スポーツに思う04・08.26

暑い夏に思うこと

スポーツに思う

 

平成16年8月18日現在で日本はオリンピックと高校野球で明け暮れているが全く平和なことで喜ばしい限りである。

しかし、オリンピック競技というのは古代の戦争のテクニックであったということを今の日本人の何人が思い致しているのであろう。

マラソン競技は言うまでもなく、戦況報告のため約42kmを走りぬいたところに起源があることは周知されているが、陸上競技の大部分がいわゆる戦争のためのテクニックであった。

槍投げ、砲丸投げ、円盤投げ、走り幅跳び、高飛び、要するに陸上競技種目全般は、みるからにそれを髣髴させるが、思えば古代ギリシャとか古代ローマというのはなんとも殺伐とした時代であったことかと思う。

今はスポーツなどと称して殺しのテクニックを弄んでいるが、古代ギリシャや古代ローマでは、コロシアムの中で奴隷に殺し合いをさせておいて、自分達は飲み食いしながらそれを眺めて楽しんでいたわけである。

スポーツの起源はこのように残酷なものであったが、日本人はスポーツそのものも輸入したもので、

そこまで考えが及ばないのも致し方ない。

西洋のスポーツに対して日本では武道という形で殺しのテクニックが普遍化したが、これは眺めて楽しむという側面よりも、精進することで自己の精神性を高める方向に作用していたのではないかと想像する。

時代が下がってから発明されたスポーツ、中でも野球などという競技は純粋に競技そのものを楽しむため開発されたものに過ぎず、古代のスポーツが殺しのテクニックの延長線上にあることから考えれば極めて平和的なものといえる。

個人的に私はあまりスポーツが得意ではなかったのでスポーツの意義を悟り、それに目覚めることがかなり遅かった。

確かに、心身ともに健康な人間が、時々スポーツをするということは、それがどんなスポーツであるにせよ非常に精神衛生上得策なことだと思う。

日ごろたまったストレスを発散させるにはもっとも好ましい行為だと思う。

日常生活で緊張を強いられ、それがストレスとなり、精神的に鬱積したものをスポーツをすることによって、一気に発散させるということは非常にいいことだと思う。

スポーツをすることにより気分が開放され、日ごろの鬱積が四散するということは、人間の隠れた闘争心が刺激されるからではないかと思う。

スポーツは楽しむためにあるとはいうものの、やはり突き詰めれば勝負に行き着くわけで、勝敗のないスポーツなどというものは存在しないのではないかと思う。

職場や、町内会の草野球をはじめとするアマチュア・スポーツでも、最初は「楽しむため」とは言いながら、しばらくするとやはり「勝たなければ面白くない」ということになり、練習に熱が入ってしまう。

こうなるとリーダーの発言権が大きくなり、グループ内の雰囲気がギクシャクしだして、段々活動が尻すぼみになりがちである。

最初は「お互いに楽しめばいい」と言っておきながら、そのうちに勝負にこだわりだすわけで、そうなると元々技量に格差のあるアマチュア・スポーツでは活動が暗礁に乗り上げてしまうわけである。

この最初は「お互いに楽しめばいい」と言いながら、そのうちに勝負にこだわりだす、というのは日本人の民族的な真面目さではないかと思う。

この我々の民族的な真面目さというのもよくよく注意して見、考え、考察しなければならないと思う。

 

滑稽な生真面目さ

 

8月はスポーツのシーズンであると同時に、日本が戦争に負けたときでもある。

私はあの戦争で1万mの上空をB−29が編隊を組んで悠々と日本の上空に迫ってくるのに、我々の方はバケツ・リレーとハタキで立ち向かおうとした図を思い浮かべると、我々の民族の真面目さというものが頭に浮かんできて仕方がない。

今考えれば、誰が見てもばかばかしい図である。

しかし、バケツ・リレーやハタキでもって火を消さないことには、自分の家が燃えてしまうのだから、ばかばかしいなどと言っておれない当時の状況はよく理解できる。

このばかばかしさというのは、これほどの状況に追い込んだ戦争指導者の責任のばかばかしさでもあるわけだが、そのばかばかしさが判っていながら黙々とそれを行わなければならなかった当時の人々というのは、あまりにも真面目すぎ、健気すぎたのではないかと思う。

ここに私は日本の大衆の持つ生真面目さというものを感じ、それは同時に憐憫の情をも沸き立たせる。

この生真面目さというものが、日本民族の本質的な民族的特質であったことは論を待たない。

今日、我々はオリンピックと高校野球に一喜一憂一しているが、この暑い夏は同時に終戦後59年目の夏でもある。

59という数字は中途半端な数なので、マスコミも終戦、敗戦ということにあまり関心を示していないが、日本から被害を受けたと思い込んでいるアジアの国々では、数の半端など問題ではなく、その被害者意識は漁り火のように蔓延しているように見受けられる。

我々の民族が生来、生真面目であるとすれば、この今日のギャップを如何様に考えたらいいのであろう。

今年の8月、サッカーのアジア・カップ大会が中国の地で行なわれた際の中国人サポーターの行為、行動を我々は注視しなければならないと思う。

あれをただたんなる偶発的な出来事と捉えてはならないと思う。

ああいう行為をした中国の若者というのは、実際に日本の犯した行為を体験したわけではないので、彼らは彼らの先輩からの伝聞や、その後の伝承でそういう排日という認識を持っていると考えなければならない。

それがああいう形で露呈したものと考えるべきである。

日本の文化というものを考えたとき、アジアの人々、特に中国と朝鮮というのは日本の文化の上流に位置するわけで、そのことは我々もそう認識しているが、同時に彼らも同じことを同じように認識しているわけである。

人々の住む地勢的な領域が海でもって隔離されているとすれば、夫々の領域に古代より生き続けた人々には、それぞれの地域に根ざした固有の潜在意識が芽生えるのも致し方ない。

それが中国大陸に住む人々の中華思想、華夷意識であったとしても、それは致し方ないことであり、歴史の必然でもある。

地球上の人間が地勢的に隔離された状態で、ある特定の地域に集合して生き続けたとき、その地域に住む民族という単位で括ることが出来ると思う。

原始社会においては、その地域に住む人々の結束、つまりテリトリーというものがきちんと確立しておらず、流動性に富み、人々は融合したり離散したりという自由度が高かったと思う。

ところが近代国家ともなると、主権国家という概念の元、その離合集散の自由度が極端に狭められたわけで、するとその民族の持つ人々の特質というものが極端に浮き上がってしまい、顕著に現れてしまう。

これは見方によっては一種の差別意識でもあるが、元々が人間の潜在意識に関わることなので、言葉でいうほど安易に解消は出来ない。

そういう考え方でもって日本とアジアのことを敷衍してみると、中国人の排日感情、朝鮮人の侮日感情というのは未来永劫消え去ることはありえないと考える。

だから21世紀に生きる人々は「差別意識を捨て去る」などと奇麗事をいわずに、差別意識を表面化させない生き方を選択すべきだと思う。

ところがここで我々日本民族の生真面目さが障害となって、「何事も奇麗事で通さなければならない」と、潔癖性が表面に出てくるので、日本の社会が上から下まで大騒ぎになるのである。

中国大陸に住む12億の人間に「中華思想を捨てよ、華夷秩序を捨てよ」と言っても、これは言う方が馬鹿げているわけで、我々は中国人が潜在的に持つ中華思想、華夷秩序を容認しながら、対応しなければならないのである。

同じことは南北朝鮮にも言えるわけで、彼らは相手が日本である限り冷静で、合理的な判断を失ってしまい、蔑視感覚が前面に出てきてしまうわけである。

今、日本でブームになっている「冬のソナタ」ブームも、あれは韓国から日本に入ってきているので、太古の文化の流入と同じパターンを踏襲しているため、先方は何ら問題にしていないが、韓国ではつい最近まで日本文化の流布は禁止されていたではないか。

つまり朝鮮から日本に来る分には問題はないが、その逆は罷りならぬということである。

そして、これは表向きの政府見解であるが、韓国でも大衆レベルでは日本文化がかなり浸透しているわけで、この二重構造になっているというところが、我々、日本民族とは大いに異なるところである。

我々は大戦中「英語は適性語」といって一切使用禁止にして、それを又、我々の生真面目さが徹底的に守ったことと比較して考えてみるといい。

話は少々飛躍するが、あの大戦中、我々の同胞はサイパン、沖縄、その他太平洋の孤島で、官民合わせて多くの同胞が玉砕したが、この玉砕ということも我々の民族の生真面目さがなさしめたのではないかと思う。

当時は戦陣釧というのがあって「生きて捕虜の辱めを受けず」という言葉が活きていたとよくいわれているが、これは軍人には当てはまっても民間人には関係ないことなのに、敵に包囲されて「生か死か」の二者択一を迫られたとき、何故民間人までが玉砕を選択したのであろう。

軍人達といえども、兵隊達といえども、いくら戦陣釧があったとしても、完全に勝ち目のない戦闘を前にして、何故無意味な戦闘、つまり死の選択をしたのであろう。

ここに私は我が民族の生真面目さというものを考えずにはおれない。

「空飛ぶ要塞」B−29が1万mの高空を飛んでくるのに、その下ではバケツ・リレーとハタキでそれに立ち向かおうとする愚と全く同じではないか。

みすみす勝ち目はないと最初から判っている戦いに、民間人をも巻き添えにして突き進んでいった我々の同胞、我が方の軍人、軍隊の指揮官は一体何を考えていたのであろう。

これも戦陣釧を馬鹿正直に遵守しようとした生真面目さがこういう愚かな行為に走らせたのではないかと考える。

 

我々には怨念がないのだろうか?

 

民族の特質という意味で、我が日本民族というものを見た場合、我々には怨念という感情が抜け落ちているのではないかとさえ思えてくる。

この8月という熱い時には広島・長崎の原爆投下ということを抜きには考えられないが、この原爆投下に対して、我々の側からその怨念の情というものが全く出てこないというのは一体どういうことなのであろう。

原爆の悲惨さというものは、被爆者が体験を語るという形で後世に多少とも伝わっているが、原爆というものに対する怨念、自分達が悲惨な状況に突き落とされた恨み、怒り、悔しさ、激情した憤怒というものが全く無いということは一体どういうことなのであろう。

自分の身が焦がされ、肉親を殺され、乳飲み子を一瞬のうちに殺された、その恨みというものが全く無いというのは一体どういうことなのであろう?

追悼式の式辞でも「悲惨な原爆は許してならない」という言葉にはあふれているが、殺されたものの怨み、怨恨、怨念というのは全く無いというのは一体どういうことなのであろう。

これはサイパンや沖縄、はたまた絶海の孤島で、敵に包囲されて全く勝ち目のない状況でも、戦闘、つまり死に突き進んでいった人達の思考と全く同じものがあるといえるのではなかろうか。

そして、こういう過酷でしかも熾烈な状況下を生き延びた我々の同胞は、こういう状況を引き起こした原因が、我々の祖国であったのだからと言うわけで、その怒りの矛先を自らの祖国に向けてしまったようだ。

戦後の日本政府というのも、あの時の完璧なまでの敗北で、連合軍、特にアメリカに占領されてしまったため、自らの国を自らの力で統治しえず、自らの国民の怒り、憤怒、怨念、不信感を払拭する能力にも欠けていたわけである。

民主化、民主主義という名の元に、政府というのは常に国民の批判に曝される状況が定常化した次第である。

広島・長崎の人達が、自分達の受けた仕打ちに対して一切報復しようという気を持たないのが不思議でならない。

素朴で、自然人に近く、原始的な思考の人というのは、足を踏まれれば踏み返し、殴られれば殴り返し、ものを盗られれば取り返すのが極自然で、基本的な生存のあり方だと思う。

それが自然人としての発想であり思考であると思う。

自然の感情の赴くまま行為に移すということは野蛮といわれるかもしれないが、自分が悲惨な目にあわされたとなれば、「野蛮だ!」などと奇麗事をいっている前に、人間としての本音が先に出てしまうのが普通ではないかと思う。

人間の生存に直接関わりのないことならば、野蛮な行為を理性がコントロールするというのが、人間としての知性であろうが、一瞬にして、たった一発の爆弾で、何十万という非戦闘員が殺傷されたともなれば、人間の理性だとか知性などという奇麗事で語っている前に、人間としての自然な感情が先走って、「仕返しをせずにおくものか」という憤怒の激情がわきあがってこなければおかしいと思う。

被爆者の側から「ノーモア広島」だとか「原爆許すまじ」というスローガンはおかしいのではなかろうか。

「リメンバー・アトミックボム」でなければおかしいのではなかろうか。

原爆被害者、被爆者の立場からすれば、「21世紀中にはワシントンとニューヨークに原爆を、ロサンジェルスとサンフランシスコに水爆を!」というスローガンでなければおかしいのではなかいと思う。

サッカーのアジア・カップ大会の中国人サポ−ターの行為というのは、こういうことなのであろう。

中国や韓国が日本の首相の靖国神社参詣や教科書の問題にまで嘴を入れてくるということは、昔受けた怨念を少しでも晴らそう、という発想の元にこういう行為があるわけである。

彼らは、過去の日本の行為をはっきりと怨念として認識し、それを後世に語り継いでいる、ということを如実に示しているものと考える。

それに比べると我々の側は原爆の悲惨さは語り継いでも、その恨みと怨恨は語り継ごうとせず、まして「仕返しをしよう」などと言う積極的に恨みを晴らす行為そのものを否定してしまっている。

自分の受けた恨みを晴らすということは、人類に共通した基本的感情であるにも関わらず、我々はそれを否定してしまっている。

これも我が同胞の潜在意識としての生真面目さだと思う。

つまり自分の受けた仕打ちに対して、「仕返しを繰り返していれば、何時までたっても整合性の乏しい殺戮の連鎖反応を断ち切れないので、それは何人もすべきではない」という絶対正義、あるいは倫理観に生真面目に、かつ忠実に従っているわけである。

ところが原爆で日本の非戦闘員を数多殺したほうの当事者は、「きっといずれの日にか、日本は必ず仕返しをするに違いない」と危惧し、その結果として「仕返しをさせてはならじ」と、日本国憲法の中に戦争放棄の条項を差し入れておいたわけである。

原爆で悲惨な体験をした人が「ノーモア広島」とか「原爆許すまじ」と言いたくなる気持ちは理解できるが、それを日本人同胞や日本政府に向かって言ったところで意味はないと思う。

言うとすれば、現在核をもっている保有国に対していうべきで、核を持っていない我々の国民と我々の政府に対していくらいっても意味を成さない。

そういう国々に対してもアピールはしていると思うが、相手は歯牙にもかけないわけで、それでこそ生き馬の目を抜く国際社会と言うものである。

主権国家が核を持つ持たない、それを使うか使わずにおくか、と言う事は主権国家の主権の基軸に関わることで、他国の平和主義者がいくら外野席から吼えたところで、相手は聞く耳を持たないのは理の当然である。

被爆者が被爆体験の悲惨さを述べれば述べるほど、それは人々に恐怖を与え、そのことが核兵器の抑止力を高め、核兵器の価値を高めるわけで、それは外交上のブラフの切り札として効果を増すということになる。

主権国家の国家元首の立場から見れば、原爆被爆者の悲惨さは個人の立場としてはよく理解できるとしても、それにもまして何千人、何万人、何十万人を一瞬のうちに効率よく抹消できるか、つまり兵器として優れているかどうか、というほうが大事なわけで、それを外交交渉のテーブルの下にしのばせることで、有利な国益を導き出すというのが古典的な外交交渉である。

それともう一つ考えなければならないことは、広島・長崎の原爆投下は人種差別、人種的偏見の結果だということを真摯に受け止めて、被爆者達は怒りをもっと素直に、かつ強烈にあらわさなければならない。

「ノーモア広島」だとか「原爆許すまじ」などと奇麗事を言って、平和主義ゴッコをしている暇はないと思う。

被爆者達は何故それが日本に落とされたのか、何故あの時期になってそれが使用されたのか、彼らの考え方の奥底を深く深く考察しなければならないと思う。

それを突き詰めていけば必然的に「21世紀中にはワシントンとニューヨークに原爆を、ロサンジェルスとサンフランシスコに水爆を!」という憎悪に満ちた生きがいに行きつかなければおかしいと思う。

 

WASPを考える

 

私は、当然、これを馬鹿話として語っているが、あの戦争、太平洋戦争、大東亜戦争というものを、こういう目で見ないことには歴史認識を誤ると思う。

アメリカという国は、昔も今も、WASPという人種が支配しているものと考えなければならない。

確かに自由の国であり、移民の国であり、国家が国民をがんじがらめに管理している風には見えないが、そういう自由で寛容の国といえども、国家の中枢ではWASPが絶大な力で支配しているということを知らなければならない。

WASPとはいうまでもなく白人で、アングロサクソン系で、プロテスタントということであるが、これは民族として結束を固めているわけではないが、アメリカの支配層には歴然とその力を行使しているわけで、アメリカの世界に対する影響力というものは、そこから派生していると思う。

日本に対する原爆の使用というのは、フランクリン・ルーズベルトのときに決定されたことで、彼にして見れば、「真珠湾をやられたのだから当然だ!」という思いがあったとしてもそれは致し方ない。

ところがその前からの経緯を考えてみると、彼は日本に先に銃を抜かせるような施策をしていたわけで、日本は彼の罠に完全に嵌ってしまったわけである。

しかし、戦後の日本の知識人、文化人というのは、未だに、その罠に嵌められたことを認めようとせず、広島・長崎の被爆者と同じで相手を恨み、怨念を抱くことに躊躇している。

そして勝った側の価値観を嬉々として受け入れて同胞を非難中傷して止まない。

フランクリン・ルーズベルトが人種差別者であったことは歴然としているわけで、中でも彼は日本人に対する嫌悪艦を露骨にもっており、それが証拠に日本人移民だけを強制収用所へ送り込むという隔離政策を取ったことがそれを如実に示している。

日米開戦の前、アメリカには日本人以外にも大勢のアジア人が入植して、人の嫌がる過酷な労働を支えていたが、数ある黄色人種の中でも、日本人だけを隔離した事実を我々は知るべきである。

当時、アメリカに公然と正面から敵対する黄色人種というのは日本人だけであったから、それだけ我々はアメリカ人から恐れられた存在であったということはいえる。

それだからこそ、戦後の仕返しを恐れて、憲法の中に戦争放棄の条項を盛り込んだ、ということは先に述べた。

中国人や朝鮮人は、いくら大勢いようともアメリカに公然と立ち向かってくる気配はないので、隔離する必要がなかったといえる。

彼らアメリカ人からすれば、特にWASPから見れば、中国人や朝鮮人というのは人のうちに入っておらず、豚か犬ぐらいの認識であったのかもしれない。

決してアメリカを凌駕する気遣いがないので、安心して泳がせておいても構わないと思っていたかもしれないが、これが日本人ともなると、そう安易にはいかないので、強制的に隔離しなければならないと考えたのかもしれない。

日本はアメリカのペリー提督により、無理やり太平の世から目覚めさせられ、近代の国際政治の場に引きづり出された。

明治維新を経たことで、我々は近代化の波に乗り遅れてはならないと、西洋列強を見習い、追いつき追い越せと富国強兵に徹してきた。

明治維新の段階のアジアの状況というのは、西洋列強はアジアに植民地を作り、富の収奪を繰り返していたとはいえ、アジアの側の意識としては、日本も、中国も、朝鮮も、全く同じスタート・ラインに並んでいる状況だったと思う。

つまり、民族の独立自尊の意識というのが極めて希薄で、その意味において近代主権国家という意識が全く存在していなかった。

西洋先進国がインドやジャワで収奪を繰り返していても、その意味を理解出来ていなかったのではないかと思う。

中国の沿岸地方を蚕食しても、それは中国全体から見ればほとんど点と線に過ぎないわけで、主権という意識がない以上、主権侵害ということも理解しきれていなかったに違いない。

そういう意味において、日本も中国も朝鮮も同じスタート・ラインに立っていたと考えていいと思う。

その中で、日本のみが明治維新を経験し、近代国家として他のアジア諸国から一歩リードしてみると、中国や朝鮮という文化の上流域の人々にとっては、日本の進歩が極めて疎ましく、癪に障り、面白くないと感じるのも成り行き上致し方ないことだと思う。

中国も朝鮮も、日本はアジアの文化の下流域の存在ということは十分知っているわけで、それを知っているからこそ、余計日本の進歩が面白くないわけである。

これと同じ感情は太平洋を隔てたアメリカにも同じように存在していたわけである。

オリンピックのあらゆる競技で、背の低い、色の黄色い日本人が、バッタバッタと体の大きな白人の選手を負かしていけば、彼らは内心面白くないと思っているに違いない。

スポーツ大会だから、中国のサッカーのサポーターのように、そんなことを露骨に言うわけには行かないだろうが、内心はそう思っているのではないかと思う。

日本がアジアの地であまりにも突出すると、アジア諸国のみならず、太平洋の向こう側でも日本に対する嫌悪感が芽生えるわけである。

ヨーロッパ人も内心ではアメリカ人と同じ意識を潜在的に持っていると思う。

あの大戦の前、フランクリン・ルーズベルトは明らかに日本に対する嫌悪感を露にしたが、日本側の野村全権大使は、そういう彼の潜在意識をあくまでも政治の面、外交の面、国益上の面からしか見ていなかったわけで、彼の中に人種的差別意識、人種的偏見が潜んでいるなどとは考えもしなかったに違いない。

こういう点がまさしく彼が、つまりルーズベルトが、政治的に如何に狡猾かというところで、我々は戦後59年経ってもいまだにそれを、つまりルーズベルトの罠に嵌まった、嵌められたということに気がつこうとしない。

ここで話が少々飛躍するが、ジャズ・フアンならばきっとご存知だと思うが、アメリカのジャズ界に日本人の女性で秋吉敏子というバンドリーダーがいる。

年は既に70歳を越していると思う。

満州生まれで、戦後日本に引き上げて九州で生きんがためピアノを弾いていたが、その彼女がアメリカに渡りもう半世紀が過ぎようとしている。

彼女自身はアメリカを仕事場だとはっきり割り切っているが、その彼女がいみじくもいった言葉に「アメリカには歴然と差別意識が横たわっており、普段はなんともないが、アメリカの威信が揺さぶられたような場合にはそれが頭をもたげると」テレビのインタビューに答えていた。

私は彼女はアメリカの本質を知っていると思った。

彼女はアメリカの深層心理を本当に理解していると感じた。

日本人でこういう事を言った人を知らない。

嫌米家というのはいる。夏目漱石がイギリスに留学してイギリスが嫌いになったというのは有名な話であるが、相手国の本質、相手国の潜在意識を吐露する人は案外少ない。

もっとも、そんなことを声高に叫べば、良きにつけ悪しきにつけ人種的偏見ととられるので地位や名誉のある人は決して口にはしない。

 

戦犯という言葉

 

ルーズベルトは、私の目から見れば、明らかに人種的偏見の結果として日本を罠に嵌め、日本という国を消滅の淵にまで追い込んでおきながら、戦後の日本人にその人種的偏見ということを悟られないように上手にカモフラージュし続けたことは、彼が如何に狡猾であったかということだと思う。

この彼の手腕と比較すると、日本の植民地支配のあまりにも杜撰な有様というのはどう説明したらいいのであろう。

異民族と対応するには、それが戦争であろうと、平和的な共存共栄を図る交渉ごとであろうとも、相手を知るということが何にもまして重要ことはいうまでもない。

その意味からすれば、日本もアメリカと交戦するに際して秘密裏に、国力の相違について調査をして20対1という結果を得、交戦すれば勝ち目はないという結論を持っていた。

そういう調査をし、結論を得ていたにもかかわらず、戦争に踏み切った我々の先輩諸氏の政治的判断を我々はどう考えたらいいのであろう。

そのことから考えると、戦後の極東国際軍事裁判、要するに東京裁判というのは、負けた我々の側が、我々の同胞の不手際を裁かなければならなかったのではなかろうか。

しかし、負けるような戦争を指導した我々の戦争指導者というのは、勝った側が勝手に勝者の論理で裁いてしまったわけで、戦後59年経っても、我々の中から同胞の責任を追及する声が全く出てこないというのは一体どういうことなのであろう。

日本の首相が靖国神社に参拝すると、中国や朝鮮からその度ごとにクレームが来るが、彼らの言い分は「そこには戦犯が合祀されているから、それを首相が参拝することは、その戦犯を尊敬することに繋がるからいけない」という論法である。

そもそも戦犯、戦争犯罪人という言葉がおかしい。

大勢の人を殺したから戦犯と言うのであれば、フランクリン・ルーズベルトが真っ先に来なければならない。

中国の毛沢東と周恩来は、中国共産主義革命が成就するまでの間に何万人、何十万人の中国人を殺したかを計算すれば、彼らも戦犯になってしまうではないか。

本来、戦争中に敵を大勢殺せば、その人は英雄にならなければおかしいではないか。

勝ち戦のときは、敵を大勢殺したものは英雄として素直に認められるわけで、勝ったものが負けたものを裁判しようとするからおかしなことになるわけである。

勝ったものは負けたものを問答無用で殺しておけば戦犯などとわけのわからない言葉も生まれなかったに違いない。

古代の戦争ではそれが普遍的であったわけで、それが20世紀という時代になると、人間の理性が過去における普遍的な戦争の論理というものを野蛮とし、文明の名の元に人間としての理性を示そうとするから逆に馬鹿な現象になるわけである。

アジア諸国の人々が「靖国神社には戦犯が合祀されている」と思い込むのはまことに以って言葉のアヤで、我々の側からすれば彼らは英雄でなければならない。

本来ならば英雄でなければならないが、その本質は我々を塗炭の苦しみに突き落とした人達で、戦後かろうじて生き延びた我々からすれば、死んだ後とはいえ尚鞭打ちたいほどの罪人に匹敵するものと私は考える。

戦後の日本の知識人、文化人というのは、彼らを戦犯という極東国際軍事法廷の言葉から一歩もでようとせず、安易に戦犯という言葉を使っているが、その意味で、我々は未だに先の大戦の反省をしたとはいえないと思う。

それを避けて通っているのではないかと思う。

最初から「勝てない」ということが判っていたにもかかわらず、開戦に踏み込んでいった政府と軍部の責任は、未だに明らかにされていないのではないかと思う。

戦後の日本の知識人で、我々はルーズベルトの罠に嵌められたと認識している人はほとんどいないではないか。

長崎と広島に原爆を落とされて、悲惨な目にあった側が何故に「ノーモア広島」であったり「原爆許すまじ」であるのか。

ここは「リメンバー・アトミックボム」でなければならないし、被爆者の怨念として50年後、100年後には「ワシントンに原爆を、サンフランシスコの水爆を」という気概を持たなければならないと思う。

被爆者達は自分の受けた災禍を忘れてしまったのかと言いたい。

戦犯、戦争犯罪人という言葉は論理的にはありえないと思う。

戦争は犯罪ではない。近代国家の主権の行使の一環であって、それは国家存立の一つの形態である。

戦争は政治の延長線上にあるわけで、それは政治の一形態であることは論を待たない。

だからこそ犯罪ではない。

こういう論法を展開すると戦後の日本人はびっくりするかもしれないが、そもそも人が人を殺すことを罪悪と認識するようになったのは全く新しい現象なわけで、それまでは極普遍的なことで、世界中どこでも転がっていた行為である。

東条英機が真珠湾で大勢のアメリカ人を殺傷したから戦犯だというならば、広島・長崎の原爆の死傷者はどういう位置づけになるのであろう。

昔のソビエット連邦のスターリンは、数百万人のソ連同胞を粛清したといわれているが、スターリンの行為はどう説明したらいいのか。

同じことは中国共産主義革命の過程でも起きているわけで、こういう殺傷を戦犯と言わないのは何処に根拠を置いているのであろう。

戦争は「罪もない人々の命を奪うから駄目だ!」という論法は、あまりにも奇麗事過ぎるし、歴史を知らなすぎるし、平和主義といえば格好よく見えるが、所詮は無知をさらけ出しているに過ぎない。

人間の生存そのものが人の殺し合いの上に成り立っているのである。

戦後59年間、我々は直接武器をとって戦うという行為をせずにこれたが、その分地球上の何処かで誰かが、我々の代理戦争を継続していたではないか。

二つの国益の対峙する国同士が戦争をして、片一方が勝ち、方一方が負けた以上、勝った国は負けた国の指導者を問答無用で殺しておけば、戦犯、戦争犯罪人などというわけの判らない存在はありえない。

勝った国が負かした国の指導者を殺したいという欲求、欲望というのは人間として基本的な感情だと思う。

真珠湾攻撃を仕掛けた東条英機を、アメリカ大統領が「殺してやりたい」と思うのは人間として当然の感情だと思う。

9・11事件で、それを企画実行したアルカイダイのオサマ・ビン・ラデインを、アメリカ大統領のブッシュが「殺してやりたい」と思うのは人間として当然のことである。

人間の感情として当然と思われることでも、その感情の赴くまま極自然に振舞えば、これは野蛮ということになってしまう。

だから、この野蛮な行為と言われるのが嫌だから、我々は愚にもつかない回りくどい手法で、その野蛮さをカモフラージュしようとしているのである。

それが極東国際軍事法廷と言うものであり、勝者の正義に整合性を持たせる儀式にすぎなかったわけである。

戦犯という言葉は、こういう思惑で浮き出てきた言葉だと思う。

太平洋戦争で勝ったアメリカは、日本の戦争指導者を問答無用で処刑しても構わなかった。

ところが、直情的に、一直線にそういう行為に走れば「アメリカは野蛮な国だ!」と思われるのが嫌で、愚にもつかない極東国際軍事裁判というもので、文明国としてのポーズを取ったわけである。

しかし、今考えてみると、この「文明国のポーズを取る」という態度、行為は、非常に重要なことだと思う。

日本がアジアを支配しようとしたとき、我々の側にほんの少し、「文明国のポーズ」という発想があれば、世界の歴史が変わっていたかもしれない。

アメリカが、実際には軍事力で相手国を抑圧しておきながら「文明国のポーズ」を取って統治に成功したのは日本以外にはありえない。

地球上で、このアメリカの手法が通用したのが、日本以外にはないという点が、日本の特異性を浮き彫りにしていると思う。

今回のイラク戦争でも、これと同じことをしようとしているが一向に効果はでていない。

その原因は、統治されている側、つまりイラク人の側に原因があると思う。

本来ならば問答無用で処刑してもいいところを、さも人間の理性と知性を見せ付けるかのように裁判をして、負けた側の非を暴き、追求し、自分の方の正当性を浮き立たせる魂胆であった。

そういう趣旨で行なわれたのが極東国際軍事法廷であったことはいうまでもない。

そこには勝った側が、つまりアメリカが、日本を罠に嵌めたという、太平洋戦争の裏の事情、つまり明々白日のジャパン・パッシングを隠匿する目的が潜んでいたわけである。

太平洋戦争の裏の事情といえば、それはアジアで台頭して来た日本の頭を、モグラ叩きをするのと同じように叩き込むという、アメリカの潜在的、かつ内在的な、WASPとしての日本人、日本民族に対する嫌悪感、人種的偏見である。

ある特定の民族、たとえば日本人であったり、日本民族に対して、露骨に嫌悪艦を表すこと、つまり人種差別や人種的偏見というのをあからさまに公言することは、人間の理性と知性では許されない、と彼らも思っていたわけで、それでそれを隠すために手の込んだ裁判を考えたわけである。

裁判をする以上被告人を作らねばならないので、それで戦争犯罪人、戦犯という言葉が出来たのではないかと想像する。

 

「あたらしい戦争」

 

戦後の日本の知識階級というのは、この東京裁判史観および価値観というのを実に素直に受け入れているが、それでは歴史の教訓は全く得られないと思う。

しかし、この事実をもう一歩掘り下げて考えてみると、我々は海を隔てて流入してきた文化に対して、抵抗した記憶というものが全くないように見える。

海を越えて入ってきたものは実に素直に受け入れているのではなかろうか。

キリスト教などは多少抑圧を受け、弾圧もされたが、海を越えてやってきた思想というものは、真っ先に我が同胞の文化人、教養人、進歩的知識階級という人々が同化してしまうわけで、その後でそれが国民全般に漁り火のように普及するという過程を踏んでいるように見える。

仏教の伝播しかり、共産主義の蔓延しかり。

このことから考えると、戦後の日本の知識階級が東京裁判史観、極東裁判価値観を素直に受け入れたというのも、今までの我々、日本民族の民族的特質の延長線上にあったのかもしれない。

広島・長崎の被爆者が、自分達の受けた怨念を放棄し、仕返しを諦め、平和を願うのと同じ精神構造なのかもしれない。

自分達の受けた受難の過去は、奇麗さっぱり切り捨てて、過去にこだわらず、人間の基本的感情を不問に付し、ただただ「食って糞して寝る」だけの安逸な生活を希求していたということだと思う。

戦後の日本の知識人という人達が、我々の同胞がフランクリン・ルーズベルトの罠に嵌められて、その上東京国際軍事法廷の価値観から抜け出せずに、「自分達の先輩諸氏がアジアで悪いことをした」という歴史観に苛まれている現状は、実に情けないと思う。

私は、感情に支配されて行動を起こすことは、基本的には悪い結果しか産まないと思っている。

特に、政治とか外交の場で、感情に流されて決断したら見るも無残な結果を招くと考えている。

しかし、足を踏まれたら踏み返す、殴られたら殴り返す、というのは人間の生きる最低限の感情であり、基本的自己保存の発露だと思う。

太平洋戦争というのは、アメリカと日本の間で、この基本的生存権を賭けて戦われたわけで、感情の赴くままストレートに勝った側が負けた側を処刑する、つまり基本的生存権の欲求するまま、自然で普遍的な行為だとすれば、それは極めて野蛮な行為と受け取れるので、手の込んだ細工がなされたわけである。

それを知ってか知らずか、先方の言う事をそのまま素直に受け入れる日本の知識人階級というのは一体どういう精神構造をなしているのであろう。

戦前の日本をミス・リードしたのは軍人達であったが、戦後の日本をミス・リードしたのは、戦後の左翼的政党と,それを恥じることもなく支援している知識人といわれる文化人達である。

戦前の軍部によるミス・リードで我々は名実ともに食えなくなってしまったが、戦後はそういうことは、なく、何とか「食って糞して寝る」だけの生活は出来ているので、戦後の日本は平和だと勘違いしているが、この平和というのは見せかけのもので、問題を棚上げしているから平和に見えるだけである。

その棚上げしたことが長年恒常化してしまったので、今更、火中の栗を拾う勇気を持っていないだけのことである。

「人を殺してはいけない」というのは地球規模で普遍的な倫理である。

しかし、この平和な日本でも殺人事件というのは慢性的に転がっているわけで、平和主義者という人々は、武力による殺傷は目の仇にするのに、普通の殺人事件には非常に寛容で、殺人者の弁護まで買って出るというのは一体どういうことなのであろう。

普通に巷に氾濫している殺人事件とテロ行為とは紙一重の違いしかないわけで、人を殺しておいて、その理由付けとして何らかの政治的発言を付け加えれば、それがテロになってしまう。

戦争というのは、主権国家が国家の行為として相手国に宣戦布告を宣言するので、勝敗の見極めも単純であり、その後の事態の収拾も比較的はっきりとしている。

ところがテロ行為というのは、敵の存在はあるとしても、仕掛ける側の存在が見えてこないので、仕掛けられた側は暗中模索して、その結果として過剰な警戒が必要になる。

その極端な例がいうまでもなく9・11事件であるが、あの事件が起きたときブッシュ大統領はいち早く「新しい戦争だ」と宣言したが、まさしく21世紀の新しい戦争である。

20世紀までの、宣戦布告して真正面から主権国家同士が死力を尽くす古典的な戦争から逸脱した新しいタイプの戦争である。

これに対して、日本の進歩的知識人というのは、ブッシュ大統領の武力による反撃を、声をそろえて糾弾したが、これは部外者としての犬の遠吠えと同じで無責任な発言だと思う。

姿を隠した見えない敵が、何の罪もない人々を道ずれに、アメリカの象徴であるビルを壊滅させたのであるから、これを「戦争はいけない」とか、「武力行使はいけない」とかと言う奇麗事では済まされないのは当然のことだと思う。

それ言うならば、テロをする側に対して言うべきで,言う相手が間違っていると思う。

日本の進歩的知識人はアルカイダのオサマ・ビン・ラデインに対してそれを言うべきである。

今(平成16年8月22日)ならばイラクのシーア派の宗教指導者といわれているサドル氏にたいして「戦争はいけない」「武力行使はいけない」と声を大にして言うべきである。

しかし、21世紀の新しい戦争を仕掛けてくるテロ集団というのは、姿も見えず実態もつかめないわけで、これを防ごうと監視を厳しくすると、今度は監視社会になってしまうので、おのずと限界がある。

そこがテロをする側の付け目なわけで、その網の目をかいくぐって新たな攻撃を仕掛けてくる。

これに対して、「戦争はいけない」「武力行使はいけない」といっている人達に、テロを防ぐ対抗手段があるのかといえば、「それは政府の責任だ」と逃げるわけで、それでは口先で奇麗事と叫んでいるだけあり、あまりにも責無任極まりない発言といわなければならない。

「戦争はいけない」「武力行使はいけない」ということは、赤ん坊から子供まで周知のことで、日本の知識階級の人々は、赤ん坊や子供の知的レベルでしかなものを言っていないのかといいたい。

そんなことは十分判っているが、ならばテロを防ぐには如何なる方法があるのか、効果的で即効性のある手法を提示するのが高等教育を受けた人達、つまり知識階級の大衆に対する貢献ではないのか。

トコヤ談義の床几の端から言わせて貰えば、日本ばかりではなく世界の知識人といわれる人々、高等教育を受けて世界的に人的ネットワークを持っている人々は、アルカイダのオサマ・ビン・ラデインやイラクのサドル氏にたいして、テロ行為を即刻やめるように勧告、助言すべきである。

こんなことは既に実施されているであろうが、相手もそれを素直に聞き入れる相手ではないわけで、人の勧告や助言を素直に聞き入れる人間ならば、最初からこういう行為はしていないと思う。

先の湾岸戦争の時のサダム・フセイン大統領だとて、国連の勧告をはじめ誰が説得に行ってもかたくなに拒否し続けていたではないか。

今回のイラク戦争でも、サダム・フセイン大統領は大量破壊兵器を最初からもっていなければ、その時に公開すれば惨めな思いをしなくてもすんだわけで、相手が話し合いに応じないからこそ、最終的に戦争、武力行使となってしまうわけである。

「戦争はいけない」、「武力行使はいけない」ということは誰でも最初からわかりきったことなわけで、何も日本の知識人だけの専売特許であるわけはない。

太陽が常に東から出るのと同じで、自明なことにもかかわらず、それを難解な言葉で包んで、為政者を馬鹿呼ばりしている知識人の知識とはいったい何なのかといいたい。

日本の進歩的知識人のやっていることは、その自明なことを念仏のようにただただ唱えるだけで、戦争が回避できると思いこんでいるところが幼稚で、赤ん坊や子供にも劣るし、唯我独尊的な発想に浸りきって、葦の髄から天を覗いているような馬鹿な行為である。

あの太平洋戦争中、「神州不滅」「鬼畜米英」「欲しがりません勝つまでは」と、スローガンを叫んでいれば戦争に勝てると思い込んでいた愚と全く同じではないか。

日本の知識人ばかりではなく、世界の知識人といわれる人々、高等教育を受けて世界的に人的ネット・ワークを持っている人々は、身を粉にしてこういうテロ集団やオサマ・ビン・ラデイン、サダム・フセイン、サドル氏のような普通にものを言っていては聞き入れようとしない人達に対して、命を賭けて説得すべきではないのか。

誰が話し合いにのぞんでも相手が聞き入れてくれないとなれば、「戦争はいけない」「武力行使はいけない」とわかっていても、最終的には武力で言うことを聞かせるほかない。

相手はこちら側に何時攻撃を仕掛けようかと虎視眈々と狙っているわけで、ブッシュ大統領としても、再度攻撃を受けるまで黙って傍観しているわけにはいかないと思う。

21世紀においては、相手国に対して宣戦布告をしてから戦争を始めるような古典的な戦争はもうないと思う。

あるのはテロ攻撃とかゲリラ戦で、これは攻める側は比較的安易に攻めれるが、守る側には極めて難しい問題を抱え込むということである。

警戒を厳重にすればそれは警察国家に行き着く可能性があるし、警戒を緩めれば国民を守りきれなくなるし、その兼ね合いが非常に難しいと思う。

そこが攻撃する側にとっては有利なわけで、テロを仕掛けたり、ゲリラ戦を仕掛ける側は、元々何も失うものを持たないが、攻撃に曝される側は、国民の生命財産がかかっているわけで、為政者の側としては非常に難しいと思う。

9・11事件の報復としてアルカイダの潜んでいる思われるアフガニスタンを攻撃したり、大量破壊兵器を隠し持っていると思ってイラクを攻撃すると、それが無かったりと、徹頭徹尾ゲリラ側に振り回される結果となる。

その上、マスコミとそれに触発された世論というのは全く無責任で、口先の奇麗事で為政者を非難中傷するだけで、ことの解決には何一つ貢献する気がない。

戦争の回避と言う事に対して、世の知識人というのがあまりにも無力というのはどういうわけなのであろう。

「戦争はいけない」「武力行使はいけない」という判りきったことを声高に叫んでいるだけで、具体的にはどういう手法があるのか、どういうテクニックがあるのか、という解決策というもののを何一つ示さないというのは一体どういうことなのであろう。

ニューヨークの9・11事件の被害者に対して、「報復は又報復を呼び込むから止めておきます」では、アメリカ国民は自分達の大統領を信任できるであろうか。

マスコミ業界、世の知識人のグループ、野党の立場の人々、世間一般の人々は、アメリカ大統領に対して明快な、そして、簡潔でなおかつ全員の納得のいく策というものを提示できるかと言いたい。

アフガンのアルカイダの撲滅が武力によらずに壊滅できる方法があれば、それを掲示するのがマスコミの使命であり、知識人の使命のはずであるが、そういうものは一向に出て来る気配がないではないか。

 

進歩を否定する宗教

 

世界中に反アメリカ勢力というのは一杯あるわけで、アメリカに対するテロ攻撃というのは9・11事件だけではなく、その前からも度々あったわけで、相手にテロを起こさせない、テロを自重する、テロをしないように説得する方法があるとするならば、世の知識人といわれる人々、又マスコミ業界としては、全人類の平和と秩序維持のために、そういう運動を目に見える行動として起こすべきではないか。

仮に、為政者の側がそういう外部の意見を採用してことがスムースに収まったとすると、これは誰も評価せず、政治として当たり前のこととされるわけである。

又、そうであったとしても人間の社会が人間の集まりである以上、どんな良いプランに対しても反対意見というのはあるわけで、その反対意見のみをマスコミが報道するので、為政者というのは悪いことばかりをしているという風に見られるわけである。

日本の知識人も世界の知識人も、為政者に対してそういう提案はしているかもしれないが、それを採択する権能は為政者の側にあるわけで、自分達の提案を聞き入れなかった結果として、その恨みを晴らすために為政者を非難中傷しているのかもしれない。

ここで問題となってくるのがマスコミの存在である。

小泉首相が非難される、ブッシュ大統領が非難される、というのはマスコミがそういう報道をしているからであって、小泉首相の支持率が上がった下がった、ブッシュ大統領の支持率が上がった下がったといったところで、全体的に見ればそれは支持されているわけで、支持されているからこそ首相であり、大統領であり続けるわけである。

すると首相に対する非難、大統領に対する非難というのは、ある一部の人の意見ということになる。

ところがマスコミの報道の仕方というのは、その非難中傷が一部の人の意見ではなく、あたかも全国民の意見、全国民の考え方であるかのような報道の仕方だから困るわけである。

アメリカに対するテロというのは、アメリカの存在そのものを否定しているわけで、アメリカは存在するだけで憎悪の対象になっている。

その理由は、アメリカは豊かで、世界の貧しい人々を経済力で抑圧しているからだというものであるが、こんな馬鹿らしい理由を我々日本人として、自立した人間として、信じれるであろうか。

共感できるであろうか。

アメリカが豊になったのはアメリカ人の努力の結果であって、日本が豊かになったのも、これと同様に日本人の努力の結果である。

今日の貧しい人々も努力すればアメリカや日本並みになれると思う。

地球上の人類のスタートは歴史的時間として同じスタート・ラインだったと思う。

厳密に学問的見地からすれば、何万年、何億年という時間差があるのであろうけれど、近代、現代という意味からすれば同じようなスタート・ラインから始まっているとみなしていいと思う。

つまり、歴史を200年くらい遡って、人間の生き様というものを見てみれば、ヨーロッパもアメリカも中国も中近東も日本も似たり寄ったりの生活であったと思う。

その後の人類が共有した時間の流れの中で、中近東の人々、もう少し厳密にいうとイスラム教徒の人々は、キリスト教徒よりも宗教に固執していたわけで、キリスト教徒は地球規模で外に広がり、古い因習を壊してあたらしいものに挑戦し続けてきた。

一方、イスラム教徒の方は自らの宗教に忠実たらんとして、因習に固執し、あたらしいものを拒否し、内に向かって内向的に精神を集中させていたわけで、20世紀後半から21世紀になってみると、世の中はアメリカ支配になってしまっていたのである。

アメリカの繁栄はアメリカ人が築いたものだと思う。

インデアンと戦いながら広野を開き、その開いた荒野を農地に転換し、牧畜を起こし、鉄道を引き、街を作り、教会を作ってきたのは他ならぬアメリカ人であった。

ヨーロッパはヨーロッパで、大小さまざまな戦争を繰り返しながら、そしてその戦争の過程で合理化ということを経験から学び、富の収奪の時期を経て社会そのものが習熟していったものと考える。

ところがイスラム圏というのは、人々の内側からの欲求というものが宗教によって蓋をされた状態で、そのため合理化とか効率という概念が育たず、気がついてみるとキリスト教文化圏と大きな格差が出来てしまっていたわけである。

この格差を一気に解消せよといっても無理な話で、今のアルカイダをはじめとするテロ集団がアメリカの存在そのものを否定するというのは、ただただ殺人の口実に過ぎない。

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という論理で、何の整合性もない。

ところが今回のイラク戦争の中で、イラクの武装勢力というと、日本のマスコミは何となく政治的意見を持ってイデオロギーで凝り固まった少数の過激派という印象を植え付けようとしているが、あれは昔の言葉でいえば山賊である。

べドウインである。もっと端的にいえばただ強盗団である。

中近東にはああいう人達があちらこちらにいるわけで、日本でいえば戦国時代の武将の抗争と同じである。

そういう部族を統治するには、強力な武器による力の抑圧というものが必要なわけで、砂漠の民には武器こそ身を守るものであり、同時に法律であり、秩序である。

彼らにとっては人の命など何の価値もないわけで、この価値観の全く違うものを相手に、自分達と同じ土俵で話をしようとしてもそれは無理というものである。

今日のイラクの状況というのは完全にイラク人の問題となっているにもかかわらず、それをアメリカの問題とするところが認識のずれというものである。

イラク人がイラク人を自らの力で統治すれば、無用な殺傷は自ずからなくなるのに、それが出来ていないものだから、未だにアメリカ軍の武力行使が繰り返されているわけである。

今日のテロやゲリラ戦の背景には貧富の格差、つまり南北問題を解決しないことには人類の平和はありえないという論調があるが、この考え方はあまりにも人間というものを知らないもの発想だと思う。

南北問題、つまり世界的規模での貧富の差の解消ということは、実際問題としてはありえないと思う。

人類がそういう目標に向かって進むことは極めて有意義なことであろうが、もしそれを目指すならば、その前に宗教の融合ということを先に解決しなければならない。

少なくとも、イスラム教徒の原理主義というものを撲滅しないことにはそれはありえないと思う。

イスラム教徒の原理主義というのは、あくまでも原始イスラム教に固執しているわけで、そのことはとりも直さず、人類の進歩というものを真正面から否定しているわけである。

そのことは同時にキリスト教徒とは正面から対立する構図となる。

イスラム教徒の希求する世界というのは、太古の人間に帰ろうというもので、これは人類の進歩を全面否定することであり、とても現代人の考え方と共存しうるものではない。

人類の進歩というものの定義も非常に難しい問題で、宇宙までも支配しようとするキリスト教文化圏の人々の欲望と、太古に帰ろうとするイスラム文化圏の希求を、何処でどう妥協させるかという問題に尽きると思う。

今日において、科学技術はもうすでに頂点を極めた感がするので、今後の課題は、それを如何に普遍的に多くの人が恩典にあずかれるように、分け与えるかという方向に向かうと思う。

近代的な先進国では、今、富める者はますます富み、格差が広がっているといわれているが、底辺の底上げも確実に実現しているわけで、その意味で社会全体の底上げは確実に実現されている。

それに反んし、イスラム文化圏では社会全体の底上げが確実に遅れているわけで、それが証拠にフセイン大統領なきあとのイラクの武装勢力というものが勝手にアメリカ軍と対峙しているではないか。

あれは太古のべドウインの姿の再現であって、刀がロケット砲に変わっただけで、判りやすくいえば西部開拓史のインデアンの存在と全く同じということである。

宗教に固執しているようにみえても、自分の都合に合わせて文明の利器は勝手に借用しているが、現代のべドウインたちは、自分達で主権国家を作り、それを維持管理する能力に欠けているので、日本のマスコミは彼らを武装勢力などと物分りの良さそうな言葉を使っているが所詮は蛮族である。

蛮族とか、野蛮人などという言葉を使うと、使う方の知的レベルが疑われると思われるので、日本のマスコミは、極力そういう言葉を使わないように自主規制しているが、そのことがものの本質を見失う元だと思う。

貧富の格差の是正、南北問題の解消ということは、こういう言葉でしか語れないと思う。

 

真の人間の姿

 

アメリカが世界を支配しているといっているが、事実そうだと思う。

20世紀後半から21世紀にかけては確かにそうである。

しかし、これは悔しいかな、アメリカ人の努力の結果であって、世界の歴史を紐解けば、過去においてはイスラム教徒が世界を制覇した時期もあり、ヨーロッパ勢力が世界に君臨した時期もあったわけで、今の時期においてはアメリカが世界に君臨したとしても、それはアメリカ人の努力の結果だと言わなければならない。何事も、頂点に立ってみれば、後は足を引っ張られるのは自然の摂理である。

その意味からして、今日、アメリカが悪魔の化身と思われるのも、ある程度は致し方ない面がある。

現実の問題として、今日の近代人の人間感情として、人の命が意味もなく失なわれる、ということを許してはならないというのが普遍的な思考となっている。

しかし、これは価値観の問題で、今日でもそう思わない地域、国、宗教というのがある。

人の命など、犬か豚の命と同じ価値しかない、と思っている人も現実にいるわけで、こういう価値観の違うものが一同に会して話し合う場が本来ならば国際連合でなければならない。

その意味で、国際連合の意義というのは本来大きなものを持っているはずであるが、これが上手く機能しない、というのが現実の人類の抱えた矛盾である。

いくら話し合ったところで万人が納得する答えというものはありえないわけで、総論賛成各論反対ということになってしまう。

これが本当の人間の姿だと思う。

地球上に住む人類という動物の真の姿だと思う。

我々は真の人間の姿というものを直視しなければならない。

ところが、この真の人間の姿というものが、地球上の地域ごとに違っているわけで、それを一括りにして「人の命は地球よりも重い」といってみたところで、それはむなしく空回りするだけである。

戦後の日本の知識人というのは、そのむなしい空回りを一生懸命しているわけで、結果的に何の効果も指し示すことが出来ないのである。

それはある意味で、教養馬鹿、学問馬鹿というものだと思う。

つまり、日本の知識人とか教養人というのは、本からの知識しか信用していないわけで、人の生き様を見て学ぶ、という事をしないからである。

今のイスラム教徒が宗教の呪縛から逃れられないのと同様、日本の知識人というのは、本の知識のみを金科玉条のように有難がっており、知識、教養というものは本からしか得られないと考えており、自らそれを発信するには、やはり本でしか手段がないと考えるからである。

真の人間の姿といっても、イラクの武装勢力と称せられるべドウインと、ニューヨークや東京で働くサラリーマンとでは意識が全く違うわけで、これを一括りにして真の人間の姿といってもつかみ所がない筈である。

こういう人間の性差、地域差、人種間の相違、価値観の相違、宗教観の相違というものをローラーで押しつぶして、同じ価値観で統一しようとしても、それはありえないわけで、これが不可能である以上、南北問題の解決とか、貧富の格差の是正などということはありえないことと言わなければならない。

この現実を素直に受け入れることが、真の人間の姿を直視することだと思う。

だとすると、日本の知識人がいくら日本の領域の中でそれを叫んだところで、それは天に唾して自分に降りかかる図と同じということである。

我々は、あの太平洋戦争の究極の目的がアジアの連帯と自立であったことを忘れてはならない。

それが大東亜共栄圏という言葉で喧伝されていたが、この言葉はアジアにおいては今日禁句になっているではないか。

同じ内容でもASEANならば整合性があるかのように見えるが、実質は大東亜共栄圏と同じではないか。

同じ内容のものが、日本人が日本語で言うとけしからんが、ASEANといえば整合性を持つということは一体どういうことなのであろう。

大東亜共栄圏にしろASEANにしろ、日本がアジアで主導権を行使することは決してしてはならないと思う。

これは主権とか、国の名誉とか、民族の誇りという問題を超越しており、日本人の生き様として、我々はアジアで大きな声でものを言うべきではない。

それをすれば事の大小に関わらず、事の善悪に関わらず、事の正邪に関わらず、アジアの人々は、日本に対して反発をする。

同じ黄色人種だから、白人と接するよりも容易に打ち解けるだろうと思うのは、幻惑以外の何物でもない。

それを理解することがアジア周辺に住む人間の真の姿を知るということだと考える。

アジアの人々は、紅毛碧眼の白人に対しては卑屈な態度でおれるが、相手が同じ黄色人種で、しかも日本人だとすれば、彼らの自尊心がそれを許さないわけで、我々はアジアでは決してリーダー・シップをとろうと考えてはならない。

それに気がつかなかったのが戦前の日本人である。

これはイスラム圏の人々が宗教の呪縛から抜け出せれないのと同様、中国人から中華思想が抜けれないのと同様、アジアでは日本と日本人は謙虚に言葉を慎まなければならない。

論理や理性、合理性や科学では解き明かすことの出来ないブラック・ボックスだと思う。

民族の自尊心や、国の自主独立というものでは解きほぐすことの出来ないアンタッチブルなものである。

我々、日本民族というのは、ものつくりの民族であって、政治的にはどこまで行っても三流の域を出る能力を持っていない。

アジアでリーダー・シップを取るということは、政治的に君臨することであり、悲しいかなそれは我々には能力がないと言わざるを得ない。

 

 

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