窈窕の妻その3

愛の結晶

 

そんな素性の男であると最初から知る由もない。

愛想よく近づいてきた彼に、好意をもって家の前の借家を紹介したのが家族ぐるみのお付き合いになった。

こちらからはそれ程出掛けなかったが、先方からはしょっちゅうやってきた。

彼等は共に人並みすぐれてセックスが好きであった。猥談やテクニックについては右に出るものがなかろうと思われるほどに精通していた。

戦後アメリカ製の民主主義が入って来て革新的な新時代になった。性の開放が叫ばれて、今や、これに関する情報は巷に氾濫しており、一寸も珍奇なことではなくなったが、当時は全く秘め事として滅多に口にしなかった。

が、彼等は全く別であった。目的もなく、勉強意欲もなく、向上心もなく、趣味、娯楽、特技もない彼等は、アレ一筋を生き甲斐にしているようであった。

本郷氏は酒で憂さを晴らし、酒で明日の活力を養うことも出来たが、奥さんに至っては子供のこと意外何もなかった。よって奥さんのほうが主人よりも一層色欲が強く、その方面の関心度も高かった。実感籠もった面白い話を微に入り細に亘って色々と聞かせてくれた。時には猥本や春画まで持ってきて、読めとか、写せとか、見るように云って、その点では私達夫婦も大いに勉強になった。

その所為であろうか、10月初め前後から寿美江は私の良さを本当に知るようになり、体を求めてくることが頻繁になった。

裸足で私が逃げ出していては可愛い彼女に怨まれる、と考え一生懸命サービスする破目になった。12月頃に播かれた種であろうか、翌年の初め頃になって芽生えたことを寿美江が告げた。

愛の結晶が初めて実ったのだ、と二人で喜んでいると3ヶ月あたりで流産になってしまった。残念だったが仕方がない。二人はまだ若い。

可能性のあることはこれで実証されたのだから「これからも一生懸命に頑張ろうね」と、話し合った。

「播かれぬ種子は生えぬ」のだからと。

話は前に戻るが、或る日の朝、寿美江は「胸が痛いから」と云って起きてくれなかった。仕方がなくて私が食事の支度をして会社を休み看病することにした。

医者を呼んで来て診察をしてもらったところ「肋間神経痛である。昼頃にあれば治るであろう」というのである。

ところが昼を過ぎても痛みは減退しそうでもなかった。

慌てて私は沼袋の静姉さんに電話して、事の次第を報告した。

当時、姉さんは講師の資格で小学校の先生に行っていたが、勤務先から早速見舞いに駆けつけて来てくれた。

その前にも、寿美江は2度蕁麻疹に罹ったことがあった。この時にも姉さんが来てくれた。この時は2度とも貝を食べて中毒したことが分かり、また大事にならなくて済んだ。

しかし、今度は内部疾病である。肋膜炎または肺病では、と私は心配でならなかった。

枕元で姉さん曰く「長谷川さん、あまり遣り過ぎるんじゃないの?」

これには一瞬たじろいでしまった。

「そうではないと思うが」と、答えたものの果たして?

当時は私よりも寿美江の方が食い意地が突っ張っていたから。

 

退社の経緯

 

丁度その頃であった。小さな会社であったが、あっちこっちで4・5人位が集まって何か知らないがひそひそと囁いていた。そのうちに私にもそのチャンスがやってきた。

聞いてみると、何とそれは菊島さんのボイコット(排斥)運動であった。

「暫く考えさせてくれ」と云って、私はその場を逃れた。

菊島さんは浜松高工の臨時教員養成所を出たのであったが、稀に見る頭脳明晰、記憶力、推理力共に優れ、論説も理路整然としており、討論すれば絶対に後に退かない人であった。剃刀のように切れ、てきぱきとあらゆる物事を処理し、達筆の人であった。

当時、同業会社に横河電気製作所や品川製作所、その他があった。

その中でも横河は業界中で群を抜いていた。その会社に追い付け、追う抜けと菊島さんは必死であった。そして、その会社に勝るとも劣らぬ「TOYO LIST」と云う立派なカタログを作り上げ宣伝に努めた。

その様な逸材であったので会社の信望も厚く、菊島さんのいうことは殆ど聞き入れていた。これらのことが他の従業員達に僻み根性を起こさせたのであった。

蔵前(東京)高工出の佐野、日大工学部出の中村、山梨高工出の木村、横浜高商出の高橋といった課長や主任連中が中心となって一斉ストライキを計画していたのであった。

元浜松高工助教授であった荒川先生は、研究部長であったが老齢のせいで関係されなかったようだが、菊島さんの直接部下であった者も、恩義を受けた者までが、彼等の味方になってしまった。

私は、菊島さんには入社時以来非常にお世話になっていたので、義理人情を欠くことは出来ない。むしろ私は菊島さんの側に立って擁護すべき立場だ。

しかし、多勢に無勢だ、太刀打ちの仕様がない。どちらからも卑怯者呼ばわりされるかもしれない。

が、この際、たとえ全従業員から如何なる誹りを受けようとも中立を守るしかないと決心した。

よって、私は不偏不党の立場で臨むと彼等に伝え、この問題に関する限り一切関与しないことにした。

会社の側では非常に苦慮したようであるが、結局、全従業員に仕事を休まれては忽ち会社は潰れててしまう。菊島さんに犠牲になって貰う以外にないという結論になった。

「泣いて馬謖を斬る」ということをいうが、これは馬謖が君命に叛いての一戦で大敗を喫したことからきている。

それで諸葛孔明が軍律に従って、見せしめのために自分の片腕ともいうべき可愛い部下を斬った時の心境を表したものである。

しかし、今は違う。菊島さんは主命に叛いていない。負けてもいない。見せしめでもない筈だ。全社にとって菊島さん程貴重な存在はなかった筈だ。

会社はそれこそ本当に「泣いて菊島さんを斬った」に違いない。

「出る杭は打たれる」の好例であったのかもしれない。

このような経緯で菊島さんは東芝、日本電気、早川など共に弱電界の九大メーカーといわれた安立電気株式会社に変わっていったが、最初から企画課長として採用され、その後も敏腕を振るった。

従業員1500人位であったが、腰が温まって2ヶ月ほど経った時、菊島さんから「是非、私の会社に来い」とのお誘いがあった。

私は前記したように、会社が今もって信頼していてくれる、という自惚れもあって、会社の期待を裏切れない。

といって、他の連中とは、中立を固執した関係で、しこりが残っている。

一面、こんな小さな会社にいては一生埋もれ木になってしまう、という懸念もあった。

会社関係の誰の家も訪問したことはなかったが、菊島さんの家だけは何度かお邪魔して、奥さんとも懇意であった。

その奥さんからも転勤を薦められ、寿美江とも相談の上で退社を決意した。

 

余談になるが私が入社し時の初任給は45円であった。

これはクラス中で最高であって、他高工出身者の最高額もこの位であり、高商出の者は

35円から40円くらいであった。

「それだけ出さなければ長谷川君はやれない」と、赤野教授から菊島さん、菊島さんから会社へと掛け合い、会社が飲んでくれたからである。

(昭和)12年の夏には60円であったが、暮れには65円に昇給した。これは破格のアップであった。

高専校出では1円、2円50銭くらいが最高昇給基準であったからである。

ストライキ問題で、私一人が毅然たる態度をとったのに感動しての処遇ではなかったかと思うのだが。

1年前に会社創立後初めての結婚祝いを戴き、暮れには破格の昇給をさせて貰った矢先に勝手なことを申し出して本当に申し訳ないと陳謝しつつ、私の苦しい立場をありのまま申し上げて会社に退職願を出した。

中島工場長は居られなかったが、今度も寺沢社長、堀江専務、浅田常務が居られた。

社長「君の苦しい立場、よく判った。まことに残念だが今更君を引き止めことも出来ない。君にしてあげたことは、君がよくやってくれたからのことであって、それに対して君がくよくよ思うことはない。それよりもこれからの君のことだか、君が向こうの会社に行って少しでも有利な立場になれるようにしてあげたい。例えば、この会社の技手であったとか、係長であったとか、主任であったとか云えば、多少は違った目で見てくれるであろうから。希望があったらそれを言い給え。遠慮はいらんよ。」

「有難う御座います。向こうの会社へ行けば私は誰よりも新参者です。何もかも初めから遣り通すつもりでおりますから何も希望はありません」

専務「うん、それはいい心得だ。節度を守ることは良いことだ。君は何所へ行っても認められるよ、しっかり遣り給え」

社長「それじゃあ、こちらでは営業部販売課主任心得ということにしておこうか」

「そうですか、有難う御座います。色々とお世話になりました」

社長「いやいや、お礼を言わなければならんのはこっちだよ」

専務「有難う、元気でヤってくれ給え」

常務「時々また遊びにきてくれ給え」

「有難う御座いました。有難う御座いました。」と3人に頭を下げた。

 

序ながら、私がこの会社に勤務中、赤野教授が「電気計器及び測定器」の著書を編纂された。その時、色々の写真やデータ、その他の資料を提供して、先生から感謝され、出版記念には、その本とカットグラスの灰皿を頂いた。

こうして私は2年8ヶ月御厄介になった東洋計器電気株式会社を退社し、翌日、安立電気株式会社に菊島さんを訪ね、人事課に案内された後、社長をはじめとする諸幹部の方々に紹介されて新しい道を歩み始めた。

昭和13年1月半ばのことであった。

 

転 居

 

3月下旬、菊島さんが「僕の家の前の人が転勤になって空き家になった。越してこないか」と云われた。

寿美江と二人で行って見ると、道一つ隔てて全く菊島さんの家の真ん前であった。

三叉路になった角の家が菊島さんの宅で、目的の家は三叉路の頂点に当たるところで、祐天寺に通じる道筋であった。何度も来た所であるが一向に気がつかなかった。

改めて見ると2メートル位の竹網の垣根があって、門構え、その中には一寸した庭があって、高さ3メートル位の若い桧が3本植わっていた。

玄関から家の中は入って見ると、間取りは今の家と同様、6畳間と4畳半、勝手場と便所があり、二階が8畳間であった。

これなら来客があっても、子供が出来ても、当分は大丈夫と思った。「家賃は?」と聞いてみると今までの約倍額、10円であった。

寿美江に相談してみると「結構やっていけるわ、借りましょう」というので早速借りることにした。

日曜日に八百屋さんのリヤカーを借りて来て、二人で家財道具を運んだ。

2・3分のところであるので厳重な荷造りなどしないで、そのまま車に乗せて、何度も通っているうちに済んでしまった。

新婚早々の思い出深い1年3ヶ月を過ごした前の家とも別れ、半年ばかり続いた本郷氏宅との腐れ縁もなくなり、菊島さん一家との家族ぐるみの長いお付き合いが始まった。

振り返ってみると、私達の東京生活の殆どはこの家を根城として始まり、この家で終わった。長男や次男が出来たのも、生まれたのも、育ったのもこの家であった。

父や兄弟や秀夫様達が来られたり、又泊まったのもこの家であった。

米英への宣戦布告や軍艦マーチなどを聞いたのもこの家であった。

 

天は二物を与えず?

 

菊島さんはその時35歳、奥さんは30歳で私と同年であった。

二人の間には既に小学校2年生と1年生の男児と、5歳ぐらいの長女がいた。

菊島さんは前述したように甲府の人であるが、浜松高工を卒業するとすぐに滋賀県立高女へ赴任し、数学の教師になった。

この間に、学校中で一番の美人で頭の良いのを妻にしようと考えた。そうして白羽の矢を立てた女学生が奥さんである。

その女学生は、琵琶湖に突き出した座敷を持つ料亭の娘、それだけでなら何の異存もない筈だが、他に色々な理由があったのであろう。

菊島さんの両親は大反対、一方娘の親も二人姉妹の長女であったので、こちらも反対。

そこで、その女学生が卒業すると同時に駆け落ちして、東京で同居生活を始めたのである。それが原因で、菊島さんは長男でありながら、親から勘当され、奥さんの入籍を拒否されてしまった。それで三人の子供は何れも奥さんの私生児になっていた。

その為、就学期に、子供が可哀相だからと大いに悩み(東洋計器時代)、父親の認知手続きを取ったが戸籍面ではどのようになっているのか私の知るところではない。

そのような訳で、両人共に未だ克って、どちらの家にも里帰りしたことが無いとのこと。少なくとも菊島さんの両親は、嫁の顔も、孫の顔も知らずにいるに違いない、と思うと些か気の毒である。

何百人という生徒のから選抜しただけあって流石に奥さんは美人であった。

今なら何々美人コンテストで一位に当選するような人であった。

チャーミング(魅力的)で、愛嬌もあり、垢抜けしていて人当たりも良かった。

スタイルも良かったが何故か洋装姿は一度も見掛けなかった。何時も一寸厚めの化粧をし、口紅も濃い方で、よくおしゃべりする人であった。

だが卒業してすぐ駆け落ちをし、花嫁修業をする機会がなかった所為か、主婦業に疎く、手芸もなく、和洋裁もせず、全部既製服で間に合わせていた。

又、子供が成長して手が掛からなくなったこともあって、所謂有閑マダム的な生活をしていた。

だから朝、私達を送り出した後で、寿美江と顔を合わせると一時間近い立ち話して、寿美江も困った事がしばしばあったようである。

それとは関係なく、私達は菊島さんの家に行くと、色々なことを話し合って離京するまで7年間(結婚後)乃至9年間(私の入社から)の長い間ご交誼を頂いた。

 

寿美江の思い出を書くに当たって、この時代のことを避けては通れない故に、冗長に亘る虞もあるが今少し付記することとする。

安立電気入社3・4年間の頃の菊島さんは花盛りのときであった。

菊島さんは持ち前の天分を発揮して、誰にも出来ない複雑な工程管理を研究し、素材の発注購入から完成品の納入集金までのあらゆる伝票の整理統合をやり、物品の流れを円滑にするように機構の大改革を会社に呈言し、一冊の本にまでした。

会社はその言を取り入れて社内のあらゆる面の一大改廃を断行した。

こうして菊島さんはこの会社でもその才能を認められ優秀社員の一人になった。

だが、「天は二物を与えず?」というか、菊島さんは健康を害して時々欠席するようになった。最初のうちは2・3日であったが、年を経るに従って1ヶ月間、3ヶ月間といった具合で、段々長欠することになった。

奥さんは肋膜だといっていたが、結局は結核菌に冒されて入退院を繰り返すようになった。昭和19年3月、私達が東京を引き上げて来る際に、ご挨拶に行った時も、20年の終戦日の午後(丁度私が東京へ出張中)に訪れた時も、都合よく在宅中で、元気は無かったが機嫌よく迎えてくれた。

しかし、翌年(昭和21年)の3月頃訃報があった。矢張りいけなかったのか。

享年43歳、奥さんは38歳の筈、中学4年と3年生、それから小学生の女の子が居る筈だ。奥さんや子供さんはこれからどうなさるのか。

敗戦の混乱期、長患いのうえ主人を亡くし、帰る里もない。

あの美貌であった奥さんは今どんな姿に?と本当に気の毒でならなかった。

と云って此方もどうにも術がなかった。

違法ではあったが、札の何枚かを入れ、弔いと、慰めと、励ましの文字を綴って、長文の手紙を出した。

恐らく何の足しにもならなかったであろうが私の気休めであった。

それから38年、今は何所でどうして居られるやら。健在を祈って止まない。

 

長男の誕生

 

前記したように結婚して1年ばかりして漸く子宝に恵まれたと思って喜んだのも束の間で、

3ヶ月ぐらいの時にどうしたことか流産になった。

家移りして4・5ヶ月経ってから再び懐妊したことがわかった。

今度は大丈夫だろうと喜んでいるうちに、またまた流産をしてしまった。

原因がどう考えても判らない。私達の結婚は決して早い方ではない。寧ろ二人とも3年ぐらい遅かった。その上、こんなことを繰り返していては何時子宝に恵まれるか判らない。当時、沼津市内で秀夫様の弟である茂治様が、岳南病院を経営され、産婦人科医であった。それ故、某日、茂治様を二人で訪ねて行き、診察をして貰った。

「私が手術をしてもよいが5・6日入院が必要である。それでは遠くて不便であろうから私の恩師(慶応病院、元産婦人科部長)を紹介するから其処に行きなさい」と云われた。東京に帰って2.3日後、その先生の病院に入院し、手術を受けた。

その手術が成功して、その後間もなく懐妊した。

胎児は順調に育ち、産み月も狂わず、楽々と呱々の声をあげたのが長男の峯生である。

結婚してから2年7ヶ月経った7月10日8時頃であった。

前晩、産気があったので夜の10時頃入院し、翌朝のことであった。

それから1週間、その瀬尾病院に入院していた。病院から家までは1km足らずの距離であったが、寿美江が赤ん坊を抱き、私が荷物を持ってタクシーで帰宅した。

その後、大事をとって2週間家政婦を雇った。

以後、寿美江の緻密な育児法によって極めて順調に育っていった。

その年は皇紀2600年であって、生後4ヶ月経った11月10日には、日本全国で盛大な奉祝祭典が行なわれた。

昼は旗行列、夜は提灯行列で、宮城前広場は人並み埋まった。14日までの5日間は戦争のために禁止されていた山車や神輿、その他なども許可されて、祭り気分は大いに盛り上がった。

私達も峯生を抱いたり負ぶったりして宮城前に行ったり、町内の行列に加わって、神社や祐天寺などに行って「万歳」を叫んだ。

その後も峯生は身長、体重共に、測るたびに標準をやや上回るという育ち方で、歩き始めの前後には、畑奈がプレゼントしてくれた大きな飯台をあっちに押して行ったりこっちに推して来たりして脚をガタガタにしてしまった。

又、生後1年半ぐらいの時には、家の前をちょぼちょぼ流れる側溝の中に入り大喜びしていた。峯生の時の記録

収入約  100円、

入院費   38円、

家政婦   26円、(1日 1.80円)

返し物費用  37円           昭和15年7月10日

 

芸は人を喜ばす

 

寿美江は多趣、多芸であったことは既に述べたが、それを衒う様な事は全くしなかった。

無駄口を言わないし、お世辞を言わない人柄であったので、初対面ではかなり損をしていたであろうが、私はそういう寿美江が愛しかった。

小原村で機織り屋を失敗した寿美江の父は、守山に来て名古屋製陶鰍フ会計課長になった。

仕事の関係で名古屋の財閥であった伊藤次郎左衛門さんや、岡谷想助さんとも親交があった。

父が会社の休みの日に家庭菜園をやっている時、一寸した傷口から黴菌が入って破傷風にかかり、病院に担ぎ込まれる前に絶命した。

僅か2時間ほどの間の出来事だった。

建中寺で社葬をやってもらい、退職金1500円を戴き、母子で等分し300円を持って私の元に来た。当時としては相当な額であった。

その父の青春時代、日本政界は進歩派の憲政会(加藤高明総裁)と、保守派の政友会(原敬総裁)の2大政党時代であった。

普選を巡って長い間論争が続けられた。

私の父は憲政会を支持していたが、寿美江の父は政友会を支持して大いに活躍していた。また寿美江の父は非常な達筆家であった。

そういう天性を受け継いだのか、感化を受けたのか、寿美江は政治、経済面にも非常に関心を持っていた。又、暇を見つけては習字をしていた。

このようなことから文章は別として、思いの儘のことをさらさらと書くので、沢山いた私の兄弟や自分の姉妹と頻繁に手紙の遣り取りしていた。

私の手紙の代筆など、易易としてやってくれた。

姉妹からの手紙もよく読んで聞かせてくれたが、実にユーモアに充ちたもので、その儘漫才師の種子本に提供してやりたいくらいであった。

又、ちょこちょこっと漫画式の絵を描いて、私を感心させたり笑わせたりした。

時には出窓に腰掛けてギターを弾き、私を慰めてくれたりした。

峯生が生まれる前後からは子供用の布団、ねんね子、着物などを仕立てたり、ベビー用品作りに励みだした。

既製品は殆ど買わず、端きれを買って来たり、亨兄さんの洋服の古着を貰い、裁断し、裏返して再生し、新品同様なものに仕立てた。

本などを参考にして寸法を割り出し、型紙を切って、それに合わせてミシンや手縫いをして作り上げる。

出来たものにアップリケを付けたり刺繍をしたりした。

又、毛糸で衣類をはじめ、帽子、手袋、足袋、その他袋物や人形など編んだ。

出来上がったものが皆素晴らしく奇麗で、可愛かったので、近所の奥様方も感心していた。余裕があるときなどは同じようなものを余分に作って、近所の方に上げたりして喜ばれていた。作らないものは靴だけであった。

一寸手隙になると、乳母車に峯生を乗せて瀬尾病院の近くにあったアメリカン・スクールに行き、赤い毛、青い目をした生徒のダンスや遊戯を見せたり、祐天寺に行って鳩に豆をやったり、滑り台やブランコや藤棚の下で遊ばせた。

 

勅 題 (昭和16年)

漁村の曙(育児日誌より)

 

ほのぼのと 白帆連なる 朝の香に

漁村の朝 明け始めにけり

浜津風 明け行く方に 眼をやれば

今朝のえものに 胸やおののく

昭和15年10月17日 寿美江 詩

 

戦争推移の概略

 

峯生が生まれた翌年、昭和16年12月8日に対米英戦線が布告され、同時に真珠湾攻撃があって軍艦マーチが吹奏された。

明けて翌年、昭和17年2月15日、英領シンガポールが陥落するまでが旧大日本帝国の絶頂期であった。

当時の時代背景を別表で示すことにするが特に戦争の概略をすれば次の4時代になると思う。

昭和6年9月に起こった満州(柳条溝に於いて満鉄爆破)事変は、昭和12年7月に日中戦争(盧溝橋で日中両軍衝突)に発展し、満州から支邦大陸へと戦線が拡大され、昭和

16年12月8日までの約11年間は主として陸軍部隊による陸戦時代であった。

この後、真珠湾攻撃を含めて昭和17年末までは大海戦時代であった。

この間、珊瑚海海戦、ミッドウエー海戦、第1次ソロモン海戦、第2次ソロモン海戦、南太平洋海戦、第3次ソロモン海戦と続いた。

これら大海戦のはじめから17年4月18日、日本本土の初空襲を受けたことからも判るように、既に制空権を取られてしまった。

我が大海軍は大多数の艦艇を失って大敗北を喫した。

知らされていなかったが、日本の敗戦は、この昭和17年の終わりには既に決定的なものになっていた。

制空権、制海権を奪われてしまって昭和18年。19年は陸海空共同のゲリラ戦時代であった。

北はアッツ島、キスカ島、南は南洋諸島、フイリッピン群島の各島礁で、悲惨な激闘が繰り返され、我が軍は玉砕やら撤退を余儀なくされ、敵は段々に北上して来た。

敵はこの間にも飛行機の大量生産や原子爆弾の製造に専念していたであろう。

昭和19年11月1日の東京初空襲を皮切りに、昭和20年は大空襲時代を出現せしめた。8月15日、遂に我が国は無条件降伏するのやむなきに至った。

私なりの解釈で15年戦争を一瀉千里で短く書いてしまたが、その背後には、並々ならぬ国家国民の辛苦が潜んでいたことを忘れてならない。

「天皇陛下万歳」と絶叫しながら、「お母さん、お母さん」と呼び続けながら、「水水」と水を求めながら、「痛い痛い」と呻きながら死んでいった兵士、或いは一瞬のうちに肉片のひとかけらも残さなかった戦士が300万にものぼった。

或いは罹災者、被爆者となって路頭に迷った者も数知れなかった。

戦争とは正に阿鼻叫喚(地獄に落ちた人々の苦しみの叫び)そのものである。

誰か戦争を憎まざる。誰か平和を望まざる。

しかし、相互間に利害関係のある限り、人間が感情動物である限り、人類の宿命ではなかろうか。真に互譲互恵の社会が出現すれば別の話だが。

 

乳児脚気

 

それは太平洋上で食うか食われるかの泥沼戦争の真っ最中の頃であった。

前晩から寿美江が産気付いたので、その日のうちに入院、翌日、昭和18年2月18日、午前9時頃無事に分娩した。

今度も男であって嬉しかった。

長男の時と同様、早速牛山と守山へ「オトコボ シトモブ ジ アキラ」の電報を打った。色々と考えた末に「名を広める男」の意味で「宣生」と命名した。

この字は「のべる」という意味もあって、宣告、宣戦、宣伝、宣揚などに用いられることはいうまでもないが、それを訓読みにして「宣生(のぶお)」とすることにした。

産後3週間は絶対に無理をしてはいけない、といわれていたので長男の時と同様、1週間後に退院、その後2週間家政婦をと思ったが、時局柄来てくれなかった。

仕方がなくて、在所へ手紙を出したところ、牛山から父が来て1週間手伝ってくれた。

未だかって洗濯など一度もしたことのない父(61歳)であったが、可愛い孫や嫁のために、寒中であったがオムツを洗って干したり、買出しに行ったり、煮炊きをして、一生懸命やってくれた。父に申し訳なかったと今でも思っている。

父が帰った後3週間4週間と経っても、宣生の肥立ちが悪く、体長も体重も余り増加しない。

産声を上げた瀬尾病院で診察してもらったところ「母親が産脚気になっており、それに気付かず(今考えると医師の診察不良)授乳をしていたので、乳児脚気になっており、そのため消化不良を通り越して栄養失調になっている。もう手遅れで治らないかもしれない」と云った。

ということは死の宣告を受けたと同様のであった。不憫で不憫でたまらなかった。

戦争たけなわで、産めよ増やせよの時代であり、特に男の子は国の宝として重視されていた。

それは別としても、折角、この世に生を受けた我が子を死なせてたまるものか、と思い母乳に代わって牛乳や練乳を与えようとしたが、時局は熾烈を極め、あらゆる物資が統制され、それらも益々入手困難になってしまった。

こうなると適当な乳母を捜すしかない。

毎日数回以上の授乳を必要とする故、遠方では駄目で、出来るだけ近くて親切な方を探すこととにした。

つい2.3年前までは「隣の人は何する人ぞ」と云った調子の東京であったが、隣組制度が出来て、回覧板が廻って来たり、町内常会が催されるようになっていた。

幸いな事に、こうした会合で知り合いになった方が逓信省勤務の宮田さんの奥さんであった。

先ず、この方から貰い乳をすることになって、特配される僅かな牛乳とミルクの三本立てで辛うじて生命を継ぐことが出来た。

その後、私と同じ会社に勤務する元海軍軍楽隊員であった大橋氏が隣接町内に住んでおり、その奥さんも幼児を抱えており、乳のよく出ることを聞いて依頼したところ快く承知して下さった。

貰い乳と云っても、飲み残しの少量であるから十分ではなかった。

1日数回、赤ん坊を抱きかかえて行き、授乳をして貰って来る母親、寿美江の苦労も大変であった。

それは我が子可愛さの母性愛から出来たことで、今時よく言われる、親の責任だとか義務だとかを超越したものであった。

こうした努力にも関わらず、乳児脚気による栄養失調は容易に回復しなかった。

峯生の時には生後4ヶ月で、生まれた時の丁度2倍に体重が増加し、5.2kg、8ヶ月で6.7kgあった。

それが宣生の時は、4ヶ月で3.38kg、8ヶ月で3.75kgしかなかった。

正に大差である。総てがそのような調子で遅れていたが、2ヶ月半で笑い始め、7ヶ月でよく笑い、玩具で遊び、横になったりし始めた。

月日が経って、歯が見えはじめたりする度に、一命を取り留めた喜びを味わいながら、尚割れ物を扱うような注意を払って育てられた。

遅れてはいるが、長ずるに従って多量の乳を必要とするが、それとは逆に、牛乳や練乳の配給はなくなり、粉ミルクやパトローゲン(調整粉乳とも言い、玄米の粉或いは麦粉コーセンのようなもので臭いがあり茶色)、米の粉や砂糖などの確保に懸命に努めなければならなかった。

離乳食の頃にはウエーハスやビスケットやマンナ(ビスケット代用食)は全く市販されなくなり、食パン、うどん、重湯などの代用食品にも四苦八苦したものである。

親が、特に母親が、子育てに真剣であることは当然のことであるが、寿美江の育児振りも決して人後に落ちるものではなかったように思う。

峯生のときもそうであったが、絶えず赤ん坊の顔色、眼光、泣き声、脈拍、呼吸、体温、体重などに気を配り、特に排便には細心の注意を払っていた。

色、硬軟、粘性、粒子の有無粗密、量や回数などを具に観察し、それによって授乳の量や回数を調節したり、波布草やゲンノショウコを煎じたり、ひまし油や救命丸を飲ませたり、石鹸水で浣腸したり、或いは冷えたときには塩を焼いてお臍に当てたり、湯たんぽを入れてやったりした。

第2次世界大戦の真っ最中で、何事も不如意の時、普通児でさえ育児の難しい時代であった。

それが乳児脚気による後遺症を背負ってしまい、子育てには一層の困難が加わってしまった。

にもかかわらず、宣生が今日、こうして生き残れたのも、何と云っても寿美江のひたむきなこのような努力の賜である。

 

国民歌謡「隣組」

岡本一平・作詞

とんとんとんからりと隣組

格子をあければ顔なじみ

まわしてちょうだい回覧板

知らせられたり知らせたり

 

とんとんとんからりと隣組

地震やかみなり火事どろぼう

たがいに役立つ用心棒

助けられたり助けたり

 

義彦の出征

 

宣生の誕生、退院、父の離京と続いた後、宣生が乳児脚気と診断され、その生命すら危ぶまれる事態になった。

何としてでも一命を取り止めてやらねばならぬ、と善後策を講じている時であった。弟の義彦が村の青年代表として選ばれ、練成会(?)の為に上京してきた。

会の終了後、離京の折に突然に来宅して泊まっていった。

その時、「峯生が可愛くて堪らないから牛山へ連れて帰りたい」と言い出した。

峯生は色白で、割合背丈も大きくて、丈夫であったが、まだ2歳8ヶ月の時で、可愛い盛りではあったが目の離せない時でもあった。

そこで私達は大いに迷ってしまった。折角の呈言ではあるが、可愛い子供を手放すのは?と。

義彦が非常に子供好きであることは私も前から知っていた。又、両親も内孫がいないことであり、皆んなで可愛がってくれると思った。

峯生自身も小さいながら「付いて行く」とはっきり言うので「可愛い子には旅をさせよ」の古諺を思い出して義彦の厚意に従った。

こんな訳で6月上旬、農繁期に入る前の3ヶ月間、彼は牛山の田舎で育てられた。

祖母さんに抱かれて寝たが、毎朝5時半に起きて、別棟で寝ている義彦を起こしに行き、日参団の仲間入りをし、歌を歌いながら神社の参詣に行った由。

「どんな様子か遠眼鏡でソーット見てやりたい」と、何時も寿美江が言っていた。

6月の初めに私が東京に連れて帰ったが、それから3ヶ月経って義彦に召集令状が来て、9月8日に彼は飛行兵として出征した。

門出を祝うに、私は峯生を連れて帰郷した。

この時の義彦の姿や顔が、この世での見納めになろうとは・・・・・ああ涙・・・・又涙・・・・・

この時の詳細は別著「母に勝る母」に。

 

転勤と疎開

 

昭和18年11月に入って、東京では軍需工場や重要施設の近辺にある木造建造物の強制撤去が始まった。

名古屋でも同様であったと思うが、東洋紡績(株)が閉鎖され、建物と広大な敷地はそのまま我が社が引き継ぐことになり、安立電気の名古屋工場が出来る事となった。

ドイツのベルリンに次ぐ大都市ハンブルグが連合軍に徹底的に爆撃された、という報道が伝わってきた。この時、私の脳裏には東京も同じ目に逢うという予感がピーンと来た。

この機を逃がしてはならない、と私は早速、名古屋転勤を会社に申し出て許可された。

こうして私は疎開を兼ねて牛山にUターンすることになった。

(昭和19年)3月20日頃であったが、家財道具は一切会社の必需品という名目で荷造り一切を会社の発送係がやってくれた。

精密機械の発送荷造りに慣れていることとて、鮮やかな手つきで厳重にやってくれた。

出来上がった荷物は一旦名古屋工場に送られて来た。工場から牛山までは2台の馬車に満載されたが意外に沢山だったのに皆んな驚いていた。

このような訳で、運賃が無料で済んだのも嬉しかったが、何一つ破損していなかったのは尚嬉しかった。

かくして私の12年かに亘る東京生活は終わりを告げたのであった。

 

三綺語

 

次の平仮名を漢字で表しその意味を書け。

1    とうへんぼく       唐変木

2    あまのじゃく       天邪鬼

3    こんりんざい       金輪際

恥ずかしいながら私は全く知らなかった。

結婚後数年を経て時々寿美江が口にした。

何度聞いても私はチンプンカンプンであった。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。

 

仮住まい

 

こうして私達家族4人は牛山に寄寓し、通勤には最寄の間内駅を利用して数ヶ月経ったときであろうか、冗費節減を理由に、名鉄電車鰍ヘ各所の駅を無停車駅に指定した。

間内駅もその一つになり利用できなくなった。止むを得ず牛山駅を利用することとなったが、これがまた小向橋の鉄橋を徒歩で渡らねばならず、不便極まりないことになった。

夜には危険で利用できず、可也りの遠回りを余儀なくされた。

従って、通勤時間も3時間半以上は悠にみる必要に迫られた。

よって、私は守山に空き家を探して貰うことにした。それが報いられて私達は瀬戸線沿いの長栄(二十軒駅と瓢箪山の間)に住むことになった。

日曜日にリヤカーに必需品だけを積んで運んだ。数km?ばかり東方の三郷?辺りの山へ行って、10cm位の太さの松の木を切り倒し、2m位の長さに切り揃えて運び、線路沿いに防空壕を作ったりした。

この様な訳で、この頃は日曜日と云えども全く休む暇などなかった。

この家に何時移り住んだか、従って何ヶ月住んだか今では全く覚えていない。

丁度その頃、寿美江の在所も、結婚当時の古い家を出て、二十軒に近い所で新しい2階建てに転居していた。

高台にあって見晴らしの良いところであったが、西側に崖があって拾数段の石段を上がらなければならなかった。

 

地震と名古屋空襲

 

昭和19年12月7日、その日私は社命で東京に出張中であった。

2年ばかり前に出来た網島工場の2階で要談をしているとき、可也り強烈な地震を感じた。1時間ばかり後で震源地は、伊勢湾近辺であったと知らされたが被害状況は全く不明であった。

帰社してみると、顔見知りの社員一人と、徴用中の数名が圧死したとのことで驚いた。

遺体は既に処分されており、詳しいことは誰も口を閉ざして語らなかった。

家に帰ってみると、寿美江は「こんな大地震は初めてで、貴方の留守中に母子3人死ぬかと思った」と云った。

これが後で東南海地震と名付けられた大地震であった。伊勢湾沿岸に大被害を与え、軍需工場の倒壊、死傷者などのために生産は大いに阻害され、戦況に大きな影響を与えたことはいうまでもない。

1週間後の12月13日午後3時頃、所用があって名古屋から牛山に行く時であった。

牛山駅で下車し大山川の堤防を歩いている時に空襲警報を聞いた。

何が何でも家まで辿り着きたいと急いだ。

丁度、門口まで来た時、敵機十数機(?)が見えるか見えないかの高所を、飛行機雲を作りながら頭上で旋回していくのが見えた。

その数秒後にドンドンという鈍い爆発音が聞こえた。

これがB−29による名古屋の初空襲であった。

牛山に一泊して翌日、寿美江に聞いて見ると「子供を抱えて防空壕の中で震えていた。全然、外の様子は判らなかった。壕の中へは土砂がバラバラ落ちたが、果たして防空壕が役立つでしょうか」とぼやいていた。

罹災地や被害状況を口にすることは固く禁じられていたので本当の状況は不明であった。当時、私の役職は製造課課長付けで、他に安立青年学校教師と消防班長を兼務していた。

「人の口に戸は立たず」で、その爆撃は大曽根の三菱発動機を目標にして行なわれ、多数の死傷者が出て被害甚大であった、との噂が伝わってきた。

よって、橋本工場長が「被害状況を見てくるように」と、私に命じたので出掛けて行った。コンクリート塀で囲まれた工場敷地内には入れないので、東大曽根から鍋屋上野の辺りまで歩いて往復したが、至る所で工場建物の鉄筋がひん曲がって剥き出しになっており、穴の開いた塀から工作機械が横転している有様がよく見えた。

更に驚いたことに、逸れ弾が殆ん無かったことだ。

3000m(ラジオか新聞で知っていた)の高所から落としたものが、総て工場敷地内に落下している。照準の正確さには敵ながら天晴れだと思った。

このような状況から私は「死傷者数百名は下らず、被害甚大であり、従業員の意気阻喪は必至である」と、工場長に口頭申告をした。

勿論、これは一般には報道されなかったが、戦後になってこの報告に誤りのなかったことが確認された。

 

被爆体験

 

続いて12月18日には三菱の大江工場を目標にしたらしい空襲があった。

この三菱工場から我が社は近かったので、増築用にと積み重ねられてあった材木置き場に焼夷弾が落ちて破裂散乱した。

あっちこっちでメラメラと焔を上げているのを大勢で叩き消した。

昼間であって、見付けるのも早かったが、多人数であったので初期消火に成功した。

これが会社にとっても、私個人にとっても空襲の初体験であった。

翌年、即ち昭和20年3月24日の未明には、名古屋の東北部一帯に亘って大規模の空襲があった。

警報が鳴って、防空壕に駆け込み、暫く経つと閃光があった。(後で聞くと、これが最初の一機が落とした閃光爆弾又は照明弾というもので、名古屋市中が昼間のように明るくなった由、続いて焼夷弾を落として行けば、その道筋に火の手が上がる。後続機はその周辺を盲爆していく仕組みである。如何に灯火管制をしていても無効なわけである。)

寿美江は満2歳なったばかりの宣生を右腕に抱き、左腕に4歳8ヶ月の峯生を抱えている。その寿美江を私が又抱えている。正に死なば諸共の覚悟であった。やがて爆撃が始まった。至近弾が落ちる度に、地響きで防空壕の天井から土砂が落ちる。

実質1時間ぐらいの緊張の連続であった、と思うがこの時ほど時間の長さを感じたことは未だにない。

怖いもの見たさも手伝って、私が壕からそっと顔を出して外の様子を伺ってみた。

百数十機?の敵機が、海岸に押し寄せる波のように1波、2浪、3波・・・と編隊を組んでやってくる。

その都度、雹か霰が降る時のようにササーという音がする。(それは何十本か何百本か知らないが、焼夷弾の束が空中で分散し、一本一本になって落下するときの摩擦音である)。

その中に混じって大型爆弾の炸裂音がドンドンと聞こえる。

土埃が2,300mの高さまで舞い上がり、微風に流され棚引く。

あちらこちらで上がった火の手がそれに反射して、恰も火事場の猛煙のようである。

どれが本物の火災かと戸惑う位であった。

この光景を見て、無信心な私も流石にこの時ばかりは「我が家だけには落ちないように」と神頼みする以外になかった。

敵機が去り、警報解除があり、夜の白むのを待って家の中に入ったが、天上からの埃、壁土の脱落、その他外部から吹き込んだ土砂で、畳みの目など見付ようにも見付からない状態であった。

履物のまま上がり、一生懸命掃除をした後で雑巾掛けをした。

夜明けになって、寿美江が食事の用意に掛かると、私は早速安否を確かめようと、守山の本家と寿美江の在所へ見舞いに出掛けた。

樹木の倒れや家屋の飛散したもの、被爆土の盛り土などで、何時もの道路は通れる状態でなかったがので、私は電車線路に沿って歩いた。

それでも電柱の倒れや架線の切断などで蜘蛛の巣のようであった。

見舞った家は両家共に無事であったので安心したものの、近くには一家7人が直撃弾を受けて惨死したという哀れな家があった。

当時、ラジオで警報の発令、敵機数、飛行コース、警報解除などは知らされたが、罹災地や被害状況は一切報道されなかった。

戦況は自己判断でする以外になかった。

これ程の猛爆撃を受けてもまだまだ名古屋市内には沢山の家屋が残っている。

敵機は再三、再四とやってくるに違いないと推察した。

そこで私達は守山を引き揚げ、牛山に戻ることにし、リヤカーで荷物を運び出した。

一番の近道である勝川橋は爆撃の影響で「通行止めである」と耳にした。

止むなく、矢田川橋を渡り東大曽根から平安通り、上飯田、三階橋、水分橋のコースを辿ることとした。

漸く上飯田駅手前に辿りついた時が10時頃であった。

ところが自警団により通行止めを食ってしまった。

聞けば「矢田川堤防へ避難しようと駆け行く多数市民の群れの中に爆弾が落ち、上飯田駅は吹き飛ばされ跡形もなく、人間そのものも駅前にあった大隈鉄鋼所青年学校のコンクリート塀に叩き付けられたり、肉片が貼り付いているので一般市民にその惨状は見せられない」との理由であった。

詮方なく、リヤカーを牽いて、青年学校の裏手へ廻り、辻町の方まで行き。黒川を渡り、三階橋、水分橋と迂回してきた。

この両橋の辺りでは見る限り、田圃といわず河川敷といわず川底といわず、一坪当たりのところに大小の焼夷弾が1.2発の割合で突き刺さっていた。

翌日、2度目の荷物を取りに行く途中、勝川橋を渡って金屋坊辺りまで行ったとき、米兵飛行士の墜死体を見た。

それから200m位離れた瀬古神社の森の中にB−29の残骸を見て、その大きいのに驚嘆した。

憎らしい、いい気味だという敵愾心も沸いてきた。

それから4.50m行った矢田川堤防でまた米飛行士の焼死体を見た。

昨朝の空襲時に高射砲で撃墜されたものであったろう。

後日、電車の窓から見ると直径5.5m位の大穴が三つほど上飯田駅と矢田川堤防との間の田圃の中に出来ており、降雨の時には池になった。

いうまでもなく上飯田駅付近に落ちた一連の大型爆弾の傷跡である。

当時、南方方面の激戦地でも、このような空襲が繰り返され、盲目爆撃とか絨緞爆撃という用語で形容されていたが、正に絨緞を敷き詰めたといってよいほどの爆弾の撒布振りであった。

要りません命以外は

 

その時の惨状を目の当たりに見た名古屋市民の恐怖は一挙に高まり、市内から田舎への疎開は急激に増加し、犬山街道では大八車やリヤカーに家財道具を満載した行列がひっきりなしに続いた。

このような有様なので、寿美江の在所が気に掛かり、牛山に引き上げてから4.5日後に尋ねてみた。

家の中に入ってみたが今迄と何ら変わりなく、何時まで待ても誰も来ないところを見ると小原村(本籍地)へ疎開したのだと思った。

それにしても施錠もせず、これ程色々な物をそのままにして置くとはどういうことだ、と思った。

馬鹿なことをするものだ、泥棒に「自由に持っていけ」と、云っているのと同じじゃないかと思った。

しかし、落ち着いて考えてみたら、私の考えの方が時代錯誤であるように思われてきた。というのは、私の会社の近くで3000円もしたであろうと思われる立派な家が「この家、50円で売ります」という売り家の張り紙が可也り長い間貼られていた。

60分の1、まるでただのような値段であるのに、なかなか買い手がつかなかった。

ということは、殆どの人が、焼け野原にされるであろうということを見越していたからである。家ですらそうである。その他の物には目もくれない程戦況は切迫していた。

「どうせ焼かれるものなら、泥棒にでも、何でもよいから人にくれてやった方が人助けだ」と、捨て鉢気分が名古屋市民の間に漲っていた。

亨兄さん達も、そんな気持ちで疎開していってしまったのだと判断した。

一足先に牛山の田舎に引き上げた私は、そのような気持ちにはまだなっていなかった。

部屋の真ん中でじっと考えた末、戦争の見通しはつかないが、一時でも私の家に引き取って置いてやれば、盗難からも、火災からも守ってやれるではないかと考えた。

そこで次の休日にリヤカーで取り来ることにして帰った。

3.4日後に、車を持って行ったとき、施錠もしていないのに泥棒に入られた気配は全くなかった。

静江姉さんの労作である油絵のキャンパス(画布)枠20枚位、寿美江の父が大切にしていたであろう骨董品の陶器壷2.3個、オルガン、その他(覚えがない)を車に乗せて運んできた。

「欲しがりません勝つまでは」の標語が喧伝されていたが、そんな生易しいものではなく、「要りません生命以外は」という心境になっていた。

空襲による悲惨さが人間の物欲をかなぐり追っ払ってしまったのだ。

戦後少し落ち着いてから一時預かりした品々を皆送り届けたが、オルガンだけは寿美江が貰ったので家に留めた。

この頃からであったと思うが、小牧飛行場の飛行機は、神社の森や、田舎の路地裏の竹薮の陰に隠匿されてしまった。

又、名古屋港の近くにあった愛知時計(梶jや、大江の三菱航空機で製作されたと思われる飛行機が、胴体と翼とを分離されて牛車でどんどん犬山街道を北上して行くのを見掛けた。

何故こんなことをするのだろうか。飛行機も疎開させたのであろうが、これではいざと言う時に飛び立たせることができないではないか。

飛行機の増産を叫びながら、敢えて役立たない処理をしている当局の方針に疑問を持たざるを得なかった。

凄惨な被災地

 

その後も米機は名古屋そのものを爆撃するために何回飛来したか判らない。

その上、尾張一宮、大垣市敦賀市福井市、富山市などの攻撃に来る度に、手土産か、残物処分と言わんばかり、爆弾や焼夷弾を落としていったから堪らない。

夜といわず昼といわず200機、300機の編隊である。

最初のうちは高度3000m位であったので飛行機はきわめて小さく見え、飛行機雲だけが目だってよく見えたが、後には憎らしい程低空飛行していたので機体も見えた。

全く傍若無人(勝手気ままな振る舞い)の暴虐(むごい仕打ち)爆撃であった。

牛山の天神橋から見ていると、夜は名古屋を初め、豊橋、岡崎、四日市、桑名、岐阜市、大垣市などが攻撃目標になっていることが天を焦がす焔の明るさから推定できた。

昼夜を分たぬこうした猛爆撃で、交通網は寸断され、私など上飯田から否味鋺駅などから尾頭の向こうの五女子町の会社まで、帰りは逆に、会社からそれらの駅まで、何度歩いたか分からない。

空襲警報発令と共に、総ての乗り物は、その場で停車してしまったからである。

私だけではない。通勤者の殆どが大同小異である。

何れの会社も作業能率が落ちるのは当然であった。

それでも私達は会社へ会社へと急いだ。

燃え盛っている街並み、崩れ落ちて燻っている家を横目に眺め、敗れた水道管から湧き出す流水を飛び越え、倒れた電柱を跨ぎ、心は会社へと焦った。

犬や牛が野垂れ死にしている。人の死骸には藁莚が被せてある。

今日は人の身、明日はわが身かも知れない、と戦慄(ふるえおののく)せざるを得なかった。まるで地獄の世界を急いでいるようであった

 

次へ続く