日本と日本人その3  03・11・25

日本と日本人・その3

貧富の差の起源

 

19世紀から21世紀の日本及び地球規模において世界のことに思いをめぐらそうとするとどうしても共産主義と言うものを抜きには考えられない。

それで共産主義というものは一体何なのか、ということを改めて考え直さなければならない。

この様な時、凡人として一番手っ取り早い行動は、広辞苑を牽いてみることである。

で、それをやってみた。

広辞苑のいうところによると、

1、私有財産の否定と共有財産制の実現によって貧富の差をなくそうとする思想、運動。古くはプラトンなどにも見られるが、現在は主としてマルクス・エンゲルスによって体系付けられた科学的社会主義を指す。

2、プロレタリア革命を通じて実現される生産手段の社会的所有に立脚する社会体制

イ、その第1段階は、社会主義とも呼ばれ、生産力の発達程度があまり高くないため、社会の成員はその能力に応じた労働をし、その労働に応じた分配を受ける。

ロ、生産力が高度に発達し、各成員は能力に応じて生産し、必要に応じて分配を受ける段階。

この「広辞苑」の解説を読んで初めて、私はマルクスの「共産党宣言」の最初の出だしを理解した。

マルクスは1847年に「共産党宣言」を著したとき、その最初の出だして「ヨーロッパには共産主義と云う亡霊がいる」と書いている、その真意を初めて理解することが出来た。

要するに、共産主義という考え方は、ギリシャの哲学者プラトンの時代から既に存在していたわけである。

そのことをもう一歩深く考えてみると、プラトンの時代から人間の織り成す集団、つまり人間社会には貧富の差というものが存在し、それを是正しようという発想があったものと解釈していいと思う。

人類の誕生にまで遡ってみれば、人が類人猿から分離進化したのは、人という生き物は類人猿よりも脳が大きく、考えるという作業をするからであったと思う。

類人猿でも日々の生活の中で全く考えていないというわけではないはずであるが、我々人類はより多く考え、その考えた事を実践する勇気があったから、類人猿とは別の発達の段階を踏んできたものを想像する。

類人猿よりも大きな脳で考えたことといえば、やはり種の保存ということであったと思う。つまり平たく言えば、自分たちの末裔が子々孫々生きながらえる手段と方法に知恵を絞ったものと想像する。

その具体的な手法ないし手段というものは、自らのファミリーの安泰を願うことではなかったかと思う。

具体的には食料の確保とその保存方法ではなかったかと想像する。

類人猿のように行き当たりばったりと森の中をさ迷い歩い食料を捜し求めるのではなく、常に食を確保し、それによって自らのファミリーを安心させるように脳を働かせたのではないかと思う。

行き当たりばったりに、食料を探すよりも、農耕ということで常に恒常的に食料を得、それを保存することによって、自らのファミリーに安定的な生活が維持できるように脳と知恵を働かせたに違いない。

類人猿から分離発達した我々の先祖は、地球規模で見た場合、この地球上で別々の場所で分散して存在していたが、その最小単位であるファミリーは、同属同士で寄り集まって、ある程度の群れを作って生息していたのではないかと思う。

群れを作らないことには子供さえも出来ないわけで、我々の祖先もロビンソン。クルーソーのように全く孤独であったわけではないと思う。

つまり、個の集団として複数のものが集合して、ある小さなグループとして存在していたものと想像する。

人間が複数、集合体として存在しているとすれば、当然その集団の中ではリーダー・シップをとる人間が必然的に生じてくると思う。

類人猿でも、またその他の動物でも、群れを作る動物にはその現象は見られるわけで、グループというものがあれば、そこには必ずリーダーというものが必要になってくると思う。そのリーダーというのは考えることによって、群れ全体のことを管理運営する知恵と経験をつけてくると思う。

しかし、考えるという作業はリーダーだけではなく、個々の構成員の一人一人も同じように考える能力と知恵を持っているはずである。

個々の構成員が考えることは、まず第一に自らのファミリーの安全だと思う。

群れのリーダーに要求されることは、群れ全体の安全であって、それを考える事のできるものが必然的に群れの信頼を得てリーダーとして地位を確保できているものと想像する。群れの構成員の中からも、当然、現リーダーの考えることに反対の考えを持つものがいるのも極普通のことで、その時は政権交代が必然的に浮き上がってくるわけである。

人類が、行き当たりばったりで食料を探す事から開放されたいとする考えが農耕の発達を促し、リーダーの考え方に依拠して、自分はそのことから開放されたいという構図から、統治という支配体系が生まれてきたのではないかと思う。

類人猿から分離、そして進化した人類が、自らのファミリーの安全と安寧を願うことから既に人間というのはその基本的な脳の働きをフルに活用していたわけである。

「人間は考える葦」であると言ったのもプラトンではなかったかと思うが、人間は考えることによって、自らのファミリーの安全と安寧を確保しようとしたが、そのことがそもそも今の人類の不幸の元になっていることに誰一人気がついていない。

類人猿から進化した人類は、最初は自らのファミリーの安全と安寧のことだけを考えていた。

しかし、AのファミリーとBのファミリー、Cのファミリーでは考え方の差異があるわけで、その考え方の差異が結果として現代的な用語で言えば貧富の差となって現れたものと思う。

自らのファミリーの安定と安寧ということは、食料の確保が確立していなければ駄目だし、隣人との確執があっても駄目だし、そのことを考えると自らがリーダーとなって群れ全体の安定と安寧を考えなければならないと、考える者が現れても不思議ではない。

自らのファミリーの安定と安寧を考えることが、結果として貧富の差となって現れ、群れ全体の安定と安寧を考えることが、統治するものとされるものという支配体制となって具現化したものと思う。

貧富の差というのは人間の群れの中では必然的に生まれてくるものだと思う。

それもこれも人間が「考える葦」であるが故の帰結で、人間というものがあらゆる動物の中で極めて大きな頭脳を持っている限り、人間としての群れの中では、必然的に生じてくる現象だと思う。

またあらゆる生き物の中で人間と云う霊長類にしかない現象だと思う。

我々、人類の中で、この貧富の差というものがギリシャ味代のプラトンの時代から今日まで、永遠の課題として語り継がれてきたという現実を、我々は真摯に受け止めなければならないと思う。

 

理想を追う欺瞞

 

人間の集団の中で、富めるものが生まれるという事は、その人が自らの頭脳と自らの知恵で身の処し方を考えたからである。

富めなかったものは、その人の考え方が時流に便乗できなかったかわけで、「如何にしたら時流に便乗できるか」という考え方が不十分であったか、適合していなかったわけである。どんな時代においても、富めるものは自らが富む方向に考え方を収斂させているわけで、富を維持するため、豊な生活を末永く維持するために、それこそ死にもの狂いで考え、知恵を絞り切っているわけである。

「貧富の差を是正しなければならない」というのは敗者の負け惜しみに過ぎない。

この負け惜しみというのも、人間が「考える葦」であるが故の産物で、人間が考えるということをしなければ負け惜しみというものも存在しないわけある。

物事をこうも赤裸々に語るという事は、知識のある人では恥ずかしくて言えないわけで、知識のある人は奇麗な言葉で、人を傷付けない、格好の良い言葉で、婉曲な言い回しで、表現しようとするから、判ったような判らないことになるわけである。

人間としての個人の集合した人の群れには、必然的に貧富の差と、統治するものとされるものという階級制度というのは生じ、それは自然の摂理であり、人間のもっとも基本的な自然の姿であり、だからこそ霊長類といわれる所以だと思う。

それだからこそ、社会的な生き物といわれる所以だと思う。

貧富の差を是正するという事は、いわば人類誕生以来の人類の願望であったかもしれないが、それは人間そのものを否定しなければならないことになる。

類人猿から進化した最初の人間が、自分のファミリーの食料の確保に知恵を働かせて以来、その方法は千差万別であったに違いない。

同じように考え、同じよう知恵を絞ったとしても、結果には大きな違いが生まれたわけで、それは同じように考え、同じように知恵をしぼった様に見えても、どこかで何かが違っていたわけである。

この違いが貧富の差の源泉ではないかと思う。

もっとも有効的かつ効率的な考え方をしたものがもっとも効果を上げ、手際よく食料を確保することが出来、余剰農産物として、それを他のファミリーや隣人に融通することで、周囲の人々を支配する手段を得ていったものと考える。

貧富の差の原点には、考え方の差そのものがあるものと思う。

共産主義というのは、その差そのものを否定して、この世の人々は皆平等で、人たるものは百人百様であってはならないというわけである。

人の考えは千差万別であってはならないと説くわけである。

万人が浦島太郎の物語に出てくる竜宮城や、千夜一夜物語に出てくるハーレムのような世界を夢見ているわけである。

貧富の差の無い、言いかえれば、皆が裕福な生活をするユートピアを作らねば、という馬鹿げた幻想を現実のものにしなければならないと思っているわけである。

そういう夢の実現に現を抜かして、それを実践するという事は、過去にもあったので、それがそのまま存在し続ければ、今の世の中というのはもっともっと住みやすいものになっていたに違いない。

人間の歴史というのは、そういうことを夢見つつ、現実はそうなっていないことを示しているわけである。

それは、人は「考える葦」であって、この「考える」ということは一人一人の人間が、夫々に自分勝手に考えているわけで、この人間が自分の脳で考えるということが科学ではないからである。

科学というのは完全に真理でもって構成されている。

水というのはアメリカの水も、イラクの水も、中国の水も、日本の水も水素原子2個と酸素原子1個からなっている。

三角形の内角の和は180度である、というのはアフガニスタンでも、イランでも、エジプトでも、ブラジルでも全く変わることの無い真理である。

真理というものは、地球規模で見て、完全に真理であり、真実であり、間違いはない。

ところが人間が脳で物事を考えるということは、科学ではないわけで、一人一人が全く違う事を考えている。

類人猿から進化した初歩の人類だとて、父親の考えていることと、母親の考えていることは違っているわけで、それをそのまま実践すればファミリーがバラバラになってしまうので、そのような場合はどちらか力の強い方が自己の考えを他者に押し付けて、そこには必然的に支配と被支配、言いかえれば服従という関係が成り立っているのである。

人間が自分の持っている脳、脳髄で物事を考えるという事は、純粋科学ではなく、人文科学である。

人間の脳髄を解剖したり、脳外科で手術をするという行為は、完全に科学的な行為であるが、その脳髄が如何なることを考えるのかということに関していえば、それはコンピューターに例えればソフト・ウエアーの領域で、科学としてのハード・ウエアーとは全く別のことになるわけである。

類人猿から進化した人類も、最初のうちは個のファミリーとして、ファミリーの安定と安寧を維持するために物事を考えていたことと思う。

その考えた結果として、個々のファミリーが勝手気侭な事をしていては自分たちのファミリーに安定と安寧を確保できないという結論に達し、似たようなものが群れとして集合した方がベターだという結論に達したものと思う。

最初の人類が群れを作ったとすれば、それは社会の構成ということになると思う。

社会というものが一旦出来上がると、それはもう個々のファミリーはロビンソン・クルーソーではなくなるわけで、誰かをリーダーに仕立て、リーダーの下で群れ全体の安定と安寧を維持するという発想に至らざるを得ないわけである。

群れ全体の安定と安寧と追及する過程では、当然、個々のファミリーにとっては不利益、つまり群れ全体の利益のためには個の方が抑制されたり、犠牲を強いられたりして、個人にとっては不利益なことや、妥協しなければならない状況が必然的に生じてくると思う。この場合でも、群れ全体から見れば、それを構成している人々は夫々に物事を考えているわけである。

誰をリーダーにしたら自分たちにとって有利かということや、あいつがリーダーになるならば、俺がなったほうがましだとか、様々なことを考えていると思う。

そこが類人猿と違うからこそ、人類といわれているわけである。

原始人類の時代から、既に貧富の差、階級支配というものは存在していたわけで、これを全面否定して、皆が平等に、豊な生活を追求しようなどと云う、共産主義の発想は人類誕生と同時にあったものと考えても良いと思う。

考えてみれば、人類というのは不老長寿の薬を追い求めておりながら、それは未だに実現できていないわけで、それと同じことで、皆が平等で豊な生活をというのは、人類誕生と共にあった考え方とみなしてもいいのではないかと思う。

そういう状況に気がついたマルクスが「共産党宣言」で「ヨーロッパには共産主義と云う亡霊が徘徊している」と述べたものと想像する。

人類の歴史の中で19世紀以降、共産主義というものが忌み嫌われたのは、この考え方を信奉するグループが、革命という名の下に、人殺しを容認していたからだと思う。

皆が平等で豊な社会を築こうと言いながら、そのためには現在の支配者や、金持ちは殺しても構わない、ということを公言してはばからない限り、現行の為政者からは弾圧されても致し方ない。

皆が平等で豊なと言いながら、金持ちや地主は殺しても構わない、という発想には大きな矛盾が最初から内包していたにもかかわらず、目的遂行のためにその矛盾には意識的に無視し続けたわけである。

皆が平等で豊な社会を作る、という絵に書いた餅を追いかけるのに、人を殺しても構わないという発想は、完全に人類そのものを甘くみている証拠で、人を人とも思っていないということを如実に表していると思う。

 

断絶の昭和初期

 

明治維新以降、日本の近代化が西洋列強に追いつけ追い越せという暗黙の国家目的に沿った形で進行しているとき、この共産主義と云うものの考え方も、それに付随して日本にやってきた。

自由民権運動がデモクラシーの普及という形で根付こうとしたとき、共産主義もコミニズムと云う形態で、同じように日本に伝わってきたわけである。

しかし、革命のためには人殺しも容認するというような考え方が、素直に民衆と云うか、大衆と云うか、一般の人々に受け入れられる筈が無いではないか。

皆が平等で豊な社会を作る、と言いながらその一方で金持ちや富豪や財閥のような人は殺しても構わない、という考え方を為政者の側で容認するわけが無いではないか。

近代化以前の日本の大衆だとて、いつかは太閤秀吉のような立身出世を夢見つつ、苦しい生活を頑張っているのに、それが成就したあかつきには、労働者階級に殺されてしまうような社会を望むわけが無いではないか。

プロレタリアートならば金持ちを殺しても良い、革命のためならば邪魔者は殺しても良い、という発想が普通のモラルに依拠している、普通の国民を納得させることは全く出来ないわけで、普通の国民というのはやはり既存のモラルの中でしか物事を考えられないわけである。

だから共産主義というものが日本でひろがり始めると、間髪をいれず、治安維持法という対抗措置がとられたわけである。

今日、治安維持法は「極めてまれな悪法だ」との認識が普遍化しているが、法律というものは為政者や国会議員が趣味や道楽で作っているわけではない。

一般国民の欲求があるからこそ、法案という形で、その欲求に答えているわけである。

法律というものは、その時代やその状況に応じて、それに対処すべく伝統の宝刀として作られるわけである。

ねずみ講の被害者が増えたからその防止法案が出来、公害の被害者が大勢出たから公害防止の法案が出来ると云うように、法案というのは時代状況に合わせて、国会議員が国民の欲求に応える形で作られるものである。

治安維持法がいくら悪名高いからと云っても、その成立の当時においては、国民の欲求があったわけだし、国民の負託に応える形で出来たわけである。

ロシア革命が1917年、日本の年号では大正6年の出来事である。

ロシアではこのマルクスが著した「共産党宣言」をそのまま実践してしまったわけである。革命がおき、その革命が成功したという事実から見れば、それまで政権が如何に腐敗堕落していたのか、ということと表裏一体だと思う。

それは中国についても同じ事がいえると思う。

それまでの政権がしっかりしておれば、決して革命などというのが成功するはずがない。人類というのは一度得た栄達を未来永劫維持できるものではない。

新しい指導者が新しい統一国家を作って、それが徐々に発展して、頂点を過ぎると、今度は下降線を辿って衰弱の方向に向かう、というのは世の習いである。

その立ち上がりから終焉までの間隔が何年間であったのかで歴史の評価が左右されるわけで、基本的に統一国家というのはサイン・カーブを描いて栄華盛衰を繰り返すわけである。その屈折点がロシア革命であり、中華人民共和国の誕生であったわけである。

これを我々の日本に当てはめてみると、近代日本の出発点はいうまでもなく明治維新とすることに異論を差し挟む人はいないと思う。

ならば終焉をどの時点にするかと云う点では、色々と意見の相違があると思う。

大方の人は、大東亜戦争の終焉が日本の終焉であったと言いたいだろうが、そうすると、その後の昭和の後半と平成に入ってからの時代をどう説明するのであろう。

私の個人的な考えでは、近代日本の終焉はまだ来ていないと思う。

確かに、昭和20年の終戦というのは、我々にとっては忘れられないショッキングなエポックであったことは否めないが、それ以降の日本のあり方というのは、近代日本があれで消滅し、別の新たなる日本が誕生したとは言い切れないと思う。

確かに昭和20年、1945年の敗戦というのは、日本が外圧に屈して政府首脳陣の総入れ替えを余儀なくさせられてことは否めない。

しかし、これは我々の民族の内なるパワーに依拠した、民族の内側から湧き出てきたエネルギーによる革命ではなかったわけである。

不思議なことに、政府首脳の総入れ替えを外圧、つまり占領軍に強要され、占領軍の監視の下で代替わりをさせられてにもかかわらず、これは革命ではなかったわけである。

世界の常識から考えれば、こういうときには占領軍に対して対抗勢力がレジスタンスに走り、占領した方はその鎮圧に相当苦労するのが普通であるが、我々の場合は戦争には確かに負けたけれども、負ける前も負けた後も日本人が日本政府というものを管理運営していたわけである。

戦争に負けたが故に、占領軍の監視下ではあったが、曲がりなりにも日本人が日本国民というものを統治し続けたわけである。

そういう観点から我々、日本という国を見てみると、我々の民族の近代化というのは、明治維新から始まって、大東亜戦争で終焉を迎えたということにはならず、それは今日においても本来ならば右肩上がりの傾向が続いていてもおかしくないということにならなければならない。

あの大東亜戦争というのは、昭和6年の柳条糊における満鉄線路破壊から起き、太平洋戦争の終結で終わっているのであるが、この昭和の初期の間の日本政府というのは、政治というものを全く仕切れていなかった時代だといわなければならない。

軍人が威張って、軍の専横を抑えることができなかった、とよく言われるが、それは要するに政治の責任だし、政治不在ということの証拠だと思う。

先に、法律というものは国民の欲求を具現化したものであり、ねずみ講が蔓延すればそれを抑える法律が出来、サラ金被害が多くなればそれを取り締まる法律が出来るということを述べたが、軍人が威張りだせば、それを取り締まる法律を何故作らなかったのかという点に帰結すると思う。

昭和初期の段階で、軍人の中の若手将校連中がテロ行為に現を抜かし、旧帝国軍隊の若手将校が共産党まがいの檄文を書きなぐり、既存の政治家を暗殺しようとしているとき、殺される側の政治家達は、何故そういう突出した行為を取り締まる方策を講じなかったのかということになる。

これを裏側から見れば、国民の欲求がそれを望んでいなかったからともいえる。

つまり、国民の欲求はテロ行為に走った青年将校の方に向いていたのかもしれない。

この時点において、既存の政治家達は軍人達の独断専横の行為を苦々しく思い、軍人たちの起こした事件を不拡大の方向にしようと、沈静化の方向にしようとしていたわけである。つまり、この時点において当時の政治家、政府首脳というのは、非戦、嫌戦、平和解決、を望んでいたにもかかわらず、国民の側、一般大衆の側というのは、軍人達のすること、したことを容認し、追従しようとしていたといわなければならない。

だから軍人達の独断専横を抑制しようという機運が起きず、そういう欲求も起きなかったわけである。

つまり日中戦争から太平洋戦争というのは国民の支持を得ていたわけで、そういう背景のもと、軍人達が国民の利益を代弁するかたちで遂行されたと言わなければならないのではなかろうか。

戦後の普通の一般人の認識では、軍人達の独断専横を政治家が許したという表現、ないしは政治家が軍人たちに屈服して萎縮したという言い方がなされているが、その裏には、国民の願望があったといってもいいのではないかと思う。

昭和の狂気の時代には、国民の願望が軍人達の行為を容認する方向、つまり腐敗堕落した政治家の言う事よりも、直情的に国益獲得を目指す軍隊の方向、戦争をする方向に向いていたのでないかと想像する。

昭和の初期から戦争に敗北するまでの日本というのは、正に狂気の時代であった。

日本の歴史という、連続したサイン・カーブの中で、この時期だけは断層で前後の時代と分離されているといってもいいのではないかと思う。

 

内包された矛盾

 

人類の歴史というのは、日を重ねるに従い、経験から教訓をえることによって進歩するのが普通で、時代が下ればそれだけ良い生活が出来るわけだが、我々は昭和の初期に大きな精神的な断層を差し挟んだことで、不連続な経緯を辿ることになったものと思う。

20世紀にはいって共産主義革命を経験したロシア、そして中国という地域は、いづれも大陸国家で、これらの地域においては人類誕生のときから異民族との確執を経験しているわけである。

統一国家というものすら20世紀に入って初めて出来たようなもので、それまでは一体なんであったのかと問えば、様々な民族の群雄割拠の状態ではなかったかと思う。

日本でいえば織田信長が国家統一する前の戦国時代のようなもので、あらゆる地域に数多の民族、乃至は集落が散在しており、それらは常に離合集散していたのではないかと思う。時には部族間の戦争で、あるいは話し合いで、領域が広くなったり小さくなったり、人は強制労働させられたり、奴隷にしたりされたり、略奪行為は勝手気ままに行われていたものと想像する。

ロシア革命の前のロマノフ王朝ニコライ2世の治世というのも、完全に統率力を失っていたわけで、国家の体をしていなかったとみなして良いと思う。

中国革命の清王朝というのも同じであったわけで、我々の習う教科書的な言い方では、如何にもきちんとした統一国家のように教わるけれども、実態は国家の体をなしていなかったと思う。

こういう状況下においては、社会的な構成員であるべき人々のモラルも、腐敗堕落していたわけで、それだからこそ共産主義というものが、吸い取り紙が水を吸うが如く蔓延して行ったわけである。

ところが日本という国は、国土が狭く、人口は多く、四周は海で囲まれて比較的均一な民族がきちんとした国家体制、政治体制を維持しながら存在していたわけである。

明治維新の前から既にそうであったわけである。

明治維新をきっかけとして、西洋風の近代化に邁進したとすると、その行き着く先は結局のところ西洋先進国と同じ帝国主義的領土拡張であったわけである。

西洋先進国に追いつき追い越せという暗黙のスローガンで邁進した結果、日本も植民地を持って、西洋列強と同じような発展をしなければならない、ということになったのではないかと思う。

その時、目に見える形で国民の前にその実績を示したのが軍隊であったわけである。

日清戦争、日露戦争という二つの戦争は、当時の日本人に植民地経営には軍隊が必要で、富国強兵ということの実践を目の当たりにしたわけである。

だから国民の側は、富国強兵でさえあれば、日本は豊になれると単純に思い込んでしまったわけである。

ところが政治家とか、政府の内部の人々、統治する側にいた人々というのは、戦争には金が掛るという事を知っており、そうそう無闇に富国強兵とはいかないわけである。

だから軍縮条約を締結して帰ってくると、焼き討ちにあうというようなことになるわけである。

この時代には「治安維持法があったので政府や軍部に対する批判が出来なかった」とよく言われているが、これも後からつけた詭弁だと思う。

「良い格好シー」の場当たり的な詭弁に過ぎないと思う。

治安維持法があってものが言えなかったならば、政府や軍部に対してものをいう前に、治安維持法の撤廃を先にすべきではなかったのか。

そう考えるのがオピニオン・リーダーたるものの責務ではなかろうか。

21世紀の今、この昭和初期の日本の断層を考えた場合、やはり明治憲法の不備という事は避けて通れない問題だと思う。

あの明治憲法下では、軍人の独断専横を抑制することは理論的に出来なかったと思う。

ところが政治というのは「正解」とか「真実」というものが全く無い世界なわけだから、それは運用面でいくらでも辻褄を合わせることは可能であったはずだ。

現にあの時代、軍部のやっていたことといえば、その大部分が苦しい辻褄合わせてすり抜けてきているわけである。

その典型的な例が、軍人は政治に関与してはならなかったにもかかわらず、陸軍大臣があり、海軍大臣があり、内閣は軍人で占められていたことに尽きる。

この大矛盾は明治憲法の中に規定されていたわけで、これを矛盾といわずして何が矛盾かといわなければならない。

こういう大矛盾は今日でも存在するわけで、自衛隊は国際規模で見れば、押しも押されもせぬ軍隊でありながら、未だに我々の国では軍隊とは認知されていない。

こんな馬鹿な話もない。

こういう馬鹿げたことが通っているという事自体、憲法など有って無いが如くというわけである。

明治憲法に今日的な見地から見て欠陥が在るように、今日の日本国憲法にも大いなる矛盾があるわけであるが、我々、日本国民、日本民族というのは、その大矛盾に対して正面から立ち向かうことを避け、迂回して、憲法の運用とか解釈という姑息な言い回しで通してきたわけである。

昭和初期の時代においても、これと同じことをしていたわけで、その結果として、軍人の独断専横を許し、国民の側は途端の苦しみを味わはなければならないことになったのである。

軍人の独断専横を許した背景には、やはり国民のひそかな願望、つまり富国強兵を夢見て「我々は海外に進出しなければならない」という切なる我が民族の願望があったものと思う。

ある統一国家が衰退する最大の要因は、端的に示せば内部崩壊、あるいは組織破壊だと思う。

今まできちんと機能していた国家というのは、外圧ではそう安易に崩壊しないものであるが、その国家の内部が腐敗堕落すれば、意図も簡単に崩壊してしまう。

ロシア革命のロマノフ王朝にしても、ラスト・エンペラーの清王朝にしても、内部崩壊の結果であって、他の統一国家が外側から崩壊させたわけではない。

テロが起き、クーデターが起き、革命が起きるという事は、すなわち内部崩壊以外のなにものでもない。

 

願望としての反共

 

冒頭に人間は「考える葦」であるということを強調したが、政権の交代檄でも、追われる側も追う側も、夫々に頭で考えて考えて行動はしている。

追われる側は「如何にしたら現状維持が可能か」と考え、追う側は「如何にしたら追い詰めることが出来るか」と頭で考え、その考えに基づき双方が行動しているわけである。

そして、その結果が歴史として残るわけである。

形あるものは何れかは消滅するのが真理であろうが、消滅するまでの時間を如何に長引かせるか、というのは人間の英知だと思う。

地球上に住むあらゆる民族の歴史を考えた場合、それは民族の英知として、記録として、残ったものが歴史ではないかと思う。

ロマノフ王朝のニコライ2世は「如何にしたらロシア全域を支配することができるか」と考えたに違いないが、にもかかわらず彼の部下や彼の軍隊は彼に忠誠を誓うことを放棄して、「共産主義革命に加担した方がより有利だ」と考えたに違いない。

これらの人々も、当然、自分の頭で「どちらの側に付いた方が有利か」ということを考え、考えた結果として、これは共産主義の旗を振ったほうが将来自分にとっては有利に違いないと判断したわけである。

日本でも同じように、大正時代には大正デモクラシーと言われるように、自由奔放な議論が出来る土壌は出来上がっていた。

その風潮に便乗して、既存のモラルを全否定するような共産主義の考え方が蔓延しかけたとき、「あれは危険な考え方だ」という抑制の機運が盛り上がったということは、当時の日本人の文化的レベル、精神的レベル、が非常に高かったからだと思う。

それを反映した結果が、治安維持法の成立であったわけである。

戦後の進歩的文化人は、「あれは古今まれに見る悪法だ」という認識で大合唱をしているが、大合唱すること自体、自分の頭でものを考えたことがあるかと反論してみたい。

それと当時に、当時の時代状況を無視し、戦後民主主義というぬるま湯に首までどっぷりと浸かった傍観者として、自分にとって都合のいいご都合主義の言い草であり、無責任な奇麗事の羅列に過ぎない。

ニコライ2世は、共産主義がロシア内で蔓延したとき、治安維持法のようなものと作りえなかったから自分が殺されてしまったではないか。

清王朝のラスト・エンペラーの愛新覚羅溥儀は、治安維持法のようなものを施行しなかったから、毛沢東に拉致されてしまったではないか。

日露戦争における旅順要塞というのは、篭城していた共産主義者が内部で反乱を起こしたから日本が勝てたのである。

しかし、そのことは当時の日本人は知らずに、あれは日本の軍隊が勇猛果敢に戦ったから勝利を得たと思い込んでいたが、内情はロシア人の共産主義者が内部で反乱を起こしたからである。

仮に知っていたとしても、それは公表されなかったであろうが、此処で私が強調したい本意は、共産主義者というものが祖国よりも党に忠実であって、党のためならば祖国を平気で売り渡すということである。

無理も無い話で、万人が平等で階級というものの無い、貧富の差の無いユートピアを目指すとすれば、国家の枠とか、民族の誇りとか、主権というものはまったく不用なわけで、党のトップさえおれば、それが善導してくれるという発想に繋がるのも当然である。

共産主義者の党、共産党というのはこういう側面をもっているが、こういう考え方がある限り、既存の為政者がそれを放任しておくはずが無いではないか。

革命前のロシア・ロマノフ王朝、中華人民共和国誕生前の中国には、そう考えた為政者がいなかったわけである。

大正デモクラシーというかなりおおらかな雰囲気の中で、当時の日本の共産主義者たちが革命などということを鼓舞宣伝するようなことは一般大衆レベルから見ても許されることではなかったはずである。

そういう社会的な状況があったからこそ、あの法案が国会を通過し、施行されたのである。戦後の進歩的知識人は、あの法律は極悪非道の悪人ともいうべき政府が、自分たちの都合の悪い共産主義者を取り締まるために作った、という論調を展開しているが、共産主義者を排除したい、という潜在的な願望は国民の側の全般にもあったわけである。

 

選挙する側の堕落

 

我々、日本人にとっては、民主主義も共産主義も両方とも外来の思考であり、外来の文化であったわけである。

共産主義のいう理想の世界、皆が平等で貧富の差もなく、階級という差もなく、同一労働同一賃金のユートピアというのは、あくまでも理想であって、その理想を実現するのに、人を殺しても構わないという考え方が受け入れられ筈が無いではないか。

革命のためならば金持ちは殺しても構わない、富農、地主は殺しても構わない、財閥は殺しても構わないと、というように「人を殺してもよい」というモラルが我々、日本民族に受け入れるわけが無いではないか。

我々は基本的に農耕民族なわけで、例え家畜といえどもいざ殺すとなると精神的に大いに戸惑うわけで、その潜在意識は牧畜民族とは大いに違っていると思う。

如何なる理由があろうとも、人を殺すことを容認するような民族ではないはずである。

刑罰として人を殺すにも、自らは殺人に手を貸したくないので、それ専門の人達にそれを委ねて、その専門の人々を自分たちとは一段下のランクの人間として差別していた。

そのことは、我々の民族が人の死ということに畏敬の念を持っていたわけで、「村八分」と云う差別を助長した言葉にも、後の二分というのは「死んだときは皆と同じように平等に扱う」と言うことをいっているものと思う。

これほど我々は人の死ということを真摯に考えているのに、「人を殺しても構わない」という思考が受け入れられ筈が無いではないか。

政治の腐敗という事は日常茶飯事に言われているが、これは逆にいうと、腐敗しない政治というものはありえないということだと思う。

明治憲法の欠陥にしろ、日本国憲法の第9条の問題にしろ、大いなる矛盾を内包したままでいることそのものが既に腐敗そのものではないか。

これは政治家だけの問題ではないはずで、国民全体の問題だと思う。

国民の広範な層から、そういう矛盾は一刻も早く是正しよう、と云う声があがらないということ自体、既に日本の政治というものが腐敗堕落を内包していることに他ならない。

そして、日本の政治を付託する国会議員の選挙において、リクルート事件で嫌疑の掛かった藤波代議士や、ロッキード事件の田中角栄、政治資金流用事件の加藤紘一などという刑事事件がらみの国会議員が地元選出で再選されること自体、腐敗堕落と言う意外に言いようが無いではないか。

しかもこれは政治家本人よりも選挙民の方の問題なわけで、選挙民が刑事事件に関与しているような、又は関与したような人を再び選出するということ自体、政治の清流という事はありえないではないか。

マス・コミニケーションというものが発達して、夫々の意見を誰もが発表できる場というものが提供されると、不思議なことに、統治する側を糾弾する風潮が蔓延して、誰でもかれでもが、自分の政府や、統治する側、はたまた当局側を糾弾する。

統治する側が「それではかなわない」といって、当局を批判する行為を抑制すると、それは「自由の圧迫」だとか、「表現の自由の抑圧だ」という意見が大勢を占めるわけである。当局側の行為、計画、行政の細部というのは、基本的には国民のために、国民が利益を享受できるために、国民の生活が豊に、便利にというコンセプトがあるにもかかわらず、自分たちの思い描いたとおりになっていないと、当局側を糾弾するわけである。

それはそれである程度は許されるが、当局側の計画とか統治の手法だとて、人間が考え、人間が推進する行為なわけで、それには当然失敗もあれば、誤算もあり、手違いもあるわけである。

それはそれで国民の側が糾弾することも許される。

ところが、何でもかんでも政府乃至は当局をする行為を頭から否定する、という事はむしろ正常な政治の足を引っ張る行為だと思う。

統治する者とされるものの関係に立てば、失敗というのは常に統治する側にだけしかないわけで、統治される側の失敗というは全く俎上に上らないわけである。

昭和初期の狂気の時代、日本を奈落の底に突き落としたのは、当時の日本政府と軍人達だ、というのはまぎれも無い真実であるが、その当時においても日本政府と軍人達の後ろには国民という有形無形の人の群れあったわけである。

あの時代、少しでも覇気のあるひと、田舎の優秀な児童、学術優秀な若者というのは全部が全部富国強兵の一端を担い、軍人になることを願い、そのことが国民の潜在的願望となっており、人々はそれを奨励し、賞賛していたことを忘れてはならないと思う。

その結果として、我々は奈落の底に転がり落ちてしまったわけである。

それは戦後、高度経済成長のとき、「投機をしないのは馬鹿だ」といわれたのと同じで、国民の全部が全部マネーゲームに走って、結果としてバブル経済が破綻したのと同じパターンであったわけである。

この時、富国強兵の軍国主義が破綻し、バブル経済が破綻したとき、国民は政府の責任を追及し、こういう結果を招いた責任は政府だ、という論調が大勢を占めていたが、政治乃至は統治の結果としては確かにそうであるが、その裏には国民の総意があったということを忘れて、たまたまその時に統治の場に居た政治家に責任を負わせるというのはあまりにも無責任な行為だと思う。

 

軍人達の資質

 

昭和初期の狂気の時代、常に戦争不拡大の方向に奔走したのは政治家であったわけで、そういう状況にもかかわらず、政治家の言う事を無視して、戦争を進める方向に動いたのが軍人達であった。

あの狂気の集団としての軍隊を分析するには、当時の軍人達というのがどういうものであったか、ということを解き明かさねばならないと思う。

大正時代から昭和の初期の日本というのはまだまだ貧しかったと思う。

貧乏人の子沢山という言葉があったように、日本の農村は貧しく、そして子沢山の家庭が非常に多かったのではないかと思う。

そういう家庭において一番有り難いことは、食い扶持の減ることではなかったかと思う。成人に達した若者が、家で農作業を手伝っているよりも、家を出て、あわよくば仕送りのひとつでもしてくれることが最高に有り難いことではなかったかと想像する。

そういう潜在願望に応えるために、有能な子弟はこぞって官費の学校、いわゆる軍人養成学校に志願したものと想像する。

この時代、軍人というのは富国強兵の国策に則って、世間一般の評価も高かったわけで、そこに入れたという事は、村の誇りでもあり、一族の誇りでもあったわけである。

ところがである、15,6歳でそこに入ると、そこは完全なる官僚社会で、いわば泥沼化した深い深い井戸のようなもので、世間から隔離された世界であったわけである。

完全に「井戸の中の蛙」同様で、一般社会とは全く違う倫理が罷り通っている世界であったわけである。

尚、悪い事に、そこは天皇の専管事項になっていたものだから、世人が関与できない聖域となってしまっていたので、ますます井戸が深くなってしまい、一般常識とかけ離れてしまったわけである。

問題は、そういう組織に自ら進んで身を置いた村の誇りであり、親戚縁者の誇りであった人たちの資質である。

軍人達の個々の資質である。

この点を戦後の歴史家といえども誰もそれを掘り下げて究明したものがいない。

東京裁判で被告の立場に立たされた旧軍人たちは、階級としては将軍であり、大将、中将、少将という、もうそれだけで雲の上の存在で、誰も本人の資質や出生にまでは掘り下げて考えないわけである。

「立派な軍人」というところで評価が止まってしまっているわけである。

結果の如何を問わず、政策は失敗であったとしても、本人の資質は立派な人物だという評価で止まってしまっているのである。

此処が問題だと思う。

確かに大将、中将、少将などと雲の上の階級ではあるが、本当にその階級が本人の資質にマッチしているかどうかは、はなはだ疑問なわけである。

親代々が百姓で生きてきたものの一人が、いくら軍という官僚組織の中に埋没しようが、親から引き継いだ遺伝子、DNA、百姓根性というものは、教育などで払拭されるものではないと思う。

官僚組織の中でも、個々の軍人は、親から引き継いだ氏素性のまま、この百姓根性を引きづりながら、泥沼化した井戸の中で生き抜いてきたのではないかと思う。

生き抜いてきたという言い方は当らないかもしれない。

もっと具体的に表現すれば、国民を奈落の底に引き落とすような、馬鹿げた作戦に現を抜かしていたというべきかも知れない。

政治家が不拡大の方針でいるのに、それを踏みにじって戦争しよう、しようという方向に仕向け、尚それを実践していった軍人達というのは、官僚組織の中で百姓根性まるだしで自己顕示欲に駆られていたのではないかと思う。

人間の行為の規範というのは何も金儲けだけではないわけで、出世欲もあれば、権勢欲もあるわけで、私利私欲の追求だけが百姓根性ではない。

こういうように下層階級の精神構造を温残したまま、軍隊という官僚組織の中で純粋培養され、それが狭い井戸の中で立身出世して、その結果として政治というものに関与するようになったから、我々は奈落の底の転がり落ちたのではないかと想像する。

政治家というのは、批判されることが商売になっているが、それとは逆に、他から批判されるという事は軍人にとっては屈辱的なことであったはずだ。

それ故に、そこに昭和初期の青年将校のテロ行為の原因があったものと思う。

政治家の発想と、軍人の発想では天と地ほど違うわけで、それに気が付けば当然のこと、シビリアン・コントロールに行き着くはずであるが、我々の場合、そこに至っていなかったわけである。

私の個人的な見解では、昭和初期の狂気の時代というのは田舎の百姓が、軍組織の中で立身出世をして、政治家まがいのことをしたから、あの狂気が生まれたものと考えている。

 

偏見について

 

この考え方の中には当然偏見が息づいている。

と云うのも、私は「偏見をなくそう」などと奇麗事を考えていないからである。

ここで話が一気に21世紀の日本に立ち返るが、平成15年11月の最初のころだと思うが、九州のあるホテルでハンセン氏病の患者の宿泊を拒否して問題化した事件があった。この時の様子をたまたまテレビで見ていたが、ホテル側が「私の無知で申し訳ありませんでした」と謝罪しているのに、ハンセン氏病の患者側は徒党を組んで「それだから我々に対する偏見が改まらない」と反駁していた。

これは被害者の側が大儀を振りかざして正義ぶっている図である。

民主主義の旗印の下で、被害者側が徒党を組んで、数の原理で加害者をつるし上げている構図である。

団体交渉という名の下に、多数で少数のものをつるし上げて、自分たちの欲求を通そうとする共産主義者たちの常套手段である。

ハンセン氏病の方々には何の恨みも無いつもりですが、人間の好き嫌いの感情を、偏見という言い方で抑圧する行為も民主主義にあるまじき行為だと思う。

「知らなかった」と云っているのに「知らなかったで済むと思うか。ハンセン氏病の患者の置かれた状況をもっと積極的に知れと」といっても、これは無理というものである。

あまりにも増長し、思い上がった発想だと思う。

人間の生息しているこの世で「偏見をなくせ」というのも理想ではあるが、現実には絵に書いた餅の域を出るものではないと思う。

それと、ハンセン氏病患者の人々が、本人が好きでその病気になったわけではない、ことは十分理解できるが、病気に罹ったということは、その人の運命としか言いようが無い。誰の責任でもないと思う。

そして、そういう患者を忌み嫌う感情というのも、生きている人間としては極自然の感情なわけで、それは美しい女性には誰もが引き付けられるのと同じで、自然の感情なわけである。

ただベクトルが反対向いているだけである。

「我々は、不幸な運命を背負っているのだから、世間の人は何をさておいても、こういう患者のことを最優先に考えよ」というのは、患者側の思い上がりもはなはだしいと思う。

こういう「偏見をなくせ」という努力はしなければならず、それは啓蒙し、啓発する努力は重ねなければならないが、結論としては人間の住むところから偏見はなくならないと思う。

我々、戦後の日本人というのは、もっと運命ということを真剣に考えなければならないと思う。

自分の不幸を人の所為にしてはならないと思う。

自分の不幸の責任を他に転嫁しようとするから、矛先の持って行きようがない場合、最終的には政府が悪い、という屁理屈になるわけである。

「偏見をなくそう」という大儀、「皆が平等で、労働に応じた所得を得るのが理想社会だ」という大儀、絵に書いた餅を護符のように掲げて、そういう奇麗事を実現しなければという大儀が、多数の人の支持を得ているのだから、それは正義だという錯覚から脱却しなければならないと思う。

 

衆愚ということ

 

多数の人が支持しているからそれは正義だ、と思うほど間違ったことはないと思う。

それは衆愚政治といわれるもので、民主主義というのは極めて衆愚政治に近いところにある政治形態だと思う。

テレビの論調でも、新聞の論説でも、政治家のリーダー・シップということがよく言われるが、これほど無責任な言葉もないと思う。

政治家にリーダー・シップを認めるという事は、独裁政治の復活ということではないか。

政治家は、当面の政治課題を国民に対して啓発し、啓蒙せよという言い方ならばまだ理解できるが、リーダー・シップをとって強引に突き進め、という表現は民主政治というものを否定するに等しい。

昭和初期の狂気の時代、政治家のしようとすることに対して、軍部がことごとくそれを御破算にしてきたが、戦後はそれを野党という政治集団が、戦前の軍部のしたことと同じパターンを踏襲し、政府与党の行動に呪縛を掛けている。

政治家のリーダー・シップをコントロールする勢力として、野党の存在は認めなければならないが、両方の勢力が共に日本全体のことを考えているとすれば、「絶対反対」という事はありえないはずである。

野党が「絶対反対」というプロパガンダを掲げているから、日本の政治は何時までたっても12歳の域を出るものにならないわけである。

戦後の憲法改正論議でも、「絶対反対」というものだから、全く進展が無いわけで、「この部分は残してこの部分は改正しましょう」という論議に入る前に、「絶対反対」ではテーブルにもつけないわけである。

そういう「オール・オア・ナッシング」の発想しか出来ないところを、日本占領中のマッカアサーは「12歳の子供だ」と称したわけで、まことに的を得た的確な考証だと思う。テレビで国会審議を見ていると、自民党から共産党まで総ての党が「国民のため」とか「国民が納得しない」とか、「国民が承知しない」というように国民を出汁につかっているが、これもどうかと思う。

今の国会というのは党が主体となっているわけで、本来ならば「我が党が」という枕詞にならなければならないと思うが、党を省略してしまって「国民が」という言い回しで行なわれている。

日本の政党が本当に日本の政治ということを考え、日本の国益ということを考えているとすれば、「絶対反対」という事はありえないと思う。

ここにも政治の堕落があると思う。

人間のする行為に「絶対」という言葉は使うべきではないし、使ってはならないと思う。冒頭に述べたように、科学には絶対の真理というものは存在するが、人文科学の領域では絶対ということはありえ無いはずだから、そういう状況を踏まえて「絶対」という言葉は使ってはならないと思う。

そして21世紀に生きる人類の一員として、絵に書いた餅を追いかけるような愚は犯してはならないと思う。

「偏見をなくそう」だとか、ユートピアの実現のためには人を殺しても構わない、などという考え方は即刻放棄すべきであり、人である前に自然界の生き物としての自然をもっともっと尊重すべきだと思う。

理想を追い求めるというのは。人が生きるための精神の糧になっているという事は理解しえるが、人それぞれがもつ理想というものの実態が大事である。

皆が平等で、豊な社会を築くのに、その過程において人を殺しても構わないという発想は、如何なる主権者、為政者も許すはずが無いではないか。

これが一つの考えとして。主義としてあるうちはそれも致し方ない面があろうが、それを実践しようとする動きに対しては、為政者は断固対抗措置をとらざるを得ないものと思う。それが大正15年の治安維持法の施行であったものと考える。

この大正15年という年は、治安維持法もさることながら、普通選挙法も可決されているわけで、この時代の日本人の平衡感覚というのは、結構均衡が保たれていたといわざるを得ない。

それが右傾化していった過程は、国民の全体の雰囲気というものが、富国強兵を機軸とする帝国主義に傾いて、それに抵抗する考え方というものを「抑圧しなければならない」という風潮が蔓延してきたからだと思う。

我々の民族は、地球規模で見ると比較的単一性に富んだ民族で、均一性が強いので、異端者を容認する心の余裕に乏しい面がある。

隣の人、周りの人間のすることが気になって仕方がないわけである。

昨今、環境問題が姦しくなるとゴミの分別が叫ばれ、分別が不十分だとか、間違った分別をした時等、恰も極悪人かのような言い方でその過ちを糾弾する風潮が顕著である。

昔からある村八分という制裁も、異端者を糾弾する手法であったわけで、それが子供の世界になると、苛めという形で具現化しているわけである。

先に述べたハンセン氏病患者の反駁も、そういうことの延長線上にある日本人の潜在意識に依拠する悪弊の一つだと思う。

時の大儀に沿っていないものを見つけると、よってたかって糾弾し、そうすることによって恰も自分が正義を行使したような気分に浸るわけである。

「ハンセン氏病患者の人権は守られるべき」だという大儀を振りかざして患者達は徒党を組んで反駁し、「日本はアジアの盟主なるべきだ」という大儀の元、昭和初期の日本人はすべからく軍国主義者になってしまったわけである。

この傾向が日本人の全体に、民族の潜在意識として内在しているのではないかと思う。

私はかって日本人の付和雷同性という言葉でそれを指摘したことがあるが、異端者を見つけると付和雷同して、皆が皆、同じ行動パターンでその異端者を糾弾することになるわけである。

それは、我々には個の確立という意識が非常に希薄だから、つまり自分に自信がないから、隣人や周囲の状況から判断して、人のやっていることに追従するわけである。

昭和初期の狂気の時代においても、革新的な思考というのは、あの状況下では大いに異端であったわけである。

国民の側が富国強兵を熱望し、帝国主義的植民地支配が国を栄えさせると信じきっていた状況下で、それに棹差す考え方は異端のレッテルを貼られかねない雰囲気がただよっていたわけである。

あの当時においても、政治家は戦争遂行には金がかかることを知っていたが、軍人達は金のことを度外視してイケイケドンドンであったわけである。

政治家が戦争にはかねが掛かるから「これ以上は出来ない」といっても、出先の軍部はドンドン奥地に攻め込んで、既成事実を積み重ね、「勝利だ、勝利だ」と有頂天になっていたわけである。

国民は馬鹿だから、それを真に受けて、日本は強いと思い込んでいたが、それは所詮は、張子の虎に過ぎず、点と線でしかなかったわけである。

戦後の知識人の間では、少数意見の尊重ということが恰も整合性があるかのような雰囲気で語られていたが、民主主義が多数決原理であることに変わりはないが、少数意見というのも深く考察してみる値打ちというのは否定できない。

ことを決める時には多数決原理に従わなければならないが、決をとる前の審議の段階、討論の段階では少数意見というものを深く深く考察しなければならないことはいうまでもない。

政治は結果で評価されるので、多数意見で推進されたことが失敗に終わると、責任の持って行き場がなくなってしまう。

その反省として、「少数意見を聴いておけば良かった」ということになるが、それは後の祭りで、覆水は盆に帰らないわけである。

多数のものが賛同したことが正しいかと云うと、現実にはそうではなかった、というのが昭和初期の日本であった。

これが衆愚と云うものである。

多数意見を鵜呑みにして尊重すると、こういうことになる。

 

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