新聞を読んで  03・12・01

イラクの復興支援に寄せて

 

安易なアメリカ批判

 

2003年(平成15年)の11月の29日、30日というのは日本にとって最悪の日であったようだ。

29日の疫病神は日本のロケットH2の失敗であり、30日の疫病神というのはいうまでもなくイラクで復興支援に当たっていた日本人外交官2人の殺害事件である。

私ごとき凡人の個人的な意見からすれば、日本がイラクの復興に手を貸す必要など全くないと思う。

それと関連して、もう少し推し測って考えてみれば、アメリカもサダム・フセインを放置した今、イラクに駐留する必要はないと思う。

アメリカもさっさとイラクから軍隊を引き上げてしまえば良いと思う。

イラクなど皆が見放して、自分たちでいくらでも殺し合いをさせておけばいいと思う。

アメリカがバクダットに攻め入って、サダム・フセインが遁走したとき、そこの博物館に大挙して押入って略奪をほしい侭にしたのは彼らイラクの人々であったではないか。

この状況から、イラクの治安が悪化しているとさんざん言われ、それはさもアメリカが悪いというような言い方でなされたが、どうしてこのような論理のすり替えが平然と行なわれていたのであろう。

サダム・フセインが遁走した後で略奪が横行したのはイラク人の責任以外の何物でもない。

イラクの治安が悪いのはすべからくイラク人の責任のはずなのに何故アメリカにその矛先を向けるのは不思議でならない。

アメリカが国連決議のないままことを進めたことと、イラクの治安の悪化とはなんら関連はないはずである。

サダム・フセインの残党が今日に及んでも抵抗を続けているのは、すべからくイラク人の責任である。

サダム・フセインが人々を抑圧していたとして、その抑圧から人々を解放したのはアメリカであったわけで、抑圧から開放された以上、サダム・フセインの残党狩りはイラク人自らの責任ですべきである。

それが出来なかったから、サダム・フセインが長年にわたって独裁をほしいままにしてきたではないか。

自ら自立のできないような民族なら、他からいくら手を差し伸べても効果の出るはずがないではないか。

ところがそうは行かないところが人類の抱えた大矛盾なわけで、アメリカにしてみれば、イラクを放置しておけば何時またあの9・11事件のようなテロがアメリカ国内で起きるか判らないという不安が付きまとっているわけである。

日本だとて、日米関係にひびが入ったら、北朝鮮が何か仕掛けてきたとき、対処の仕様がないという不安を抱えているわけである。

こういう目の前の現実というのは、私ほどの無教養、学識の無い、阿呆な人間でも日ごろのテレビや新聞を読んでいれば必然的に理解できる。

アメリカ大統領はアメリカ国民をテロの恐怖から守ることが付託されているし、日本の総理大臣も日本国民に対して同じように国民を守る責務がある。

イラク戦争を語るとき、大方の人は、アメリカが一国中心主義で、国連の決議を無視してまで独断専横するからいけないといっているが、ならば国連がアメリカ国民の安全のためにアルカイダなりイラクのフセインなりを説得できたかといえば、それも出来ていないわけである。

アメリカはアメリカの国民を守るのに国連の顔色を伺う必要はないわけで、「ゴーイング・マイ・ウエイ」で行けるだけのパワーを持っているのである。

「日本はアメリカに追従するのみで自主性がない」よく言われているが、そう言う人々は、グローバルな視点からこの21世紀の地球の現実を直視したとき、日本単独でこの生き馬の目を抜くような世界に存在しえると思っているのであろうか。

アメリカに追従するのはいけないが、相手が中国ならば、その言う事を素直に聴いても良いということだろうか。

確かに今回のイラク戦争ではアメリカは国連決議を無視して一国中心主義で押し通したが、それは国連の八方美人的な思考が災いし、国連はアメリカのための国連ではないわけで、イラクが国連を舐めてかかり、国連のいうことを歯牙にも掛けなかったからであった。

大量破壊兵器の隠匿が何時までたっても明らかにされなかったからに他ならない。

その上に、フランスとかドイツ、ロシアというのはイラクに利権を持っているわけで、そうやすやすとはイラク攻撃に賛成できなかったわけで、こんなことは私程度の人間でも日々のニュースに接していれば推察できることである。

それと国連、国連と云ってもアメリカ抜きの国連というのはありえない。

国連といえば日本が一番供出金を出しているのだから、本来ならば日本が一番発言権を持ってもいいが、未だに敵国条項が生きているというではないか。

国連といえども正義の騎士ではないわけで、利権と利権が輻輳したガラスの城である。

国連改革も叫ばれてからかなり久しいが、一向に改まる様子も見えない。

そういう国連の決議に従わないアメリカはけしからんという発想は反米感情そのものといわなければならない。

反米感情はそれはそれで致し方ない。

ならば日本がアメリカに追従することなく、この地球上で自分の位置を確保する、自分の居場所を確保するには如何なる手法があるのかと自問したとき、どんな答えがあるのであろう。

 

リスクからの逃避

 

物事には因果応報ということがある。

イラク戦争の根源は、あの9・11事件にあることには異論がないと思うが、その報復としてアメリカがイラクを攻撃することを非難する人々の奥底には、イラクのサダム・フセインがテロ集団をかくまい、大量破壊兵器でアメリカを攻撃するかもしれない、という疑惑をどう説明するつもりなのであろう。

それが疑惑である以上確かなことはわからないわけで、我々日本人の感覚すれば、確かかどうかもわからないのに攻撃することはひどい、という論法になるが、ならば被害が出るまで待っておれ、ということになるが、被害が出てからでは元も子もないわけである。

アメリカ国民の生命財産を付託された大統領が、国民に被害出るまで待っているわけには行かないと思う。

アメリカがイラクを攻撃し、サダム・フセインがどこかに隠れてしまった以降、イラク各地で起きているアメリカに対するテロに対して、そういう人々は「テロは止めなさい、自分たちの国を自分たちで早く作りなさい」と何故言わないのか。

アメリカが占領しているからテロも仕方がないでは済まされないではないか。

イラクの新国家がアメリカ主導で、アメリカにリードされ、親米政権になりそうだから、その反発でテロが起きているというのは素人目にも推察できるが、アメリカにしてみれば、折角武力で壊滅させてもまたまたサダム・フセインのような人物が政権をとってもらっては何にもならないわけで、当然、親米政権を作りたく思うのが自然である。

このイラクにおけるアメリカ主導というものが、国連主導になればテロは少なくなるというのは、あまりにも楽観論過ぎると思う。

アメリカができないことを何故力の更に弱い国連がなしうるかと言いたい。

こういう状況下でも我々の同胞がその最前線で活躍していたというのは本当に素晴らしいことだと思う。

それにつけても、見境もなく人を殺傷するイラクのテロというのは憎むべきことであるが、だからと云って、危険だからというわけで誰一人日本人を行かないでは済まないと思う。外交官だとてやられるのだから自衛隊ならばもっと顕著な目標になることは行く前から予想されるが、だからと云って出さないわけには行かないだろうと思う。

今回はアメリカから強要されたから出すという側面があったにしても、今日の国際関係の中から考えれば、アメリカから強要されなくとも何らかのアクションは取らざるを得ないだろうと思う。

「危険なところだから出す必要がない」というのはあまりにも一国平和主義だし、唯我独尊的な個人主義だと思う。

イラクなどに人を派遣したくないのは、なにも我々日本人だけではなく、あらゆる主権国家はみなそう思っているに違いない。

当のアメリカだとてそう思っているに違いない。

しかし、誰かが行かなければならない、誰かを出さなければならない、というのが今日の状況だろうと思う。

冒頭に記述したように、この文章を書いている私本人でさえ、イラクに人を派遣する必要はないと思っているが、それで済めばこれほど有り難いことも他にない。

この問題に関し11月30日の朝日新聞、13面のオピニオンのページには、この事件に関連して自衛隊を派遣すべきかどうかで三人の意見が掲載されていた。

元経済企画庁長官 田中秀征、神戸大学教授 五百旗頭 真、外務省顧問 栗山尚一の3名が夫々にコメントをよせているが、前二人は「この際自衛隊の派遣は見合わせよ」という意見である。

外務省の顧問栗山氏のみが「それでも行かざるを得ない」という意見である。

私の個人的な感想からは、外務省顧問のいうことなどあまり信じたくないが、この場合は前の二人が日和見というよりも「自分さえよければ後は野となれ山となれ」式の個人主義というか、一国平和主義というか、極めて戦後の日本人的な発想に陥っていると思うので、外務省顧問の栗山氏の論旨が極めて正論だと思う。

此処で問題なのは、日本人の中の知識人といわれる人々が、「今のイラクは危険だから自衛隊を出すべきではない」という意見を堂々と述べて、それを天下の朝日新聞がこれまた堂々とオピニオンのページに掲載しているとい事実である。

「今のイラクが危険だから自衛隊を出すべきではない」と思っているのは、この文章を書いている本人をはじめ、世間の一般の人々、いわゆる庶民という大衆の認識では誰もがそう思っているに違いない。

スーパーのレジを打っているパートのおばさんから、床屋の兄さんから、宅配便の運転手から、ホームレスのオッサンまで、殆どの人が「今自衛隊を出せば怪我人が出る」と思っていると思う。

「だから止めとけ」と大衆の言う事と全く同じ事を言っていては、知識人として意味を成していないではないか。

大衆の思っていること、一般庶民が考えていることと全く同じことを、こ難しい言い回しや、難解な単語でいくら飾り立てたところで思考の進歩はありえない。

民主主義というのは、その根源のところに最大多数の最大幸福ということがあることは理解しているが、不特定多数の意見が正しいという保証はどこにもないわけで、少なくとも高等教育を受けた知識人が大衆と同じレベルの発想をして、それを見識として新聞に掲載していては学識、教養というのは一体ナンなのだと言いたい。

今、イラクに自衛隊が行けば一人や二人の犠牲者が出るのは致し方ない、というのは誰の目にも明らかなことだと思う。

小泉総理も管直人も土井たか子も、頭の中では同じことに思い描いていると思う。

小泉総理は国の舵取りとして、それでも尚出さねばならない立場であり、管直人も土井たか子も、腹の中では自衛隊に犠牲者が出れば現政権をより揺さぶるに有利だと、内心喜んでいるに違いない。

こういう状況下で教養人とか、知的エリート、乃至は知識人というのは、「そういう危険を犯しても尚アメリカと協力してイラクの復興支援をしなければならない」という大命題を、庶民、一般大衆、草の根の人々に対して説明し、啓発し、啓蒙するのがそれまで受けてきた高等教育の成果ではないかと思う。

味噌も糞も一緒になって大合唱すれば、それが正義だというのは思い違いもはなはだしいと思う。

「危険だから自衛隊を出すな」では子供の論理であり、棺桶に足を突っ込んだ年寄りの引っ込み思案の発想であり、教養も知性も全く必要としない、ありきたりの、どこにでも転がっているような意見ではないか。

民主主義というものが最大多数の最大幸福を追求するものだとしたら、それを追及する過程で、リスクを背負わなければならない時と場合がある、ということも併せて言うべきだと思う。

一般的にいかにも建設的に、日本国民の全体の幸福を追求しているかごときの意見を固持することが、往々にして一国平和主義に陥っていたり、唯我独尊的な個人主義に陥っていたりするわけで、30日の朝日新聞の三人のコメントのうち二人はその類の論調であった。

 

無責任な放言

 

人間の集団では好むと好まざると統治するものとされるものという対立する構図は避けられない。

統治するものに対してそれを批判するという事はある種の快感を伴うが、高等教育を受けた人たちが、その快感に酔っていてはいけないと思う。

このイラクの問題に関していえば、自衛隊など出さない方が我々日本人のとってはどれほど良いか判らないが、それでは一般大衆の考えていることと同じなわけで、知識人としての意味を成さないわけである。

知識人ならば、逆に出さなかった場合、我々はどういう境遇に陥るか、ということを無知蒙昧で高等教育を受けていない一般大衆に対して説明する義務があると思う。

それが高等教育を受けた人の責務だと思う。

統治する側を批判するだけでは、折角身につけた高等教育や知性、教養がさび付いてしまうのではないかと思う。

統治する側に迎合するという事は決して恥ずかしいことではないと思う。

確かに統治する側も人間である以上失敗もするだろうけれど、統治する側が失敗しないようにフォローするのも知識人の責務だと思うし、統治する側が失敗するかもしれないからあえて批判しているという論理も成り立つが、何時もいつもそれだけでは進歩はないと思う。

今の地球、21世紀の地球というのは完全にグローバル化しており、情報は千路に乱れ飛んでいるわけである。

自分の国では兵器も作れない未開人が、ロケット弾を縦横に使いこなしている現状である。テロでしか戦争できないような未開人が、インターネットで情報を収集し、犯行声明を送る届ける時代である。

アフガニスタンでもイラクでも、こういうテロ集団だけをその地に押し留めておく術がないわけである。

なまじ正規の戦争すら行う体制を持たないが故に、テロに走っているわけで、だからこそ普通の主権国家はなおさら困惑しているわけである。

そういう現状を知識人といわれる人々はもっともっと国民に説明する必要があると思う。 今の日本が、アメリカに追従する以外の道があるのか、その他の選択がありうるのかどうか、アメリカの言に従いつつ、国連と云う枠組みの中でしか動きの取れない我が国の状況と云うものを説明する必要があると思う。

アメリカの国益が、そのまま日本の国益にも繋がっている、という現実を語る必要があると思う。

いずれにしても批判する側というのは無責任なわけで、政権を握っている側というのは、結果責任を負わされていることは紛れもない事実である。

私は政府の回し者でもないし、政府から金を貰っているわけでもないが、あまりにも日本の知識人の発言というのが無責任で、自分は第三者的な傍観者として、口先の奇麗事だけを並べているように思えてならないからこういう反論となるわけである。

口先で奇麗事だけを並べていては、売文業の域をいささかも出るものではないし、それでは日本の先行きがますます怪しくなると思う。

この飽食の日本では、もう他者のために身を捧げると言う古典的な美徳が失われてしまっている。

人の命が大事なことはいうまでもない。

何も大学教授や進歩的文化人だけの専売特許ではなく、それこそスーパーのレジから八百屋のオッサンから上野公園のホームレスまで皆一様にそのことは認識している。

けれども我々にはそれをも乗り越えて行かねばならない時と場合ある、ということを説くことも大事なことだと思う。

命を失うような危険なところには誰も行きたがらないのは当然である。

だから「そんな所に人を送ることはやめておけ」というのならば何も進歩はないわけで、完全なる一国平和主義であり、唯我独尊的個人主義であり、他から尊敬されないのは当然のことである。

尊敬されなくても、いくら蔑まれても良いと云うのも、人としての行き方ではあるが、それでは生きた人間としてあまりにも情けないではないか。

生ける屍と同じで、生きている意味がないではないか。

「危険なところに人をやるな」というのならば誰でも言えるし、誰でもが言っているわけである。

問題は、日本の学識経験者といわれるような人々が、高等教育を受けた人々が、大衆と同じレベルのことをさも立派な意見かのようにいうところにある。

日本の知識人といわれる人々が、衆愚の側に身を置いて、オピニオンを語ってはならないと思う。

危険とわかっているところにも尚行かねばならない使命について説くべきだと思う。

「皆が止めとけと言うから止めました」で済むものならばこんな有り難いことはないと思う。

日本のマスコミや、日本の知識人というのは、結果の責任を問われないから、無責任きわまる論調をいくらでも展開できるが、小泉首相にしてみれば、それでは済まされないわけで、いくら人から言われようとアメリカ追従にならざるを得ないわけである。

 

臆病な政治家

 

12月2日の朝日新聞の同じオピニオンのぺージには、元総理の宮沢喜一氏の対談が乗っていたが、彼の場合はやはり現実の統治する側にいた人間として、イラクに人を送る意義については我々の認識から逸脱するものではない。

危険は承知であるが人を送らねばならないという本旨は理解している。

ところが彼の場合は憲法問題がネックになっており、憲法の枠ということが彼の思考の足枷になっている。

宮沢氏が保守陣営の中でも強烈な護憲派であるという事は妙なつながりだと思う。

憲法に関する限り、土井たか子と同じ視点に立っているところが不思議でならない。

彼のように先の戦争を身を持って体験した世代というのが、かたくなに護憲派を貫いているのも不思議なことだと思うが、それほど先の戦争が彼らの心に大きなインパクトを与えたということだと思う。

その反動として、それが「戦争はすべきでない」という信念のよりどころとなっていることは理解し得るが、自己防衛の気概まで駄目だ、という論拠にはならないと思う。

宮沢喜一氏はサンフランシスコ講和条約にも随員として同行した経歴を持っているはずであるが、この時の日本とアメリカの格差に度肝を抜かれて、もう力の行使は無意味だと悟ったのかもしれない。

またそれと同時に、今後の日本の国の守りもアメリカに任せれば済むと思ったのかもしれない。

ところが日本独立以降の日本の在り方というのは、サンフランシスコ講和条約締結のときと雲泥の差となってしまったわけで、日本はアメリカにつぐ経済大国になってしまったわけである。

アメリカと経済の面で互角になってしまった日本を見れば、アメリカだとて、何時までも庇護することは重荷になるばかりで、アホらしくなるのは当然である。

そういう状況になれば、当然、終戦、敗戦のときに押し付けられた日本国憲法を見直すのが普通の主権の行使だと思う。

憲法を時代状況に即したものに合わせるという事が、そのまま戦争に繋がる道ではない筈である。

ところが、それをすると戦争に繋がるというのが、いわゆる護憲派という人々の発想である。

日本が戦争に負けて無一文のとき、占領軍の圧力の下で押し付けがましく成立した日本国憲法が、今日の世界状況、今日の日本の立場にとって、不適合な部分が多々存在するのは当然の成り行きである。

それを今日的な状況に合わせると何故に戦争に繋がるのかと言いたい。

当然、第9条にも触らざるを得ないが、「日本は今後とも侵略戦争はいたしません」と云うメッセージをそこに入れることも可能なわけで、それをも否定するという事は一体どういうことなのであろう。

それでいてアメリカ追従は駄目だというが、今の日本国憲法がある限りアメリカ追従以外の選択を取りようがないではないか。

宮沢喜一、中曽根康弘、後藤田靖男といういわゆる戦前派と言われる人々は非常に臆病で、「熱さに懲りて膾を吹く」といった観を免れない。

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