04・07・28

硬貨の裏表

 

ジエンキンス氏について

 

曽我ひとみさんの夫のジェンキンス氏がいよいよ日本の病院に入院するということになって18日(H16・7)羽田に到着したと報道されているが、日本のマスコミの彼に対する扱いは少々常軌を逸しているのではないかと思う。

曽我ひとみさんは母親とともに北朝鮮に拉致されて、かの地で辛酸な生活を余儀なくされたことは同情に値する。

だからといって、彼女がアメリカ人と結婚するというのは彼女の個人的な意思の問題のはずである。

北朝鮮による彼女自身とその母親の拉致というのは確かに不本意なことではあろうが、結婚ともなれば、本人の選択であり、同時に本人の意思で決まることで、そのことを考慮することもなくジエンキンス氏までが拉致被害者と同じ扱いで報道する日本のマスコミの認識というのはどこかおかしいのではなかろうか。

曽我ひとみさんが家族の一員として夫のジエンキンス氏を敬愛することは人として当然のことだとは思う。

彼女が家族4人で一緒に生活したいと望むのも人間として当然なことだとは思う。

しかし、それは個人の問題であって、そういう個人的なことに国を上げて支援するというのもおかしな話ではなかろうか。

拉致の問題と個々の家庭の問題とは区別して考えるべきではなかろうか。

ジエンキンス氏というのはアメリカからすれば正真正銘の大いなる犯罪者であり、売国奴なわけで、日本の国土から無理やり拉致された人達とは全く状況が違うはずである。

自らの意志で北朝鮮に入り、北朝鮮の国益の沿うべくアメリカの国益を売り渡した人間である。

それだからこそアメリカは彼が日本に来れば身柄の引渡しを要求するわけで、彼はアメリカから見れば何処まで行っても犯罪者なわけである。

このあたりの事情を日本のマスコミというのは全く考慮することなく、彼をも拉致被害者の一人と同じような感覚で報道をしているが、こういう偏った認識というのは国民をミスリードするに違いない。

日本の国土から無理やり拉致された被害者と、自らの意志で北朝鮮に逃亡した人間とでは月とスッポンほどの違いがあるが、これが幸か不幸か一世帯を持ってしまったので、本人ともどもややこしい問題を日本政府は背負い込んでしまったわけである。

アメリカ政府が彼の身柄引渡しを日本政府に要求するのは当然のことだと思うし、日本政府はそれに対してやはり誠実に答えなければならないと思う。

この現実を報道する日本側のマスコミには、アメリカが何故ジエンキンスをそうまで追い回すのか、というその真意を理解せず、表面上の感情論で1つの家族が別れ別れになるという不合理を誇大に表現して同情心を煽っているが、彼の犯した罪の本当の意義というものを全く無視した報道だと思う。

戦後60年を経過して日本は完全に平和ボケの極みに達しているので、彼がかって敵前逃亡して自分の祖国を敵に売り渡したことの重大さというものを全く理解していないように思えてならない。

こういう視点で曽我ひとみさんの家族を見てみれば、家族の平和と法治国家の法との対立の構図で捉えるべきで、感情論とか人道的などと称する奇麗事で済まされるべきことではないと思う。

日本政府としては、小泉首相をはじめ、川口外務大臣も、中山参与も所詮戦後世代の日本人で、主権国家の軍人に課せられた責務という問題に関しては認識が薄いのも当然と思われる。

この認識が甘いが故に、人道的という錦の御旗を掲げれば相手、つまりアメリカも少しは考慮してくれるに違いないという甘い観測をしているように思えてならない。

日本のマスコミというのは完全にこの思い込みに嵌っている訳で、人道的という言葉さえ使えば相手は妥協するに違いないと思っている節がある。

現にアメリカの駐日大使のベーカー氏は個人的に「司法取引したらどうか!」と、彼にというよりも曽我ひとみさんに同情を寄せているが、国家としては一人や二人の逃亡者のことはそう大した問題でないが、たった一人といえども、法を破った人間に対してそう安易に妥協できるか、という問題がついてまわると思う。

敵前逃亡した人間を、人道的にと称して感情論で押し切られて安易に免罪したとすれば、祖国のために殉職した人達に対して国家としてどう申し開きが立つのかという問題になってしまう。

日本もアメリカも法治国家である以上、法を犯した人間を人道的という見地だけで野放しには出来ないわけで、彼の場合は、アメリカ本国できちんと軍法会議の裁きを受け、服役した後、家族といっしょに日本で生きるというのならば万人が納得できるが、病気だからといって、拉致被害者の家族だからといって、法の裁きそのものを免れようとするのは、はなはだ遺憾なことだと思う。

自分の祖国を裏切るような人間は、地球上の何処に住んでも心の安住はないと思う。

彼が北朝鮮に潜入したさいにはアメリカの実情を相手に売り、彼が本国で法の裁きを受けるとすれば、それは当然北朝鮮の内情を暴露しなければならなくなるわけで、結果として両方の国を売るということになる。

彼の場合、北朝鮮でさんざん利用された挙句、「何処でも行け!」と突き放されたからこそ、「もう北朝鮮に帰らなくてもいいよ!」と相手から言い渡されたわけで、これこそ売国奴に対する典型的な処遇だと思う。

そういう人間に対して、人道的と称する耳障りのいい、奇麗事の支援が本当に必要かどうか我々は改めて考えてみる必要がある。

北朝鮮が彼の家族をジャカルタに出したことは、言い方によっては人道的措置といえるが、その裏には利用価値がなくなったから捨てたという見方もじゅうぶん出来る。

もっと意地悪な見方をすれば、利用価値がなくなったから日本との外交カードに使ったとも受け取れる。

私は曽我ひとみさんには何の恨みもなく、拉致されたという事実に対しては同情を寄せるものではあるが、その夫のジエンキンス氏に対してはいささか嫌悪感を持つものである。

かって祖国を売っておきながら、その祖国の慈悲にすがろうとする心根に我慢ならないものを感じている。

 

実効の伴っていない法律

 

ここで話題が少々飛躍するが、平成16年6月14日の中日新聞に半藤一利さんが参院選を前に小泉政権の施政方針を憂いている記事が掲載されていた。

小泉政権の有事関連法案の実効性を憂いている。

有事関連法案の内実というのは確かに半藤氏の言うとおり実効性はまったくないも同様だろうと思う。

今と言う時、現代と言う時、21世紀の平成16年7月という時において、この時空間に生きている平和ボケの我々日本国民には、国を守るという概念そのものが既に喪失している。

恐らく自分の国という概念すらも存在していないと思う。

自分の国という概念がない以上、攻めてくる敵という概念も沸かず、自らが犯すかもしれない相手国の主権という概念も理解できず、それは当然自国の主権という意識も当然存在していないと思わなければならない。

国家の主権という概念を持っていないので、それが侵されても全く痛痒を感じないのである。

地球上の人間はお互いに平等で、分け隔てなく、何かに守られて平和に生きるもので、平和というのは水や空気と同じで自然にあるもので、国家とか国という概念は、そういう自然の生き物のあり方を破壊するものだという認識に凝り固まっているのではないかと思う。

日本はたまたまこの4つの島に固まって生きているだけで、基本的には何処に行こうが、何処に移り住もうが、全く自由気ままに生かされるべきだ、と思い違いしている節がある。

自分達が国家の概念というものを持っていないので、地球上に住むあらゆる人々も我々と同じように国家の概念など持たずに生きているものと思い違いしている。

第2次世界大戦、太平洋戦争が終わって約60年間も我々は対外戦争を経験せずに生きてこれたので、これこそ人類の基本的な生存権に違いないと思い込みがちなのはよく判る。

問題はこの対外戦争をしてこなかったという事実の中に潜んでいる。

この60年の間には本来ならば戦争で解決しなければならなかったことが多々あったにもかかわらず、我々はそういう手段を講ずることなく、相手のいうがままに妥協してきた、という事実を忘れてしまっている。

相手国と紛争が起きるたびに血で血を洗う戦争をせよという意味ではない。

しかし、戦争も辞さないという決意を持って紛争の解決に立ち向かうことと、ただ単に一方的に相手のいうことに屈服するのとは雲泥の差があるわけで、戦争をも辞さないという決意を持って相手と交渉することは必ずしも好戦的というわけではないが、戦後の我々はそういう発想そのものを好戦的と一方的に決め付けてしまっているのである。

しかもそのことを相手が言ってくるのならばまだ理解しえるが、我々の内側からそういう発想そのものを封じ込めようとうするわけで、内側にそういう考え方がある以上、相手はますます図に乗るわけである。

他国との紛争は言い換えれば国益と国益の衝突なわけで、国内に相手を利する勢力があれば、交渉する当事者としては非常に不利で交渉しにくくなることは言を待たない。

結局のところ相手の言うがままに妥協せざるを得なくなる。

我々はこの小さな4つの島の中で、目に見える形で国境というものを認識していないので、地球上どこに行ってもこのようなものだと思い違いしているに違いない。

特に21世紀という現代において、我々、日本国、日本民族の置かれた地勢的な位置関係からすれば。日本の国土に上陸してきた敵に対してどう対処するかなどという有事関連法案は時代の状況にマッチしていない。今回のイラク戦争を見ても判るように、敵を戦略的、戦術的に武力制覇しようとする側が、大挙して上陸した時点で既に戦闘の勝敗は決してしまっているわけである。

抗戦能力が限りなくゼロになったのを見極めて敵は上陸してくるのであって、その時になって自衛隊が公道を走るのがどうのこうの、民間の土地の使用がどうのこうのでは、完全に手遅れである。

日本列島に敵が上陸してきてから自衛隊が出動するなどということは現実にはありえないわけで、その時点でもう我々は軍事的に制覇された後である。

敵が上陸するかもしれないという予兆があったときに自衛隊が布陣をしくというのならば、まだ現実味があるが、そういう趣旨のことを以前、栗栖統合幕僚長が発言したら、当時の金丸信防衛庁長官が彼を首にしてしまった。

この時の来栖氏の発言は、敵が日本に攻めてきたら現場の指揮官は超法規的にしか行動できない、という意味のことを言ったわけであるが、彼の言ったことはまさしく真実である。

つまり、彼の言いたかったことは、当時の日本には「敵が攻めてきても自衛隊が敵と戦う法的根拠は何もないですよ」ということが言いたかったわけである。

敵が日本の国土に上陸してきても、自衛隊がそれを迎え撃つ法的根拠は何もない、つまり有事関連法案がない以上、現場の指揮官は自分の判断で敵と戦うしかない、ということが言いたかったわけである。

そのための法律が今回の有事関連法案であるが、これとても真に有事ということが無視されて、というより有事という事態の本質が理解されていないので、敵に上陸された時点ではもう反撃のチャンスはない、国は既に滅んでいる、ということが理解されていない全くの机上論に過ぎない。

こういう不合理は戦後の日本民族が専守防衛ということを金科玉条としている限り答えの出ない問題である。

その意味で、半藤一利氏の憂いはよく理解できる。

まさしく戦前の国家総動員法や国民義勇隊法に匹敵するナンセンスな法案ということが言える。

1万メートルの上空を敵のB−29が悠々と爆弾を落下させているのに、それに対する我々は竹槍とかハタキとかバケツリレーで対応した図と全く同じなわけで、これほどナンセンスで馬鹿らしい話しもまたとないと思う。 

戦後の日本は徹底的なシビリアン・コントロールで、3自衛隊の長は内閣総理大臣となっている。

これはこれでいいが、それとは別の次元で、戦争は政治の延長線上にあるということを真摯に考えてみると、シビリアンだからといって戦争というものに対して正確な認識を持たないものがその頂点に位置しているとすれば、国の指針を誤る大きな原因になりかねない。

今時、かってのサダム・フセインのように「クエートは元々我々の領土であった」などといって、どうどうと押し込み強盗のような侵略行為をする主権国家の首脳というのはいないだろうと思うが、それだけに主権の侵害が非常に巧妙な行為や発言になるわけで、それだけに事前に予め体制を整えるということも不可能に近くなっている。

そのことは武力行使をするかどうかの判断が極めて難しい状況になってきていると思う。

そのことは文民、いわゆるシビリアンだからといって戦争というものの認識を全く知らなくても済むというわけにはいかないと思う。

昨今のようにテロという新しい戦争形態が多くなると、その認識はいよいよ難しくなる。

シビリアンならばこそ余計戦争の本質を知り、新しい戦争形態の本質を理解し、費用対効果というものを念頭に置き、一番少ないリスクでより大きな利得を得る工夫をしなければならない。

そのためには外交努力を惜しんではならないし、外交でことが解決できればこれほど有難いこともないわけだが、外交での話し合いの場にも衣の下に鎧をちらちらさせることも時と場合には必要なわけである。

こういう事を言ったりすると、世間はすぐその人に好戦的とか、戦争好きというレッテルを貼って排除しようとする。

この構図は全く苛めの構図と同じで、平和ボケの中でたまにまともな論議を展開すると、その相手を異端者と決め付けて排除しようとする考え方は我々の民族の最も忌み嫌うべき潜在意識ではないかと思う。

この苛めの構図が国会レベルにまで普遍化していることを我々は憂いなければならないと思う。

意見の違うものを排除しようとする動きは非民主的な行為の野最たるものであるが、我々はそれに気付かない。

半藤一利氏が憂いている有事関連法案というものは、基本的には「無いよりはまし」という程度のものであるが、このいう法案を議論する前に、専守防衛ということの真の意味を議論すべきだと思う。

これは今の我々が現行憲法を維持している限り専守防衛という範疇から抜け出すことは不可能である。

現行憲法、特に第9条が我々の上にある限り、専守防衛以外の模索はありえないと思う。

過去の我々も、憲法の条文を字義通り解釈するのではなく、限りなく拡大解釈して今日まで来ているわけで、突き詰めれば、嘘の上に嘘を塗り固めて今日に及んでいるといってもいい。

これは一人自民党だけの問題ではなく、与野党を含めて日本人全員の問題だと思う。

憲法第9条を字義通り読めば、今の自衛隊は紛れもなく憲法違反であるが、誰一人これの是正をしようとした人がいないではないか。

主権国家の基本的生存権として、軍隊の維持ということが不可欠の問題ならば、何故憲法の不合理を是正しようという運動が起きなかったのであろう。

そのもっとも適した時期は、1951年、昭和26年のサンフランシスコ講和会議で日本の独立が再び認められたときであった。

この時に憲法を改正しておけば、今日こういう不具合、不合理は起きていなかったと思う。

戦後の59年間を生き抜いてきた日本人にとっては、憲法などあってもなくても自らの生存に何ら影響がなかったわけである。

それは同時に自衛隊についても同じ事が言えているわけで、自衛隊などあってもなくても一般国民の生存にとってはなんら関係かなったわけである。

だから憲法違反のまま、50年間も自衛隊という軍隊まがいのものが存続し続けたのである。

そこで現行憲法を維持したまま、自衛隊を維持したまま、有事関連法案を作ったところで、これらの三者が機能的にリンクしきれていないのも当然である。

敵が日本の国土に上陸して来た時というのは、既に日本そのものが滅んでしまっているにもかかわらず、その時になって、国道を走る戦車を優先させるとか、民間の土地に陣地を作る、などと言ったところで意味を成さないのである。

我々が専守防衛を金科玉条としている限り、これ以上の発想はありえない。

一般論として、我々が一応普通の主権国家の一員だと仮定すれば、専守防衛ということは外交上の辞令であって、内側では必殺兵器を秘密裏に作っておき、それを維持し、外交交渉が行き詰まったときには、衣の下に隠した鎧をちらちらさせることで相手の妥協を引き出すように外交交渉を進めるというのが普通である。

当然、外交交渉による平和的解決を目指すことはいうまでもなく、それが最優先ではあるが、事と次第によっては武力行使も辞さない覚悟がある、という態度を示すことは外交交渉の常套手段である。

シビリアン・コントロールといえども、国家の首脳が軍事、軍部、国際武力紛争、戦争というものに全く無頓着な文官だとすれば、こういう駆け引きの時に真の実力が発揮できるか否かが大きな問題だと思う。

半藤一利氏の憂いている有事関連法案というのも、ある意味で日米安保条約があればこそ、こういう間の抜けた法案があるものと推測する。

日米安保条約が存在する限り、日本に対する奇襲攻撃というのはまず考えられない。

日本に奇襲攻撃をかければ当然アメリカがしゃしゃり出てくることは火を見るより明らかなわけで、アメリカと戦うリスクを犯してまで日本を攻めようとする不遜な国はありえないと思う。

逆に、この日米安保条約の存在があればこそ、日本のイラク派兵もあるわけで、アメリカ側としても戦後60年も経ったのだから日本もそろそろ真に自立してくれという願望を持っていると思う。

それと同時に「真に自立した暁には何をしでかすかわからない」という一抹の不安も同時に抱えていると思う。

 

拡大解釈の愚

 

60年前に日本とアメリカは死力を尽くして戦ったが、この戦いぶりには夫々の国情が面白いように現れている。

結果的に我々の側が敗北したが、我々は今に至ってもその敗北の真の原因を見つめようとしていない。

一般論的にはアメリカの物量に負けたと言われているが、アメリカとの物量の差というのは戦う前からわかっていたわけで、判っていながら尚戦いに挑んだ我々の行為、行動、発想、行政としての戦争遂行、国民のひとりとしての戦争参加ということを深く掘り下げて究明したものを知らない。

今私が思うに、60猶予年前に我々の先輩諸氏がアメリカとの戦いに挑んだのは、軍国主義の風潮に踊らされた結果ではなかったかと思う。

ならば誰がその軍国主義というものを吹聴してまわったのかといえば、これは言わずもがな急進的な軍人達であったことは間違いない。

ここで今我々が考えなければならないことは、当時の急進的な軍人というのは我々日本民族のどういう階層の人達であったのかということではないかと思う。

明治維新で江戸時代から引き継がれてきた封建主義から脱却して四民平等という世の中になったとはいうものの、まだまだ世の中は貧困であった。

こういう社会的基盤の中で、富国強兵を国是としていた当時の日本で、軍人養成機関というのは一番民主化の進んだ組織であって、たった一回のペーパー・チェックをクリアーすれば将来を嘱望する職業に誰でもが平等に就けるという門戸が開かれていた。

依って、ここに貧しき庶民の中から優秀な人材が集中してきたことは当然の帰結である。

ところがここに集まってきた秀才達というのは根が貧乏だったから、貧乏からの脱出ということが暗黙のうちに自意識になっていたと想像できる。

貧乏からの脱出の手段としての富国強兵であった、と本人も思い、世間もうそういう視点を容認していたものと考える。

軍隊というところは古今東西人が好んでいくところではない。

ところが並み居る兵隊の先頭に立って戦争をするということは、近代以前の地球上では、洋の東西を問わず王侯貴族のする行為であった。

それと同じように王侯貴族が行うべき行為を、貧乏人のこ倅がするべく教育をするところが日本の場合軍人養成機関としての海軍兵学校であり、陸軍士官学校軍であったわけである。

ここを卒業した貧乏人のこ倅達は、卒業したとたんに王侯貴族になったような気分になってしまったのではないかと思う。

王侯貴族になっても、ふと自分の家族のこと、自分の部下としての兵のことを思い出してみると、やはり底辺であえいでいることに変わりはないわけで、ならばシナ大陸があるではないか、という発想に至ったものと考える。

にわか貴族になっても、潜在意識としての貧乏からの脱出ということが意識の下にあったわけで、それが急進的な軍国主義へと繋がっていったものと推測する。

急進的な軍人の独りよがりな発想や思考を、当時のマスコミとしての新聞、ラジオ、雑誌等が面白おかしく鼓舞宣伝した結果、日本の全国民が軍国主義におかされたものと考える。

昭和初期の新聞、ラジオ、雑誌の論説に惑わされて、それに乗ってしまった国民の側は、その対価として夫々が奈落の底に突き落とされて、辛酸な生活を余儀なくさせられたが、結果として日本を敗北させた責任は、勝った側が勝手に裁いてしまった。

昭和初期のマスコミに踊らされて、浮かれに浮かれた国民は、自分達を奈落の底に突き落とした張本人を、自らの手で裁くことを完全に忘れてしまった。

勝った側が、勝った側の論理で勝手に裁いた結果に満足してしまって、自らの内なる意識で、自国を敗北に至らしめた同胞を自ら裁くということを忘れてしまった。

戦犯というのは、連合軍から見れば彼らに多大な被害をもたらした犯罪者かもしれないが、我々からすれば敵を沢山倒した英雄でなければならない。

当然、彼らの見る価値観と我々の価値観とは相容れないわけで、彼らが戦犯と認定すれば、それは我々の側から見れば英雄と言わなければならない。

ところが戦後59年間、我々は連合軍側の下した判決を真っ正直に受け入れて、彼らが戦犯と認定した人達を、戦勝国と同じ価値観に立って、我々も戦犯と称して疑わないのは一体どういう神経なのであろう。

我々は戦争に負けたことをその瞬間から忘れてしまったのであろうか。

我々は戦後、極東軍事裁判で戦犯と認定された人々のことを真から戦争犯罪者と思い込んで、勝利者に媚を売ることで糊塗を凌いできたことを恥ともなんとも思っていないようだ。

あの終戦直後の状況ではある程度致し方ないといえる。

食うものもなく、住む家もなく、日本のあらゆる都市が焼け野原の状況では、勝利者に媚を売らざるを得ないことは十分理解できるが、そのことがPTSD(心的外傷後ストレス症候群)となってしまって、魂まで腑抜けになってしまったことを真摯に受け止めなければならないと思う。

神州不滅の日本が、鬼畜米英に負けたということが非常に大きく心の瑕となって、その後の精神の立ち直りを不可能な状態にしてしまったわけである。

その結果としてまさしく「羹に懲りて膾を吹く」という状況で、完全無欠の平和主義に様変わりしてしまったわけである。

「鬼畜米英、撃ちてし止まん」から「平和憲法だから改憲は罷りならん」という振幅の広さを我々はどう解釈したらいいのであろう。

これがわずか60年の間の同じ民族の中の発想の転換であり、価値観の転換であり、同時にそれが固定概念になっている不思議さである。

勝利者が押し付けた憲法を「平和憲法だから触ってはならぬ」という発想は一体どこから出るのであろう。

戦争が終わるまでは日本の全国民がそれこそ鬼畜米英一色であったものが、天皇の詔勅が降りたら最後、平和、平和の大合唱で、銃という言葉さえ発してはならないという思考は一体どこから来ているのであろう。

太平洋戦争の前にはアメリカとの国力の相違がわかっていながら開戦に至った過程と、アメリカが押し付けたことが明らかにもかかわらず、尚それを改正してはならない、という発想にはどこかに共通点があるような気がしてならない。

その共通点とは、わが民族のあまりにも唯我独尊的なものの考え方で、自分の正しいと思ったことだけを押し通せば、世の中全部が幸せになるという、思い上がった発想のなせる業ではないかと思う。

つまり、それは究極の精神主義で、正しいと思ったことが本当に絶対正義かどうかという考察を忘れた思考で、周囲の状況、人の考え、世間の常識、そして周囲の状況に併せた合理主義というものを真っ向から否定した考え方だと思う。

正しいと思ったこと、絶対正義という概念も時と場合によってはその基準が変化するわけで、そこには相手を研究するという合理的な思考が抜け落ちているのではないかと思う。

アメリカの国力というのは戦争を始める前から判っていたわけで、それでも尚開戦に踏み切ったということは、「やればなんとか成る」という刹那的で曖昧な発想に陥っていたからである。

そんな不確定な予見、曖昧な見通しで戦争を始めてはいけなかったにもかかわらず、当時の我々の同胞はそういう合理的精神に欠けていたのである。

この事実は、完全に相手つまりアメリカを見くびっていたわけで、日本の側で相手を見くびっていた、ということは当時のマスコミの所為としか言いようがない。

マスコミはあの時代に日本国民の戦意高揚を煽りに煽ったわけで、無知な日本の大衆というのは、それを真に受けたと私は思うのだが、マスコミが国民を煽ったのか、国民の戦意高揚ムードをマスコミが素直に報道したのか定かに決めがたい。

どちらにしても、戦争が終わったさいには、マスコミ業界はその反省をしなければならないわけで、それはとりもなおさず日本のマスコミのあり方を根底から考え直さなければならないということに他ならない。

ところが戦争が終わってみると、勝者の側は日本の民主化というお題目に添って、「言論の自由」とか「表現の自由」というものを大々的に奨励推奨したわけで、戦争前よりも自由奔放にものが言え、発言が出来るようになってしまった。

日本が戦争に敗北したさい、マスコミ業界というのは「日本が太平洋の緒戦で負け戦をしていた」ということを軍部が報道させなかったと自己弁護しているが、マスコミ業界というものがお上のいうことを真に受けて、その裏も取らずに、政府、軍部の言質を一歩も逸脱できないというのならば100%御用機関であったといってもいい。

マスコミ業界というものが自分からニュースを掘り起こさない限りマスコミとはいえない。

挙国一致の戦時体制の中でそういうことは出来なかったという状況は十分に理解できる。

ならば状況が変わったからといって全部が全部、掌を返したように政府批判という態度もおかしいではないか。

戦中はただの政府の広報機関でしかない、政府の広報部員であった日本のマスコミ業界が、戦後は掌を返したように反政府のポーズを取って、自分達の政府を糾弾しようとするのは一体どういう心根から出ているのであろう。

ここに個々のマスコミが自分の頭でものを考えるという精神が生きているであろうか。

そこにもってきて日本を占領したアメリカは、「思想・信条の自由」というものを憲法の中に組み込んでしまたので、そこで勢いを得たのが共産主義者の台頭である。

戦前の言論の弾圧というのは、基本的にこの共産主義者の台頭を封じ込めるためのものではなかったが、それを拡大解釈して、少しでも反政府的な言動までもこの法律を適用して弾圧してしまったので、戦後の論調では強圧的な治安維持法というイメージが定着してしまった。

しかし、治安維持法の本旨は、右翼左翼を含めて急進的な勢力を押さえ込むというものであった。

元来は共産主義を取り締まるためだけの法律ではなかったが、それを拡大解釈して運用した結果である。

ここでも我々の先輩諸氏は現行法(当時の治安維持法を)を拡大解釈するということで事を処したわけである。

現在の憲法第9条の問題と同じことをしていたわけである。

その前に、統帥権干犯という問題も、憲法とか法律の拡大解釈の問題で世論が沸騰したわけだが、この時も我々の先輩諸氏たちは、憲法なり法律を字義通りに解釈することなく、拡大解釈したために我々は奈落の底に転がり落ちたのである。

 

ものを考えない愚

 

我々は明治維新以降、憲法を制定してからというもの、政党政治を基調とする議会制民主主義で大正時代と昭和の初期の時代を過ごしてきたが、この時期に日本の政治家というのがあまりにも政党政治に未熟であったがゆえに、その間隙を縫って軍人に政権を奪われてしまった。

政権を奪われたというのは正確ではなく、軍人の政治への関与を許してしまったというべきであろう。

その政党政治の未熟という点に、この統帥権干犯問題があるわけで、全権を委任された外交団が交渉してきたことに対して、統帥権干犯と言い出したのは政党政治家の側で、それはいうまでもなく鳩山一郎であった。

政治家の政治的駆け引きと称する足の引っ張りあいがあまりにも低レベルなため、相手を論破するのに、この統帥権干犯という言葉を使ったので、寝た子を覚ましたようなもので、これで軍人達が勢いついてしまったわけである。

これこそ衆愚政治の真骨頂である。

それ以降、統帥権という言葉を出せば水戸黄門の印籠に匹敵する効果のあることが軍部が悟ってしまい、何事もこの一言で片付けられることになったわけである。

日本が太平洋戦争に嵌まり込んだ遠因は、この鳩山一郎の統帥権干犯問題に起因すると思うけれども、戦後の日本の識者では誰一人その問題を追求しようとするものがいない。

日本を奈落の底に落とした張本人は、こういうところに存在していたにもかかわらず、戦後の日本の識者というのは、どういうものか占領軍のいうことを「お説ごもっとも」とばかり素直に聞き入れているが、あの極東軍事裁判というのは勝った側が勝った側の思い込みで行ったものであって、我々の側から同胞を奈落の底の落とした張本人を糾弾するものではない。

我々が裁かねばならない同胞は、統帥権問題を提起した鳩山一郎を始め、ノモンハン事件をリードした辻政信や石原莞爾、アメリカに対する開戦の通知を臆された当時の駐米日本大使、その他負け戦を計画立案した夫々の軍人たちである。

戦争に勝った側は、当然、勝者の思い込みで、自分たちが負かした方の戦争をリードした人間を懲らしめたいと思うだろうが、我々の側としては、そういう勝者の思惑とは別に、同胞を奈落の底に落とした指導者を自らの手で裁きたいと思うのが自然の成り行きだと思う。

勝った側が懲らしめたいと思う人間と、我々を敗戦に追い込んだ我々のリーダーを、我々の手で罰せねばと思う人間は当然違って当たり前だと思う。

つまり、我々を敗戦に追い込んだ責任者に、責任を取らせようということであるが、その意味からして我々は未だに先の大戦の反省をしたとはいえない。

勿論、禊をしたことにもならない。

戦前は「鬼畜米英、撃ちてし止まん」が国民的コンセンサスであって、老若男女が普遍的にそう思い込み、そう行動していたが、戦後はそのベクトルが正反対になってしまって、まさしく「羹に懲りて膾を吹く」状態になってしまっている。

これも突き詰めればマスコミの責任であろうが、我々はマスコミに煽られると簡単に舞い上がってしまうというのは日本民族の潜在的な特質なのであろうか。

戦前の「鬼畜米英」でも、戦後の平和主義でも、マスコミが作り上げた概念、虚像にもかかわらず、それを真正正義と思い込んでしまう思考というのは、我々の民族的特性なのであろうか。

マスコミに煽られると簡単に舞い上がるというのは、自分でもの考える能力に欠けているからではなかろうか。

我が民族が自分でものを考える能力に欠けているというのはある程度真実ではないかと思う。

付和雷同が我が民族の潜在的な特質だと思う。

このことは何も悪い面ばかりではなく、良い面も多々あることは承知している。

あの戦争遂行ということは、そういう面がないことにはありえないわけで、戦後の復興から高度経済性成長というのも、総て我が民族の付和雷同的性格がなせる業である。

我が民族が民族の大きなプロジェクトを抱えているようなときには、この付和雷同性というものの威力が如何なく発揮される。

戦争遂行という大きなプロジェクトを抱えているときは、我々の潜在的な民族的特質としての付和雷同性というものは大きな力を発揮する。

戦後の復興も、またその後の高度経済成長も、我が民族にとっては大きなプロジェクトであったわけである。

ところがこのプロジェクトがないときは、我々の付和雷同性というものは行き先がないわけで、民族の中で渦を巻いて悶々としているわけである。

そういう状況の中では、大衆の潜在的願望というものにそれが収斂されてしまい、それが戦前ならば鬼畜米英であり、戦後ならば平和主義という形で表面化しているのではないかと考える。

依って、この付和雷同の渦の中では人々は自分の頭でものを考えることを放棄しているわけで、マスコミの煽りに簡単に乗ってしまうわけである。

自分の頭で自分自身で考えるということは結構しんどいことであり、マスコミの言っていることを受け売りすることは、自分で考えるよりうんとイージーなわけである。

そして戦後のマスコミというのは、反政府でない限りセールス・ポイントがないわけで、我々が自ら選んで選出した我々の政府は、邪悪な悪魔か国民を搾取して止まない極悪非道な輩とでもいうような印象をマスコミ各社が振りまいているわけである。

小泉首相が郵政改革をしようとしているので、みんなで首相に協力して彼をフォローしようというマスコミは決して現れないのである。

政党政治でありながら、自民党の中でさえまるで野党の如き様相を呈しているわけで、正真正銘の野党の国会審議というのも実に不勉強で、低レベルの質疑応答を繰り返している。

小泉首相は「自民党をぶっ潰す」といきまいているが、こういう政治の情況では、日本丸の舵取りは今後も難航するに違いない。

首相に誰がなろうとも、政治というものは難航するに違いないが、その行き着くところは究極のボーダーレスだろうと想像する。

究極のボーダーレスともなれば、国家の主権の喪失となるわけで、日本が唯我独尊的にそれが良い事だと勘違いしてそういう方向に勝手に進めば、喜ぶのは周辺諸国である。

半藤一利氏の憂いではないが、先の有事関連法案にしても、与野党の議員であの法案のナンセンスさというものをどれだけの議員が理解しているであろう。

国会議員ともなれば、日本の有事に関してはもっともっと関心を持ってしかるべきだと思うが、それを掘り下げて考えるとすれば、当然憲法改正に行き着いてしまうものと思う。

 

言葉の戦い

 

問題は、国会議員というものは選挙との絡みで物事を判断しなければならないという極めて不合理な立場におかれているということである。

これが民主主義が衆愚政治になる根本原因である。

本当に自分の国を愛する国会議員ならば、選挙民の顔色を伺いながらものを言うのではなく、自分の信念を選挙民に披瀝した上で票を得るべく戦うべきであるが、それほど真っ正直な議員は逆に選挙民からそっぽを向かれ、議員足りえないものになってしまう。

これが日本の政治の現実だろうと思う。

国会議員、政治家になろうとして自己の信念を表に出せば、選挙民のほうがそっぽを向いてしまうというのが、日本の民主政治の現実の姿だと思う。

熱烈な愛国者でなくとも、ものの本質を筋道立てて正論をいうことさえ今日の日本でははばかれる。

人間の織り成す社会というのは色々な考えの人が肩を寄せ合って生きていることは承知しているが、この考えの違う人々をひとつの方向に収斂しようとすること自体がファッショだと思われている。

そして、自分の祖国を愛するということにも色々な考えがあって、「自分達は奴隷に成り下がっても血を見るのは嫌だ」という人もいれば、「奴隷になるぐらいなら死に物狂いで抵抗する」という人もいるわけで、この両極端の人々に対して考えをひとつに収斂しようとしても土台無理な話である。

結果として、日本はますます堕落していくわけで、限りなくボーダーレスに近づいていくことになる。

物事は硬貨の表裏のように相反する価値観を併せ持っているものである。

川に一本橋をかけるにも利害得失があるように、賛否両論が沸き起こるわけである。

同じように、道路一本作るにも、利害得失がからんで賛否量慧遠が沸き起こるわけである。

人間の社会では当然といえば当然のことである。

人間の社会では集団の全員が均等に政治に参画しているわけではない。

全員が同じように意見を延べるということは物理的に出来えないことで、必然的に代議制を取らざるを得ない。

昔は権力者が勝手にその代議員を選任できたが、第2次世界大戦後の普遍的な主権国家は、その政治に関与する代議員を民主的な選挙で選出することが普遍化した。

このシステムが民主的であればあるほど、選出された代議員というのは、選挙民の要望にこたえなければならない、という使命を帯びることになる。

問題は選挙民の要望がどういうものかということである。

日本の民主主義というのは、選挙民にえらばれる代議員つまり国会議員によって左右されるわけであるが、この代議員、国会議員を選ぶ側の選挙民が、あまりにも時限が低いので今日の政治の混迷があると思う。

今回の(平成16年7月)参議院選挙でも、民主党が大きく飛躍したということは、自民党よりも民主党の方が人気があったということで、国政選挙というものが政策を抜きにして人気投票に成り代わってしまっている。

与党と野党が平行して存立する中で、与党の方は具体的に政策を立案遂行しなければならないが、野党の方は常に批判だけしていれば済むわけである。

批判するということは実に安易なことで、人のすることに反対だけしていれば存在価値が認められるわけであり、奇麗事ばかりを並べても、その成果を問われることは全くないわけである。

政治というのは政権争いだけではないはずで、政策というものを目に見える形で具現化しなければならないが、野党にはその責任が全くないわけで、徹頭徹尾、反対だけしていればそれで事が足りるわけである。

責任がないだけに口先の奇麗事はいくらでも並べられる。

与党の方は公約を実施してその結果責任を問われるが、それは必ずしも計画通りにいかないのが常で、立案した法案も完全無欠なものではなく、人間がすることなるが故に欠陥もあり、瑕疵も含み、不適切、不合理な字句を見落とすことも多々あるので、それを是正するという意味では反対勢力の存在意義というのもあるにはある。

しかし、国の根幹をなす法案については、与野党の間にそうそう大きな相違があってはならないと思う。

例えば年金問題とか安全保障の問題について180度も違う見解では困るわけで、与野党とも国民全体のことを考えれば、そう大きな違いがあってはならないと思う。

ところが政党政治で、自分達の政党で国政を担おうとするとどうしても与党というものを引き摺り下ろさねばならない。

その手段として言葉の戦いがあるわけであるが、この言葉の戦いの中で、事の本質を見失ってしまって、「国民全体のために」というスタンスを喪失し、目先の言葉尻を捕まえて相手を糾弾し、相手の揚げ足取りに終始し、その結果として曖昧模糊とした玉虫色の解決策を弄することとなり、事の本質がどこかに立ち消えてしまうのが今の政治の混迷といわれるものである。

政争という言葉の戦いの中で、法律の規定する字句の拡大解釈が起きるわけで、言葉の戦いを仕掛ける側は法律の字句を字義通りに解釈しようとし、それを受けて立つ側は限りなく拡大解釈しようとするわけである。

言葉を媒介として政治をしようとする限り、法律の字句を挟んで見解が相反するわけで、それは突き詰めれば限りなく揚げ足取りに近いわけであるが、国の行く末を論じようとするのに、お互いに言葉の揚げ足取りに終始していては将来が危ぶまれるのも致し方ない。

法律というものは制定された状況が何時までも恒常的に継続するわけではないので時代と状況の変化に合わせて修正するのが本来に姿ではないかと思う。

ところが我々の場合、一度出来た法律が時代と状況に併せて適宜変更されるということは極めて少ないのではないかと思う。

その最たるものが憲法第9条であることはいうまでもない。

 

怨念を忘れる愚

 

憲法改正に反対する立場の人々のイメージの中には、憲法をいじればそのまま日本が戦前の日本に帰ってしまう、という畏怖を持っている人があまりにも多いと思う。

これは明らかに戦後の左翼思想の影響を受けているわけで、戦後の日本の左翼というものが59年間もそういう事を言い続けてきたわけで、それを真に受けているからこそ、そういう発想に至っているものと考える。

そういう左翼思想を59年間も言い続けてきたのは、いうまでもなく日本のマスコミ業界が左翼に牛耳られてきたからに他ならないが、我々、日本人の一人一人が自分の目で見、自分の耳で聞き、自分で体験して見れば、今の日本が軍国主義に戻るなどということは全く考えられないということは一目瞭然だと思う。

新聞やテレビ、または雑誌等の日本の現在のマスコミの言っていることを真に受けるからそういう感じを受け入れがちであるが、21世紀の日本が戦前のような軍国主義に戻るなどということは金輪際ありえない。

マスコミというのも自動車産業や鉄鋼業界や、流通業界と同じように利益を上げつつ企業として存続し続けなければならない。

ということは売れる商品を常に市場に投入しつつ利益を上げ、社員を養い、発展的に企業そのものを存立させなければならないわけで、マスコミが常に政府に対して批判的だということは、それでなければ商品として成り立たないということである。

マスコミが政府の提灯持ちをしていれば、それこそ戦前の大政翼賛会に舞い戻ってしまうわけで、軍国主義に直進してしまう。

戦前と戦後ではマスコミの存立のベクトルが180度転換してしまった。

そういう裏の事情を考慮すれば、マスコミの報じることは話半分に聞いておかねばならないということである。

もっと穿った言い方をすれば、マスコミには決して煽られるな、彼らは煽りに煽ってそれを飯の種にしているという冷徹な思考を思い出し、眉に唾を付けて自分自身で検証してから自分のものにせよ、ということである。

ここでいつもいつも政権交代したいと願っている野党の側は、政府批判という利害得失が一致するマスコミと、協調歩調をとるわけである。

第2次世界大戦後の日本人は、戦争に敗れたことでもう自分の祖国に殉じるということの無意味さ、むなしさ、不合理さに達観してしまって、それ以降はもう自分自身のために生きることに専念したわけである。

国家のために滅私奉公することはアホなことだと達観してしまった。

国家のために一生懸命戦ってきたが、その結果は一体なんだということになってしまったわけである。

勝った側は自分達の思い込みで敗者の側の責任者とおぼしき人々を裁いて、それで溜飲を下げたかもしれないが、それはそれとして、祖国のために一生懸命、艱難辛苦をものともせず戦った側としては、自分達を敗戦に追い込んだ同胞、つまり負けるような戦いを遂行した当時の我々の指導的立場の同胞、旧軍人を糾弾する必要があったのではなかろうか。

あの戦争で、ドイツに占領されたフランスで、ドイツに協力したフランス人は戦後人民裁判に掛けられてさらし者にされた。

我々もあれと同じことをする必要があったのではなかろうか。

我々は何故自分の受けた怨念を忘れてしまうのであろう。

我々の怨念は本来ならばアメリカに向けるべきであるが、戦争である以上これは致し方ないとしたら、負けるような戦争を指導した同胞に対しては何らかのペナルテーを課すのが本当ではなかろうか。

我々が自分の受けた怨念を奇麗さっぱり忘れるというのは実に不思議なことだと思う。

原爆による被害は広島で17万人、長崎で9万人といわれている。にもかかわらず我々の同胞の中から「次はワシントンかニューヨークに原爆を!」という発想が全く出てきていない。

我々が先に真珠湾をしたから仕方がない、ということは100%逃げの口上で、真珠湾の仕返しはミッドウエイやガダルカナル、はたまたソロモン海戦で十分ペイしているわけで、その後のことは先方の過剰攻撃であり、非戦闘員の殺戮であり、人道的に許される行為ではないはずである。

そのことを奇麗さっぱり忘れてしまうというのは一体どういうことなのであろう。

戦後ソ連に抑留された人々が60万人と言われているが、この強制労働に対して、何らかの補償をせよという声が全く出ないのは一体どういうことなのであろう。

ただただ一方的に相手からやられっぱなしで、何一つ口答えさえしていないというのは一体どういうことなのであろう。

戦争が終わった直後ならば日本の国力が底をついており、いちいち口答えする能力も、意欲もないというのは理解できる。

しかし、それから59年も経て日本は世界でも一、二の経済大国になったわけで、もうそろそろ昔の怨念を晴らすべき時期に来ているのではないかと思う。

 

主権侵害を黙認する愚

 

戦争は政治の延長である。

政治から切り離された戦争というものは本来ありえない。

昭和初めの頃、太平洋戦争の前、近衛文麿という愚かな首相がいて、そのブレーンにこともあろうに尾崎秀実という朝日新聞の共産党員を召抱えていた。

この朝日新聞の尾崎秀実という売国奴が、ソ連のスパイのゾルゲに、「日本は南方に進出する」という情報を漏らした。

売国奴としては超一級の情報であり、業績であり、スパイの実績としてはこれ以上のものはないという仕事であった。

その情報を得たソ連は、極東の兵力を全部西部戦線、つまりドイツとの戦闘に振り向けることができ、結果としてドイツの電撃作戦を阻止することができた。

そしてそれが終わると、その兵力を今度は全部日本に向けて、日本がポツダム宣言を受け入れた後、それを総動員して、結果として日本人同胞60万人の強制労働を強いたわけである。

スパイとして超一級の情報をもたらしたゾルゲは、旧ソビエトでは無視され、使い捨てにされたが死後名誉が回復された。

朝日新聞の共産党員・尾崎秀美は当然ゾルゲとともに日本で死刑となった。

又、あの大戦中アメリカはソ連を限りなく支援して、あらゆる兵器をソ連に貸し与え、供与していた。

しかし、戦争が終わるか否や今度は新たなコールド・ウオーである。

アメリカのソ連支援は一体なんであったのかというわけである。

当時のアメリカ大統領ルーズベルトは人種差別主義者で、日本には原爆投下をしておきながら、旧ソビエットの共産主義というものには認識を欠いており、彼の死後アメリカはソ連に裏切られたわけである。

事ほど左様に戦争と政治は表裏一体である。

我々は戦後アメリカにおんぶに抱っこで対外的な武力行使ということはせずに済んできた。

しかし、これは我々日本国が積極的に平和を希求した結果ではなく、ただただ武力を背景とした積極外交、言い換えれば古典的な外交、普遍的な交渉ごとを放棄した結果であって、周囲の状況が武力衝突に至らなかったというだけのことである。

周囲の状況が武力行使に至らなかった、ということは言い換えれば日米安保が相手の行動の抑止力として有効に効いていたということである。

今の日本人は、この事実を忘れてしまっていると思う。

自分達が平和、平和と叫んできたから武力行使にいたらなかったと思い違いをしている。

こういう思い違いが国の指針を見誤る元である。

それと、問題が何一つ解決していなくても、自分に実害がないのでそのままにしているという部分もある。

例えば、北方4島の問題とか、北朝鮮の拉致被害者の問題などがその代表的なもので、大勢の国民に特段の被害があるわけではないので、問題が棚上げされたままになっているにもかかわらず、自分達が平和的で快適な生活が維持できているので、敢えて火中の栗を拾おうとしていないだけである。

北方4島の問題でも、拉致の問題でも、完全に国家主権が侵されているではないか。

国家主権が侵された時,その主権侵害を国民の血でもってあがなう勇気、態度を示さないので、相手は何一つ妥協しようとしないわけである。

そういう勇気と態度を示さず、「話し合いで」などと奇麗事で済まそうとしているから相手はまともに考えようともしないわけである。

第2次世界大戦が終わってからというもの、国際紛争の解決には国際連合で話し合いをしよう、というアイデアは地球上の根源的な願望になっているが、それでも尚この話し合いにはパワー・ポリテックが大きく作用している。

大きな力を持っている国のごり押しには歯止めがないわけである。

今回のイラク戦争の例を見るまでもなく、アメリカという超大国の行動は何人も阻止できなかった。

我々は第2次世界大戦後59年間、我々の側から力を行使したことはなかったが、だからといって総ての問題がそのことによって解決できたわけではない。

話し合いでことを解決するということは相手次第であって、話し合いでも解決できないときは最終的に武力行使しか道はないわけである。

ところがそこで我々の側は、武力行使ということを自らの手で縛っているので、北方4島の問題とか、北朝鮮の拉致の問題というのは、何ら解決を見ていないわけである。

自分の国から自国民が北朝鮮の人攫い攫われているのにノホホンとしている馬鹿な政府があるかといいたい。

こういう主権侵害に合えば、当然「武力行使も辞さない」という強い態度を示せば、そのことが今後の抑止にもつながるわけで、我々の側には「何をされても武力行使はしない」というはっきりとした意思表示をしている以上、相手とすればしたい放題のことがしえるわけである。

外国、つまり主権国家同志の交渉ごとには国益ということが付きまとうわけで、この国益というものをすり合わせる段階で、どうしても妥協しきれない場面がでてくると思う。

それでも尚妥協を拒み、自分の国益を押し通そうとすれば、最後には武力をちらつかせなければならないわけで、外交つまり外国との交渉には常に衣の下に鎧を着て話し合うのが主権国家としては極普通のことだと思う。

つまり、武力の行使というのは何処までいっても外交カードとして臥せておかなければならないものである。

何処で妥協し、何処まで妥協を強いられたら後は武力に訴えるしかない、という線は交渉当事者の胸3寸にあるわけだが、我々の場合は最初からスッ裸で交渉の場に出ているわけである。

外交のカードというものを最初から見せてしまって、我々は「何がなんでも武力行使は致しません」と最初から手の内を見せてしまっているので、相手からすれば極めて御しやすい相手だと思う。

相手にしてみれば何ら妥協する必要がないわけで、自分達の要求が通らなければ会談つまり外交交渉をやめればいいわけである。

自分達の得るものがなければ話し合いを切り上げれば、何一つリスクを背負う必要はないわけであり、我々の側が妥協すれば、それだけ相手は国益を益するわけである。

つまり、妥協というのは、憲法で戦争を放棄した我々の側だけにだけ一方的に存在するわけで、相手は日本が決して武力でことを解決することがないことがわかっている以上、何一つ妥協する必要はないわけである。

ただただ自分達の要求だけ繰り返していれば済むことである。

こういう不合理を、日本の識者というのは知っているであろうか。

私の憶測では、日本の識者というのは十分に知っていると思う。

知っていても、それを暴き立てたところで、損をするのは政府であり国家であり、自分の懐が痛むわけではないので、頬被りして知らぬ振りをしているのだと思う。

今の日本で「外国の主権侵害に対しては国民の血を流してでも毅然たる態度でのぞめ」などと強硬論を述べれば、それこそ戦争好きな軍国主義者と思われて、自分の職業さえ失いかねない。

国の面子や威厳や誇りなどは庶民にとっては何の価値もないわけで、自らの享楽生活が阻害されるほうがよほど恐ろしいわけである。

「金持ち喧嘩せず」の俚諺のとおり、今更つまらない意地の張り合いで命を落とすよりも、金で済むことであれば金で解決すればいいし、日常の市民生活に影響がなければ主権が少々侵されたぐらいで血を流すほうが損だという発想であろう。

国民の意識がこれだから、今に至っても普通の主権国家になることさえ尻込みしているわけである。

 

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