電蓄とステレオ  03.05・07

電蓄とステレオ

 

今の若い人に「電蓄」といってもわからないだろうなあ!

「電気蓄音機」といってもまだイメージが湧かないだろうなあ!

私が生まれた頃(昭和15年)、私の父はこれを自作したということだ。

私が物心付いて小学校に上がる頃はこれが2台も我が家にあった。

昭和初期のころ、電蓄を自作するということは大変なことではなかったかと思う。

今でいえば、コンピューター・グラフィックを酷使してアニメーション映画を作るような画期的なというか、斬新的なというか、先端技術の先頭を走るようなことではなかったかと思う。

父は当時の高等工業専門学校、今でいえば大学の工学部電気科を出ていたので、こういう知識があっても不思議ではないが、やはり自分で作ったという思い入れが強かったと見えて、度々の引越しにもそれをもって歩いたようだ。

それで、私が小学校に上がるころには、家の中には真空管やコンデンサー、バリコンなどという部品が転がっていたものだ。

この電蓄というのは外側のキャビネットが実に立派なもので、これも父が自分で作ったわけではなく、父が作ったのは中身の機械の部分であった。

しかし、今当時のことを振り返ってみても、昔の電蓄のキャビネットというのは実に立派な造作であった。

このころ、まだ戦後のどさくさが続いており、売春防止法もまだ施行されておらず、小牧の街中にも女郎屋が数軒かあって、その店先の暖簾の奥には必ずといっていいほどこの電蓄が鎮座していた。

女郎屋の意味も知らなかったころ、何故我が家と同じものがこういう店にあるのか不思議でならなかった。

電蓄は我が家に2台もあったが、今の言葉でいえばソフト、つまりレコード盤は数えるほどしかなかった。

父は電蓄は作っても音楽には全く興味がなく、わずかばかりのレコードといえば軍歌か少々の歌謡曲でしかなかった。

そしてレコードを入れる箱も、電蓄のキャビネットと較べると可哀相なぐらい貧弱な存在であった。

装飾のために表面に張ってあった布は沁みまるけで破れ、木地が丸見えという哀れなものであった。

それでも私が小学校の高学年になってくると、こういう家の中のものに興味をもちはじめ、その電蓄でレコードを掛けることを覚えた。

ところが、そのころ我が家の前が警察署であった。

いまのNTT小牧営業所(現在はまた違っているかもしれない)の前身は警察署になっていて、軍歌を掛けるとお巡りさんに連れていかれるという噂がまことしやかに囁かれていた。

父親の作った電蓄は、ボリュームを上げれば家が割れそうな大きな音も可能であったが、音量は最小限にしなければならなかった。

アームを少し動かすとターン・テーブルが回りだし、針を落とすとシャーシャーという

SPレコード独特の音がしだしたものである。

針は鉄の針を使っていた。竹の針というのは記憶にない。

ところがレコードが軍歌しかないものだから戦後の小学生にしては「月月火水木金金」とか、「見よ東海の空あけて・・・」とか、「男命を三筋の糸に・・・」とか、こんな歌を先に覚えてしまった。

こんなレコードを、お巡りさんに見つかるのではないかと、ひやひやしながら聞いたものである。

子供の情操教育という点ではこれほどめちゃめちゃな環境も他にないに違いない。

それから数年後、私も多感な時期を迎えると再び音楽というものに接したいという欲求が必然的に生まれ、レコード・コンサートというものに足繁く通うようになった。

通学や通勤で利用する電車の中で催事ものの広告を見て、レコード・コンサートがあるとそこに駆けつけたものである。

日本碍子という会社で臨時工をしていたころ、ここでは夜勤があったので実入りがかなり良かった。

それで当時発売されたばかりのステレオというものを買った。

当時、名鉄の小牧駅前に伊藤電気というかなり大きな家電店があった。

そこでステレオというものを買ったが、当時ステレオというのは左右の別々のスピーカーからそれぞれに音が出るという触れ込みで画期的な商品と思われていた。

父が自作した電蓄はあくまでも電気蓄音機であったが、このステレオというのは、それに較べれば確かに画期的であったが、私はそれよりもFMというものに興味を引かれた。

あのころ日本ではまだFM放送は実験段階で本放送はされていなかった。

電蓄は縦長であったが、このステレオは横長で、中央の上部にはレコード・プレーヤーが付いており、スピーカーは当然左右に、正面中央にはチュ−ナーの表示があったが、その真ん中にマジック・アイというものがあった。

これはFMが同調すると目の瞳孔がしぼむように、カメラのフォーカルプレン・シャッターがしぼむように、グリーンのインデイケーターが作動するというものであった。

デザインもあの当時としては斬新的なもので、私は自分の金で買ったという意味でも私の財産であった。それで床の間においていた。

その後、日本が高度経済成長の波に乗ると色々なタイプのステレオが出現してきたが、その主流はセパレート型のものとなった。

時代がここまで来ると、もう音楽を奏でる機械というものが家具調のものから機能一点張りのものと変わり、家具の延長としてこれ見よがしの風格は失われてきた。

それが良い事なのか悪い事なのかはわからないが、私が推測するところ、人々の欲求がそういう方向を向いていたのではないかと思う。

この時代の住環境を見ると、電蓄なり一体型のステレオを置く様なスペースが、都会に住む個人の家ではなかったわけで、そういう需要の変化に伴ってステレオもセパレート化したものと思う。

この時代は既にレコードはLPの時代になっていた。

それでこれを買ったとき、店ではLPを1枚おまけにつけてくれた。

この店はレコードも売っていたので、そのLPの中から「好きなものを取れ」という感じで、おまけにしてくれたものと思うが、この時私が選んだのがエルビス・プレスリーのものであった。

その次に自分で金を出して買ったのがタンゴのレコードで、この頃まだ私自身音楽に対する趣向というものが固まっていなかったみたいだ。

その次には映画音楽だったりして、自分の中で「これだ!」という方向が定まっていなかったに違いない。

私も父もやはり根が貧乏人だから、ハードには金を掛けても、ソフトに金を掛けるということがどうしても出来なかったみたいだ。

私も音楽が好きなわりには、マニアといわれる人のようにはソフトに金を掛けることに躊躇してしまう。

だから何事も尻切れトンボに終わってしまうわけで、趣味に徹するということは、大きな犠牲を伴うわけで、そのことを思うと私などはとてもその犠牲を払う勇気がない。

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