで、今の日本はこの10年来景気が悪いといいながらも世界でアメリカに次ぐ経済大国であることに変わりはなく、国益という概念そのものが人々の意識の中に存在していない。

出来るだけ少ない経費で、最大の効果を引き出すという、経済上の「孫氏の兵法」のような概念を喪失してしまっている。

不良債権は一向に解消されず、国の借金は天文学的な数字に達しており、にもかかわらず国民の預貯金も、それをカバーしてなお余りあるものとなっているわけで、今の日本の現状というのは、人間の考えの全く及ばない域外にまで達しているのではないかと思う。

ただたんなる数字の遊びではないかとさえ思えてくる。

小泉首相はまえまえから自民党をぶっ壊すということを言っていたので、こういう抵抗勢力をものともせずに事を進めるであろうと思われるが、願わくばそうしてもらいたい。

政治家といわれる人々は、基本的には国益というものを視野に入れてものを言わなければならないと思うが、これが案外疎かにされて、私利私欲の追求ということになっているのが現状ではないかと思う。

本来ならば、国民全体のことを考えて発言しなければならないところを、その心根に私利私欲が付きまとっているものだかっら、言う事と成す事がずれてくるわけである。

そして、自分は私利私欲で動いているということを上手にカモフラージュしなければならないので、ここで言葉を弄して、自分の方に利益誘導を図ろうとするから、政局が不安定になるのである。

このことは自民党だけに言えるわけではなく、大きな目で見れば野党にも同じことが言えるわけで、野党が政権をとれば、こういう混乱は払拭される、というのは幻想に過ぎない。

それは民主党の内部の葛藤を見れば、やっていることは自民党のそれと全く同じである。

つまるところ、それは人間の集団には派閥争い、私利私欲の追求、利権誘導ということは解消できないということである。

人間が人間としてお互いの統治システムに関与している限り、人間としての本質、つまり自分だけでも得をしたい、という人間の基本的欲求というのは拭い去れないということである。

ただ、人間というものが赤ん坊から子供の域を出、成年に達し、壮年に達し、成熟すれば、そういう人間としての煩悩から脱却できなければ立派な人間として生育したということにはならないと思う。

戦後の日本の民主主義の中で、地域の選挙民から選出された国会議員が、または官僚として頂点まで登りつめた人間が、私利私欲で振り回されていては人間として極めて原始的な精神構造といわねばならず、人間の価値としては無に等しいと思う。

宮沢喜一や、中曽根康弘、野中広務というような自民党内の重鎮といわれる人々が、後輩の首相、小泉純一郎の足を引っ張るような発言をしていては、人間としての値打ちは無だと思う。

今、小泉純一郎のしようとする改革に不満だったとしたら、何故、自分の在任中に自分の気の済むように改革をしておかなかったのかと問うべきである。

自分の在任中には放置しておいたことに、小泉氏が手をつけたから怒っているとしか思えない。

中曽根元総理などは国鉄を解体してJRにした実績があるのだから、小泉氏の改革などにはもっともっと積極的に支援してしかるべきだと思う。

小泉氏は自民党内でも変わり者といわれているので、彼もそういう色眼鏡で見ているのかもしれないが、先輩として彼をフォローしようという態度は全く見えてこない。

これでは旧軍隊における兵営内の先輩の後輩いじめ以外の何物でもない。

物事には様々な角度から、様々な視点があるので、夫々に違った意見が出ることは論を待たない。

しかし、人間としても先輩、自民党員としても先輩であるべき人々が、後輩のすることの足を引っ張るということは、人間としてのクズ以外のなにものでもないと思う。

物事には色々な考え方があるので、自分の考え方とは100%一致しなくても、国民のためということであれば、小異を捨てて大同に着くというのも、先輩としての貫禄ではなかろうか。

こういう自民党内の重鎮といわれている人々は、郵政の民営化が国益を損なうものとでも考えているのであろうか。

確かに、この改革が進めば、痛みを伴う一部の人々がいることは、理解できるが、全く犠牲を伴わない改革というのはありえないわけで、改革に依って痛みを伴うということは、今まで十分に利益、役得に浴していたということであり、それがなくなるから痛みというわけである。

国民全体から見れば、その甘い汁が問題なわけで、それを無くすということには反対すべき理由がないではないか。

ところがこの部分に、野党をはじめとする自民党内の抵抗勢力と称する人々が反対を唱えているわけで、それこそ国益を損なう行為といわなければならない。

 

政界のシーラカンス

 

人間の集団が派閥を生むのは致し方ない。

しかし、政治を志しているものが、その派閥の顔色を伺いながら閣僚人事をする、ということは政治として次元の違うことで、政治ということは結果を出さなければならず、その結果を出せる人間をポストに据えなければ政治の意味を成さない。

従来の自民党政治というのは、その結果を考えることなく、派閥の領袖の顔色をうかがうことだけに関心が向いていたのである。

だから閣僚人事も派閥内の順送りということが罷り通っていた。

こんな馬鹿な話もないはずであるが、派閥のバランスを取るということが安定政権の必要条件になっていたことは歴史的な事実だと思う。

内閣の仕事、つまり政治というものが当選何回だから次はこのポスト、誰々の後輩だからこのポスト、順番からいけばこのポスト、というような前近代的な基準で大臣のポストが振り分けられるような政治では、統治される側はたまったものpではない。

やはリ、そこは明確な目的意識を持って、その目標達成に一番適した人材を適材適所に配して、初期の目標を実現するというのが新しい政治手法と成らなければならないと思う。

小泉首相は、そういう自民党内の旧習を少しづつ壊す方向に動いているわけで、遅々とした動きではあるが、自民党内の意識の近代化に向かっているものと考える。

新しい改革をしようとすれば、当然、抵抗勢力が出てくることは理解できるが、この抵抗勢力を形成しているほうに大いに問題があると思う。

政治というものの中に、個人的な憎悪の感情を入れてはならないと思うが、現実はどうもそういう個人的な感情が大きく作用しているように見受けられる。

小泉純一郎は自民党の中の変わり者だったので、そんな変わり者の言う事など聞きたくないという、個人的な憎悪の感情が前面に出てきているように見える。

亀井静香氏の発言などはそのもっとも良い例だと思う。

問題の本質をそっちのけにしておいて、仁義の切り方が悪いとイチャモンをつけているようなもので、彼の政治的信条というのは正に近代以前の感覚でしかない。

10月10日、日曜日の民放では、中曽根康弘がテレビの対談番組に出演していたが、彼は小泉氏の第2次小泉内閣を評して、小泉商店内閣と揶揄していた。

彼の言わんとするところは、自分の目的遂行のために自分のいう事を聞くものを集めたというわけである。

そして小泉氏の郵政の民営化の問題は、政治の中の一部分に過ぎず、各論に過ぎないと評していた。

これは総理経験者としての発言として、非常に無責任な発言だと思う。

以前、道路公団民営化の時には丸投げという言葉も使われた。

問題解決を若い者に任せると丸投げというわけだが、リーダーたるもの若い者に、政治課題の一つを丸投げしたからこそ、若者が経験をつむことができ、育つわけで、丸投げこそ新しい政治感覚だと思う。

従来の自民党政治というのは、この丸投げで処理すべき部分を、派閥間のたらい回しで。利益、余禄、無用な出費を囲い込みつつ、処してきたわけで、その認識そのものが時代感覚のずれだと思う。

小泉氏は、郵政の民営化に政治生命をかけて総理になったわけで、それは自民党の公約でもあったわけだから、彼がその公約を実現するために、もっとも適したと思う人材を身の回りに取り込むことは当然のことだといわなければならない。

激動する内外の政治状況の中で、郵政の民営化の問題というのは各論の中の一つかもしれないが、そういう評価もマス・メデイアが作り出している部分もあるわけで、彼は世界中を飛び回っているではないか。

小泉氏のいう郵政の民営化というのは郵便配達のことだけではなく、その言葉の裏にあるのは、郵便貯金と簡易保険の集めた金の使い方のほうにあるわけで、この部分を改革するということは、日本の官僚システムの根本を突き崩すということになる。

郵貯と簡保の金が財政投融資という形で特殊法人にまわって、それが湯水のように垂れ流されている現状を変えようというものである。

特殊法人にメスを入れるということは、日本の官僚システム全体の問題に普及するわけで、だからこそ抵抗勢力も強硬に反対しているわけである。

だとすれば。日本の現状を憂うべき自民党の政治家ならば、全員が彼を支援して憂国の情をつまびらかにすべきではないかと思う。

元総理経験者の中曽根氏から見れば、小泉氏のやっていることは危なっかしく、不安でしかたがないかもしれないが、それならばこそ彼が党内をまとめ、自民党の公約を実現すべく働かねばならないと思う。

それが出来なければ彼は政界のシーラカンス以外のなにものでもない。

 

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