窈窕の妻その4

 

会社を変わる

 

他都市の状況は私達にはよく判らなかったが、名古屋の命運は刻々と押し迫ってきたことは誰の目にもよく判った。

5月のある日、突然に軍命令が来て、我が社は「石川県の大聖寺町へ疎開せよ」とのことであった。

今頃になって疎開して、果たして効果があるのか、との疑問が誰の胸のうちにも起こった。工場長をはじめ、幹部社員は昨年まで皆んな東京本社工場で働いていた。

他の従業員は、徴用工とか女子挺身隊員という名目で名古屋周辺から強制又は募集されたものばかり1,500名位いた。

苦労の末に漸く軌道に乗り掛けたばかりである。誰だって二の足を踏むのは当然である。工場長をはじめ殆ど者は、大反対であったようだが軍命令には逆らえず、疎開することに決まった。

よく聞いて見ると、大聖寺の方では受け入れ体制が全く出来ておらず、宿泊施設も整っておらず、従って全員を強制的にというのではなかった。

また、向こうでの操業開始の目処も全く立っていないとのことがわかった。

よって私は、次のような理由から大聖寺行きを断る決心をした。

その一つは、病弱の次男宣生をはじめとして、妻を連れて気候の悪い石川県へ赴任することが嫌であった。

単身赴任するのも、その事が気掛で乗り気になれなかった。

今一つ、私は何れか公表しようと思うが、この会社に入社以来、陸軍の馬鹿さ加減や、遣り方に非常に不満を持っていた。

しかし、こんな私的なことは一言も口にすることは出来ない時である。

依って「私は、この緊急時を一時も忽せにしたくない。軍需工場で働く限り何所で働いていても御國のためだ。私は断固として大聖寺行きは断るから。小さくてもよい、会社の下請工場を斡旋してくれるように」と、上司に依頼した。

上司も恐らく同じ気持ちであったろう。快く引き受けてくれた。

こうして今までよりも少し遠くなったが、二女子町の松重電気鰍ノ電気技師として又技術課長の辞令を貰って、その翌日、某日からこの子会社に勤めることとなった。

 

猛爆続く

 

私が松重電気に移って間もない6月9日、午前9時頃、警戒警報が鳴った。

続いて空襲警報が鳴った。

すわ!というので100人ばかりの従業員は隠れ場所を求めて夫々別々の方向に駆け出していった。

土地不案内のこととて、私も一目散に南方に駆け出していったところ田圃に出てしまった。との方向から来るのかと見回していると、空襲警報解除になった。

名古屋方面ではなく、別の方向に進路を変えたのだろう、と思ってホッとして帰路についた。ところが又しても空襲警報が鳴った。

驚いて見ていると、西南方面、即ち三重県方面から大編隊がやってくるのが目に入った。低空飛行だったので、その編隊は瞬く間に近づいてきた。

いよいよ俺もお陀仏かと覚悟を決めた。

すると例によって、夕立がザーと降ってくる時のような音が聞こえた。

束になった焼夷弾が、空中で解帯され、無数の個筒弾となって落下する時の摩擦音である。その音に混じって特別の大型爆弾らしい轟音がドカンと聞こえた。

聞こえてからでは既に遅いのだが、その音と同時に私は思わず塞ぎ、窪地に腹這いになって倒れた。

最初の一発に続いて、何度も何度も轟音が耳に入る。

頭を上げてみる余裕などない。伏せったまま爆音の絶えるのを待つだけであった。

爆発音の止んだとき、そっと頭を上げてみると東北方向に去っていく機影が見えた。

今の爆撃は船方にある愛知航空機、愛知時計電機鰍フ両社を主要目的にしたものであった、と直感した。

幸に其処から1km近く離れていたので難を免れることができた。

その日の帰宅途中、尾頭橋の電停で電車待ちをしているとき、何処に運ばれていくのか棺を数個摘んだり、負傷者を満載したトラックが船方の方から北の方に走っていくのを見た。あの人達も遂に犠牲になったのか、と感無量であった。

後になって、この時の被害は両会社とも全滅、死者2066名、負傷者2613名とか云われるが、正確な数字は分からないとのこと。

その中の一人に、私達の実の仲人をしてくれた従姉弟の治子様がいた。

彼女は杉山高女の先生をしていたことは前記したが、学徒動員で駆り出された3年生の全員を引率して行き、愛知航空機鰍ナ執務中であったが一片の肉塊も見当たらなかった由を後で知らされえた。

器量よく、チャーミングで、お人好しで、生徒からも慕われていたようだが惜しいことをした。冥福を祈って止まない。

このように空襲が激しくなって何所の会社も従業員の中に罹災者が増し、不安焦燥による欠勤者も増していった。

私が8年間勤めた安立名古屋工場では、引越しによって機械類は順次間引かれ、組立工場も部品不足や欠損のため開店休業の状態になってしまった。

こうした中にも疎開荷物の梱包が終わり、いよいよ明日は最後の発送をするというその晩の空襲で荷物諸共工場は跡形もなく灰燼に帰してしまった由。

 

玉音放送

 

丁度その頃、部品調達を命じられ、私は東京へ出張していた。

逗子の兄の家に泊まって、15日の夜行列車で帰名する予定で8月15日早朝、前売り切符を買うために東京駅に行った。

既に発売を待つ人々が八重洲口の方に長い列を作っていた。

駅周辺の商店が焼け落ちてしまっているので駅前広場が今までよりもかなり広く感じられた。人影も少なかった。

其処から見る銀座方面は、ビルデングだけが焼け肌を晒して立っていた。

その上を機銃掃射が目的か、敵戦闘機が十数機、悠々とあちらこちらを乱舞していた。

切歯扼腕の思いであるが、仰ぎ見るというだけであった。

名古屋までの切符購入後、東京の土産話にしようと、空襲による東京の被害状況を一目見てこようと思い、山手線に乗って神田、上野、池袋の順に回ったが車窓から見る限り、

1年前までの、あの見覚えのある美しい沿線風景とは打て変わった惨状であった。

新宿駅で下車し、駅前交番に立ち寄って、焼け跡を眺観して驚いていると、中から出て来た巡査が「此処から海が見えるようになりました」と、教えてくれた。

指差された方向を見ると、成る程、品川沖が見える。

到底想像も出来ないことだっただけに全く驚いた。

世界に誇る大東京が、ここまで焦土化されて、果たして戦争に勝てるのか?と疑わざるを得なかった。

その日の午前中「本日正午、天皇陛下の重大放送がある。国民は一人残らず拝聴するように」との放送を聞いていた。

未だかって天皇陛下の肉声の放送など聴いたことがない。

これは確かに重大放送に違いない、と緊張感を覚えていた。

その放送を是非とも東京駅で聞こうと、新宿から目黒、品川と回り、東京駅に向かった。浜松町駅に停車したとき「乗客の全員はプラットホームに降りて、玉音放送を傾聴するように」とアナウンスされた。

陛下の御言葉とあって、全員それぞれの場で、直立不動の姿勢で聞いた。

駅のスピーカーが悪いのか「・・・・・・忍び難きを偲び・・・・・・」は、よく聞こえたが他は殆ど聞こえない。 

しかし、拝聴者全員、寂として声なし。やがて放送は終わった。

誰一人、声を出す者もなく、黙々と電車に乗り込んでいき、電車は発車した。

何たる不確定な放送であるか。

私はその辺りをぶらぶら歩きながら、何台かの電車を見送った。

いよいよ決戦か?いよいよ敗戦?二つに一つであることは間違いない。

だがどちらも信じられない。粛々と電車に乗り込んだ乗客の姿には悲壮感がなかった。

それからすると降伏か。いやいやあれ程本土決戦を強調していた軍部がそんなこと・・・・・・と、云った気持ちが交錯した。(まだこの時点では、沖縄の激戦も、広島や長崎に落とされた原爆の惨状も知らされていなかった)。

攻め込まれ、押し捲られて、戦局の悪いことは誰も承知していたが、本土決戦ともなれば必ず天佑神助があり、勝つものと信じ込まされていた者も多数あった。

迂闊に敗戦だ、降服などと口にすることも出来ない時であった。

かって私の上司であった菊島さんなら腹を割った話しが出来る。

病気見舞いをかねて彼を訪れてみよう。そうすれば1年ばかり前まで住んでいた我が家の安否も分るからと、浜松町からバックして上目黒二丁目へ行った。

意外にもその一帯は無事に残っていた。

自宅療養中の彼曰く「降伏宣言だ、それどころか無条件降伏だ」と。

第1次世界大戦後のドイツの惨状や疲弊、困憊ぶりを聞かされたり、読書によって知っていた私は、目の前の真っ暗闇になる想いであった。

嗚呼!!!日本はどうなるのか???

何処でどうして仕入れたのか今覚えていないが、リュックの荷物が急に重くなったように感じた。

役に立たなくなった荷物なら捨てて帰ろうか、とさえ思ったが私物でないこと思い、持ち帰った。

 

敗戦の実感

 

いち早くラジオ放送もされたであろう、新聞の号外も出たであろう。

しかし、上京中の慌しい私の耳には入らず、目にも止まらなかった。

翌日、私が牛山に帰ってみると両親と五島夫妻(6月20日に罹災して4人の子供と疎開中)と、澄江の5人が放心状態であった。その日の夕刻近くになって、私の後を追う如く、突然に逗子の兄がやって来た。

私は、昨朝、彼と別れてきたばかりであるが他の者にとっては久し振りの面会である。

彼は来るなり汗を拭きつつ水を求めた。夕方とはいえ夏の盛りである。余程急いできたのに違いなかった。

皆の驚きを他所に、彼は「ゆっくりしておれない、すぐに出掛ける、呉へ行く途中で一寸寄っただけだ」と云う。

皆んな呆気にとられながらも訝って様子を聞こうとする。

彼は簡単に「玉音放送を聞いた直後に、海軍省内では拳銃で自殺した人が数人いた。宮城前広場では軍人やら一般人で割腹自殺した人もいるとのことだ。それよりももっと重大なことは、徹底抗戦を主張する部隊が今宮城を占拠している。地方にもそういう強硬論者がいる。呉鎮(呉鎮守府)揮下(部下)のそういう数部隊の宣撫(政府の方針や目的を説いてなだめること)に行くのだ。場合によっては殺されるかもしれない。戦争によって死ぬのは覚悟の前だが、戦争後になって味方に殺されるのは甚だ不本意だ。だが命令だから俺は行く。皆元気でな」と。

ただそれだけ云うと、悲壮な面持ちでさっさと出掛けていった。

名古屋駅での乗り換えの時間を利用して、暇乞いに立ち寄ったのだ。私達には彼の鎮撫工作が成功する様、ひたむきに祈るばかりであった。

後日、徹底抗戦の機運は鎮守府長官の許、適切な指導で事なきを得たとの報に接し安堵した。このハプニングによって私達は敗戦の実感が如実のものとなった。

 

敗戦後のどさくさ

 

敗戦日から4・5日経った頃であろうか、進駐軍に没収されるのを懼れたのであろう。糧秣廠、被服廠、軍需廠などに保管されていた物資をはじめ、軍需品関係の会社や工場で作られていた、あらゆる製品や素材が一挙に放出された。

それらが市町村役場を通じて庶民に無料分配された。罹災者をはじめ、物資の無い時とて、これは大衆に大いに喜ばれた。ところがその裏に大きな抜け穴があった。

もう空襲による被害を受けることはない、となると俄かに物欲が出て来た。

そういう物品を扱う官庁職員や、御用商人、軍需会社の人達は、半ば公然と我が家へ物資を運び込んだ。あらゆる物資が皆無か、それに等しい時代であった。

ただより安い物はない。それに何れは高い値段で売れるに違いない、の商魂を働かせたのであろう、布地、既製品、皮革、靴、米、味噌、ガソリン、畳の類は勿論、総てである。最初のうちは、隠匿物資として、あらゆる手段を用いて保存していたが、そろそろ邪魔にもなりかけた頃、幸にも1年位経つと復興ブームが盛り上がってきた。

時は良しとばかり小出しに売り始めた。仲買人なども出てきて大道で堂々と売り始めた。これ等が集まって方々で闇市が出来るようになった。名古屋では名駅裏が最も有名になった。其処へ行けばどんなものでも入手できるという現象が出来た。

こんな訳で、ある吏員は畳で大儲けしたとか、ある油屋は小牧飛行場のガソリンで大会社にのし上がったとか、その他思わぬ人が大身上(財産)持ちになったとか、色々の噂が持ち上がった。

敗戦直後のどさくさに上手く便乗した人々の処世術とでも言うべきか。

こんなところにも明暗、悲喜交々の人生劇があった。終戦と同時に物欲が出始めて、泥棒が急増した。特に、食い物泥棒が横行し始めた。

 

間内駅の復活

 

戦時中に名鉄小牧線の間内駅が無停車駅になってしまって不便極まりなかったことは前記したが、その直後から私はその復活を請願するために名鉄本社に足を運んだ。

請願理由の一つは、私自身全く不自由したからである。

小牧線=間内−牛山―上飯田。市電=上飯田―大曽根―山口町―赤塚―平田町―鶴舞―上前津―水主町―尾頭。

下之一色線=尾頭―二女子と、最長線を利用していたので通勤時間が長かった。

1分でも2分でも時間を短縮したかった。それなのに15分も時間延長になり、その上、鉄橋を渡らねばならない不便さが堪らなく苦痛であった。

請願理由の2つは、当時中学生時代の同級生である余合俊一(後副社長になった)が、名鉄鰍フ運転課長として駅関係の統廃合を掌握していたから依頼しやすかった。

請願理由の3つは、当時名鉄本社は熱田神宮前にあって、私の勤務している会社から近かった。

そんな関係から私は昼休み時間を利用して、2・3度、本社へ請願に行った。

だがその時既に余合君は他の課に移っており見知らぬ課長であったこと、戦時中であること、大会社組織で簡単には出来ないこと、とあって聞き入れて貰えなかった。

終戦になると同時に、もう間内駅を無停車駅にしておく理由は何もないはずだ。

個人で受け付けてくれなければ、2人でも3人でもと考え、同級生で北外山に住んでいた長谷川義雄君と、一級下の南外山の伊藤竹男君に呼び掛けて、3人で名鉄本社に行って掛け合っても徒労であった。

丁度その頃、間内駅のすぐ南の製麺業を始めた御仁が居た。

誘ってみると、商売に大影響のあることとて大乗り気になってくれた。

従って、その御仁には間内、私は皿屋敷、郷中、東脇。長谷川君は北外山、伊藤君は南外山の住民の署名簿を作って、4人で陳情に行くことにした。陳情分は私が作った。

文面は覚えていないが、その骨子は次のようなものであったことだけは今でもはっきり覚えている。

1 間内駅構内の土地は篤志家長谷川滝次郎氏の寄付によるものである。同氏の善意を蹂躙することは見逃せない。

2 従来の乗降客の利用率は統計から判っているであろうが、牛山駅より遥かに多い筈である。これは沿線沿いの部落住民の密集状況から見ても一目瞭然である。

3 余儀なく現在は牛山駅を利用しているが老人や子供は大変な迂回路をしている。若い者は近道である鉄橋を渡っているがこの不便さ、危険さは例えようもないくらいである。

4、駅の新設、構地の拡張、駅舎の拡充を云うのではない。従来通り停車させるだけのことである。

5、戦時中は兎も角、終戦後は無停車駅にしておく必要は認められない。

このような内容のことを文書にし、住民の方々の家々を廻ったところ大賛成で、忽ち連判状は整った。

こうして書類を整へ「間内駅復活請願書」として4人で名鉄本社に行き提出した。

尚、この時、書類だけでは寂しいから何か手土産を、ということで当時では珍しい芋せんべい?かなにかを一杯風呂敷包みにして持って行った。

流石にこの時は名鉄本社の方でもお偉方が4.5人で応対してくれて、非常に好意的であった。

私達は9分通り成功したと思い、4人とも笑顔で帰ってきた。

それから何日か経った?月?日から間内駅は復活したが最初の復活駅であって、まだまだ方々で復活していない駅が沢山あった。

地元の人達に大いに喜ばれたが私自身が便利になってとても嬉しかった。

 

会社勤務に終止符

 

幸にも私の会社は罹災しないうちに終戦になった。

その3・4日後の帰途、尾頭橋の電停で上飯田行きの電車を待っているとき、名古屋港に上陸した進駐軍が船方方面からジープや軍用トラックで北進していくのを多数見掛けた。県内や岐阜方面の駐屯地に配属されるのであろう、彼等は皆厳しい武装をしていたが、初めて見る黒人兵の黒さには全く驚いた。

目をきょろきょろさせ、歯だけ白く、他は真っ黒、これでも人間かと思われた。

これ等が半数は居た。こんな連中に負けたかと思うと悔しかった。上陸してくるとき、彼らにはまだ緊張感があったろうが、間もなく彼等は丸腰で市内を自由に闊歩し始め、至る所で見掛けるようになった。

一方、終戦と同時に会社では重役達が鳩首協議した。

その結果、出勤してくる従業員を遊ばせておくわけにもいかず、差し当たり従来通り無線機の製作を続けることにした。

ところが9月2日になって、GHQ(連合軍総司令部)第1号が発令された。

即ち、「軍需産業に関係あるものは一切生産を停止する」というのである。

これは一大ショックであった。この頃、稼動中の会社や工場は造船会社、飛行機製作所をはじめ、わが社のような小規模工場に至るまで、大なり小なり皆軍需関係の仕事に携わっていた。

生産停止という事は会社や工場の閉鎖と同じである。

失業者の続出は必至、正に死活の問題である。

止むを得ずわが社では臨時の処置としてラジオの修繕を始めることにして新聞に折り込み広告を出した。

ここ数年来、ラジオの修理など思うように任せなかったので驚くほど多数の修理依頼があった。

こうなると取替部品などの不足を生じたので常務取締役と私は豊橋の東京無線鰍フ工場へ部品を融通をして貰うようにと出張した。

この工場も罹災していたが、焼け残りの部品倉庫から探し出して要望に応じてくれた。

豊橋は空襲の他に遠州灘から艦砲射撃を受けたところであった。

したがって路傍の所々に大きな窪地があり、道中の橋の欄干や電柱には破片による傷跡が生々しく残っていた。

勿論、街並みは見られず、見渡す限りが瓦礫の山のようであった。

こうして9・10・11月と3ヶ月はラジオ受信機の修理で持ちこたえてきたが、いよいよこれも底をついて来た。

12月18日になって、これもまたGHQの命令で、国会が解散になった。

社長は会社運営の至難なことを悟るや、国会議員に立候補をすることにした。

その資金繰りのために土地や会社を整理することにし、着々と準備を始めた。

この様な訳で、翌21年1月、会社は解散することになった。

従業員は名目上依願退職ということで夫々離職していった。

私もその中の一人で、会社勤務に終止符を打つことになった。

教育、鉄道、郵便、電力、官公庁などを除く他は、前記した1号指令により皆同様の運命になった。財閥解体によって財界人も、戦争中陣頭指揮をとっていた多くの公職者も追放になった。

それに海外からの引揚者、復員軍人なども加わって、失業者は何千万人と膨れ上がって街

に氾濫し、餓死者が数百万人は出るとの噂が広まって暗黒時代が到来した。

 

寿美江の逃避行

 

前にも一寸触れたが、若い時の父は非常に意欲的であり、色々なことに興味を持ち、多趣味であった。従って博識であった。父の歩いた道を端的に云えば、温故知新型であった。このような長所もあったが短所もまた際立っていた。

凝り性であるのは良いとしても、それよりも飽き性で、頑固で、短気で、小言が多く、母や子供達をよく叱り飛ばしていた。

体が弱かった所為もあろうが、右のものを左にもしない程の怠惰者であった。

父とは反対に母(別著「母に勝る母」に詳述)は、実に温厚で、村一番の働き手であった。こんな訳で母は父のためにどれ程泣き、苦労してきたか判らない。

私達子供は母に同情し、母を尊敬し、母のように「怒らず働け」をモットーにして来た。父の居ない時は母を中心にわいわいがやがや云っていても、父が帰ってくると途端に、サザエが蓋を閉めたように口を鶫んでしまう。あるいは蜘蛛の子が逃げ出すように四散してしまう。

父の前では子供達は皆んな萎縮してしまっていた。

このような暗い家庭環境の中で私達は育っていったのである。

子供が成長して、父自身も晩年に近づくにつれて、このような激しさは和らいで行ったものの、性格そのものは変わりようがない。

終戦の年、父は63歳であったが、その前年に私達親子は東京から引き揚げて来た。

前記したように、寿美江は和気藹々といった家庭状況の中で育ってきた。

それ故に、我が家の冷ややかさに堪えられなかったようだ。

その結果、寿美江は守山の実家(疎開後は本籍地の小原村)に逃避し、小牧の中町で借家住まいをするまで別居生活であった。

夫婦喧嘩したわけでない。世にいう嫁と姑(舅)の諍いによるものでもない。上述のような父の性格が醸し出す陰湿な家庭の空気にあったのだ。

寿美江は二人の子供をつれて、あるいは単身で逃避行をしたが、これに対して私は何等の咎めもしなかった。寿美江もその理由を一言も口にしなかった。他の者もこの事に就いては何一つ触れようとしなかった。

暗黙のうちに皆んなが理解していたからである。

こんな訳で、終戦時の前半年、後半年は全く夫婦生活もなかった。

軍隊生活もせず、銃後において甘い夢を貪っていたと思う人もあるかもしれないが、私個人は決してそうではなかった。

会社での激務、通勤途中の困惑、一身上の進退問題、空襲、転居、家庭の生活破壊・・・・等々の事態が波乱万丈となって押し寄せてきた。

自分ながらよく切り抜けて来たと思っている。

これは寿美江が逃避行している間も、母が相変わらず些かの不平不満も言わず、私や子供達の面倒を見てくれたお陰である。私にとって母は神様である。

この様なわけで、当時は如何にして生き延びるかが先決問題で、色欲など全く起こらなかった。戦争というものは本能さえも凝縮させてしまうものだろうか。

 

ラジオ修理で地方廻り

 

私は会社を辞めるとすぐに小牧の街へ出て、ラジオ商をしようと考えて父に話した。

そのことを父から伝え聞いた大本家の滝次郎様が、小牧中町にあった借家を貸してくださった。

表通りでないのが残念であったが、不満をいっている時勢でなかったので、一旦そこに落ち着くことにして牛山から転居した。

開業資金は当時十分に持っていたが、裏通りではなんともならず、止むを得ずテスターや修理道具、部品、材料などを一杯トランクに入れ、自転車の荷台に乗せて田舎を廻り、ラジオ修理の御用聞きをして歩いた。

矢張り、長い間、修理不能であったのと、目の前で修理してもらえる、との安心感や便利さから喜ばれて、1日、1.2件以上の注文が必ずあった。

非農家からは現金を、農家からは米や野菜類を貰って十分に生活できた。

雨降りには読書をしたり縄綯いをしたりした。

私と寿美江の二人で薩摩芋作りをしたのもこの頃であった。

公園の芝生とか、空き地とか、草生地は勿論、学校の運動場までが農園に変わってしまった。

私の家でも、今作っている畑が義彦の出征後、人手不足のため草ぼうぼうになった。

それを疎開者達が開墾して野菜類を作った。私達もその一部を耕して芋を作ることにした。6月の始めの暑い日に、宣生を乳母車に乗せ、峯生を歩かせて牛山に行き、二人を預かって貰い、袋鍬や備中鍬や鎌などを借りてきて30坪ばかりを掘り返し、畝を作り、芋苗を差した。

この仕事に10日間位掛かったと思うが、その時の寿美江は易易快快として勤しんでいた。後で考えたことであるが、寿美江が病床に就く原因の一つには、この時の過労によるものではなかったかと悔やまれて仕方がなかった。

10月になって、かなりの収穫を得たが、自分達で作った芋の味は又格別であった。

その後、米の代わりにうんざりする程、薩摩芋の配給があるようになり中止してしまった。学校が夏休みに入った頃であったが、五島家に嫁入っていた妹の芳枝が来て「番傘売りを手伝ってくれ」と云った。

仕入先は加納町の傘屋であった。これが小学校などで非常によく売れるというのである。「よし、やってみよう」ということになり、差し当たり小牧小学校へ二人で20本ばかりの子供用番傘を持って行ったところ忽ち売れてしまった。

「これは面白いぞ」というので、加納町で仕入れてきては私の家に一旦運び込み、牛山からリヤカーを借りてきて、二人で味岡、篠岡、田楽、牛山、外山、春日井、三つ淵、北里などの各小学校へ50本位づつ売り歩いた。

五島さんは当時岐阜県立高等工業学校の教授をしていたが、主に私の家までの運び役であった。

これも一種の闇取引であったので、度を過ごさないうちにと、小牧周辺の小学校だけにして止めたが面白かった。

一方、寿美江は有り余っている薩摩芋を蒸し、潰した後、白い布に包んで絞り、赤、青、黄の色粉を振りかけ、奇麗な饅頭を作った。

誰が見ても薩摩芋とは見えず、素人作りには思えなかった。

それを二箱の重箱に詰めて売りにいった。何処に売りに行ったか(多分、昔の饅頭屋)知らないが、瞬く間に売って帰ってきたことが何度かあった。

又、寿美江が家の裏の側溝沿いに播いた一粒の南瓜が非常によく生育して、屋根の上まで這い上がり、見事な実を結んだ。収穫した20個位の南瓜が、長い間家の中でごろごろしていた。

下之町に、昔からあった正木という指物屋が店を再開すると、寿美江は早速、帯と半襟の刺繍台を設計して、その指物屋に作って貰った。

何処の誰からの注文であったか知らないが、次から次へと色々な柄物を刺繍した。

絵の素養が無かったり、色彩感覚の無い者には一寸真似のできない、根気の要る仕事であった。手触りの良い奇麗な仕事ではあるが、健康を損ねる心配が多分にあった。

そこで私は何度も「止めるように」と忠告したが、寿美江は趣味と実益を兼ねた最高の生き甲斐であると考えていたのか、なかなか止めようとはしなかった。

これが後になって命取りの病気になったのではないかと思う。

私がラジオ修理の御用聞きで訪れた時、農家の離れ座敷に、名古屋から疎開してきていた刺繍専門店の主人が居た。

「私の家内も刺繍をやっていますが、上手か下手か私には判りません、持ってくるから見てくれませんか」と言ったところOKとのことであった。

翌日、持っていったところ「これはお見事、結構商売になりますよ」と、云ってくれたので自分が褒められたようで嬉しかった。

新聞やラジオでは引揚者、復員軍人、失業者、餓死者、闇市などのことが3面記事やニュースで賑わっているとき、ひとり農家だけは我が世の春であった。

私が修理中に、昼時になると、わざわざ銀白米を炊いて「さあ食べよ、食べよ」と云って振舞ってくれる家も多数あった。

「弁当持参ですからお茶だけを」と、云っても「帰ってから食べなされば宜しいから」といった調子であった。

ある農家では、50前後の夫婦が縁側で足をぶらんと垂らして昼寝の最中であった。

ところが女将さんの方は、胸まで衣類が捲くれ上がってしまって、股を開いて、肝心要のところが丸見えであった。

真っ昼間、こうもまともに見せ付けられて恐縮してしまった。恥をかかせては気の毒だと思い、静かに早々と退散してきた。

又ある日、疎開していた非農家の奥さんから修理依頼を受けた。

非常によくおしゃべりをする人で、火鉢に当たりながら、最初から最後まで、私の仕事振りを見ながら、色々のことを話してくれた。

子供が二人小学校に行っているとか、主人はまだ復員して来ないとか、種々雑多の話を仕掛けてきた。私は相槌を打ちながら仕事をしていた。何処でも誰でも同じであるが、打ち解けて話をしていると、大方の場合セックスの話になるのが落ちである。

この奥さんもその例に漏れなかった。最初のうちはきちんと正座していたが、本当に足が痛くなったのかどうか判らないが、段々と横着な座り方になった。

話が弾むにつれて、その奥さんは段々股を広げていった。遂には、白い肉肌までが覗かれるぐらいになった。

誘い水を掛けてきたのは十分に読みとれたが、例え障子は閉めてあったとしても、真っ昼間、仮にもお客さんを相手にしては・・・・・と、我慢に我慢を重ねた。

そのうちに修理は終わった。私は這う這うの体で逃げ帰ったが、後で「据え膳食わぬは男の恥」という言葉を思い出して、勇気のなかった自分を悔やみもしたが、それで良かったと思う自分でもあった。

その一方では又、我慢しなければならないほど有り余っているものを飢えたる女に施さなかった無慈悲さは仏の道に背いたかなと思ったりした。

 

教職に就く

 

こうして1年3ヶ月ばかりの間に色々な人と巡り合い、顔馴染みも出来てますます面白くなったが、何とかして小さないながも早く店を構えたいと、借家探しに私は懸命であった。

しかし、こればかりは容易でなかった。

そんな時「長谷川義雄君から聞いてきましたが」と云って、見知らぬ人であったが、愛知中学校教頭、久保悦雄の名刺を差し出された。

要件は「物理学の先生が足りないから是非来て着欲しい」というのである。

私は「電気商を始めるつもりですから」と云って断った。

寿美江は「何時店が持てるか判らないのに」と云って、不服そうであった。

だが私は「もう人に使われるのは御免だ」と思っていたし、ラジオ商に執念があった。

先生は2度3度と来られたが、同様のことをいって断っていた。しかし、顧みれば、私は2年間、高等小学校の教員をしたことがある。

会社では、戦争中に出来た青年学校の教師もしていた。又、学徒動員できていた高専校の学生の指導にも当たっていた。

こんなことが蘇って、教職に満更縁がないわけでもないからと、迷いが出てきたので父に相談してみた。

「多くても不安定な収入より、少なくても安定した生活の方が良い」と云われた。

久保先生は、当時、小牧の上新町に住んでおられたので4度目か5度目かに来られた時「それだけ仰って下さるなら、お言葉に甘えますからよろしくお願いします」と云って、教員になることを決心した。

指定された日に学校に行き、校長に面接した時、校長は私の中学の同窓生であり、大先輩の小出有三先生である事を知って大いに意を強くした。

このような次第で、昭和22年5月初日から教職に就くことになった。

学制が変わって、22年に新制中学、23年には新制高校となって、旧制中学は2本立てになった。

 

焚き物の運搬

 

奉職するとすぐに私は中学3年D組の担任を命じられた。

当時、一組の人員は60名から65名くらいでF組まであった。

父兄会の折に、中野純三という生徒の母と個人面談をしている時、何か切っ掛けからか覚えていないが「取りに来ていただければ焚き物の材料ならいくらでも差し上げます」と云われた。

その家は中区下堀川町の製材屋さんであったからである。

その当時、小牧ではまだ都市ガスもプロパンガスもなく、燃料入手の至難な時代であった。嬉しくて「有難う御座います、それでは是非お願いします、天気さえ良ければ早速次の日曜日でも」ということになった。

その日が来て、早朝、峯生を連れて牛山に行き、リヤカーを借りて、峯生を乗せ、名古屋に行った。

気前よく木材の切れ端切を頂いて、リヤカー一杯に積み込んで、峯生に先綱を引っ張らせて帰路に就いた。

引っ張ったところで小学1年生ではたいしたことはない。それに片道20km以上ある。引っ張り続けられるものではない。ただ綱の先を持って歩いているだけである。

それでも登り坂になると大きな掛け声を上げ「それ引け、やれ引け!!!」と叫ぶと、一生懸命に力を出してくれた。

道中、色々なことを話し合うだけでも慰めになり、どれだけ励みになったか分からない。1年生では歩くだけでも容易ではない筈である。片道5時間は掛かる道程である。

途中、味鏝駅や春日井駅の近くまで来たとき「もう疲れたであろうからお前だけ電車で帰れ」と云っても「父ちゃん可哀相だからいやだ」と云って、どうしても聞かなかった。

相変わらず綱先を持って歩いてくれたが、涙が出るほど嬉しかったし、峯生が可哀相でもあった。

こんなことを5回ぐらい繰り返した。夏にはまだ日暮れまで間があったが、物凄く暑く、汗びっしょりであった。冬には既に日が沈み、足元も覚束ない頃にしか帰宅できなかった。中野君が「上飯田から電車で帰ればいいから」と、三階橋まで後押ししてくれたこともあった。

寿美江が宣生を連れて桜井あたりまで迎えに来てくれたこともあった。

無料で頂いてきた材木の切れ端は、暇暇に、鋸で切ったり、薪割りで細かく割って、高く積み上げ、乾かし竃でくべた。

薪炭が出回るようになるまでの何年間、どんなに助かったことか判らない。

中野君は素直で親切な良い生徒であった。

ある時、私の家に「遊びに来たい」と言った。「秋の農繁期で、私は牛山の在所で稲扱きの手伝いに行かなければならないから別の日に」と言ったところ、「それは丁度良い、僕にも是非手伝わせて下さい」と云って、わざわざ名古屋から来て、終日埃に塗れて働いてくれたこともあった。

新制高校の3回生であるが、卒業前に大きな荷物を重そうに持って、私の家にやってきて、「漸く良いのが見付かりました」と云う。

紐を解き、新聞紙を開いてみると、横32、5cm、厚さ7.6cmの、桧の立派な一枚板である。

私はすっかり忘れていたが「将棋盤にするような木があったら頼む」と言ってあった品物である。

早速、私はそれを指物屋にもっていって削ってもらい、縦横の線を引きをし、それに沿って小刀で溝を掘り、墨入れをし、立派な将棋盤にした。今、家にあるのがそれである。

裏面には昭和26年1月と彫刻してある。

彼は名城大学工学部建築科に入学し、卒業後、勤務場所を転々としているうちに、連絡が取れなくなってしまったが一目会いたいと常々思っている。

中野君一人ではなく、中野君ご一家のご厚志に感謝するとともに、記録に残してご恩に報いたいと悪筆を振るった次第である。

 

小牧っ子誕生

 

教員生活を始めて丁度半年ばかり経った昭和22年10月12日昼ごろ三男が生まれた。上の二人は人口900万人近く、土一升金一升といわれる大都会、それにもかかわらず一戸建ての家を借りているときに生まれた江戸っ子であった。

ところが今度は人口3万人足らずの田舎町、その上4軒長屋の借家で生まれた生粋の小牧っ子であった。

あまり突然だったので、長屋の人達は、皆んな吃驚した。というのは、寿美江が妊娠していることを誰も気付いていなかったからである。

どういう訳か、前の二人の場合も、それ程大きいお腹ではなかったが、今度は特別目立たなかったのである。

今迄は未経験のために不安が付き纏っていたが、3度目ともなると、すっかり自信を付け、自分の体調がよく判っていた。

それに加えて、一軒おいた隣の長屋に、伊藤あや子という産婆さんが居た。

そんな安心感があって、一切医師や産婆さんの検診を受けていなかった。

生まれる間際になって、寿美江は自分で隣の産婆さんを呼びに行った。

「寝耳に水」とばかり、「まあ!!!本当う?」と云って産婆さんは走ってきた。

まだ少し間がありそうなのでと、産婆さんは自分の家の祖母を呼び寄せ、二人で私の家でお湯を沸かして用意していた。

予測通り、難なく産声をあげた。早速、男女を確かめた上で、臍の緒を切ったり、事後処理をした。

私が学校から帰ると「こんな軽いお産なら何回でもよいですよ、沢山作りなさい」と云って産婆は笑った。それでも支払いの時は既定料金であった。

生まれた時の体重、身長がどれだけあったか覚えていないが、生まれる前の腹の膨らみ具合や、産婆さんが「小さく生んで大きく育てるのが理想ですよ」といった事から、決して大きい方ではなかったようだ。

その後、5・6日産婆さんが湯浴みに来てくれたが、その後は寿美江がやった。

思案の末に章生と命名した。

懐妊中も出生時も非常にスムースで良かったが、育てるのが大変であった。

寿美江は、お乳が全然出ないわけではなかったが、次男の時のように、脚気にならないようにと、細心の注意を払い続けた。

時勢は、復員者や、引揚者がどんどん増える一方で、生産は伸びず、食糧難のどん底時代であった。

この頃、京都から来た人が「尾張地方にはまだ草が沢山残っている」と云って驚いていたほど食料の貧欠している時であった。

うまく育ってくれるかしら?と本当に心配された。

幸にも、この頃、牛山の父が山羊を飼っていて、その乳が非常によく出て、父は毎朝その搾乳を楽しみにしていた。

毎朝、3升(5.4L)位あったが、自分達だけでは飲みきれず、近所の方にも分け与えていた。

そんな訳で、両親も喜んで山羊の乳を分けてくれたので、毎日1升(1.8L)位づつ、貰うことにした。

そのために小学校1,2年生になっていた長男の峯生が、牛山に乳を貰いに行くことにした。

まだ眠たかったであろうが、私の出勤時刻に間に合うようにお越し、小牧駅から間内駅まで、私と一緒に乗り、其処から歩いて祖父母の家に行き、乳を貰い、逆のコースを取って帰宅し、食事をしてから学校に行く。これが毎朝の峯生の日課になった。

季節のよい時はまだよかったが、雨の日、風の日、寒い朝などは全く気の毒であった。

往復ともに歩いたときも度々あったが、登校前に、これだけの仕事をさせることは、小学1,2年の子供にとっては大負担であったことはいうまでもない。

私も寿美江も両親も、彼の孝心に涙ぐんだものだった。

水割りもしていない純乳は、本当においしかった。寿美江は、これを成長度にあわせて調整して飲ませていた。

こうして章生は、母は勿論、峯生や、祖父母や、山羊のお陰で無病息災(達者なこと)ですくすくと育っていった。

章生自身は覚えていないであろうが、彼は小牧っ子であると同時に山羊っ子でもあるのだ。

 

学習塾を開く

 

日本大学を中退して北外山で薬師寺住職をしていた長谷川義雄君は、すぐ裏の小学校の先生をしていた。終戦になって学制が変ると彼は新制小牧中学の英語教師として転勤した。そして4年目の昭和25年春頃に彼は突然退職した。

彼は、私の家に「学習熟を開こう」と相談に来た。「場所は名古屋の何処かの知っているお寺を借りて」というのである。

この時点では私はまだ腹が決まっていなかったが、「一度、名古屋に行って、目安のあるお寺を当たってみよう」というので、中区南小川町の宋吉寺に行った。

そこの方丈さんは立派な方であり、御子息の西川玄苔さんは東海中学の後輩でもあり、東海高校の社会科の先生であることがわかった。

お庫裏さんも、若奥さんも、妹(二人)さんも、皆んな非常によい人ばかりで感じが良かった。

「とてもよい事だから、私も参加させて頂いて、みんなで協力してやりましょう」ということになった。

寺の一室を借りて、長谷川君が塾長で英語と国語、私が数学と理科、西川先生が社会科を担当し、長谷川塾という名称で中小学生向けの塾を開くことに話が纏まった。

それと今ひとつ、収入は3等分することで了解しあった。

そこで私が当時流行語になりかけていた「野球にストッキングに女ばかりが強くなり・・・・」という名文(迷文)を書き、長谷川君が謄写印刷し、新栄町付近の新聞配給所に行き、折り込み広告を出した。

始めは20人位しか応募が無かったが、段々増加し、4・50名になり、尚増加の傾向にあった。

そこで寺の空き地を利用して塾舎を建てることになったが、寿美江が入院加療中で出資できる状態ではなかったので、長谷川君と西川先生の二人で折半して負担することになった。何処で見つけてきたのか、長谷川君が丁度手ごろな平屋建て25坪位の古い解体材料をもってきて塾舎を建てた。

落成祝いのとき、私も家から手製の大きな電気蓄音機をリヤカーで運んで行き、当時としては賑やかに、派手やかに、塾生と共にお祝いをした。

開塾後、1年経った26年の桜の花の満開の頃であった。

収容力も増し、如何にも塾らしくなったので、私も自分のクラスのものを勧誘したところ、続々と希望者が集まってきた。そうして塾生は小、中併せて120名位になった。

私は月、水、金と日曜日午前、長谷川君は火、木、土と日曜日の午後、西川先生は毎日、日曜日抜きの時間割を組んだ。

この他に、後片付け、掃除、父兄の来客応対、謄写版印刷などの雑用があったので西川先生の妹で高女出の久代ちゃんにお手伝いをして貰っていた。

このような訳で、私自身について云えば、昼間は学校の勤務、夜は塾で一日おきに帰宅は何時も10時過ぎで、日曜出勤もあるので猛烈に忙しい日々が続いた。

こうして経営は非常に順調に進んでいたが、何故か長谷川君は会計を一手に握り、経理面を一切公開しなかった。

この間の彼の巧妙な手口を詳述したいのだが、死者に鞭打つのも気の毒であり、本文の冗長にあたる恐れがあるので省略するが、私達が彼に疑問を持ちかけた折も折り、長谷川君は北区の杉野町辺りで高利貸しをやっているとの情報が入ったし、自らもそのことを口滑らしたことがあった。

彼は塾の収益金をその方面に流用していることはほぼ間違いなかった。

と、思うと、腸が煮えくり返る気がしてきた。

寿美江の入院費を少しでも稼ぎ出そうと、塾がなくて早帰りした晩には教材研究や、原紙切りに専念して寧日なく頑張っているが馬鹿らしくなって、寿美江の病気の思わしくないのを理由に、早速彼と訣別することにした。

私が塾を辞めると同時に、私の学校から来ていた2・30人の塾生も塾を止めてしまった。それが連鎖反応となって、あっという間に塾は潰れてしまった。

その間、彼の貪欲、貪婪振りは、実に目に余るものがあったが、そんな男とは知らずに、彼の親切らしい饒舌に乗せられた私が間抜けであったのかもしれない。

この塾を閉鎖すると、早速彼は塾舎を解体して、犬山街道沿いの南外山の空地(寺の地所?)に運び、再建して借家にした。

お気の毒であったのは寺側の方々であった。

最初の貸間代、塾舎の貸地代はおろか、出資金の返済も、久代ちゃんの労賃も、未払いのままにしてしまった。

その他、彼と私は、幾度となくお寺で入浴させてもらったり、食料不足の折りにも拘らず、何度となく夕食のご馳走を頂いた。

その御好意に報いることなく、このような結果になったことを、私は今でも残念に思っている。このように、寺の方々が本当に仏道に徹しておられ、自ずから頭の下がるような奉仕をして下さったのに反し、彼、長谷川君は法衣(ころも)の下に鎧どころか、狐か狸の権化かと思われる程で、実に呆れ果てた人間であった。

この他、彼について良からぬ風評は色々と聞いているが、同級生の名折れにもなることゆえ控えておくことにする。

全身痙攣

 

宣生が生後1年2ヶ月経った昭和19年3月に、私は名古屋工場に転勤になり、疎開を兼ねて牛山に転居することになった。

その頃、父は山羊を飼っていたので、この山羊の乳にも相当厄介になった。

その頃(健康児はよく歩く)になって、漸く這い始めるといった具合で、普通児に較べかなり遅れていた。

物資不足の時代であるが、東京と違って田舎のことゆえ、食糧事情はよく、野菜が主になってビタミンB1が採れるようになった所為か、やがて歩くことも走ることも出来るようになった。

しかし、元来が虚弱であったので、風邪でも引かせようものなら忽ち発熱し、全身痙攣即ち引付を起こした。

目を吊り上げ、歯を食いしばり、手を固く握ってぶるぶる震わせたり、顔色や唇は紫色になり、脈は細くて不整になり、呼吸も不規則になり、今にも止まってしまうかと思うような状態になった。

こんなことが小学校へ上がるまで年に1度か2度あった。主治医は伊藤咲子という女医であったが、夜には診察に来てくれず、他の医者の門を叩いたこともあった。

医者の指導にもよるが、もともと寿美江は、高等師範科在学中に看護学を習得していた。その他、当時座右の書としてベストセラーであった「実際的看護の秘訣」という本を熟読していたので、落ち着いて看病に当たってくれた。

逆に私は今でもそうであるが、医学知識を全く持たないので、このようなときには狼狽してしまい、寿美江に指図されるままに動き回るに過ぎなかった。

 

養護学級

 

このような次第で、宣生は心身ともに発育が遅れていたので、小学校入学も1年遅らせようかと随分考えた。

早生まれであるから1年早く就学できるということは、将来1年早く社会に出ることが出来る。このことは色々の点で有利であるが、不利になることは先ずあるまい。

今の不憫さに溺れて、悔いを千歳に残すようなことをしてはならないと考え直して、既定通り進学させることにした。

成績など全然考えないと云うと嘘になるかもしれないが、第2、第3の問題として、只管に健康体になってもらいたい、というのが私達両親の念願であった。

このことは入学前の進学相談会の時に、寿美江が詳しく陳情して来た筈だ。

案の定、知恵遅れや発育不全の子供達だけを集めた30数人からなる養護学級に編入されて、ベテラン先生(足立かね子)のもとで特別教育を受けることになった。

その所為かどうかは別として、2年生では普通組に編入され、以後心身ともに健康を取り戻し、時たま寝小便をする以外は何等遜色を認めなくなった。

それどころか親の口から言いにくいが、機転のよくきく、模範児と云っても良いほどになった。

寿美江が闘病生活をするようになったのは、この年からであるが、親思いで、寿美江の手足のようになって働き、母親を非常に喜ばせ、又安心させた。

 

次へ続く