父の自分史No1   03・11・07

窈窕の妻

淑やかで奥ゆかしき妻

まえがき

約50年前の妻との生活を思い出すのは容易なことではなかった。

健忘症のうえに愚直な私には記憶が蘇らず、さりとて嘘も書けず四苦八苦した。

兎も角、一応纏まったものを見ると、それは私の告白録であり、懺悔録でもある。

またそれは回想録であり、私の過去の一時代記でもある。

75歳になった今日、新婚時代を振り返ってみると、陽春のようにほのぼのとしたものを感じ、若さを取り戻しているような気分になった。

これは痴呆老人にならぬ最良策であることに気付き、何が何でも纏め上げようと意気込んで掛かった。

文中、一見して妻とは無関係な所もあるが、影の形に添う如く、私の傍には妻がいて、悉くを知り尽くしていた。

のみならず、或る時は先に立って前網を引っ張り、或る時は後押しをしてくれた。

私の足らざるところを十分に補い,女らしさが私をふんわりとカバーし、そのくせどこかに指導力を秘めていて、この鈍牛を前へ前へと歩ませてくれた。

元来、私は短気で怒りっぽい方であったが、妻だけには一度も怒ったことがなかった。

勿論、拳を振り上げたことはなかった。

鼻の下が長かったかも知れないが,しかしこれだけならば本文中にある「奇妙な夫婦」の様な轍を踏んでいたかもしれない。

そうはさせなかったところに妻の良さがあった。

それにも拘らず、妻に報ゆるに十分でなかったことが悔やまれる。

それは15年戦争という我が国未曾有の国難に阻まれて、私生活がままならない時代であったからである。でも私は妻が愛しかった。嘲はば笑え。私は3度の食事より妻を大事にした。だが妻は逝ってしまった。恋い慕う私を置き去りにして。

それから32年、白木の墓標は朽ち果ててしまった。その代わりに御霊屋を作ることを決心した。

屋敷内の一隅に盛り土をし大小の石を配し、植樹をし、お社を安置し、祖霊と共に寿美江の御霊を納めたのは数年前のことであった。墓石にその名を刻み永遠に残すのが常例である。しかしそれは易易たることで誰でも何時でも出来ることである。それよりも、このような回顧録を残して遣ることが本当の意味での供養ではなかろうか。

これこそが墓石にも銅像にも勝る金字塔ではないかと思う。霊前に報告し、冥福を祈ること切なり。                      昭和59年3月6日

目 次

まえがき

1   出会い                              4

2   逢い引き                             5

3   東京駅で                             7                             

4   文通                               8

5   借家探し                             8 

6   挨拶状                              9

7   帰省                              10

8   結婚式                             12

9   初夜                              15

10   お部屋見舞い                          17

11   牡丹餅の由来                          19

12   挨拶回り                            21

13   上京                              22

14   夜更けまで                           24

15   感謝感激                            26

16   親友                              29

17   買物                              33

18   余暇の楽しみ                          34

19   絵と刺繍                            35

20   奇妙な夫婦                           38

21   愛の結晶                            40

22   退社の経緯                           41

23   転居                              43

24   天は二物を与えず                        44

25   長男の誕生                           46

26   芸は人を喜ばす                         47

27   勅題 寿美江の詩                        48

25   戦争推移の概略                         48

29   乳児脚気                            49

30   国民歌謡「隣組」                        51

31   義彦の出征                           52

32   転勤と疎開                           52

33   仮住居                             53

34   地震と名古屋空襲                        54

35   被爆体験                            55

36   要りません命以外は                       57

37   凄惨な被爆地                          58

38   会社を変わる                          60

39   猛爆続く                            60

40   玉音放送                            62

41   敗戦の実感                           63

42   敗戦後のどさくさ                        64

43   間内駅の復活                          65

44   会社勤務に終止符                        66

45   寿美江の逃避行                         67

46   ラジオ修理で地方周り                      68

47   教職に就く                           71

48   焚き物の運搬                          71

49   小牧っ子誕生                          73

50   学習塾を開く                          74

51   全身痙攣                            77

52   養護学級                            77

53   入院                              79

54   碁石を呑む                           82

55   「若芽」の発行                         83

56   高熱に冒さる                          84

57   胎児の掻爬                           85

58   寿美江の臨終                          86

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

出会い

 

武蔵高工を卒業して東洋計器株式会社に勤務してから約1年半、会社の正門から

100メートルばかり離れた目黒川沿いの若槻という家で間借り生活をしていた。

昭和11年の10月半ば頃であった。郷里の父から何時もより分厚い手紙が来た。

封を切り、便箋を開くと一枚の写真があった。

縁談のことだなあと思いながら眺めていると、田舎の娘にしては何処か垢抜けしているように感じられた。

「守山在住の山内敏夫(名古屋製陶株式会社会計課長)氏の四女寿美江様(25歳、淑徳高女卒、中京高女高等師範卒)が、中野区沼袋町2の29の2の鎌倉芳太郎氏(次女静江様の夫、美術学校教授)の所へ家事見習いに行っておられる由。

そちらで見合いをしたうえで結婚の可否を至急に知らせよ。

この縁談は本家(守山に移住していた)の母、娘が責任を持って推奨してくれるもので、小生も既に家系その他に亘って詳細に調査をしてきたが何ら差し障りなし」との内容であった。

次の日曜日、当時三菱銀行の本店に勤務し、大森区康申塚町に住んで居られた又従兄弟に当たる長谷川秀夫様(東大卒)宅を訪問した。

秀夫様夫妻には2男1女があり、裕福な家庭をもっておられた。

それまでに何度もお邪魔していたが、何時も全く家族同様に接待してくださったので何の遠慮もなかった。

そこで縁談の件をお話し、11月3日(明治節)の休日に沼袋の宅へ見合いに同行してくださるよう依頼した。

帰宿後、早速手紙で、その旨書き、先方の都合を伺ったところ、折り返しみずみずしい筆跡で「お待ち申しております」との返信が本人から来た。

当日、電車の中で私たちは、初対面ではたとえ2時間3時間話し合ってみても総てが了解できるものではない、又初訪問の宅では長居するのは御無礼であるから出来るだけ早く切り上げるようにと話し合っていた。

鎌倉夫妻の一応の挨拶が終わった後「総て貴男様の御判断にお任せいたしますから何なりとお尋ねくださいませ」といって席を外して出て行かれた。

後に残ったのは本人同志の他に、こちら側のオブザーバー役の秀夫様の3人、定めし先方からは話しにくいだろうと推察した。

依って、先方に尋ねたらそれに関連したこちらの話をし、こちらの話をしてから先方の様子を問うようにして、双方の理解が得られる様に努めた。

卓を挟んでの話し合いであったが、最後に「今ここで即決できるものではないから文通でもして暫くお付き合いをしましょうね」といって一時間ちょっとで切り上げた。

帰路、私から秀夫様に第一印象を尋ねてみた。

「いいお嬢さんだと思ったよ、お世辞は言わないが頭も良いようだし、落ち着いており、美人でもあり、品格もあるしね」

「そうでしょうかね」

「あのような人を典型的な日本美人というんだね」

「そうですかね」

「そうだよ、昔の有名な美人画家のたちの画いた絵や歌舞伎などを見て御覧なさい。皆んなあの様な目鼻立ちで、あの様な物腰の柔らかさをしているから。あの様な容姿が昔からの日本人の理想像だよ。」

そう云われて私は「そうだ、彼女は着物を着ていたなあ」と思ったが、最早どんな髪形、どんな色柄、どんな袂の着物、どんな帯であったか覚えていなかった。

自分では落ち着いていたつもりであったが、矢張り上気していたかなあ。

秀夫様に同伴して頂いた甲斐があったなあと思った。

「貴男はどう思ったの?」

「写真通りの顔で、貴男のおっしゃるほど美人とは思えなかったが色が白くて、すらっとしていて、ことによったら私よりも背が高いかも知れないような気がしました。」  

「気質は?」  

「よく判らないが正直そうで素直の様に思いました。」

「じゃ、私の感じたのと、全く同じだ。良い子だと思うよ」

「でも体が弱いのではないかと思いました。」

「そういう事はなかなか判らなくてね、頑丈そうに見えても持病があったり、早死にする人もあるし、虚弱に見えても芯が丈夫で長生きする人もあるしね、人の生命は神様しか判らないからね、私達は現在に甘んずるよりも他ないよ」

「という事は現在が良ければ良いと信ずることですね」

「まあそういうことだと思うね」  

「今度あったらその点をしっかり確かめて見ますわ」  

下宿に帰ると早速机に向かって礼状を認め、その中で今度は私の下宿にお出下さる様に書き、「差し支えなければ今度の日曜日は如何でしょう」としておいた。

 

逢い引き

 

2,3日経って、「御指定の日にお邪魔します」との返事があった。

その日になっても学生時代の延長で、布団を押入れの中に放り込むぐらいで、書籍以外に一輪の花もなく、殺風景な下宿生活であった。

でも、私にはこれ以下の生活は無く、これが原点であり、これから将来を開拓して行くのだ、との信念と希望を持っていた。

従って、この貧相な生活ぶりに嫌気を感ずる様な女ならば、こちらからお断りするつもりでいた。

依って、どんな素振り、どんな気配を示すかが私の関心事であった。

風もなく絶好の秋日和であった。彼女は約束通り来訪したが、一人であった。

直感的に未知の土地を、又独身者の男の下宿を一人で訪れるとは大胆な娘だなあと思った。早速、2階の部屋に案内したが、初対面ではなく、安心して話し合うことができた。

下宿生活は、こんなもの。男の一人暮らしはこんなもの、と察していたのか先程まで私が心配し、反応を伺っていたのに、その危惧は全く無用であった。

こんな風情のない部屋にいてもつまらないからと30分位経った時外出することにした。今思うと、此処で蕾を手折ろうとすれば訳なく出来たのに、その時は全くその気はなかった。純白の白百合であった。馥郁とした芳香を放っていたが、この時点ではまだ手の届かない彼岸の花であった。

途中の喫茶店で軽食をとった後、明治神宮外苑に行った。

今もそうであるが、当時も散歩するには最適の外国風の庭園である。

あっちこっちとそぞろ歩きをした後、私達は絵画館の真正面に当たる芝生の外側の石に腰を下ろした。

秋の終わりというのに雲一つなく、全くの無風状態であった。

散策する人影は見えたが私達の会話を遮るものは何もなかった。

段々に色々なことが判り始めるにつれて、段々と心細さが私の胸に芽生えてきた。

何あろう。それは彼女が非常に多趣味な女性であることが判ると共に、如何に私が無能、無趣味な男であるかを自覚し始めたからである。

私の如き男のところに来る女性ではない。もっともっと有能なお方の所にお嫁に行ける筈だ。もし私のところに来るとすれば私には過ぎたる女性である、私の足らざるところを補うに十分なものを持っている。私には勿体ない程の女性ではなかろうか。

逆に、彼女は私のことを物足りないように思い始めているのではなかろうか、との閃きが頭の中を掠めるようになった。

何はともあれ、第一印象以来懸念していた健康問題がある。人は弱味に触れられることを非常に恐れるものである。さりとて、一生の伴侶を決めるに当たって見逃してはならない最重点である。頃合を見て問うてみた。

「お見掛けするところお姉さんも貴女も肥満タイプではないが健康のほうは如何ですか」

「お蔭様で今まで風邪を引いたことはあっても大病もせず今も病気だけは何もありませんわ、あたしの姉妹は皆細身ですわ」

「そうですか、それは結構なことで、細身というのは御謙遜で標準型でありますよ。私は兄弟7人の中でも一番小さく、一番色が黒くてね」

「そんなこと問題ありませんわ」

「でもね、中学の時大きな腫瘍(おでき)が出来て手術してもらったことはありますが、その他病気をしたことはありません。風邪などは誰でも引きますし病気とは云えないくらいですものね」

「そうかといって油断も出来ませんわね。風邪は万病の基とも云いますし、若し肺炎にでもなると大変ですからね」

「確かにそうです。その通りですね」

この様な会話を交わした後で私の腹は決まった。結婚することに。でも相手の腹は?

その後も暫く話をしていたが

「もうそろそろ帰ることにしましょうか、遅くなって皆さんに心配をお掛けしてもいけないから」

「ええ」

「今日は呼び出したりして済みませんでしたね、色々聞かせて頂いて有難う御座いました。何れ父か本家の者から正式にお便りを差し上げると思いますが、これからも宜しくお願いします」

「いいお話を沢山聞かせて頂いて有難う御座いました、こちらこそ宜しくお願いします」この後二人は立ち上がって原宿駅の方へ向かって歩き出した。

私は、はっきりとは云わなかったが正式な結婚申し込みを父か仲人からして貰うつもりであった。彼女も九分九厘まで、その様に受け取ったのであろう。二人は込み上げる嬉しさを胸に押さえて手を振り合って別れた。

 

東京駅で

 

下宿に帰った私は、早速郷里の父に結婚申し込みを依頼し、「先方の承諾を得次第諸般の準備を進めて欲しい」との手紙を書いた。

もともと山内家と本家とは距離にして200メートル位しかなく互いに行き来をして、非常に懇意であり、それぞれの家庭事情も殆ど知り尽くしており、彼女も私の素性を概略知っていた。

何も知らないのは私一人という状況であったので、話はトントン拍子に進められ、婚約は出来てしまった。

すると彼女から「決めて頂いて有難う御座いました。準備の都合もありますので某日何時何分発の特急で東京駅を発し帰郷します」と知らせてきた。

「暫く会うことが出来ないから必ず見送りに行くが、30分位早めに行ってホームで待っています」と返事を出しておいた。

タイミングよく彼女も同時刻にやって来てホームで出会うことが出来た。

「ああ、丁度よかった。私も今来たばかりで」

「貰って頂いて有難う御座いました。不束者ですがどうぞ宜しくお願いします」と、慇懃に頭を下げての挨拶に、私は一寸ばかりたじろいでしまった。

何とも素直な、いじらしい言葉だろう。こんな俺をこんなに立ててくれるのか、と嬉しさと責任感の様なものが瞬間に感じられた。

「いやいや、貴女が承知してくれたから決まったことで、こちらこそお礼をいうべきところですよ」

「いいえ、そうではありません」

「ところで郷里へ帰って色々準備をするつもりでしょうが、決して新しいものを買ったりする必要はありませんよ。荷物が多くなると荷造りの雑作も大変、運搬費もかさむし、途中で壊れるものもあるかもしれません。身の周りの品だけを纏められれば十分ですよ。私自身御覧になった通り何も持ち合わせて居りません。東京にきてから必要に応じて二人で相談の上、買っていけばよいですから。何よりも体を大事にして下さいよ」

「ええ、判りました。貴男もお体を大切に」

「貴女の帰る前に借家を一度見せておきたかったのですが間に合いませんでした。帰京後は必ず新居に入れる様にしておきますからね」

「ごめんなさいね、一緒に探せばよかったのに勝手に帰ることにしてしまって」

「いやいや、そんなこと構いませんよ、見付けたらお知らせしますから」

このような話をしているうちに時刻が来て、彼女は車中の人となり東京を去って行った。恐らく彼女の胸は弾んたことであろう。走る列車に鞭打ちたい、特急の進行方向に併せて尚も車中を駆け抜けたい思いであったろう。

僅か2.3日の花嫁修業の中にこんな幸運に恵まれるとは、肩荷にならない東京土産で胸の中は一杯であったであろう。

しかし、郷里には未婚の姉(27歳)妹(22歳)が待っている。妹は兎も角として姉の方は如何に仲の良い姉妹とはいえ女同志のこと、心中穏やかならざるもののあるのは当然である。平穏に切り抜けてくれる様にと祈りつつ彼女を見送った。

 

文 通

 

ただ2回の出会いをしただけで私達二人の距離感は大いに縮まり、寒さに向かう折り柄とはいえ、胸の中は燃え上がり、夢は現となり膨らんで行った。

「無事帰郷しました」「結納の日取りが決まりました」「松阪屋に買い物に行ってきました」 「結納いただきました」「結婚式の日取りがきまりました」 等々、実に筆まめに逐一報告してくる。

これなら俺の手紙の代筆もさせられる。あちらこちらに私の兄弟は分散していた。

週に一度は必ず誰かに手紙を書いていた。大いに助かるぞと嬉しかった。

こちらからも「まだ借家が見つからない」「モーニング出来上がった」「靴も買った」「借家が見つかった」「何日に帰省する」 と、その都度頻繁に返事を書いた。

私が離京する日まで、どちらかの手紙が郵便車で運ばれていた。

それは兎も角、彼女の流麗な筆跡に比べて私のはどうであろうか。見劣りする位ならまだ良いとして、粗雑そのもの、この点でも彼女に一歩も二歩も譲らねばならならない自分が情けなく思われた。

 

借家探し

 

私の入社の際に骨折って貰ったし、その後も色々と指導して頂いた上司に菊島一雄という人が居られた。

甲府市生まれであるが、浜松高工を卒業して営業課長をしていた。

頭が良くて切れ味がよく会社の信望も厚く、私も畏敬信頼していた。課長も私に誰よりも希望を託し誘導してくださったし、お宅へも何度も訪問し、奥さんや子供さんとも顔馴染みであった。

私の結婚話をお話したところ、喜んで下さって、真っ先に「新居は見つかったか」と尋ねられた。

「まだです!」と答えると「それはいかん、じゃあ俺も探してあげるよ」ということであった。

東京では通勤距離が短くて安くて日当たりの良い一戸建ての家を見つけることは容易ではない。何かを犠牲にしなければ借りれるものではない。

外回りの販売係であることを幸いにして、私は借家札を探してまわったが気に入るものが中々見付からない。

12月の半ば頃になって、ある朝菊島さんが「私の家の近くの某所で今、借家札を見付けた。適当な間取りのようだから早速行って見て来なさい」といわれた。

喜んで行ってみると、距離は会社から12・3分位、中目黒の商店街から100メートル位奥まった所、買物には都合よく、家主さんも同じ敷地内であった。

間取りは6畳と4畳半、他に玄関と勝手場と便所と、正に新婚向き、その上新築早々で、畳みも新品、惜しむらくは日当たりが余りよくないが、干し物をするには差し支えない。夫婦二人ならこれで十分、早速これに決めようと家主さんと交渉、敷金と礼金と12月分の家賃の半分を支払って契約書に捺印した。

実際に入居するのは1月4,5日、暮れの27日頃下宿を引き払い荷物を運び込むことを承知してもらった。

帰社して早速菊島さんに礼を述べ、菊島さんの家(某所から2,3分)に近いことを互いに喜びあった。

借家の問題が解決できて、漸く落ち着いて挨拶状を起草することが出来た。

出来上がったものは新年の挨拶、結婚の挨拶、転居の挨拶、それに新年の勅題「田家の雪」、干支の[牛]を織り込んだ別紙の通りの文面であった。

年末のことで印刷所は大多忙、なかなか引き受けてくれなかったが事情を話し、無理やり頼み込んで引き受けて貰った。

刷り上ったのは200枚であったが150枚は私用にし、早速宛名を書いて郵便局へ行った。残りの50枚は妻用にすることにし持ち帰ることにした。

 

新年・結婚・転居挨拶状

勅題・12支を含む

謹賀新年

輝く年頭に当たり貴家の萬福を祈ると共に旧来の格別なる御芳情厚く御礼申し上げ候,陳者生等此度郷里に於いて婚儀相済し左記の処に草屋を移し候間此段謹賀告仕候

惼ヘば晴れたる今日を迎え候しも是惼に皆さま方の一方ならぬお力添えの賜に有之千代八千代懸けて深く感銘仕次第に候  

荊棘常ならざる処生の道とは有候得共田家の雪を愛でつつ牛歩を運ぶ所存に有之候間今後共何卒宜しく倍旧の御指導郷厚誼の程幾重にも奉懇願候

先ずは右乍略儀年詞を兼御挨拶迄如斯御座候

敬具  

昭和拾弐年壱月壱日

 

東京都目黒区中目黒2丁目208番地

長谷川 晃  

寿美江

帰 省

 

会社の仕事納めを終て12月28日の夜行の準急行に乗り29日の朝帰名した。

その足で守山の本家に直行し、伯母や従姉弟の治子様に、この度の段取り持ちに対し厚く礼を述べた。

暫くしてから「さぞや山内家ではお待ちかねだから」と云って、私を山内家に案内して行ってくれた。

松の木の間から矢田川の堤防が見え、その向こうは名古屋市街であった。

閑静な所であり、平屋建てあり、一寸目には別荘かと思われる様な家であった。

中に入って見ると玄関にスキーが立て掛けてあり、オルガンあり、ギターあり、大小様々な絵画が何枚もあり、近代的趣向の持ち主が居ることに気がついた。

家族全員が次々に出てきて挨拶をし、快く迎えてくれた。

母(つる)と兄(亨)とはすぐ判ったが姉(貴美江)と、妹(雪江)兄嫁(美代子)の3人は寿美江と背丈、容姿、所作、言葉使いなど非常に似ており、見分けにくかった。

お互いに呼び合うとき、お母さん以外は名前の2・3字に「さん付け」か、「ちゃん付け」であり、どちらが姉か妹か、誰が嫁であるか、出入りするのに同じ人であるのか違う人なのか全く戸惑った。

男兄弟の多かった私には想像も出来ない様な雰囲気であった。

初めての訪問客にとって、これほど心和むものは無いと思う。私が危惧した姉の嫉妬心などは邪推に過ぎないことに気付いて慙愧に耐えなかった。

皆目絵心の無い私には上手、下手の区別もわからず、兄の趣味で描いているのか、それとも(?)と思って、恥じも構わず聞いてみた。

「どなたかが書かれたのですか?」

「東京の静江姉さんです」

「素晴らしい絵ばかりと思いますが、帝展にでも出品されたことがありますか?」

「ええ、5回ほど入選しております」

「へー、入選作は今ここにありますか?」

「此処にはありませんが鶴舞公園の公会堂に一枚あります」

「へー、そうですか、女流画家ですね、今時珍しいですね」

「そうでもありませんよ」

「そういう関係で鎌倉さん(美術史専攻)と一緒になられたのですね」

「ええ」

「そうですか、スキーは誰がやられるのですか、勿論兄さんでしょうね」

「ええ」

「これも今時珍しいスポーツですね」

「今ではそうですが、兄の言うにはものすごく盛んになる時代が来るとのことですわ」

「そうですかね、私には想像できませんが。雪国の人なら兎も角この地方の人ではね」

「冬のスポーツとして、これ以上のものはないといっていますわ」

「だけど滑れる期間が短くて、せいぜい年に一度か二度くらいでしょう」

「いいえ、秋の終わりから春の終わり頃までは大丈夫のようですよ」

「へー、そんなに長く、その間に何度くらい?」

「何回くらいかわかりませんが、勤務の都合もあり、お金の方も、そんなに続きませんものね」

「そうでしょうね、余程お好きなようですね」

「ええ、とってもすきなんですよ」

「・・・・・・」

 

「オルガンやギターもありますが音楽好きな方なんですね」

「音楽は皆が好きですわ」

「へー、そうですか、皆さん偉いですね、私なんか無趣味で、不器用で何にも出来ないのに」

「人夫々に得手不得手がありますし、万能という人は一人もおりませんから、そんなことを気にすることはありませんわ」

「・・・・・・・」

「ところで年賀状書きましたか?」

「いいえ、忙しくてまだですわ」

「丁度よかった、用意して持ってきましたからこれを使いなさい」と、云って50枚の印刷葉書を出したところ、文意が意外だったので大いに嬉しがり早速家族に披露した。

夫々の人から「素敵だわ」「変わってるわ」「寿美ちゃんおめでとう」「寿美ちゃん良かったわね」と云って喜んでくれた。

何だか擽られる様な気もしたが、私も漸く面目が立って気強かった。

「それから新婚旅行はどうしますかね」

「そうですね」

「必ず新婚旅行をせねばならぬというものではないし、途中下車して熱海か伊東あたりではとも考えて見たが、それも面倒ですし、直行して新居に落ち着いた方がとも思いますが」

「私もそう思いますわ。新婚旅行ということは最近言い出したことで、今まではやっている人も少ないし、それに捉われることはありませんわ」

「じゃあ新婚旅行は東京へということにしておきましょう。会社の方も休めませんし,気分一新ということでは大差ありませんから」

「それで結構です」

「・・・・・・」

挙式日を三日後に控えていたが、殆ど総ての手筈が整えられていたので私達は手順に従って動けばよかった。

心のこもった昼食を初めて寿美江の給仕によって一緒に戴き、一時半頃に山内家を辞去した。

駅まで見送る途中で寿美江が「本家によって二人で挨拶していきましょう」と云うので私は再び立ち寄った。

伯母や従姉弟は子供の頃から十分に知り合っていることとて、色々の処世訓を聞かせてくれたり、云いたい放題のことを云って、私を叱咤激励してくれた。

「私達は両家共に知り尽くしており貴方方二人のことも十分に知っている。何から何まで似合いの夫婦ですよ。互いにこれ以上の良縁は望めませんから仲良くやっていかなければいけないでしょう」ときつく窘められた。

また「記念品は後で東京の方へ送ってあげますからね」とも云われた。

厚く礼を述べて瀬戸線の二十軒駅の方へ歩いた。

「後三日、楽しみに待ちましょうね]

「ええ」

「さようなら」

「さようなら」と云って別れ。私は牛山の郷里に帰った。

 

結婚式

 

父は明治30年前後に名古屋の中学に通っていた。当時の中学は4年制であったが昔の寺子屋時代と同様にかなり程度の高いことを教わっていた。国語、漢文、地理、歴史、英語、算数、代数、幾何、三角、用器画、動物、植物、法規、剣道などを学んでいた。

当時、中等教育を受けた者は極めて珍らしい存在であった。

そんな訳で青年の頃から非常に進歩性に富んでいた。19歳で結婚したが、その前後数年間は愛知県庁の農政課に勤務し、眼鏡を掛けて蝶ネクタイをし洋服を着、革靴を履いて通勤するサラリーマンであった。

新聞を読んで政治、経済、社会を勉強し、25歳で村会議員になったり、信用購買組合(今の農協)を創設したり、青年会を組織したりした。

陰暦を太陽暦に改めることを推奨して率先して旧正月を新正月で祝うことにした。

先祖代々仏教徒であったのを神道に宗旨替えをした。

そんな訳で、私の家では長兄、次兄、長女の時は結婚式は神前結婚であった。

今ではそれが慣例になってしまったが、当時としては珍しいことであって、勿論村中で一番早かった。

私達の場合も当然父の計らいで神前結婚式を行なうように段取りが決められていた。

式場は両家にとって都合の良いように山口町の徳川園が選定されていた。

昭和12年1月1日午後3時からであった。

幸にも当日は終日、風も無く雲も無く恰も新年を言祝く如く,私達を慶祝する如く、まことに快い絶好の天気であった。

定刻10分前に控え室で仲人の治子様(杉山高女教諭)から両家の人たちの紹介があった。時刻が近づいて私達新郎新婦は並んで先導者に案内され、続いて両家の親族が夫々に列を作って入場し、所定の位置に着席、一同神前に向かって起立、拝礼、修跋の儀があって御祓いを受けた。

祝詞奏上,一同着席、夫婦固めの儀があって三・三・九度の盃を傾く。

誓詞朗読、玉串奉呈,一同起立、二礼二拍手一礼、着席、親族固めの盃で御神酒の配給、起立、乾杯、一同神前に向かって拝礼、退場。

このような式次第で滞りなく私達の神前結婚式は終わった。

この時から40数年を経た今日では、どこの結婚式場もスタジオがあるけれども、私達の時代にはまだそれが無かった。

庭園に出て新郎新婦二人と参列者全員の記念写真を撮った。

その後は型通りの披露宴があった。私はモーニング姿、彼女は高島田に角隠し、振袖姿の和風であったことは写真によって明瞭であるが、色直し後、どの様に彼女が変身したか記憶にない。

折りよく、その頃次兄の船が内地に寄港したので何港からか覚えていないが次兄が駆けつけて結

婚式に参列してくれて嬉しかった。

宴がお開きになって次兄と私達新夫婦はタクシーに乗って牛山の家に来たのは6時過ぎ頃であった。

家では弟妹や式に参列しなかった縁者の2.3人が早めに夕飯を済まし、幾つかの火鉢にかんかんと炭火を起こして待っていてくれた。

初めて跨ぐ婚家の敷居の高いのと、見知らぬ人達にわいわい言われて、たじろっている彼女を唆して台所に上がり二人は並んで座った。

次々と迎えの人たちも座って、声の止んだ瞬間を捉えて私が「皆様、何時もながら色々と有難う御座います。御覧の通り嫁でございますが宜しくお願いいたします」と挨拶した。続いて「初めてお目に掛かります。縁あって嫁いで参りました。不束者ですが宜しくお願いします」

「おめでとうございます、こちらこそよろしく」

「初めまして幾久しくお願いします」

「・・・・・・」と型通りの挨拶が終わった。

席の温まらぬ間に「家の神棚にもお参りしよう」と彼女を従えて縁側の方から座敷の障子を開けはいっていった。

お正月だから例年通り八脚(案)の上に御食、御酒その他色々のものが供えてあり、燈明の灯っているのは朝礼拝したときと同じであったが部屋の中の中央より少しずらして客用布団を敷き、枕と寝巻きが夫々用意されていたのには驚いた。

私達のために両親のどちらかが「帰ってくる頃を見計らってそうするように」と誰かに依頼して結婚式に出掛けたに違いない。

夫婦が同衾するのは当然であり不思議でもなければ珍しくもない筈だ。

だが指一本も触れたこともない、口付け一つもしたこともない男女が、一挙に一心同体、甘美の情に酔えるのかと思うと、胸のときめきを感じずにはいられなかった。

男の私ですらそうである。況してや白百合の様な純情無垢な彼女にとっては覚悟の前とはいえ顔の火照りを感じたに違いない。

私達は並んで供え物の前に座り、同時に二拝二拍手一拝をした。そして私は神棚を見上げて「お蔭様で結婚式は無事終わりました、後刻神の見そわす前で契りを結びます。どうか私達に幸を垂れ給わる様に」とお祈りした。

隣の彼女も同様なことを祈ったであろう。

座敷を出て一旦、土間に下り、裏口から出て裏庭に祭ってある祖霊の社の前に立ち、前同様に参拝し「今日の嬉しいことを報告し、子々孫々に至るまで家門高く広く栄さす」ことをお誓いして二人は部屋に戻って皆んなと一緒に火鉢に手を翳して話し合った。

「奇麗な方とは聞いていたが本当に奇麗な方だなも」

「ええ。体もすらっとしておりゃあすし、いうことにやーなも」

「何処から見ても私たちのような田舎ものには見えにゃやー」

「日本髪がとってもよく似合いますなも」

「着物の柄もいいなも、私もこういうの好きだギャー」

「帯もいいなも」

「晃様もいい人と一緒になれて幸せじゃなも」

「・・・・・・」などなどと隣同士で話し合ったり私達に話しかけてたりしていたが、何処までが本音で何処までがお世辞であるか判らなかった。

その中に、その人たちが帰って行って、次兄と弟妹と私達だけになった。

今でも名鉄小牧・上飯田線は単線運転で不便であるが当時は尚ひどかった。

私達が家に着いてから2時間も経過しているのに両親達はまだ帰宅しなかった。

兄弟思いの次兄は機転をきかせて「両親達は何時帰ってくるかわからない。待っていても仕方がない。お前達は今日は疲れているから早く寝なさい」と再度に亘って奨めてくた。

「それでは」と云って私達は床に就くことにした。私自身はそんなに疲れていなかったけれども。

 

初 夜

 

人である限り当然のことながら性的不具合者でない限り誰でも性交をする。それが人前で控えるが公然とできるのは何所の国でも結婚式を終わってからである。

結婚式は人生の一つの区切りであり、その前を第一の人生、その後を第二の人生という。オギャーと生まれた時の第一の人生のスタートを覚えているほどの賢者は一人もいないが、第二の人生のスタートである結婚初夜のことを忘れる愚者もいない。

幸い私も今尚その夜ことが頭の奥と瞼の裏に焼きついている。

座敷に入って杉戸を閉め、早速私は寝間着に着替えて床に就いた。彼女は立ったまま、帯や紐を解いた後、座って私の視線をそれるように後ろ向きになって襦袢諸共着物をそっくり脱いで急いで寝間着を羽織った。

袖に手を通して立ち上がり腰紐をした。その後衣文掛けを探していたようであるが、ないと判ると着物を一枚一枚剥がして折りたたみかけた。

待ち遠しいことこの上ないが、あのようなことが女の嗜みであろうからとじっと待っていた。たたみ終って積み重ね、隅の方に押しやって、漸く一息ついたようであった。

「電灯を消しましょうか」

「そうね」

忽ち暗闇になったが燈明の光でかすかにものが見えた。

「それでは休ませて頂きます」と云って布団の中に入ってこようとしたので、私が布団を捲くってやった。

「有難う御座います」といって、私の傍に体を横たえたが、島田髪が気に掛かって、頭を枕につけるのにたじろっていた。

漸くにして私達二人は寛ぐことが出来た。彼女は「この先どうなるのであろう」「どうすべきでしょう」「どうしてくださるのでしょう」と、胸の中は心配と喜びでときめいていたであろう。それ以外のことは一切頭に浮んで来なかったに違いない。

私はもどかしさで一杯であったが、敢えて冷静に口をきいた。

「この間渡しておいた挨拶状の中の文句、よく判りましたか」

「ええ、大体わかりましたわ」

「あれはね、人生には茨などがあって決して平坦な道ばかりではないが、田舎の草屋に降り積もっている雪景色を鑑賞しながら、即ち人生を楽しみながら、急がず焦らず、牛の様に力強く大地を踏みしめてやって行きましょうということを書いたつもりですよ。判るでしょう」

「ええ、判りますわ」

「これから先の人生は今までの何倍になるかわからないが、死ぬまで二人で力を合わせ、仲良くやっていきましょうね」

「ええ、そうしましょう」

と云って、私は片手で彼女の寝間着をはぐし、腰巻を腹の辺りまで掻き分けた。

その序に彼女の急所に手を触れてみた。有る。有る。立派に有る。これなら大丈夫だと安心した。

と云うのはパイパンではなかったのである。パイパンとは麻雀で使う彫り絵のない白いつるつるした牌のことである。これで無毛症でないことが確認できた。嘘か本当か医学的な根拠は確認していなかったが遺伝性が強いと聞いていたからである。

私は床に就くと同時に、もごもごとパンツを脱いでおいたから良かったものの、この時既に逸物が興奮状態になっていた。若しパンツを脱いでいなかったら脱ぐのに一苦労したであろう。それほどにいきり立っていた。

私は自分の寝間着をはぐと彼女に股を開かせ、お腹の上に覆いかぶさるように乗り移った。左手で彼女の肩のあたりを抱き、右手で彼女の陰毛を掻き分けておいて烈火のように怒り立ったわがペニスを右手で押さえつけて膣口にあてがった。

その時玄関の格子戸がガラガラと音を立て両親の帰宅したことが判った。

そんなことにかまわず、むしろ急に家の中がざわめきだしたのを幸いに、ここぞ思って突き込もうとしたが亀首が膣内に入ったか入らぬうちにドクドクと猛烈に射精が始まりかかった。

これはいかんと思い、素早く右手を離し、彼女の肩に回し変え、棒杭のようになっているペニスを根元まで突入させた。彼女がどんな仕草をしたのか覚えていない。

彼女の胸に顔を埋め、何分かの間そのままの姿勢で全然動かなかった。

陶酔状態とは正にこの有様、甘美な味わいとは正にこのことをいう。

ペニスの萎えるのを待って耳元で「桜紙は?」と小声で聞いた。「ハンドバッグの中に」という。

頭を持ち上げて燈明の薄明かりの中で目配りしてみると障子の際にある。なんと不用意なことかといささか腹立たしかったが、これこそ未体験な証拠であり、寧ろ喜ぶべき事であると気を取り直した。

静かに腰を持ち上げ、二つ身になってから這い出し、手を伸ばしてハンドバッグを取り寄せ彼女に渡した。

紙を取り出し、渡してくれるのを待った後、夫々後始末をした。

お勝手場の方では両親を囲んで次兄や弟妹達が四方山話をしていた。

牛の一突きということをいうが、文字通り根棒での一突きに終わってしまって、彼女には申し訳ないことをしてしまった。出血の有無多少も、痛痒の有無大小も、感度の良否も確かめずに私はそのまま朝までぐっすりと寝入ってしまった。

大きな不安と期待を抱いていたであろう彼女は「何だこんなことか」と虚無感しか抱かなかったのではなかろうか。いずれにしろ私達の結婚は儀式、本番ともに神前で行なった。

 

お部屋見舞い

 

見る物、聞くこと、出会う人、触れる物、家庭の雰囲気など総てが違う環境の中におかれれば誰でも違和感を生ずる。

況や、男の体に初めて触れるどころか、男の怒り狂った逸物を体内に挿入され、ひしと男の両腕で抱きしめられた初体験は、それからそれへと色々なことを連想させたに違いない。恐らく彼女は眠れなかったであろう。

私が目を覚ましたとき、彼女は既に化粧直しを済ませ、何時でも人前に出られるように身の回りを整え、枕元に座布団を置いて座っていた。

私が起きたのは8時頃であったろうか、家族のものはもう朝食が終わっていた。

寿美江も既に家族との朝の挨拶を済ませ、洗顔をし、食事にも一旦誘われたそうだが「私と一緒で」ということで部屋に戻っていたとのことであった。

「起こしましょうか」といったそうであるが「いや疲れているだろうから寝かせておけ」とのことで、自然に目覚めるのを待っているところであった。

改めて母が私たち二人のためにわざわざ雑煮を炊いてくれた。

正月2日の朝のこと、のんびり皆んなが台所の火鉢に当たったり、縁側の障子を開けて日向ぼっこをしながら雑談をしていた。

私達も其処へいって仲間入りをした。

暫くすると父が何気ない顔をして私に聞いた。「式は無事に終わったかね?」と。

結婚式は昨日父も出席して終わったことを知っているのに、今更何をいうかと不審に思った。その後、瞬間に父の聞いているのは貫通式の意味であることに気が就いた。

「ええ、無事終わった」と言葉少なに即答した。

「そうかそうか、それは良かった。おめでとう。寿美江さんおめでとう」と、寿美江にも声を掛けた。傍らで、この話を聞いていた寿美江も言葉の意味が判ったと見えて、顔を赤らめながら「ええ、有難う御座います」といった。

父は7人の子供のうち、まず4人子供を結婚させ、親として責任の果たせたことに至極満悦であった様だ。色々な話をしているうちに、10時頃であったろうか、本家の伯母と寿美江の母と、兄嫁の3人が連れ立ってやってきた。

家の中が急に賑やかに華やいできた。互いの間の挨拶が終わると父が

「安心して頂戴、何もかも滞りなく終わったそうだから」

「そうですか、それは結構なことで」「それは良かったおめでとう御座いました」

「安心しました、おめでとう御座います」

父「有難う御座います、これで気がかりなことはなくなったわなも」

母「皆様に喜んでいただけてホッとしましたわなも」

「晃様、おめでとう」「寿美江さん、おめでとう、良かったわね」「寿美ちゃんこれからも可愛がってもらいなさいよ」「晃様、寿美江ちゃんを大事にし可愛がってあげなさーよ」こうした会話の後、持参した風呂敷包みが解かれて重箱が差し出された。

「お粗末なものですが、お部屋見舞いの印しに」

「お部屋見舞い、わざわざ御丁寧に恐れ入ります。お印、遠慮なく頂戴致します。まことに有難う御座います」

「・・・・・・」

こうした遣り取りがどういうことを意味するのか私は全く知らなかった。

後で判ったことだが新郎新婦が初夜に当たって、先ず互いに裸になり身体の状態、すなわち健康、傷痕、痣、陰毛、性病その他の良否、有無を確かめ合う。この段階で合意納得できなければ結婚は不成立、合意できれば性交渉に入り正式結婚する。よって一般には花嫁の方は婿方に(養子縁組の場合はこの逆)気に入ってもらえたかどうかを確認するために翌日牡丹餅を手土産に持って、婚家を訪問する。

これをお部屋見舞いと云って当地方の慣行である由。

私はそんな重要な意味があるとは露知らず、気恥ずかしさが働いて咄嗟に「ええ、無事終わった」と簡単に言ってしまった。

又、パイパンか否かを確かめただけに過ぎなかった。寿美江にいたっては私のそれすら確かめなかった。

父は二人とも適齢期を過ぎているのだから「その位のことは知っている」と思っていたに違いない。「何もかも滞りなく終わった」と解釈したのであろう。

伯母、母、兄嫁や私の母などは又それを鵜呑みにして喜んだようである。

後日、寿美江は私の全裸体を見て、顔よりも尚肉体の方が黒いのを知っても、それには触れず筋肉隆々としているのを見て「頼もしいわ」といった。

私は寿美江の肉体は肌理細かくて、白く、外目よりも遥かに餅肌で肉付の良いのに魅力を感じ嬉しかった。その他に異状のないのをお互いに喜び合った。

 

牡丹餅の由来

 

地方によって色々の風俗習慣があるが、冠婚葬祭にはそれが目立つ。

その後、お部屋見舞いの時持参するお土産は他のものでもよさそうなのに何故わざわざ牡丹餅にするのか、その理由を識者に聞いてみた。

その結果は次のようであった。

そもそも米には常食にする粘り気の少ない粳米(うるちまい)と、餅にする粘り気の強い糯米(もちまい)の2種類がある。

この2種類を混ぜて釜に入れて炊き上げ、太い長い擂り粉木で軽く何回も突っつく。

そのうちに粘り気が出て、ぐちゃぎちゃになり、時にはすっぽんすっぽんと音のすることがある。適当なところで止めて、一掬いづつ手の平に乗せ、ぐっと押し付けた後、丸めて餡子や黄な粉の中に入れる。此処までが主として女の仕事である。

餡子や黄な粉を塗すのは他の人(男)の仕事である。

即ち、牡丹餅作りは二人の共同作業である。これらの操作が何となく性行為のそれに似ている。生活の知恵からきた意味深長なユーモアある手土産として、お部屋見舞いには絶好のものとされ、何時の時代からか慣行になったもののようである。

この時の牡丹餅のことを特に尻据え餅ということもあるが、尻を落ち着けて逃げ出さないようにとの意味があるかもしれない。

その他、結婚当日、花嫁が婚家に来た時、仲人が持参してきた紙緒の草履を門口で履き替えさせ、そのまま少し歩かせて部屋に上がった時、脱いだ草履の鼻緒を切って屋根の上に放り上げる風習があった。

とりもなおさず、これは花嫁が帰って行かれないようにとの呪いである。

又、部屋に上がるときであるが、普通は玄関や出入り口を利用するのであるが、花嫁に限って縁側から出入りした。

それは、棺桶や柩の出入りの時は縁側からするのが通例である。従って死ぬ時まではこの家から出て行きません、との戒めの習慣であった。

今一つ、仲人の務めとして、初夜には花嫁の枕元の布団の下に桜紙を偲ばせておき、翌朝その紙の減り具合を確認した上で、仲人としての大役を滞りなく終了したことを両家の親族に報告するのが慣わしのようであった。

この他にも色々の風習があったようである。

何れにしても、これらは旧来の陋習として顧みられなくなってしまったが、必ずしも悪習とばかりは云えず、一理も二理もあり、示唆に富んでいるのではなかろうか。

私達の子供の時は家庭内で結婚式を挙げていたので、以上のようなことが厳守されていたが、私達はこの様なことを全く忘却していたし、このようなことに無知でもあった。

依って、傍目には度外視しているように思われたであろう。

 

(父の生家の間取り)

 

次に続く