成人式を見て  04・01・23

老人のたわごと

 

成人式を見て

 

1月(平成16年)18日、日曜日の午前中、手持ち無沙汰を紛らわすために見るとはなしにテレビを見ていた。

チャンネルをくるくる回していたら藤本儀一の顔が映っていたので、そこでしばらくチャンネルを回すのを止めそれを見ていた。

丁度、12日の成人式が一部の地域で荒れたということについて藤本儀一がコメントを求められ、それに彼が応えていた。

その彼の答えが私にとっては気になる一言であった。

彼は、新成人が式場の演壇に掲げられている垂れ幕を引きちぎったり、演壇の上に立ち上がって傍若無人なことをしゃべりだした若者の態度を擁護する発言をしていた。

つまり「彼ら若者がこういう行為をする心情は理解できる」というニュアンスの発言をして、それに同席していた女性コメンテイターも同じ内容のことを発言していた。

こういう狼藉をはたらいた若者に対して、真正面から糾弾する強硬な発言ではなかった。

この情景を見て私は真っ先に2・26事件を彷彿させる思いがした。

というのは、若者の独断専横の行為に対して、当時の軍首脳部は最初青年将校の行為を容認する発言をし、後、当時の昭和天皇が、そういう軍首脳の意向とは全く違って、かんかんに怒っているという状況がわかると、掌を返したように、反乱を起こした側を糾弾する方向を向いたという状況を思い出した。

若者が横暴な行為をしているビデオを見せられて、最初に「あの若者の心情はわかる」という発言は、完全に戦後民主主義の産物だと思う。

藤本儀一をはじめとする作家連中、評論家と称せられる人々、つまり物書きを生業としているような人々というのは何時の世でもある種のオピニオン・リーダーである。

一般大衆、一般国民、日本の愚民というのは、大なり小なり、彼ら、こういうオピニオン・リーダーの言動に左右されるものと思う。

私から言わしめれば、こういう若者の狼藉をしている場面を提示されたならば、こういう進歩的知識人、つまりオピニオン・リーダーとしての立場にある方々は、真っ先に「あの若者を厳重に処罰しなければならない、ああいうのをのさばらせておいてはならない」と疎直に発言しなければならなかった、と思う。

藤本儀一は、マスコミ側の、オピニオンの送り手として、奇麗事を言ったのである。

あの若者達は会場で刃物を振り回したわけではない。

あの若者達は、目に角を立てなければならないほどの犯罪を犯したわけではない。人を傷つけたわけでもない。

だからあの程度は許容の範囲内の事だという認識があったものと思う。

問題はこの彼ら、進歩的知識人の持っている認識の甘さである。

この認識の甘さこそ戦後の日本の民主主義、戦後民主主義の本質だと思う。

藤本儀一の生涯こそ戦後民主主義と全く軌を一つにしているわけで、夢多き青春時代に価値観の大転換を経験した彼ら、今の著名作家、著名評論家達のその後の心の生育の過程、および精神の形成過程こそ、戦後民主主義の変遷の過程と一致しているわけで、まさしく戦後民主主義の権化であり、完成品である。

彼らのものの考え方の中でも一番の罪悪は「既存の秩序を守らなくても良い」という発想だと思う。。

成人式を例に取れば、戦後の成人式というのは行政側がお膳立てして、その意味では若者の意思とは無関係にレールが敷かれているわけで、そのレールの上にじっと乗っかっているだけでは若者の立場からすれば退屈で面白くないことは火を見るより明らかである。

その点を突いて藤本儀一は「若者の気持ちは理解できる」と言ったものと想像する。

問題は、その後である。

分別ある大人は、仮にそういう式典であったとしても、式の間はその面白くもない行事に「我慢して付き合いなさい」ということを彼らに強いらなければならないと思う。

戦後の民主主義の最大の弊害は、この「我慢する」ということを「罪悪」と教え込んだことだと思う。

「我慢する」ということを「抑圧」と捉え、それは悪いことだと次世代に教え込んだことである。

その結果として我儘が横行し、自分の我儘が通らないと他者の所為にして、社会が悪い、制度が悪い、学校が悪い、世間が悪いという論法を容認してしまったのである。

成人式に関して言えば、成人式というものが定着して50年以上経過しているわけで、それが新しく成人になったものにとって,式そのものが面白くないという事はする前から判っていることである。

だから嫌ならば最初から出席しなければいい。

ところが、会場に顔を出せば高校を卒業してから逢っていない仲間に再会できるわけで、その点ではメリットがあるわけで、式場に入れば私語ばかりをして、式そのものをぶち壊すことで仲間内に自分の存在感を示しているわけである。

つまり、我儘で良いとこ取りでをしているだけで、自分にとって都合の良いことには臆面もなく便乗し、気に入らないことは拒否しているわけである。

こういう行為を藤本儀一ら進歩的知識人は容認しているわけで、これは由々しき問題だと思う。

彼らの行為は刑事罰としては器物損壊という罪状になるものらしいが、問題は式典の間、その時間はわずか1時間かそこらの時間だろうと思うが、それをじっと我慢しておれないという現状を我々は憂いなければならないと思う。

式典をぶち壊す行為が器物損壊罪に当たるとしたら、その罪名でその行為をしたもの全員を逮捕すべきである。

ここで進歩的知識人という似非偽善者が、「将来ある若者を前科持ちにしては可哀相だから」という論理を展開してくるわけであるが、「自分で蒔いた種は自分で刈り取らねばならない」、という自然の摂理と彼らに判らせるには、そういう強硬手段しかないではないか。

奇麗事を並べて、悪者をも傷つけまいと、八方美人的な言辞を言い続けるということは、偽善そのものだし、罪悪でさえあると思う。

そして、これから日本を背負っていく若者が、ルール一つを守れないという現状にもっともっと識者というのは深刻に悩まなければならないと思う。

奇麗事で若者を擁護するよう発言は厳に慎むべきだと思う。

戦後民主主義というぬるま湯の中で、心身ともにドップリと浸かったまま、馬食だけを重ねた日本のオピニオン・リーダーと言われる人々が、これからの日本を背負って立つ若者に迎合していてはならないと思う。

私の、この発想そのものが既に古典的な思考で、私は現在の若者の考え方、成人式をぶち壊して意に介さない人たちというものを許すわけには行かない。

成人式そのものよりも、式典というものを理解していない若者、式場の中で私語をやめない若者、ルールを守れない若者、わずか一時間かそこらの間、じっと我慢できない若者というのを許すわけには行かない。

 

本人のための躾

 

21世紀の若者をこういう風に育てたのは紛れもなく戦後民主主義の洗礼を仰いだ、価値観の大転換を経験した第1世代だと思う。

1945年の日本の敗戦から数えて2004年というのは60年目に当たる。

世代で言えば4世代目ぐらいと考えていいと思う。

戦後民主主義というものが4世代目に成ると、こういう状況に立ち至ったわけである。

藤本儀一、大江健三郎、色川大吉、加藤周一など等という日本の大評論家達は、戦後民主主義の第1世代だと思う。

今成人式をぶち壊して嬉々としている若者は、こういう世代の曾孫に当たる世代だと思う。1945年、夢おおき青春時代に敗戦によって価値観の大転換を経験し、新しく導入されたアメリカ製の民主主義というものを金科玉条として、そこにアメリカ軍によって解放された共産主義というものが上乗せされ、日本民族というのはアメリカ製の民主主義と、旧ソビエットをはじめとする共産主義思想の民主化という美名にもとに、米ソ両方から完全に精神的去勢が行なわれ、それが功を奏し今では世界一のエコノミック・アニマルと化したわけである。

エコノミック・アニマルだからこそ、民族の誇りも、名誉という概念も、自尊心も、何もかもかなぐり捨てて「自分さえ良ければ総てよし」という発想に至っているわけだ。

成人式で暴れた若者だって、誰一人傷つけたわけではなく、ただ単に自己表現のパフォーマンスであるという見方が、この戦後民主主義帰依者の第1世代にはあるわけである。

戦後民主主義に最初に帰依したおじいさん世代がそうであれば、当然その子供の世代も、孫の世代も、曾孫の世代もそれを引きずっているわけで、誰一人、若者の非を認めるものがいないことになる。現にそうなっているではないか。

若者は何も悪くはなく、悪いのはそれを企画立案した行政の側だ、という論法になっているではないか。

若者というのは何時の時代でも、何処の地域でも、何処の国でも純真で無垢なものである。それを自分たちの社会で、立派な大人として、自分の属する社会に貢献する人間に育てることは民族の恒久的な課題の筈である。

若者達を自らの属する社会の枠に当てはまるように育てるのが、その社会の大人の責任となっているはずである。

これはどの民族でも、どういう国家でも、変わる事のない人間としての恒久課題である。しかし、純真で、無辜で、何も知らない若者を、そういう風に自らの属する社会に貢献する、自分たちの枠にはまる人間の育てるには、大人の側が物事を教えなければならない。教えるべき事柄としては、当然、社会のルールの遵守という事が真っ先にあるわけで、その中には伝統であったり、規範であったり、慣習、習慣であったりするが、こういう事は理屈ぬきで上から有無を言わせず叩き込まなければならないものがある。

それを「若者の目線に立って」とか、「若者と同じ視点で」と云っていては、それが成り立たないのである。

若者にもの事を教えるのに、相手に迎合していては、それが成り立たないわけである。

やはり上から毅然たる態度で理屈を抜きに「これはこうだ」ということを叩き込まなければそれは成り立たないと思う。

成人式で騒ぐ若者に、説いて聞かせても埒が明かないわけで、やはり上から「黙れ」、「外に出ていけ」、器物損壊の現行犯という形で強圧的に教え込まないことには、若者に物事を判らせることは出来ないのである。

こんなことは本来ならば家庭の躾の問題であるが、この世代の親というのが戦後民主主義の第3世代なわけで、親自身が家庭での躾ということを受けていない。

だから自分の子供を自分で躾ける事すら出来ていないから、こういう事態になるのである。家庭で躾が出来ないというのも戦後民主主義の大いなる悪弊なわけで、日本の進歩的知識人というのは敢えてそのことに触れようとしない。

子供を躾けるなどという事は、どんな未開な民族でも自然に行なっているが、その目的は民族のためだとか国家のためなどという大層なものではなく、子供本人のためではないかと思う。

子供自身が、その種族なり、その民族なり、その国家の中で大過なく人生を全うするための最低限のルールを授ける、という意味合いが有るのではないかと思う。

成人式で式場に掲げられている垂れ幕を引きちぎれば、器物損壊罪で刑罰を受けるとなれば、それは本人にとっては罪状もちになるわけで、種族によってはそういう行為が死に値することもあろうし、種族からのボイコットに値するかもしれないのである。

だから親はそういう風にならないように、自分の子供のために最低限の社会的ルールを教えるのが子を思う親心として、人間として、基本の部分にあるものと想像する。

ところが我々の社会はそういうルール違反に対して非常に寛大で、日本の進歩的知識人はルールを守らない事を英雄視する傾向があり、守れないようなルールはルールの方が悪いという発想に至っている。

その端的な例が、あの藤本儀一の発言で「若者の気持ちもわかる」という発言に現れていると思う。

 

老獪な占領政策

 

21世紀に生きている我々、日本人というのは、進歩的知識人から成人式で暴れる若者まで、その総てがルールや法律を、自分の都合で、自分に都合のいいように、自分の都合に合わせて解釈し、利用しようとしている。

法律というものは元々そういうものだろうが、そこに我々の民族的特質があるのかもしれない。

守れないようなルールはルールの方が悪いと云っておきながら、憲法は平和憲法だから一切触ってはならぬ、というのが戦後民主主義者の第1世代のものの考え方であった。

ルールの方が現状にマッチしていなかったら当然現状にマッチしたルールに変えて然るべきなのに、憲法に関する限り、それは御法度で、他のものはルールの方が悪いから現状に合わせるべきだということである。

こんなバカな話もないが、それが戦後60年間も続いているではないか。

ルールということで言えば、我々の生活で一番切実な法律は道路交通法である。

しかしこれもかなり矛盾を含んだ部分がある。

道路交通法の細目の中に「前方不注意」というものがあり、「安全運転義務違反」という細目がある。

この二つがあれば如何なる事故でも事故を起こした人間は罪を免れることができない。

ところが現実には、歩行者の側の不注意で事故が引き起こされるということもあるわけで、横断歩道でないところの横断や、分離帯の隙間から出て道路を渡ろうとする場合や、逆に高速道路並みに走れるようなの一般国道でも制限速度が60kmであったり、道路交通法の矛盾というのは数え切れないほどあるにも関わらず、それを是正しようという動きは一向に出てこない。

矛盾は掃いて捨てるほどあるにも関わらず、国民の側はそれに黙って従って、捕まった時は身の不運を嘆くだけで終わらせてしまっている。

道路交通法の改正というのは、下からのボトム・アップで変わることよりも上からのトップ・ダウンで、お上の思し召して変わるだけで、そこには民意の反映というものは微塵も存在していない。

大人の世界がこれだから、これからの日本を立って背負う若者が、大人を参考にして、年長者を見習おうという気持ちを起こさないのもむべなるかなである。

そこにもってきて、日本の教育界というのはそのこと如くが共産主義者に占領されてしまっており、共産主義者やその同調者の教員から教育を受ければ、日本の将来に明るい兆しが望めないのも致し方ない。

今の教育界の教員というのが戦後の民主教育の第2世代か第3世代なわけで、古い秩序を壊すのに何の抵抗も感じない世代なわけで、それを後ろからフォローしているのが先に述べた日本の進歩的知識人と言われる作家や評論家達、はたまた大学の教授連中である。

旧ソビエット連邦が崩壊して10年以上が経過したので、今更共産主義といっても迫力がないが、戦後の日本で共産主義というものの弊害は目にあまるものがあると思う。

その弊害があまりにも顕在化してしまっているので、今の人々はその弊害というものを実感として認知し切れていないが、戦後の民主教育というものは、丸まる共産主義教育とみなしていいと思う。

60年前の日本の敗戦という時点に立ち返ったとき、勝ったアメリカの一番の恐怖は何であったかと問えば、日本が再び勢力を盛り返してアメリカに仕返しをするのではないかという恐怖心であった。

アメリカ側で対日戦争を常にリードしてきたのはルーズベルト大統領で、彼は終戦の前の4月に急に死んでしまったので、戦争が終わった時点ではトルーマン大統領に代わっていたが、ルーズベルト大統領というのは日本を猿並みに看做していたのである。

100%完全なる人種偏見主義者であった。

だからこそ彼は日本にだけ原子爆弾を投下したのである。

原子爆弾はドイツ系アメリカ人のいるドイツ、イタリア系アメリカ人のいるイタリアにはつかわずに日本にだけそれを投下して実験をしたわけである。

この事実をもってしても、ルーズベルト大統領に人種的偏見が無かったなどとはとうてい言えたものではない。

何故、日本にだけ原子爆弾を使ったかという背景には、日本を猿並みに見ていたのと同時に、猿だからこそアウシュビッツ並みのホロコーストをしても何ら良心に呵責を感じなかったからである。

そういうアメリカは勝った後でも、日本が50年後、60年後、100年後、再びアメリカに対して果敢に戦いを挑んでくることの無いように、日本民族に精神的な去勢手術を施そうと考え、それを実践してきたのである。

それが教育の民主化というものであった。

ところが大戦中はアメリカの同盟国であったソビエット連邦が、共産主義革命を世界に輸出しようとし、それでもって領土的野心を露にし、アメリカの国益の前に立ちはだかろうとする野心に対して、アメリカはそれに対抗しなければならなくなったわけである。

この冷戦が始まると情勢が変わってきたのである。

時はトルーマン大統領の時代で、彼はルーズベルトと反対に、反共主義で凝り固まっていた。

ルーズベルト大統領は共産主義というものに対する認識が甘かった。

というのは共産主義というものが黄色人種の発想ではないし、それを採用したロシア人というのはアメリカ人のイスタブリッシュと同じ白人であったし、人種的偏見を持つ彼としてみれば猿よりましで、話し合えば分かり合えると思い込んでいたわけである。

この甘さが彼が旧ソ連を対日戦に引き込んだ最大の原因だったと思う。

ところが共産主義の旧ソビエット連邦というのは、共産主義なるが故に潜在的に領土的野心を持っていたわけで、それはロシア周辺の地域からじわりじわりと共産主義の輸出をしだしたことで実証されたわけである。

旧ソビエットは、封建主義さえも定かに確定していないような野蛮地域、帝国主義に蹂躙されそうな未開地域にじわじわと触手を伸ばそうとしていたので、トルーマンがその前に立ちはだかったわけである。

2次世界大戦が終了した、その状況下で、日本は対米戦で敗北し、連合軍の勝利という名目で、旧ソビエットが一人前の顔して、その勝利の果実をとろうとしたので、その前にトルーマンが立ちはだかったのである。

その後のアメリカの対日占領政策では、戦争に勝ったアメリカは、戦争中牢獄に閉じ込められていた共産主義者たちを解放してしまった。

この開放された日本の共産主義者たちというのは、共産主義者たるがゆえに、「これで日本を共産主義の国に変える事が可能だ」と思い込んでしまって、有頂天になってしまったものだから、逆に占領軍の逆鱗に触れ,再度弾圧を受けることになってしまったわけである。何のことはない、日本の共産主義者というのは、何時の時代でも、誰が統治しようとも、常に異端者であり続け、自分の祖国に何一つ貢献することなく、自分の民族に何一つ奉仕することなく、常に同胞を外国に売り、外国の利益を代弁し、外国の国家に奉仕し続けていたわけである。

不幸なことに戦後の日本の知識階級というのは、こういう考え方に酔いしれて、迫害される側に美意識を感じ、判官びいきというわけでもなかろうが、常に反政府側を擁護し続け、似非共産主義、限りなく共産主義に近い社会主義にエールを送る事が善と思い違いをしていたわけである。

それは我々の政府が「戦争に勝つ」と言い続けながら敗北に導いてしまったため、同胞の政府から騙されたという思いが募って、その分反政府勢力の側に偏りしすぎたに違いない。ところが日本を戦争で負かしたアメリカの立場に立ってみると、アメリカの対日占領の最大の課題は、日本が今後如何なる理由があろうとも再びアメリカに対抗するような力を持たせないことであったわけである。

その目的のためには手段を選ばなかったわけで、それでアメリカ自身の対日占領政策の中の教育の民主化という課題に対して、日本の教育界がいくら共産主義の発想を取り入れても、それを黙認していたわけである。

アメリカにしてみれば、日本の教育が共産主義者によっていくらぐちゃぐちゃになろうとも、それはアメリカの国益にかなっているからである。

勝ったアメリカにしてみれば、日本がエコノミック・アニマルに徹していれば、それだけで有り難いわけである。

これはアメリカの利益ばかりではなく、旧ソビエット連邦でも、又中華人民共和国でも、大韓民国でも、朝鮮民主主義人民共和国でも、日本周辺のアジア諸国も皆アメリカの思いと同じものを持っていたわけである。

つまり、日本がエコノミック・アニマルに徹して、決して武力を行使してくることがないとなれば、彼らは枕を高くして眠れるわけである。

ところがそうこうしているうちに今度は日本が再び経済の方面で世界的規模で頭角を現して、アメリカと並ぶようになってしまったのである。

そうするとアジアの周辺国家としては再び日本の存在が恐怖になってきたので、いろいろと日本にちょっかいを出し、日本が本当に武力行使しないのかどうか、ジャブを出してけん制し始めたわけである。

アメリカは日本が未来永劫、精神的な去勢のままでいるために教育の民主化というものを行なったが、教育の民主化の過程において、そこにいくら共産主義が立ちいろうとも、アメリカの国益に差しさわりが無い限り、それを容認してきたわけである。

アメリカにしてみると、大戦中の日本の青年が、あの神風特攻隊に見られるように、個の欲望を否定して、死を厭わない自己犠牲の精神というものが極端に怖かったのである。

その根源が戦前の日本の教育にあると知った占領軍は、徹底的にその部分を粉砕したわけである。

そのことは言葉を言い換えれば、日本の旧秩序の破壊であったわけで、それは共産主義革命の目的とも見事に一致していたのである。

共産主義革命というのも、旧秩序の破壊ということをしないことには先に進めないわけで、その点でアメリカ占領軍の日本の民主化と称するものと、共産主義革命の唱える民主化というものが見事に一致したわけである。

 

日教組の罪悪

 

その民主化の一環として、占領軍は日本の労働者に労働組合の結成を認めたので、労働者が組合を結成すれば、それはおのずと共産主義者の巣窟となってしまったわけである。

我々が過去の歴史から教訓を得ようとすれば、公立学校の先生に組合結成の権利を認めるかべきか否かを見直すべきだと思う。

公務員でも警察官や消防職員は組合結成が制限されていることから考えれば、将来の日本を背負って立つ若者を教育する先生方に組合結成を認め、そういう敬虔な職場に共産主義者どもを入れていいのかどうか、ここで教育の原点に立ち返って考えるべきではなかろうか。

民間企業では労働組合が、賃上げや、労働条件改善闘争で、会社を潰してしまうほど追い込んでは身も蓋もないので、程ほどのところで妥協せざるを得ない。

言葉を変えれば、ある程度のところで労使協調という方向を探らなければならない。

ところが教員や国鉄、その他の官公労というのは、いくら強硬な要求を押し付けても企業体が潰れるという事はありえないわけで、とことんまで無駄な闘争に明け暮れていた。

その過程で、特に教員の間には、自分の信条と、教育の内容ということを峻別することなく、自分の信条で教育を実践してしまうことに何の疑問を持たなくなったわけである。

つまり日教組という教員の組合が、日本の学校教育の現場を完全に占領してしまって、共産主義に依拠した義務教育が行なわれるようになったわけである。

そのことは、日本全体は自由主義陣営に組しているにもかかわらず、教育現場では共産主義教育が行なわれていたということである。

つまり、日本の古来の発想というものを全否定し、日本の古来のものの考え方を否定し、

既存の秩序を否定し、破壊し、ルールは守るためにあるではなく破るためにあり、個人の我儘は言いたい放題で、その我儘を聞き入れない行政は悪者だという、人としての倫理から逸脱したことを教え込もうとしてきたわけである。

日教組というのは完全なる共産主義国の教育の猿真似を追い求めたわけでもない。

もし彼らが完全な共産主義国の教育を寸分たがわず模倣するとしたら、やはりそこには祖国愛とか、自己犠牲とか、民族に対する奉仕、祖国に対する感謝の気持ちとか、民族の誇りというものも当然教えられるはずであるが、彼ら日教組の追い求めていたものというのは、自分たちにとって都合のいいところだけを借用する良いとこ取りに過ぎない。

成人式をぶち壊す若者と、日教組の行ってきた行為とは、この点で見事に合致しているではないか。

真の共産主義国の教育を模倣するとすれば、その中に出てくる祖国愛とか、愛国心とか、奉仕の精神というのは日教組の方針と衝突してしまう。

やはり日教組の狙いというのは日本という国の精神的な弱体化しかありえない。

自分の属する民族の誇りとか、自分の属する国家の誇りとか、自分の祖国に対する忠誠とか、祖国に対する自己犠牲だとか、そういうものは主義主張を超えて地球規模で普遍的なものだと思う。

ところが日本の日教組の追い求めていた教育というのは、世界の非常識の代表的なもので、世界の常識として一本きちんと筋の通ったものでもなく、ただ何となく平和主義で、戦争否定で、皆が平等で、奇麗事だけを言っていれば天下泰平に終わる、というような曖昧模糊とした、無責任極まりないと言うか、そういう絵空事のような教育を追い求めていたわけである。

 

相手を喜ばす弱体化

 

人が複数集まれば当然10人10色の意見が出るので、その集まった人々が一歩でも二歩でも前に事を運ぼうとすれば、賛否両論が出るのは致し方ないが、皆の意見を平等に聞いては事は一歩も前に進まない。

どこかである意見を切り捨て、ある意見を採用しなければならないわけである。

そのために多数決という物事の決定の仕方があるにもかかわらず、それを「多数意見の横暴」という言い方をするならば、他に如何様な解決の仕方があるのかといわなければならない。

多数の意見が採用されたならば、自分個人としては少々腑に落ちないところがあったとしても、それには従わなければならない、というのが基本的な民主的態度だと思う。

ところが自分はその決定に腑に落ちないところがあるから、その決定に不満だから、それには従わないという我儘を、個人の意見の抹殺という表現で正当化しようとするのが昨今の進歩的と称する人々の態勢である。

少数意見を尊重するという言葉は、一見奇麗事に聞こえるが、これこそ民主主義というものを真っ向から否定していることにそういう人々は気がついていない。

意見が纏まらずに事が一向に解決しないと、「政府は一体何をしているか」とか「行政は一体何をしているか」という発言になる。

自分にとって都合の悪いことはすべて政府や行政の所為にしがちであるが、これこそ愚民といわれるものだと思う。

戦後の民主化教育、教育の民主化の中で、共産主義というものが非常に大きな悪弊を招いたのではないかと思う。

今日の若者の秩序の破壊という事は、総て此処に起因していると思う。

先に述べたように、終戦時に二十歳前後であって、価値観の大転換を身をもって体験した世代は、その後結婚して子供を作りそれを育てる過程で、家庭での躾とか、我々の持っていた古い慣習とか、価値観というものを次世代に引き継ぐことをせず、そういうものを一切排除してしまい、共産主義の先生達に子育てそのものを丸投げしてしまった。

その子供たち、つまり戦後の民主化教育の第2世代の人々は、親からそういう事を引き継ぐ間もなく、これはこれで又高度経済成長の渦に翻弄され、家庭を顧みる余裕もなく、第3世代を育ててしまったわけである。

これは完全にアメリカの日本愚民化政策の成功である。

アメリカは戦争でも勝ったが、日本を愚民化するという事業においても見事に成功を収めたというわけである。

それに反し、日本の進歩的知識人というのは、大和民族が精神的に去勢されたという事実にも気が付かず、未だに自分たちの憲法を造るということさえも反対を唱えているわけである。

ただただエコノミック・アニマルに徹していさえすれば、他の国は日本をそれなりに扱ってくれる、と思い違いしているのである。

日本の首相が祖国の英霊に参拝すると中国が抗議してくるから、首相は近隣の諸国に波風を立たせないように靖国神社に行くことをやめよと云って平然としているわけである。

自分の国の首相が、自分の国の英霊を参詣するのに、何故に他国の顔色を伺いながらしなければならないのか、という根本のところを理解しようとしない。

ただただ貿易面の影響を恐れて他国に媚を売っている図でしかないではないか。

これでは民族の名誉も祖国の名誉も全く関係ないわけで、ただただ動物的に生きているだけに過ぎないが、そこに気が付いていない。

これでは犬や猫と同じで、ただ食い物を食って、糞して寝るだけの動物と何ら変わるところがない、ということに全く気が付こうとしない。

それでもそういう生活、つまりエコノミック・アニマルのままで、民族の誇りも、名誉も、祖国愛も全く認めず、紛争地域にはなんびとも差し向けることを拒否し、血と汗を流すことを拒否し、唯我独尊的な一国平和主義でもいいと考えているわけである。

自分は一国平和主義で、何か事があると国連の決議に従えとなるわけである。

そんな独りよがりな、自分勝手な発想が生き馬の目を抜く国際社会で通用するわけでもないのに、それが判っていない。

だから日本の常識は世界の非常識で、世界の非常識が日本では常識となっているわけである。

成人式で暴れる若者は、日本の戦後の民主化教育の賜物であって、生まれるべくして生まれてきた現象である。

いわばアメリカの日本愚民化政策の大いなる成果である、

アメリカは日本が再び武器をとってアメリカに歯向かってこないようにという遠大な計画の下、そういう政策を遂行してきたわけである。

アメリカの狡猾なところは、こういう日本愚民化政策を自ら直接行なうことなく、恰も日本人自身の自主性に基づく発案でこういう結末に導き、こういう実績を作り上げたところが小憎らしいほどの政治外交のテクニックである。

それは日本国憲法を作ったときの手腕と全く同じものである。

日本国憲法はアメリカが押し付けたにもかかわらず、表向きは日本人が自主的に作ったことになっている。

未だにそれを信じているバカな日本人が居る。

このアメリカの政策は、アメリカの国益ばかりではなく地球規模でみて、日本以外の諸外国の国益に通じていたわけで、特に日本の近隣諸国にとってはアメリカ以上に日本民族の精神的去勢はありがたいことであったに違いない。

これらの諸国には日本に対する恐怖というのはアメリカ以上にあったに違いない。

ところが日本は自分の方から、アメリカに脅されたとおり、もう武力による国際紛争の解決は致しませんと宣言してしまっているので、相手からすれば全く怖いものなしである。アジアの日本の近隣諸国から見ると、それらがいくら日本に対して無理難題を吹っかけても、日本は一切反撃しないということがわかっている以上、大手を振って無理難題を吹っかけれるわけである。

それが北方4島であり、日本人拉致の問題であり、首相の靖国神社参詣の問題であったり、竹島の問題であるわけである。

この単純明快な論理が戦後の日本のインテリ、知識人には理解できていないわけで、日本さえ武力を使わなければ相手は決して日本を苦境に追い込む事などしない、とバカのようなことを信じている。

 

民主教育の本質

 

21世紀に生きる日本人が、これほどものを知らないということが続くと、またまた民族全体が奈落の底に向かって突き進むという事態を引き起こすと思う。

先の太平洋戦争、日中戦争から対米戦にいたる過程を見ても、我々はあまりにもものをしらなすぎた結果だと思う。

物を知らずに感情に訴えて、感情で事を決めたのでああいう結果を招いたものと思う。

そしてその結果が敗北であったわけだが、戦後の日本の知識人というのは、その敗北の結果を軍人の責任、軍部の責任に転嫁して口を拭おうとしているが、軍部の行動の前には、日本民族の潜在的な思考として、貧乏からの脱出願望があったということには目をつぶっている。

軍部が独断専横したという部分は事実ではあるが、軍部が独断専横する背景には、日本の大衆の潜在的願望、つまり貧乏からの脱出、富国強兵を希う民族的潜在意識としての願望があったわけである。

戦後の進歩的知識人の論評によると、戦前の軍部というのはエイリアンか異性人というニュアンスで、日本人ではない、日本人とは異質な人間達という印象を打ちたてようとしているかに見えるが、基本的には日本人の潜在意識を代弁する集団であったわけである。

戦前の日本人の国民的な潜在意識といえば貧乏からの脱出以外にありえない。

この貧乏からの脱出を早急に実現しようとしたからこそ、相手を研究することなく感情論で突き進んだ結果が最終的に敗北という結果を招いたわけである。

戦前の日本人が、貧乏から脱出しようとする具体的な手段が軍の学校に入ることで、軍の学校に入れば、後は自動的に将来が保証されていたわけである。

そのことは官僚として栄達を極めるということで、それは同時に、精神的な腐敗を免れないということでもある。

明治、大正、昭和の初期の、日本の貧しい家庭から、その貧しさから逃れようと官費の軍の学校に入ると、後はエスカレーターのように自動的に階級が上がり、貧乏からも逃れれるが、そのぶん精神の方は腐敗していくわけである。

そして自らの目的を見失ってしまって、感情や、肩書きや、序列や、義理人情で事を決め、それで事を推し進めたものだから、日本は奈落の底に転がり落ちたわけである。

その意味では、戦後のインテリが軍部を糾弾することは致し方ないが、戦後のインテリも戦前の軍部と全く同じ轍を踏んでいるということには気が付いていない。

この自分のしていることに気が付かない、というところが我々の民族としての最大の欠陥だと思う。

井戸の中の蛙の状況に陥ってしまうと周りがさっぱり見えていないわけで、その周りが見えていないという状況に気が付かないのが我々の民族の特質かもしれない。

不思議なもので、あの日中戦争から対米戦に至るまで、日本の政府というのは極めて慎重論で、戦争を避けることばかりを考え、率先して戦いを挑んだわけではない。

常に控えめで、控えめで、屁ピり腰で、出来れば避けたいと願っていた。

それに反し、国民の側、大衆の側、民衆の側、愚民の側というのは、常に好戦的で戦いを挑むことに積極的であった。

軍部はこの国民の声を代弁して、国民の声に応える形で、国民の、大衆の、民衆の、愚民の願望を実現するという形で、無知、無計画のまま事を進めたわけである。

その根底にあるのは、戦うべき相手を知らずに、感情論だけで事を進めたということである。

陸軍士官学校、海軍兵学校の卒業生が、卒業後何年かすると官僚に成り代わってしまったという点を、我々は民族的の組織論として究明しなければならないものと思う。

これは21世紀の今日だからこそいえることで、一旦官僚になってしまうと一生涯身分が保証されるという環境の下で、優秀であるべき官僚が精神的に全く堕落してしまったというところを、精密に究明しなければならない。

こういう歴史的流れの中で、戦後の日本のインテリ、戦後の日本の知識人というのが、そのすべてが反政府、反体制というポーズでなければ糊塗をしのげなかったのはなぜか、という点を考えなければならない。

戦前の例のように国民の好戦気分を煽ったのは当然のことマスコミである。

又、国民の反政府運動、反体制運動を煽るのも、これまた同じマスコミである。

マスコミというのは営利企業である。

儲けにさえなれば信念とか、信義とか、国益とか、絶対正義とか、倫理とか、全く関係ないわけである。

ただただ儲けさえ追及できれば赤を黒とも言い、黒を赤とでも、何とでも言い包めるわけである。

成人式で真面目に式をしているところはニュースにならないのである。

人が真面目の職務を遂行していてはチョッとも面白くもなくおかしくもないわけで、それではニュースにならない。

金を盗んだり、選挙違反をしたり、重役が中学生に性的悪戯をするからニュースが面白いわけで、その延長線上に国民が戦争を欲している雰囲気を誇大に宣伝するから、自分で物事を考えない我々は、それに追従して政府に対して「戦争せよ戦争せよ」となるわけである。

戦後は、そのベクトルが逆方向を向いているだけのことで、政府がイラクに人道支援のため自衛隊を派遣すると、自衛隊員の命が危ないから止めておけ、という論議があたかも整合性を持っているかのようにマスコミにとりあげられるわけである。

政府、小泉首相だとて、好き好んでイラクに自衛隊を派遣しているわけではない。

今日、21世紀の今日、地球規模で日本のおかれた立場を考え、我々が如何に中東の石油に依存しているかということを考えてみれば、「憲法があるから派兵は出来ません」で済まないことぐらい一目瞭然である。

自衛隊の派遣に反対している人は、そういうことを一切考える必要もなく、国際的な日本の立場を考えることもなく、日本経済のことを考える必要もなく、ただただ感情論で「井戸の中の蛙」的思考で、口から泡を飛ばして言っているだけである。

本来のマスコミの使命というのは、その感情論の部分を解きほぐして、論理的に物事を解説する方向に向かわなければならないと思うが、現状ではただ面白おかしくその反対運動を鼓舞宣伝しているだけである。

統治する側とされる側では当然ものの考え方が違うわけで、政治家、政府要人は感情論で事を処理することはもっとも避けなければならないことである。

ところが統治される側というのは感情論でものを言うから結果的に反政府、反体制ということになってしまうのである。

イラクに行く自衛隊の身の安全を考えるならば、その前にイラクの地で、テロを起こしているイラク人にテロを止めるように、イラクの復興にもっと協力するように、イラク人自らがイラクの復興に努力するように、何の意味もない自爆テロを止めるように、アメリカが占領しているから治安が悪いなどという論理は通らないことですよ、という事をイラク人に対して言うべきである。

日本の自衛隊は戦争に行っているのではなく、イラク人への復興支援、人道支援のために行のであって、あなた方のために行くのですよ、だから決して殺さないでくれ、ということをイラク人に対してもっともっと言うべきである。

イラク人がもっとスムースに治安の回復をすれば、それだけアメリカの占領も短くなるはずである。

日本の自衛隊はその復興の手助けに行くわけで、自衛隊員が何らかの事情で死傷するよう事があれば、それはすべからくイラク側の責任といわなければならない。

今のイラクのように、国家の体をなしていないところというのは、我々の思考の外のことで、どういう風に考えたら良いのか検討も付かない。

物事、特に国際情勢というのは、正義とか、善悪とか、正邪というものさしでは測りきれないものである。

国家の体をなしていないイラクに、人道主義的見地から、その復興を手助け、イラクの社会的インフラを整備するために行くことに、何故送り出す側の我々の中の同胞が反対しなければならないのであろう。

「アメリカとの約束で行くからいけない」というのもおかしなもので、それならばアメリカと組むと人道的支援もしてはいけないという論理になってしまう。

こんなバカな話もない。

こういう馬鹿げた論理を展開して恥じない面々は、自分が傍観者として、批判はするけれど決して責任を負う必要がないから、こういう事を言ってマスコミ受けを狙っているとしか言いようがない。

特に野党の政治家とか、進歩的というポーズをとらなければならない評論家というのは、マスコミ受けする発言をしなければ飯の食い上げになってしまうので、常識的なことを常識的に言っていてはならないわけである。

私は小泉首相から金を貰って提灯持ちをしているわけではないが、日本の国民から統治を負託されている小泉首相としては、今、イラクの復興支援に人を送らずに済ませられるであろうか。

自衛隊を送らなくても民間企業の人を送ればいい、と本当に思っているのであろうか。

ただでさえ危険なところに、何の危機回避能力もない民間人を送った方が良いとでも考えているのであろうか。

事ほど左様に日本の進歩的知識人というのは物事の本質を見失っている。

こういう人々の心の奥底に流れている潜在意識というのは、戦後の民主教育で培われた、祖国を愛しない、他人に奉仕することを拒否する、自分さえ良ければ後は野となれ山となれ、自己の名誉、祖国の名誉、民族の誇り、こういうものを一切合財否定する、戦後民主主義の見事な果実である。

民族の精神的去勢の成果が如実に表れているわけで、日本弱体化の尤も典型的な事例である。

今の日本の野党勢力やマスコミ業界の中枢にいる人たちというのは、戦後の民主教育の第2世代の人たちのはずである。

親が第1世代で、彼らの親は身を持って価値観の大転換を経験して、子育ての面でも完全に自信を喪失した状態のままでこれら第2世代を育ててしまったわけである。

その過程では、当然、共産主義勢力も勢いがあったので、あらゆる業界内に共産主義的発想が蔓延していたものと思う。

それ故に秩序の破壊ということに対して罪悪感が全くないわけである。

共産主義勢力が至上命令としている革命というのは、先ず最初に秩序の破壊ということから始まるわけで、既存のあらゆる秩序、ルールというものを全否定することから始まる。子供を「用意ドン」で一斉に走らせれば当然一番からびりまで序列が出来る。

これが自然界の法則で、人の生存にとって極ありふれた自然界の摂理である。

そしてそれは人間を差別するものでもなく、況してや人間を階級化して選別するものでもない。

それを故意に、無理やりに、整合性が全く存在しないにもかかわらず、徒競走の順位は人間を差別化するものである、と称して全部を努力賞という形で均等化した評価をすることが正しいと屁理屈をこねるから今日のゆがんだ平等主義が蔓延するわけである。

人間たるもの、同じものを食し、同じような部屋で起居し、成績は総てドングリの背較べように標準化しており、金持ちも貧乏人も存在せず、皆が一様に中程度の生活をする事が善であるというのが究極の共産主義社会なわけで、そういう社会を作るのに革命でしなければならないというのが共産主義であり、議会制民主主義を維持しながらそれを達成しましょうというのが社会主義である。

共産主義も社会主義も究極の目的は同じなわけであるが、その究極の目的というものが、完全に人間性というものを否定した社会だということに気が付いていない。

貧富の差もなく、皆が一様に同じ教育を受け、皆が一様に職にありつけ、皆が一様に中流の生活が出来る社会というのは逆に人間の個性というものを抹殺した社会という事に気が付いていない。

「子供は均等に教育を受ける権利がある」という言い方は非常に整合性があり、説得力があり、如何にも素晴らしい言葉のように聞こえる。

問題はその「均等」ということの本質と、権利の裏には義務がくっついている、ということを故意に忘れ、または忘れた振りをして、自分の身に降りかかる負の権利は社会全体で背負うべきだ、と言葉を言い換えるわけである。

障害のある子供を「等しく教育を施す」という見地から特別に隔離して、専門的に教育を施すと、それを差別と受け取る精神というのは一体何処からくるのであろう。

昔は長男が親の介護を受け持ち、それ故、親の死後はその財産も引き継いだが、戦後は親の財産は皆平等に分配しなければならない。

ならば親の介護も皆平等で受け持たなければならないが、それは物理的にも難しいし、ここの事情で難しいわけである。

そういう場合、地域とか、社会とか、福祉政策で親の介護をすべきだ、という論法がさも正義のような顔をして罷り通っているが、ならばそういう介護の末残された親の遺産は地域なり、国なり、福祉の側で没収しても良いのかという論法になる。

当然、遺族としては、それは個人の財産権の問題でそれは罷りならぬということになる。自分の都合の悪いことは、社会や、地域や、行政に追い被せておいて、自分の都合に合わせて自己の権利を主張することを教えたのが、戦後の民主教育の最大の成果である。

その成果をトータルで見れば、日本民族の精神的退廃を助長してきたということである。

戦後の義務教育では、体にハンデイーのある子は特別の枠で教育しましょうという趣旨なのに、それを何ゆえに差別と言い募るのであろう。

徒競走で順位をつけると何故反民主的なのであろう。

こういう発想は全く人間というものを知らないものの考えだと思う。

もっとも、共産主義というのは、人間が人間の頭脳の中で考え出されたユートピアなわけで、現実の人間の生き様を具現化したものではない、ということは歴然とした事実である。人間が頭の中で考えた「こういう世の中ならば人間は幸せに生きられるであろう」という願望に近いものであったわけで、それが人間の現実の生き様から解き明かされたものでないことは歴然としている。

人間が頭の中で描いた理想であったからこそ、旧ソビエット連邦では、その実験が70年弱で終焉を遂げてしまったわけである。

 

年寄りの憂い

 

我々、生きとし生ける者は理想と現実ということをよくよく考えなければならない。

若者に対して「理想を追い求めよ」というのは老獪な大人の無責任は言葉である。

理想に向かって突っ走る事が若者の美徳のように言われているが、それは大いなる欺瞞に他ならない。

理想はあくまでも理想であって、夢であり、画餅であり、蜃気楼であり、幻である。

失意の時には、確かに、夢に向かって沈んだ心を奮い立たせて、再起を図るという効用はあるかもしれないが、夢幻(ゆめまぼろし)と現実とを混同してはならない。

戦後の日本の進歩的知識人というのは、無知蒙昧な同胞に、この無責任極まりない夢、幻、理想論としての共産主義というものを説いて聞かせてきたわけである。

冷静に考えてみれば、政党というのは主義主張というものを鮮明にアピールしなければならない。

ところがマスコミというのは当然不偏不党でなければならないと思う。

創価学会の「聖教新聞」や日本共産党の「赤旗」は例外的で、これはこれで立派な存在だと思う。

その他のマス・メデイアというのは、不偏不党を表明しているならば完全に中立でなければならない。

尚、悪いことは、日本の国立大学の教授連中が、学内にこの主義主張を引き込んで、本来中立でなければならない大学というものを偏向したものにしてしまっていることである。学問として共産主義、社会主義、共産党、旧日本社会党の考え方というものを研究する分には何ら問題はないが、大学内に日本共産党が細胞を作り、それを排除もせずに容認する大学というのは実に困ったものだ。

大学などというところは若い人にものを教えるところであって、政治の場ではないはずである。

若い人というのは、いわば白紙のようなもので、大学4年間にその白紙の上に色々な形を作り、色を塗り、物事のノウハウを教える場であって、基本的に政治的には完全中立でなければならない場所だと思う。

だからこそ「学の独立」であり「象牙の塔」であったものと思う。

そういう大学で、教授たちが完全にある政党、具体的には日本共産党の思考にそった授業をしているとすれば、その後の日本が良くなる筈がないではないか。

この影響は大学だけではなく、日教組という組織を通じて、日本の義務教育の隅々にまでいきわたっているわけで、これではその後の日本が良くなるわけがないではないか。

戦後の学校教育の現場は、知ってか知らずか、アメリカの日本弱体化計画に見事に擦り寄り、その遂行に見事に貢献していたわけである。

日本を弱体化するという事はアメリカのみならず、アジア諸国にとってもまことに有り難いことなわけで、日本がエコノミック・アニマルに徹していればいるほど、彼らは頭を高くして眠れるわけである。

日本の進歩的知識人というのは、民族としての同胞よりも、そういうアジア周辺地域の国益に貢献しているわけである。

確かに名誉や、誇りでは飯は食えないが、進歩的知識人やマスコミ関係者というのは、自ら額に汗して働いているわけではなく、無知蒙昧な日本の若者に他国に貢献することを教え、自らの政府には抵抗することだけを教え、秩序を破壊することだけを教え、売文や虚言で糊塗を得ているわけである。

名誉や誇りなど屁とも思っていないに違いない。

こういう大学で、こういう大学教授から、教育を受けた戦後第3世代、第4世代が今社会の中枢を占めているわけで、これでは日本が良くなる筈がない。

21世紀の日本がどうなるかといえば、これはただ単に有象無象の、人間の形をした、無国籍、無節操、無秩序で、曖昧模糊とした、つかみ所のない、形の見えない、人として本来の姿を露にした、動物の中の種としての人の集団でしかないと思う。

尚悪いことに、そういう野蛮な人間が文明の利器にかけては長けているので、昔のように野蛮といっているだけでは済まされないところである。

文明の利器を酷使する野蛮人というところが厄介な問題である。

その野蛮な部分を封じ込める方策がないことはない。

するとインテリーと称する他国の利益代表のような人が現れて「人権に関わるから駄目だ」と言い出すわけである。

だから野蛮さというものはますますエスカレートしてくるが、インテリーと称する人々は、自ら責任を負う事は回避して、それは「政府の責任だ」と責任転嫁するわけである。

大学では野蛮さを徹底的に煽っておいて、その野蛮さが頂点に達すると、それを政府の責任にして口を拭っているわけである。

これこそ外国の利益代表であって、日本弱体化の見事な推進者ではなかろうか。

目下、イラクの問題に隠れてあまり華々しくは語られていないが、年金の問題がある。

将来、少子化がこのまま進むと十分な年金を払いきれなくなるということか各界、各層で姦しいが、国は「年金を払わないものまで面倒を見る気はない」と簡単明瞭、あっさりと一刀両断すれば良いものと思う。

今、年金を支給されているものは、今まで一生懸命払い続けてきた果実を頂いているだけで、自分たちが払ってきたからこそ貰えるわけである。

払わなかったものまで支払う必要はない。

それと同じことで、事は単純明快であるが、ここで「貰えない人が可哀相だから何とかしよう」ということになるから話がややこしくなるのである。

「払っていないものはもらえない」と、一刀両断、単純明快に答えれば済むことである。払っていないものまで何とか救済しようとするから問題は大きくなるわけである。

「貰えない人が可哀相だ」というのは人情論としては良き事であるが、それも自分で蒔いた種である以上なんとも致し方ない。

払わなくても結果的に何らかの措置が行なわれるとすれば、真面目に払ってきた人はバカを見ることになるではないか。

今の若者がフリーターなどという安易な金稼ぎで、若いうちは糊塗をしのげてもそのうち年を取ってくると暗澹たる人生を向かえなければならなくなるのは火を見るより明らかである。しかし、それも自らの自己責任である。

そして今の若者の就職難も厳しい状況だと、マスコミは報道しているが、考えてみればこれも若者の世間知らずを自ずから暴露しているだけのことである。

この世の中に自分に適した職などというものが果たしてあるかどうか考えてみればいい。日本の戦後を支え、高度経済成長を下支えしてきた日本のサラリーマンのどれだけのものが、自分の職業を自分にとって適職だと考えていたであろうか。

恐らく大部分の人が自分にとって適職でないが、それでも尚、にもかかわらず、頑張って職務を遂行してきたのではないかと思う。

「自分にあった適職が見つからない」などという言い草は贅沢そのものである。

数ある中には、自分の適職を自分の手で勝ち取り、それを全うした人もいるに違いない。しかし、そんな人はほんの数えるほどしかいないものと思う。

後の大部分の人は「これは俺にとって適職ではない」と思いつつも、我慢して、石の上にも3年、3日3月3年というジンクスと戦いながら、職務を全うしてきたのではないかと想像する。

世の中というのは常に変化するもので、入社した時には自分の適職だと思ってみても、その後の社会の変化、企業内の変化、時勢の変化というもので、いつまでも同じ状態が続くとは考えられない。

肝心なことは、与えられた仕事は精一杯こなすという誠実さである。

職を得たとき、この心構えさえ持っていれば、如何なる変化があろうとも、誰かが何処かで見ていてくれて、何かの時には救いの手を差し伸べてくれるものと確信する。

今の日本に蔓延している雰囲気というのは、この精一杯努力すること、誠心誠意尽くすということ、忍耐とか、我慢するという、かっての日本には普通に存在していた価値観をあざ笑うことである。

何か壁に突き当たると、壁の方が悪くて、壁の存在を社会や、政府や、他人の所為にして、目の前の壁を自らの力で克服することを避けることである。

今は話題に上ることも少なくなったが、かって高校生の制服の問題が姦しかったとき、一般に知識人といわれるグループの人々は、生徒の自主性を尊重して、校則を課す事は非民主的だという論調を展開していた。

この問題で肝心なことは、こういう一見進歩的な人々が率先して校則というルールを守らなくてもいい、という論調を展開したという事実である。

生徒が入学する前から存在する規則を、一部の生徒が気に入らないからと、不服従でも構わないと、容認する態度が今日の世の中の混迷の根底に横たわっていると思う。

以前から存在する校則が気に入らなければ、自分の方が学校を変わればいいわけで、自分はその学校にいたいにもかかわらず、規則が気に入らないから規則の方を変えよ、という論理は目の前の壁の方が悪いという論調と同じだと思う。

その前に。校則などというものはその学校の在籍期間しか生徒を拘束するものではないので、わずか3年間ぐらい辛抱せよという論調が全く出ていなかったことである。

生徒の方の我儘を、大の大人が容認して、生徒の自主性を尊重せよとか、生徒の目線でものを考えよ、などと奇麗事を言っているからこういう妙なことになるわけである。

高校を卒業した生徒は、その後の人生で艱難辛苦が波のように押し寄せてくるわけで、そのたびごとに相手が悪い、自分を受け入れない方が悪い、社会が悪い、会社が悪い、世間が悪いといっていたら、人生そのものが成り立たないではないか。

大人は子供が高校生ぐらいのときに、我慢すること、辛抱すること、我を押さえ相手を理解するということを実践的に教え込まなければならないと思う。

高校に入学してきた生徒に、3年間ぐらい窮屈な校則であったとしても辛抱せよ、と何故教えないのであろう。

高校生のアルバイトにしろ、大学になってからのアルバイトにしろ、コンビニでアルバイトをしたり、ファ-スト・フード店でアルバイトをすれば、すぐに制服の着用という事が義務付けられるではないか。

そういうときの制服はいいが、学校の制服はいけない、という論理はやはり異常だと思う。この異常な現象を進歩的と称する人々が容認し、フォローし、結果として、今日の混迷を招いているわけである。

こういう現象をトータルとして眺めた場合、これこそ日本弱体化というアメリカをはじめとする世界各国の熱望が現実のものとなっているわけである。

世界から見て、一言文句を言えばざらざらと金の出てくる、打ち出の小槌のような日本というのはまことにありがたい存在だと思う。

いくら馬鹿にしても決して反撃せず、難題さえ吹っかければ、必ずそれをフォローする日本人が現れ内側から応援してくれる、こんなありがたい国に戦争を吹っかけて、潰してしまうのはいかにも惜しいと思っている国が数多くあるに違いない。

年寄りが若者を憂うという事は人類誕生のときから継続している人間の性ともいうべきことである。

人が歴史を作り始めた当初から、年よりは若者を憂い、嘆いているものらしい。

こういう嘆きが出てきたという事は、自分が年取った所為だといえる。

 

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