窈窕の妻その2
10時頃になって予め依頼してあった髪結いさんが来た。普段、女気の少ない我が家に、妹を含めて女が7人も集まったので、一層賑やかになった。
皆が注目している中で、一晩寝ただけで、それほど崩れていないと思うのに髪型はどんどん壊され、何度も梳かれていた。
「癖のない良い髪をしていらっしゃるわ、梳いていても気持ちが良いし、結うのも楽ですし、このような髪は出来上がりもよろしいし、お顔にもよく似合いますよ」と云っていた。出来上がったのをみると、先ほどまでとは全く違った髪型であった。
平たい長円形の髷がついていて、このようなのを丸髷といい既婚者の結う髪型であるとのことであった。して見ると寿美江は「昨晩は性交をしました」と、公衆の前で宣伝することになるのか。
何時の時代から始まり、誰がそのように定義付けたのか知らないが、女の羞恥心をかきたてるようなものではないか。寿美江がいささか可哀相になった。
周りでは「ああ、よく出来た」「とってもお顔によく似合うわ」「島田も良かったが、丸髷もとっても良いね」「寿美ちゃんはもともと器量よしだから日本髪ならなんでもよく似合うわ」「・・・・・・・」「・・・・・・・」などと喚いていた。
その後、寿美江と髪結いさんは座敷に入り、お化粧をし、衣替えをし、着付けを手伝ってもらってでてきた。それを見てはしゃぐ声が又高まった。誰の見る目も同じようであった。白粉も口紅も薄めで、昨日の花嫁姿より、より現実的で奇麗であった。昨日はまるで作り人形のようであったが今の寿美江には血が通っている。既に俺の男性ホルモンを吸収したせいか生き生きしている。寿美江はもう俺のものだ。側でいくらわいわい騒いでも寿美江の肉体には指一本触れさせないぞ、そんな気持ちが湧いてきた。
髪結いさんが帰った後、何を手土産に持っていたか覚えていないが寿美江の母に付き添われて近くの親戚と隣近所へ挨拶に行ってきた。
その後大勢で昼食を共にした。伯母や母や兄嫁が帰って行くとき、私達二人は間内駅まで見送りに行き、序にその足で私の母の在所である藤島へ挨拶に行くことにした。
ここまでははっきり覚えているが、その後のことがどうしても記憶から甦ってこない。
どうして往復したのか、途中での様子、藤島での様子、その夜(第二夜)の過ごし方など全く記憶にないのが不思議でもあり残念である。
翌日3日、この日は守山の実家に行き荷造りをした上で、夜行列車に乗り上京、そのために8時頃家を出発する予定になっていた。
私達のためにわざわざ来てくれた次兄も、「では俺も一緒に家を出て帰船するから」ということになった。
家族に見送られ間内駅に行った。其処で家族や次兄と名残を惜しみながら再会を約して別れた。
私達二人は守山の実家に向かったが、途中本家に寄り、感謝とお別れの挨拶をした。
守山の家では東京から来た静江姉さんがまだ滞在中であった。
丸々一日を留守にしただけであるが寿美江にとっては始めての里帰りである。丸髷姿を見て家族全員から夫々に改めて「おめでとう」といわれて寿美江もくすぐったい気持ちであっただろう。
大体の荷物は整理済みであったが、最後となって東京に行ったから不自由のないように「あれはどうの」「これはどうの」「それよりこれを」「とても持ちきれないから止めるは」「・・・・・・・・」等と全員で取り持ち、持参する荷物を整理した。
私は二度目の訪問であるが、未だに姉妹や嫁の区別が付けにくかったが、何れにしろ家庭内の雰囲気が良いのに感心するやら嬉しかった。
「一本つけましょうかと」云われたがお断りした。
夕食は全員で食事についたが、私のために2,3本酒をつけてくれて良い気分になった。その日は朝から曇っていたが午後から雨が降り出した。出発予定時刻が来てタクシーが来た。兄夫婦が大きな竹行李を持ち込んでくれた。私達が持てるだけの荷物を持って乗り込んだ後、兄夫婦も同乗した。
残った家族に見送られて「さようなら」をし、名古屋駅にいった。
兄が早速竹行李を手荷物(チッキ)にし、宅配するように手配をしてくれた。
私達は荷物のほかに静江姉さんが前もって買ってくれた乗車券と寝台券を手にして乗車した。ホームで兄夫婦が手を振って見送ってくれるのに答えて、私達も一生懸命手を振った。寝台車を利用したのは初めてであった。よく眠ったかどうかも覚えていないが、9時間半ばかりかかって東京駅に付いた。
住み慣れた東京のこととて戸惑うことなく省電(峯生 注 今のJR,国電の前の呼称)に乗り、恵比寿駅で降り、市電(峯生 注、当時は東京市であった)に乗り換え、中目黒の終点で降車した。
幸にも東京では雨が降っていなかった。歩いて10分、二人は重い荷物をぶら下げて商店街を通り、新婚夫婦を今や遅しと待ち受けていてくれるであろう我が家へと急いだ。
玄関に入り漸く荷物を手離して肩の荷が下りた。
一週間ばかり前に置いていった私の荷物があるだけで、世帯道具は何一つ無いがらんとした家である。
「こんな小さな家だが当分此処で辛抱しようね」
「ええ、結構ですわ、私達二人だけですものこれで十分ですわ」
「十分でもないが、これでも一戸建てで誰にも気兼ねする必要はないからね」
「それが何よりですわ、いい家を借りて下さったわ」
「いい家かどうか、私達同様新築ほやほやの家だからね」
「汚さないようにしなければいけませんね」
「そんなこと構わないさ」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「疲れたでしょう。腹が減ったし火の気もない、寒くなってきたから食事に行こう」
「ええ、序に色々な買物をしてきましょう」
私達がつい先頃通ってきたばかりの中目黒の商店街へ行って、ゆっくり朝食をして温まった。その後、真っ先に瀬戸物屋に入って夫婦茶碗、皿類、徳利、盃、火鉢その他を買った。火鉢だけでは使い物にならず灰の事を聞くと「包装用に使われた藁や縄のいい藁灰があるから」と裏の方に行って一杯詰めてきてくれた。
これから新所帯を持つことを察した主人が色々話しかけてきた。話している内に同県人で、同じ尾張人間であることが分って急に親しさが沸いてきた。
こうした誼で、この店の主人夫婦とはその後もずっと気易い間柄が続いたのも奇縁であった。
その後、あっちこっち歩き回って鍋、釜、薬缶、庖丁、俎、御椀、米、木炭、味噌、醤油、甘味料、酒、米櫃、箒、叩き、塵取り、野菜物の他布団一重ね、枕、座布団、・・・・などを買い、持ち帰れないものは配達を依頼した。
これらは総て衝動買いではなく、予め寿美江が予算を立てて計画してメモしていたものである。
帰宅して部屋の掃除をしていると頼んでおいた品物が次々に届けられた。寿美江が炭火を起こしたり昼食の用意をしている間、私は荷解きをしたり、整理したり、運んだりして雑用をした。
やがて私が学生時代から使っていた黒色の小さな机の上に新しい食器や、炊き立てのご飯や、煮立ての湯気の立ち上る温かい料理が並べられた。
水入らずの二人だけで差し向かいになっての最初の食事は幸福そのものであった。
まるでままごとをやっているような光景であったが、世帯構成のスタートであって、楽しいひと時であった。
一服した後、私達は借家を見つけて下さった上司の菊島さんの家にご挨拶に行くことにした。
2.3分の近いところであったが遠回りしてお菓子屋さんに立ち寄り手土産を買って行った。
「上にあがれ、あがれ」と云われたが、「今日は取り込んでおりますし、近いところですから改めて又ゆっくりお邪魔させて頂きます、今日は一寸ご挨拶にお礼方々伺っただけで」と云って玄関で失礼して辞去した。
その足でまた商店街の寝具屋に行き姿見、洋服箪笥、勝手戸棚、下駄箱、傘立て等を見て周ったが気に入るものがなく、急いでかう必要もなかったので買うのを止めた。
その後、久しぶりに銭湯に行き、疲れを癒した後、二人で揃って帰ってきた。
夕方近くになって、明日しか届かないと思っていた竹行李の荷物が配達されて一安心した。慌ただしい一日であったがもうこれで心に蟠っているものは何もない。後は只管夜を待つだけであった。
夕飯には銚子を付けてくれた。差しつ差されつ飲もうと思っていたのに寿美江は「飲めないが、お祝いだから一寸だけ頂くわ」と云って一口舐めただけであった。
後は頃合を見ては酌をしてくれた。いつの間にか私はすっかり旦那気分になっていた。
摘まみ物も食事も、この時ほど美味しいと思ったことはなかった。真に寛いだのもこの時だけといっても良い。
寿美江が私に幸福を齎してくれたのだ。寿美江に感謝しなければならない。寿美江を大事にしなければならない。私はこれからは寿美江のことを「寿美ちゃん」と呼ぶことにしよう。妹に澄江が居り、やっぱり「澄ちゃん」と呼んでいるが可愛い呼び方だ。
人前では兎も角、せめて家の中だけでも「寿美ちゃん」と呼ぶことに決めた。
寿美江は後付けをし、勝手場で洗い物をし、翌日の支度までしていたようだ。
「寿美ちゃんもう寝るよーーー、布団敷くからね」
「いいのよ、私が敷くから、待っていて」
私はさっさと今日買ったばかりの真新しい布団を敷き、寝巻きに替えて中に潜った。
エプロンで手を拭いながら出てきた寿美江は戸締りを確かめて回った。風呂敷包みから寝巻着や明日着る普段着の用意をした。前同様、肌着諸共すっぽりと脱ぎ、寝巻着と着替えて今までのを衣文掛けに掛けて鴨居にぶら下げた。
「寒いときだから全部脱がなくてもいいではないか」
「これは私の習慣ですから、こうしないと気持ちが悪いわ」
「じゃあ、寒くて嫌だけど今日は私も脱ごうか、布団も温いから」と云って私は起き上がり、下着類を全部取り払ったまま布団に潜り込んだ。
寿美江はハンドバッグから手鏡を出し、一寸髪を撫ぜ上げ、ぽんぽんと白粉を顔に叩きつけ、口紅を一寸付け直し、香水を体に降りかけた。最後に白足袋を脱いだ。
白粉や香水の香りが急に女体のなまめかしさ漂わせ情欲を誘い始めた。
「お待たせしました、宜しくお願いします」といって入ってきた。
ああ、なんというしおらしい言葉だろう。東京駅頭で「貰って頂いて有難う御座います」と云ったあの言葉と共に今でもはっきりと私の耳に残っている。
竹の園生に育った高貴な方ならいざ知らず、普通の教養を身に付けたくらいでは容易に出てくる言葉ではない。私は寿美江の女らしさがたまらなくいじらしくなった。
その言葉の奥に「御指導くださいませ」という優しさが秘められているように感じたからである。
時刻は7時頃、夏ならまだ日が沈んでいない頃であろ。通りから少し奥まっている一軒家。足音一つ聞こえない。喚いても呻いても、こっちの声は伝わらない。狭いながらも楽しい我が家である。正にスイートホームである。其処で今私達は何をしようとしているか、
「ああ、電灯を消すの忘れたわ、消しましょうか」
「そんなものほおって置けばよい、それより紙は?」
「ああ、それもだわ」といって抜け出していき、ハンドバッグを取り寄せ戻ってきた。
その間に私は自分の腰紐を解いた。寿美江が寝そべるとすぐに私は腰紐を解き、寝巻着を掻き分け、お腰の紐を解き、掻き分けてやった。
馬乗りになり彼女の体をしっかり抱いてやり彼女にも私の体を思いっきり捉まえるように云ってやった。
滑らかな、福与かな、女体の肌触りは何にも喩えようがない。体の温もりがその膚を通って伝わってくる。此方のそれも同様に相手に通じたであろう。やがて文字通り一心同体になった。
これはどんなに親しい父娘(母・倅)間でも、どんなに仲の良い兄妹(姉・弟)でも許されない鉄則であり最高道徳である。
だが私達は誰に憚ることもなくこの佳境に十二分に陶酔することができた。一度ならず二度ならず。
目が覚めてから聞いてみた。
「昨夜は何時頃寝たかね」
「さあーよくわかりませんが2時過ぎではなかったでしょうか」
「そうだろうなあ、このまま朝まで続けようかといったのが2時前だったからなあ」
「おおお、そんな恥ずかしいこと仰らないで」
「夫婦だもの恥ずかしいことなんかあるものか」
「でも、何だか」
「新婚さんなら誰でも経験することだよ」
「そうかしら」
「そうとも、新婚さんがちやほや言われるわけは、そういうところにあるんだよ、経験者は勿論、さもない者は羨ましさからね」
「でも疲れるでしょう」
「そりゃ疲れるさ、疲れるから朝まではね」
「大変ね」
「寿美ちゃんは疲れなかったの」
「ええ、それ程」
「女は受身だからね、まだ本当の良さが判っていないからね」
「そうかしら、でも良かったわ」
「そのうちに判って来ますよ、そうなると僕の方が裸足で逃げ出さなければならないほどにな」
「おほほ、本当かしら」
「そうとも、そうとも、それでなくては不公平じゃないか、特に女はお産の苦しみがあるから、それだけ余計に神様が女の方に加担して下さるからね」
「そうですかね、それならば好いのですが」
「なるともきっとなるよ」
5日(昭和12年)、目をしょぼつかせての新年初出勤、途中気のせいか太陽が黄色に見えるような気がした。
会う人毎に新年の挨拶をしたが既に年賀状兼結婚の挨拶状は、上司の方々は勿論、数人の同僚にだしてあったので大方の人は私のことを知っていた。
すがすがしい気分による恒例の挨拶よりも、私を祝福してくれる華やいだ言葉で満ち溢れていた。
課長の菊島さんが、「素晴らしい美人を娶った」といって吹聴していたので、そのざわめきは一層であった。
社長室に新年の挨拶に行ったとき「重ねがさねおめでとう、まことにおめでとう、良かったね、式後この部屋にきてくれ給え」と云われた。
小さな会社で、講堂や食堂はなく、作業場に全従業員200人ばかりが集まった前で社長の訓話があった。酒とスルメで新年の事始が祝われ万歳を三唱して解散になった。
社長室に行ってみると社長のほかに専務と常務が居た。恐る恐る
私「何の御用でしょうか」
社長「他でもないが、長谷川君、この度はおめでとう。挨拶状頂いて感心したよ、君に何か記念品を上げようと思うがね」
私「そんなことして頂かなくても結構です」
社長「そんなこと云うな、僕の一存ではないのだ、ここに居る二人と相談して決めたんだ」専務「そうなんだよ。だから遠慮しなくていいよ、何でも良いから欲しいものを言い給え」私「暮れに賞与を頂きましたから結構です」
常務「それとこれは別だよ、君はよくやってくれるから」
私「いいえ、そんなことありません」
社長「いやいや、よくやってくれるから君には特別にね」
常務「今までは誰にも贈ったことはないけれどね」
私「では前例になってはいけませんからお止め下さい」
専務「そんなに心配せんでもよいよ、さあ何でも良いから言いなさい」
私「それではお言葉に甘えて極小さいので結構ですから茶箪笥を頂ければ何よりと存じますが」
社長「そうかそれでよいのだね」
私「はい、本当に身に余る光栄です、永久に何よりの記念になりますから」
社長「じゃあ、それに決めよう。だが一週間ぐらいは後になるかもしれないがね」
私「結構で御座います、有難う御座いました」
この様な次第で4.5日後に茶箪笥が送られてきた。私達二人には最初の祝い品であり、会社にとっても従業員の結婚記念に贈り物をするなど全く空前絶後の事と思う。
今尚茶器類を収納して大切に保存している。
次の日曜日、私達は何はさて置いても大森の秀夫様に御礼と御挨拶に行かなければならないと考えた。
朝早く寿美江は髪結いさんの所に行き、島田髪を結い直してもらった。
それから渋谷に行って写真館に入り記念写真を撮った。(本人 注 この時の写真が引き伸ばされて寿美江の最後の日に神前に掲げられた)
その後、手土産を買って秀夫様宅を訪問した。「さあ、どうぞどうぞ」と座敷に通された。奥さんの鈴様と寿美江とは全くの初対面である。一通りの挨拶が終わるとお茶とお菓子を出して下さった。如才ない鈴様が
鈴「本当にお奇麗でいらっしゃるわ、主人が褒めるのも、無理ありませんわ」
「・・・・・・」
鈴「主人たらね、晃様が貰わなきゃ私が貰いたい・・・などと云っていましたわ」
私「そうですか、そんな風に」
鈴「ええ、そうですよ私がこんなに不美人でしょ」
私「そんなことありませんよ」
鈴「妬くんでしょうね、でも仕方がありませんわ、女の私でさえお奇麗な方と思うんですもの、男の主人が惹かれるのも無理ありませんわ」
秀「私の云う事は嘘でなかったろう」
鈴「ええ、仰ったとおりでしたわ」
秀「まあまあ、良かった。二人とも幸せにネ」
鈴「お二人ともお目でとう御座いました。これで私達も東京で親戚が一軒増えて力強くなりましたわ」
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
鈴「ところで、奥様、お子さんが出来ると一寸も外出が出来ませんからね、今のうちにうんと方々へ連れて行ってもらいなさいよ」
寿美江「ええ」
鈴「私なんか何処へも連れていってもらわなかったから、東京に居ても何処も知りませんから」
秀「寿美江さんのような美人なら連れ出したかも知れないがなあ」
鈴「そーら、あんなこと仰るわ、あれですからね、判るでしょう」
私「私達と10年時代が違いますからね」
鈴「兎に角、晃様、きっと連れて出て上げなさいよ、そうしないと後になって怨まれるわ」秀「僕は余程怨まれているようだなあ」
鈴「そうよ、怨んでますわ。晃様、判った?約束するわ」
「・・・・・・・」
昼食にはお寿司を頂いたが、このような楽しい生活やら忠告を受けた後帰ることにした。「こんなもの記念にならなくて申し訳ないが」と云って、黒サージの服地一着分の反物を頂いて帰った。その後も度々訪問したが、向こうからも度々来てくださって寿美江も喜んでお持て成しをした。
その後、守山の本家から茶盆代わりになる蓋付きの茶櫃に湯飲み茶瓶一式を贈って下さった。大阪の次兄の宅からは、黒漆器の菓子器と赤漆器の真ん丸い菓子器の中に一杯お菓子類を詰めて贈って頂いた。
母校にご挨拶に行った時は理事長であり学長代行をしておられた及川恒忠教授(慶応大学経済学部長常務)が待っていて下さって、カフスボタンとネクタイを下さった。
赤野正信電気科主任教授は三越百貨店を通じてカットグラス6個入り、一セットになったものを贈ってくださった。
西先生も、卒業生の結婚記念にお祝い品を贈られるなど先ず珍しいことと恐縮至極に思った。
在学中からカフェーの女給と良い仲になり、親の反対を押し切って何時の間にか結婚してしまった級友が居たが、正式に結婚したのはクラスメートの中で私が一番早かった。
そんな訳で卒業時に決めてはなかったが代表二人が来て、金一封を置いていってくれた。卒業してからも私が卒業生理事として学友会に関係していたから先輩後輩の数人が来て、矢張り金一封を頂いた。
恐らく、これ等も私が最初で最後であったであろう。実に感謝感激である。
在学中の最後の年には私が学友会(同窓会と学生会とが一体となったようなもの)の常務理事(最高責任者)をしていた。
副常務理事として私の片腕となって助けてくれた畑奈基一という土木科出身の魁偉(顔や体が大きくて逞しい)な剣道3段の男が居た。
豪放(肝っ玉の大きい)磊落(活発で小さいことにこだわらない)で、土木屋にはうってつけの人物であった。
父は巡査であったが上州生まれで、国定忠治ならぬ上州喜一と自負していた。
2年生の時に三陸沖に大地震があって釜石町が大被害を受けた。それを知った彼は早速クラス全員を納得させ、学長の許可を得て、トランシット(土地や建物の角度を測る機械)やレベル(水準器)を担いで現地に急行し2週間余りに亘って勤労奉仕をした。
この事が当時の新聞で大きく取り上げられ、
「ご苦労であった。偉かったであろう」
「何でもないさ、いい土木実習になったよ」
「それじゃあ県民に喜ばれ、校名を上げくれたし、生きた学習が出来て一挙両得どころか三得になったじゃないか」
「なーに、大したことないよ」と、泰然としている彼であった。
その彼が2ヶ月ばかり過ぎてからであったが結婚祝いに来訪した。
専攻科目は違っていたが、鴛鴦夫婦のように仲のよい無二の親友であったので非常に嬉しかった。
彼は間組土建株式会社という日本で有数な土建会社に入社し、当時は現場監督であった。寿美江のお酌や手料理でチビリチビリ飲みながら色々な話をした。
「土木工事というものは面白いものだぞ、橋梁やダムを建設する時は濁流に一度や二度押し流されても欠損しないように予算を組むんだから」
「莫大な工事費が掛かる筈だなあ、人件費だけでも大変だなあ」
「そうだよ、一人一日一円でも100人居れば100円だろう、十日で1000円だろう、一つの現場で100人以下という事は先ずないからなあ」
「そうだなあ、荒くれ男を使うのも大変だろうなあ」
「うんそうだよ、だがなあ、金だよ、金、金がなくては人は使えないよ」
「金といったって常時沢山の金を持っているわけでもあるまいし」
「と云って、持っていなければ人夫は使えないしなあ」
「じゃ、どのくらい持っているのだ」
「そうだなあ、1000円前後だなあ」
「へー、そんなに沢山、恐れ入ったなあ、我々の世界とは桁が違うなあ」
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
「ところで、こんな良い奥さんを貰ったんだから大事にしなきゃいかんぞ」
「うん、判っているよ、それで3000円の生命保険にも入ったよ」
「何、生命保険に入ったって、馬鹿なことをしたなあ」
「何故か?」
「よく考えてみよ、20年、30年先の貨幣価値を。今苦しい思いをして臍繰って掛け金をしても、貰う頃になればドブに捨てるような価値しかないぞ、世の中はどんどん進むからな」
「でも途中で死ぬかも知れないからなあ」
「なーに、死ぬもんか。戦争で死ねば別だがな、20年、30年と生きて50歳前後、人生50年といったのは昔のこと、見ておれ人生70年の、80年という時代がきっと来るから」
と、何を根拠にして言ったのかわからないが今考えてみると彼の予言は全く的中していた。
それでなくても敗戦後の混乱期に有耶無耶になってしまって、それまでの8年間に支払った掛け金は全部無駄になってしまった。
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
「奥さんにも言っておくが長谷川君は偉い男ですよ、絶対に信頼して就いていきなさいよ、学生時代に彼は非常に苦労しましたがね、先生方からも先輩からも後輩からも非常に信望がありましてね、貴重な存在だったんですよ、詳しいことは後で本人からお聞きになれば判りますがね、彼は創立日尚浅い武蔵高工の校風を確固不動のものとしましたよ」
「おいおい、大袈裟なことを云うなよ、君の方が余程俺より功績が大きいよ」
「大袈裟であるものか、本当の話だよ、少なくとも俺はそう信じているよ、僕はお手伝いしただけでしてね」
「おいおい、もうその話は止そうよ」
「じゃ、奥さん、この話は御主人から聞いて下さいね、彼は学校にとって大恩人ですよ」
「ええ、色々参考になること聞かせて頂いて有難う御座いました」
「・・・・・・・」
「悪いけどお酒がなくなりましたので買ってくる間暫く待ってて下さいね」
「いやいや、よく頂いた。もう結構、結構」
「買ってきてくれるかね」
「ええ」
後で聞いたが1升2合ほど位飲んだとのこと。
「いや、奥さん、もう十分ですよ、それより俺達出掛けよう。実はなあ、何か記念品をと思ったが先ず実情を見せてもらってから適当なものをと考えて買ってこなかったんだよ」「これから買いにいこうというのか、そんな心配は無用だよ」
「まあ、いいから、俺に任せておけ、何処か雑貨屋か家具屋に案内しろ」
「じゃ、好意に甘えるとするか」
中目黒の商店街に行った。彼の方が先に雑貨屋を見つけ、つかつかと入っていった。
「おーい、親父さん、飯台はあるかい」
「へいへい、ありますがどんなのを」
「折りたたみの出来る一番大きいのを見せてくれ」
「へいへい、これが一番大きくて上物で」
と、云って横87センチ、縦57センチの一枚板で出来たこげ茶色の飯台を出してきた。
「よーし、これでよい、それから盥はあるかい」
「おいおい、これだけで十分だよ、結構だよ」
「へい、御座います」
「それも一番大きい極上のものを出してくれ」
「かしこまりました、これが最上級のものですが」
と、云って直径70センチ位の大きな桧の香りのする盥を持ってきた。
「よーし、これでよい、それから硯と一番太い筆を貸してくれ」
「へいへい」
と、云って奥から硯箱と1.5センチあまりもある太い筆を持ってきた。
「墨をすりましょうか」
「うん、出来るだけ濃くすってくれ」
「・・・・・・」
彼は太い筆に墨をたっぷり含ませて飯台の裏に墨痕鮮やかに達筆で力強く「壽」と大書し、その下に字の配列もよく一寸小さな字で「長谷川君 新家庭江、上州喜一」と書いた。
次に盥の裏側にも同様に書いた。乾くのを待って
「いくらかい」
「両方合わせまして??円になりますが」
「ああ、そうかい」と、云ってお金を払った。
「じゃあ、貰っていくよ」と云って彼は大盥を担ぎ、私は飯台を担いで店を出た。途中
「どっちか一方でよかったのに」
「何、言ってるんだ、こういうものは一番実用的で、なくてはならないものなんだ。何れは買わなくてはならないだろう」
「それはそうだが、それにしても、こんなに大きな上等なものを」
「子供が大勢出来てみよ。これでも小さい位だよ」
「君の気配り本当に感謝するよ、有難うな」
家に持ち込んだ時、余りにも意外な畑奈のプレゼントに寿美江は目を見張って驚き、慇懃に礼を言った。玄関で
「じゃあ、俺帰るよ、奥さん御馳走様、お達者でね」
「其処まで送るよ」
と云って外に出たが途中で彼はタクシーを拾って帰っていった。
付記
彼は私より年若であるのに、よく気の付く男だと改めて感心し寿美江と共に感謝した。
学生時代に私が耐乏生活をしているのを彼はよく知っていた。
新婚生活を始めた私が、今尚、学生時代に先輩から貰い受けた古い小さな黒色の机を食卓にして、ままごとのようなささやかな生活ぶりを知って彼は飯台を思いついたに違いない。又、彼は主婦の家事労働である炊事、洗濯、掃除をどのようにしているか雑談の中にも静かに観察していたのであろう。
今なら差し詰め掃除機か電気洗濯機をくれたであろう彼である。一見して放漫(気まぐれ、やりっぱなし)豪気(強くて優れた気質)の様に見えるが彼はもともと繊細(微妙)緻密(きめ細かい)な点も兼ね備えた男であった。
彼はその後満州へ渡り、飛行場、地下格納庫、その他の建設に従事し、敗戦後無一文で生還、地崎組株式会社(社長 地崎元建設大臣)に入社した。
その後、新幹線や東名高速道路などの工事に参画し、その手腕を認められ先輩を追い越して副社長になった。
その彼が昭和47年2月15日に突如としてあの世に人になってしまった。
17日に築地の本願寺で社葬が行なわれた。当日はあいにく雨降りであったが、新幹線で私は駆けつけて行った。読経が終わりお偉方の弔辞が終わり、一般参列者の焼香が終わった瞬間、突然「弔慰を読ましてくれ」と云って無理矢理懇願した。
奥さんと子供さん二人を私の横に呼んでもらい霊前に立って弔文‘(別書{足跡}の2巻107頁に記載)を読んだが声が震えて涙が充満してしまって字がよく読めなかった。
でも何とか最後まで読み終わって畑奈基一への友情の証を立てることが出来て放心した。享年59歳であった。彼の遺骨が白布に包まれ、奥さんの胸に抱かれ、子供さんを両横に座らせハイヤーで本願寺の寺門を出て行く時は雨がやんでいた。
私は人目も憚らず車に駆け寄り、用意してきた5万円入りの香典袋を窓から無理矢理奥さんの手に渡した。
車に取り縋り「畑奈よ、さようなら、畑奈、さようなら」と号泣してしまった。
止むを得ず車は暫くの間停車していた。
「供花、香典の類は御遠慮申し上げます」とのことで、受付で取り扱っくれなかったからである。
同じ電気科の一年先輩で渡辺公平というのがいて私の前の常務理事であった。
卒業間もなく結核にかかって2,3年後死亡してしまった。この人の入院中、数度見舞いに行っているうちに主任看護婦の某女と顔馴染みになり、2,3度私の下宿へも尋ねて来たことがあり、一緒に食事したりコーヒーを飲んだり散歩したりした。
彼女は看護暦数年、殆ど標準語であるが何所となくずうずう弁、いわゆる東北弁が残っていた。彼女に心惹かれぬわけではなかったが、その事が気に掛かり、何となく好きになれなかった。彼女の方では相当にメートルを上げていたようで、それが故の来訪であったようだ。これが私の恋愛関係と云えない事もない。
その他「いいな」と思った女性には何人も出会ったが、いずれも彼岸の花であった。
一方、寿美江は5人兄弟の中に育って、全くの箱入り娘、恋愛関係など更々無かった様だ。こうした二人の前に降って湧いた様な縁談、そして結婚だった。
私達の恋愛は結婚してから始まり、加速度的に発展した。勿論、夜も楽しかったが、昼間も楽しい時があった。
日曜日毎に私達は買い物(ショッピング)に出掛けた。それは逢い引き(デート)の様でもあり、東京見物の様でもあった。
地方からわざわざ東京見物に来る人があるのに東京に住んでいて東京を知らない人が大勢いる。それ程東京は広い。省線電車や山手線には乗るが市電には乗れない人が沢山いた。それほど市電は交差点が多く、複雑であったからである。
私は早く寿美江を東京に馴染ませようと、行きにはわざわざ市電を利用するように心掛け、帰りは山手線を使って帰ることにした。
新宿に行けば伊勢丹や三越、上野には松坂屋、室町には三越本店、日本橋には白木屋、高島屋、銀座には松坂屋と大きな百貨店あった。
その他あらゆる商店の専門店が軒を並べていた。服部時計店、三省堂、御木本真珠等々・・・・「上見りゃ限がなし・・・・」と云うが、全くその通り、庶民では手の出せないような高価なものが沢山あった。
私達は安くて、堅牢で、使い易く、デザインの良い物と物色してまわった。
必需品から先にというので、最初に買ったのはラジオ、鏡台、針箱。次のときには勝手戸棚。次の機会には箪笥と洋服箪笥、次には下駄箱と傘立てという具合であった。
ミシンを買ったのはその後のことであった。このような買い物の間に、私の洋服、寿美江の洋服、靴、鰐皮のハンドバックなどを買ったり注文したりした。
その他渋谷駅にあった忠犬ハチ公の銅像前の店屋でカチ栗を買ったり、道玄坂の寿司屋で立ち食いをしたり、新宿のビヤーホールでビールを飲み(寿美江は一滴も飲まなかった)、銀座四丁目の更科でざる蕎麦、尾州屋でかつ丼、デパートで食事などした。
家庭用品が少しづつではあるが整備されて、漸く世帯らしくなってきた。
親も子も兄弟もいない。「隣の人は何する人ぞ」といった具合で、近所の人も見知らぬものばかりである。全く二人だけの自由な生活であった。
自由を満喫した生活がこんなに良いものかと思えた。
秀夫様の奥さんが「子供が出来てからでは駄目、今のうちに方々へ連れて行ってもらいなさい」と云われたこともあって、私達は自由に出歩いた。
寒いうちは映画館にもよく行ったが、宝塚劇場や歌舞伎座にもよく行った。
寿美江は踊り子や、男優、女優の名前はおろか、その筋書きなども非常によく知っており興味津々のようであったが私は華麗さに見とれているだけであった。
春場所の大相撲では、当時横綱の双葉山関が70連勝を目指して頑張っており、色白で体中が紅潮だった大関照国が横綱を賭けて奮戦中であった。
幕下連中の取り組みを見ても面白くないが、遅く行っては良い場所が取れないというので、朝まだ暗いうちから弁当を持って出掛けて行った。
従来の関取集の中で一番大きいといわれた常陸山関(?)が入り口の番台に座っていたがまるで仁王様のようにデンと座っていたのには驚いてしまった。
5月の27日、海軍記念日に芝浦海岸で海軍陸戦隊が上陸演習をするというので、その勇壮さを見ようと参観に行った。海岸は武装した水兵で一時一杯になったが、その後靖国神社を参詣するということで散会した。
神宮球場での6大学野球では、兄の亨さんが明治大学卒業なので早明戦を観戦し、明大の応援をした。
夏だというのに後楽園に櫓を組み立て、
これも兄さんの亨さんがスキー狂と云ってよいほどの巧者であったので、物珍しさに見物に行った。
このような興行物もさることながら、名所旧跡へもよく行った。
都内では上野公園に行った序でに美術館や動物園、東大の三四朗池。宮城の周りの堀端、日比谷公園、思い出の神宮外苑や絵画館、品川の泉岳寺、芝の増上寺、田村町の愛宕山、浅草の浅草寺、隅田川、九段の靖国神社、神楽坂など大抵の所へ行った。
郊外では野毛山、二子多摩川、東多摩川、多摩川園、井の頭公園などへも行った。
郊外へ行く時は軽装して、リュックサックにお握りやお菓子などを詰め、水筒を掛けハイキングが多かった。
途中で赤野先生のお宅に寄ったことも2.3度あったし、二子多摩川で秀夫様家族と偶然一緒になったこともあった。
夏には逗子の兄さんの家に行き、其処で私の黒い海水着を寿美江が着、私は黒い水褌をして鎌倉、逗子、葉山と続いた湘南海水浴場で思いっ切りレジャーを楽しんだことも何度かあった。
南京陥落、大東亜戦争戦捷祝賀国大会(s17・2・18)の時の行列にも参加した。
「古里は遠くにありて思うもの、誰か故郷を思わざる」と誰かが云ったが望郷の思いは皆同じである。
近況を書いた手紙の遣り取りはするが、それだけでは物足りない。如何に山村僻地であろうとも、自分の生まれ育った古里には郷愁がある。
古ぼけた草屋、朽ちかけた垣根、柿の木、庭石、どぶ川などなど。もの言わぬけれども向こうから呼び掛けてくれるような気がする。
私達が甘い夜の営み、挨拶回り、来客の接待、ショッピング、レジャーにと楽しんでいるうちに早や夏が来た。お盆休みに私達は夜行列車で帰省した。
早朝であるので当然のことながら人はまばら、歩くテンポ、乗り物の走るテンポの遅さ、乗り換え場所での待ち時間の長さを痛感しながら懐かしい守山へ、土産物をぶら下げて帰ってきた。・・・・・・・・
「これ見て頂戴」と云って包装紙に包んだ分厚い物を持ってきた。
そして寿美江は奥の部屋に行き家族と積もる話をしていた。開いてみると画用紙が数10枚あった。裏を見て驚いた。素晴らしい水彩の美人画である。寿美江のサイン入りである。2枚目、3枚目と見ていったが1枚1枚、姿は違うが何れも同様の美人画である。
30枚目あたりからは刺繍であった。これが又素晴らしい出来映えである。
こっちの方は山川、草木、花鳥の類が20数枚である。
人というものは忘れてならない大事なことを忘れ、忘れてもよいつまらないハプニングを案外記憶しているようである。それが何かの拍子に突然記憶が蘇る。今がそうであった。寒中のことであったが寿美江は火鉢の五徳の上に水を入れた金盥を置き、その中にねぎの白い部分を刻み込んで入れていた。
「こうすると治るのよ」と云って、ぬるま湯の中にぶくぶくに腫れ上がった霜焼の両手を入れたり、代わる代わる片手で他方の手に湯を掛けたりしていた。
一週間も経たないうちに、その霜焼は完全に癒えてしまったが、その時のぶくぶくになった寿美江の手指が急に思い出された。
勿論、そんな悪条件の時の作品でないことは確だが、何故か、その時フットあの手でよくもこんな絵が、こんな刺繍が出来たものだと感心した。
何しろ静江姉さんが女流画家であり、寿美江にも「少しは書けるわ」と云っていたので、姉さんに似ているところがあるのかなあと思っていた。
尤も、姉さんの油絵に対して、寿美江のは水彩画であったが、まさかこれ程とは思ってもいなかった。寿美江が傍らに来た時、
「これ、本当に寿美ちゃんが画いたり刺繍したの?」
「ええ、そうですわ、ちゃんとサインがしてあるでしょう」
「へー、驚いたナー、こんな器用さがあるとは夢にも思っていなかった。何故もっと早く話してくれなかった?」
「そんなこと話したって何にもならないですもの」
「そんなことないよ。話してくれたら俺はもっと前から自慢できたのに」
「とんでもない、自慢出来る程のものではありませんわ」
「そんな事あるものか、実に見事なものだ。明日中に牛山に持って帰り、皆んなに見せてやるよ、ネエ、いいでしょ」
「それは構いませんけど、自慢などしないでね」
「よし、判った」
「・・・・・・・」
寿美江は大体このような女であった。ショッピングで銀座や渋谷の町を歩いている時、必ずといってよいほど骨董品屋の前で足を止めたり、店内に入っていって美術的価値のある古書画や古道具、陶磁器を眺めたり、手にとって見たりした。
私には父が一時期、このようなものに凝り過ぎて破産寸前まで行ったのに反感を抱き、このようなものから遠ざかるようにしていた。
その所為で、私は美術には無関心であったが寿美江は女ながらに非常に興味を持っていた。特に、陶磁器などで寿美江が話し掛けて来るといい加減な返事をして、その場を繕い、袖を引っ張って出て来る始末であった。
演劇、映画、音楽などを見たり聴いたりしても、何も知らない私は恥ずかしい思いをするだけであった。
戦後急にスポーツ熱が高まって、今では一寸も珍しいことでなくなったが、相撲や野球やスキーなどのことも女だてらに私よりも余程よく知っており、興味を持って観戦した。
だが私の前や人前では絶対に知った振りをしなかった。
これらは何れも父や母や姉妹の影響が大いにあったであろうが、家庭での一家団欒の雰囲気を偲ぶに十分であった。
これ等よりずっと後になって判ったことだが、和、洋裁、編み物の巧みなこと、医学、薬学、特に漢方薬に相当な関心を持っていたことなど、驚くほかなかった。
スルメのように噛めば噛むほど味の出てくる女であった。
「脳ある鷹は爪隠す」というが、私など隠す爪も無かったが、能も無かった。
守山に一泊して、翌日私達は牛山に行った。東京での暮らしの様子を一通り報告し、皆んなが安心したところで、私が寿美江の水彩画や刺繍を見せてやった。
異口同音に「これは素敵だ」「これは奇麗だ」「これは上手だ」など云って、廻し見ながら驚き入っているところへ、大本家の久様(秀夫様の母)とお隣の花様(縁者)がお墓参りの序にと云って連れ立って入ってこられた。
初対面ではないが、寿美江とも一応の挨拶が終わって、散らばっている絵を見ながら手にとって
「これ等は寿美江様が書きゃーしたものきゃーも」
父「ええ、そうだそうで」
「へー、お上手だなも、ようまあ、こんな風に書けますなも」
「髪の毛の一本一本が、ようこんな風に細かい線が筆で書けますなも」
「着物や帯の模様も見て見やあせ、こんな細かい模様や色、いちいち根気よく、よう書けますなお」
「目元も見やあせ、本当に生き生きしているに」
「本当になも、よう書きゃあしたなも」
「寿美江様もきれいだが絵も本当に奇麗だなも、お幸せなことだなも」
「こんなに沢山、みんな寿美江様が・・・、へー」と云って絵の方を一通り見終わったとき、父が
父「これも見てあげてちょう」と云って刺繍の方も見せた。
「へー、この刺繍も自分で刺しやーしたのきゃー」
「へー、こんな細かい針仕事がようできますなも」
「針を刺すだけではいかんわなも、矢張り絵の上手な人でないと、これだけのものは出来上がらんわなも」
「そうだわなも、この鷹など今にも飛び立つて行きそうに見えるなも」
「松葉の一歩一本もだが、鳥の羽の一本一本など大変だったなも」
こんな話が延々と続き、何時尽きるかわからないぐらいであった。
最後に「一生懸命丹精込めて書きゃーしたものを、こんなこと云って悪いが、一枚頂けませんでしょうかなも、家に飾って置きたいが」
「ええ、いいわ」
「厚かましいが私にも一枚ちょうせんかしら、帰ってからみんなに見せてあげたいが」
「ええ、いいわ、どうぞ」
私は惜しいなあと思ったが、書いた本人が「よい」と云うのに「いかん」とも云えなかった。此処で既に2枚なくなったが、この後でも同様にして数枚が減っていってしまった。牛山に一泊、翌日守山に行き、その日の夜行列車で帰京。この時、寿美江はこれらの作品の他に一振りの懐剣と父の書いた一幅の掛け軸、ギター等を持って帰った。
NHKの仙台放送局長の甥であるとのことであったが、本郷俊一という工業学校出の中年の人が入社して、私と同様セールス・エンジニアをすることになった。
そんな関係で、彼の家族は私の家の前隣りに引っ越してきた。
彼は33歳であったが前頭部が少し禿あがり、丸型、赤ら顔の美男子で饒舌家であった。そして愛嬌もよく、人当たりよく、優しい人に思われた。奥さんは三鷹の大地主の娘で、器量、肉付き、共によく、これまたよくしゃべる人であった。
年は28歳で私と同じであった。
二人は恋愛結婚であり、5歳と3歳の長男長女がいた。
誰が見ても似合いの夫婦であり、幸福そうな家庭に思われた。ところが何と奇妙な家庭であったことか。両者共に機嫌のよい時は子供が見ていようが、腹を減らして待っていようが、朝から晩まで布団の中で乳繰り合っているという夫婦仲であった。(本人達が云っていたことだから間違い)。
だが一旦縺れると大変であった。
枕や布団が飛ぶうちはまだいいが、茶碗や鍋、釜までが飛び交うての大乱闘がはじまり、ドタンバタン、ミリミリ、チャリンチャリンと、障子の骨は折れ、ガラスが割れるの大騒ぎである。
このような大騒動は月に1回ぐらいであったが、小競り合いは絶えなかった。
そんな大喧嘩をするくせに、骨折は勿論、額に瘤一つ作らず、顔に引っかき傷一つ作らなかったのもまた妙であった。
本郷氏は女たらしで、奥さんだけで満足せず、その上、酒好きであって家庭を顧みず借金も平気でする男であった。
奥さんは相当沢山の荷物を持って嫁いだようであるが、それらは質草になってしまい、越してきた時は家財道具も殆ど無かった。
そんな訳で給料日近くになるとチャンバラが始まるのであった。
だが、こうした騒ぎの谷間には驚くほど夫婦仲がよくて、揃って私の家にもよく来て、二人で洗い浚いの話をして私達を抱腹絶倒させた。
ある日、私の留守中に奥さんが来て「私、もうあの人と別れるわ、子供を連れて里に帰りますわ、色々お世話になりました、有難う御座いました、さようなら」と云った。
事情を知っている寿美江は。「そうですか、とうとう、こちらこそ色々とお世話に・・・お達者で」と云って別れた。
ところが3・4日経つと奥さんが帰ってきている。
聞いてみると、本郷氏が迎えに来て連れ戻された、とのことであった。暫く日をおいて、又同じようなことがあり、この時も奥さんは帰ってきた。
チャリンチャリンという金属音は何時も私の家まで聞こえていた。「又、始まったたぞ」と私達は笑いながら床に就いた。
翌日、奥さんが来て「今度こそは本当に離婚するわ、全く愛想が尽きたから、いくら頭を下げて迎えに来ても絶対に帰らないわ、もう奥さんとも永久にお逢い出来ないかもしれないわ」と云って挨拶に着たので「3度目の正直」ということもあり、寿美江も「お名残惜しいわね、形見にこれを差し上げるから思い出にして下さいね」と云って大事な着物を一枚餞別に上げた由。
ところがまたもや3.4日経つと帰ってきて元の鞘に納まっているではないか。
しかし、着物は永久に戻してくれなかった。流石に寿美江も腹を立て、奥さんにも愛想を尽かした。
その他、本郷氏自身が「2・3日中に必ず返すからお金を貸してくれ」と云ってきた。
親しいお付き合いをしていることとて嫌とも言えず寿美江が貸してやった。
しかし、2・3日はおろか一週間、10日、20日と経っても返しに来ない。給料日になっても返さない。催促しても何だかんだと言い訳して返済しない。このお金を取り返すのに寿美江はどのくらい苦労したかわからない。
その頃、本郷氏は次から次へと知人を頼って借金をし、盥回しをしていたらしい。