男の身の引き際  03・10・29

男の身の引き際

藤井治芳氏の場合

 

日本道路公団の藤井治芳総裁が大臣の辞任勧告を無視し続けて居直っている現況というものをどう理解したらいいのであろう。

任命権者のいうことを聞かずに居直るということは、まことに倫理に反することだと思う。組織の私物化そのものではないかと思う。

いくら任命権者といえども、何も理由がないのに辞任を迫るという事はないわけで、辞任してもらいたい何らかの理由があるからこそ、辞任せよといっているわけで、行政という組織の中で、上長のいうことに従わないというのでは、組織そのものが機能していないということに他ならない。

石原国土交通大臣が、道路公団総裁に「辞めよ」という理由は、総裁が組織の改革、つまり道路公団の改革改善に消極的だと思ったからで、人事権を持つ大臣が直接本人にその旨申し渡した以上、これは従わざるを得ないと思う。

石原国土交通大臣が若く、藤井総裁の息子ほどの年齢の大臣だからといって舐めて掛かっているとしか我々には見えない。

しかし、いくら相手が若かろうとも、職制上の指揮命令権は大臣の側にあるわけで、その職制に則った指示命令ならばいくら老獪な総裁であろうとも従うのが普通の倫理だと思う。藤井総裁がこういう一般論を無視してまで開き直っている背景には、いわゆる道路族と称する自民党の大物の政治家が後ろに控え、彼らが彼をフォローしてくれるに違いないという読みがあるからだと思う。

既に10月20日の朝日新聞には、道路公団の入札に亀井静香の関与している会社が指名入札を確保したというニュースが載っているくらいで、藤井氏はこういう大物政治家がきっとバック・アップしてくれるに違いない、という打算の上に「若造の大臣のいうことなど聞ける」かという腹だと思う。

こんな想像は私のような政治に全く不案内なものでも察しが付くわけで、政治という虚業で飯を食っているものからすれば、自明のことかもしれない。

これこそ、この現況こそ、この有態こそ、日本の政治の本質だと思うし、小泉内閣の改革改造が目に見える形で現れていない原因だと思う。

石原大臣は第2次小泉内閣の改造前は行政改革担当大臣として既に日本道路公団の藤井総裁とは渡り合っているわけで、その時の争点はいうまでもなく、財務諸表のあるなしという問題であった。

問題は、この財務諸表というものが最初に表面化したとき、彼がそれを隠蔽する方向に動いたから身を滅ぼす結果となってしまったわけである。

財務諸表というのは判りやすく言えば公団の財産目録とみなしていいと思う。

いくら借入金があって、いくら債務が残っているかとか、いくら儲かったか、というデータを表したものだと思うが、企業としてこれがないという事はありえない。

藤井総裁の答弁を聞いていると、この財務諸表そのものの認識が全く抜け落ちているような印象を受ける。

「土地評価が定まっていないから財務諸表が出来ない」などという論理は全く話にもならない。

だからこそ、内部告発で「幻の財務諸表」などというものが現れてくるわけで、基本的には「幻と」いわれている方が実態を表しているわけである。

総裁たるものが、この「財務諸表がない」と言うこと自体、総裁たり得ないわけである。

「総裁に適さない」と言われる根本のところとである。

土地評価というものが流動的ならば、当然、財務諸表の数値も流動的に変化するわけで、それによって儲けが増えたり減ったりすることは資本主義経済では当然のことで、問題は組織のトップたるものがそれを「ない」とい発言することである。

企業のトップが「財務諸表がない」と発言することは、すでに資本主義経済そのものを理解していないということに他ならない。

藤井治芳という人は、建設省に永いこといて、建設省OBとして権勢をほしいままにしていたと聞くが、元官僚ならば資本主義経済というものの本質がわからないというのも、ある程度は想像が付く。

官僚というぬるま湯に首までどっぷりと浸かっていれば、生き馬の目を抜くといわれる経済の動向に疎くなるのも致し方ない。

親方日の丸で、儲けということも、利潤という概念も、コスト意識もないまま、税金を蚕食していれば、財務諸表の何たるかを理解しきれないのもむべなるかなである。

建設省といえば、政治家が一番たかりに来るセクションだったわけで、「政治家と関わるな」といってもそれがありえないセクションのはずである。

だからこそ、官僚の、ひいては建設省の天下りの受け皿としての道路公団の民営化が問題になるわけである。

建設省、道路公団とくれば、政治を具現化するもっとも顕著な組織のはずである。

国会議員が地元のために道路を作れば、それは地元にも貢献したことになるし、国家議員にも顔を立てたことになるし、道路公団も実績を上げたことになるわけで、三者三様に得をしたように見えるが、そこでは経済効果、市場原理、費用対効果というものを無視してそれが行われるものだから、後に残るのは膨大な累積赤字ということになる。

その付けは結局まわりまわって国民全体に降りかかってくるわけで、小泉首相のいう改革というのはそれを是正しましょうというものである。

日本道路公団の民営化の真の目的というのは、その是正にあるにもかかわらず、その趣旨を理解しようとせず、既得権益にしがみついて、従来どおり政治家や道路公団そのものの存続を由としようとするから、藤井総裁のような態度になるわけである。

彼の行っている行為というのは、人間として実に意地汚く、みっともなく、醜悪である。

国交省の自分の子供のような若い役人から聴聞を受ける状況というのは、人間とした恥ずかしくないのであろうか。

自分の10年も15年も後輩から、尋問を受けるということは、私なら恥かしくて居たたまれない。

いくら理論整然と反論したとしても、そういう事態になったこと自体が、人間として恥ずかしいと思う。

ならばどうすればそういう事態を引き起こさずに済んだのかと問えば、国会に召喚された時点で、素直にありのままを述べればこういう疑惑はもたれずに済んだわけで、そこで相手を舐めて掛かったから、こういう惨めは状況に陥ったわけである。

70過ぎの、人生に達観して然るべき人が、自分の子供以上に若いものから「あなたは総裁の任に適さない」と言われるほどの屈辱を味合わせられても、尚その意味するところを理解しきれていないわけである。

こんな馬鹿な年寄りが、日本道路公団のトップに居ていいものだろうか。

我々の日本民族、大和民族の中には、権力に固執しない、極めて淡白な人も大勢いる。

何かのスキャンダルを暴かれると、いとも簡単の地位を投げ出す人もいるが、藤井総裁の場合は全くこれと逆の状況で、権力の保持に汲々としているわけである。

あまりにも簡単に地位や権力を放棄するのも、潔いとは思うが、これも程度問題で、根も葉もないようなスキャンダルを書き立てられる毎に、地位を簡単に放棄するというのも、逆に無責任すぎるのではないかと思う。

しかし、この藤井総裁の場合は、その全く逆のケースで、見るに耐えないほどの醜態である。

ところが本人には、このことが醜態であるということがわかっていない節がある。

こういうところが官僚の官僚ボケたる所以だと思う。

マスコミが書きたて、騒ぎ立てると、英雄にでもなった気分で開き直っているわけで、「裸の王様」以上に陳腐な光景だということが本人自身さっぱりわかっていない。

ところが、この事件に対するコメントを見てみると、もっともっと人々は藤井総裁を糾弾しなければいけないと思う。

民主党の管直人のコメントなど実に的外れである。

藤井治芳を責めなければいけないのに、石原大臣の方を悪し様に言っているではないか。「始めに解任ありき」の論法だからいけない、とのたまっているが、ならば彼にこのまま総裁を続けさせればいいのかということになる。

野党の面々の論調は、総てこの管直人の論調に酷似しているが、野党の物の言い方、見方というのは総て小泉内閣、現行内閣の足を引っ張る方向にベクトルが効いているので、見方によると、藤井総裁にこのまま現職を続けさせよというふうに聞こえる。

マスコミというのは、対岸の火事は大きいほど面白いという論理で、騒ぎが大きくなればなるほど喜んでいる節がある。

結果に責任を負わなくて済むマスコミは、騒ぎが大きければ大きいほど、世論を煽る効果が実証できるわけで、その意味ではオピニオン足りえていないと思う。

藤井総裁の首を国交省が据え変えたいと思っていることは、基本的に、日本の国益にかなっているわけであるが、その点を誰もが黙殺しているわけである。

表層的な個人の怨恨の問題として、この解任劇を面白がっているわけである。

9時間にも及ぶ聴聞の中で、藤井総裁は財務諸表のあるなしのやり取りの後で、国交省の道路公団に対する窓口の日原室長に対して、財務諸表があるかないか早急に調査するように指示しなかったからそれをしなかったという答弁をしているが、こんな馬鹿な話もないと思う。

国交省のほうは現役の役人で、道路公団の藤井総裁はすでに役人を引退して天下りした身でありながら、後輩の役人が「指示しなかったから調査をしなかった」という言い草ほど陳腐な回答もないと思う。

これでは子供の喧嘩の類と全く同じで、大の大人のいうべき言葉ではないと思う。

日本道路公団という巨大組織のトップが、役人から「調査するように言われなかったからしなかった」ではあいた口が塞がらない。

財務諸表などというものは、企業組織ならばあって当たり前のもので、「ない」では済まされないものだと思う。

国会で「ない」と言ってしまったものだから、次から次とボロが出てきて、挙句の果てが「幻の財務諸表」などいうものが出てきて、それが正式のもの足りうるかどうか、などと陳腐な議論になっているわけである。

道路公団総裁が、「財務諸表がない」といった時点で本来ならば更迭されて然るべきである。財務諸表一つ整えれない企業トップならば、トップ足りえないはずである。

マスコミも、野党の議員も、何故そのことを声高に叫ばないのか、これも不思議だ。

この場合は、石原国交省大臣を皆で応援して、「藤井総裁辞めよ」と何故シュプレヒコールが出ないのか。

藤井総裁の言動から、彼を擁護すべきものは何もないわけで、藤井総裁と石原大臣の駆け引きを面白がって見ている場合ではないと思う。

この9時間にも及ぶ聴聞の最後に、係官から最後の感想をいうように言われて、その時の文言がこれまた見事に人を欺いている。

「私は地位に恋々とする性格ではありません。

西郷隆盛は大勢の人のために自分を死に追いやったわけであります。

それと同じように、私は新しく公務員になる人たちが、色々な意味での圧力に対し、きちっと国民にわかりやすく、国民の利益を常に考える、そのために身分が保証されているわけですから、そういう生き様をしてもらいたいなあと思って、今回あえて、普通ならば大臣に逆らったり、あるいは昔の仲間とこういう気まずい思いをするというのは、本当はしたくないことです。

やはりみんなが自分の身は自分で処して、国民の利益と国民の目で信頼を得るようなそういう人生を歩んでもらいたいという気持ちで今回おりました。

私も権力を持っておりましたから常に自分を慎むように努力してまいりました。

あなた方は権力を持っているんだ。その怖さをよくわかってください。それだけです。終わります。」(2003年10月18日、朝日新聞、33面)

言葉というものはまことに便利なもので、どういう風にでも言い包めることができる。

冒頭の「地位に恋々とする性格ではありません」というくだりは噴飯ものである。

私ならば恥ずかしくてとても口に出来ない。

「大臣に逆らったり、昔の仲間と気まずい思いはしたくない」という部分は正直な本音だろうと思うが、そう思いながらも実際の行動がそうなっていないということは、地位に恋々として未練があったからといわなければならない。

つまり、口で言っていることと、実際の行動が食い違っているということである。

道路公団総裁たるものが国民のことを考え、国民の利益のことを考えていれば、日本道路公団の民営化という問題そのものが俎上には登らなかったはずである。

日本道路公団そのものが、国民のことを考え、国民の利益のことを考えているのならば、それを民営化しなければならないという話は出てこない筈で、それでなかったからこそ、それを民営化して、国民のためになる、国民の利益につながる組織にしなければならないということになったわけである。

そういう時の流れ、国民の要望、総理大臣の考え方を具現化すべく、石原大臣がそのまえの行政改革担当大臣のときから道路公団総裁の藤井治芳氏と会談を重ねてきたわけである。日本道路公団というのは、業者つまりゼネコンとの癒着が必然的に出てくるセクションなわけで、その癒着には必ず政治家の関与があるものと思わなければならない。

道路を一本通すというときに、政治家との関わりなしではありえないと思う。

土地の買収から、施行業者の選択から、設計の段階で、政治家の存在なしで事が運ぶわけがないと思う。

今日の日本の政治は官主導といわれているが、その官を食い物にしているのが政治家だろうと思う。

そして政治家というのは黒幕に徹しているものだから、表面上は官僚が民間業者を上から管理しているように見えるが、その官僚の上には政治家というのがフィクサーとして存在しているわけである。

藤井総裁もその接点をつつかれるのではないかと、それを心配していたが、この聴聞でも本人自身が、「私から色々な話が出るのではないかと期待したかも知れないが、私はそういうことを言わない」と言っているところをみると、この発言の裏側を推察すれば、本人は「政治家との接触が多々あって、裏の秘密を沢山知っているが、それは言わないよ」と言っているようなものである。

これで国民の為に立っていると思っているのであろうか。

これで国民の利益に寄与しているといえるであろうか。

私利私欲で道路公団に群がってきた政治家を暴いてこそ国民のため、国民の利益のために寄与したということになるわけで、それを政治家に義理立てして、政治家の利益を擁護しておいて、国民のため、国民の利益のためなどと言うのはあまりにもおこがましいといわなければならない。

この状況を見るにつけ、普通人としての常識というのは何故消滅してしまったのであろう。官僚という組織の中に埋没すると、何故人間としての一般常識というものを失ってしまうのであろう。

今日、戦後の日本で、官僚というと本当の意味での官の仕事をしている人々を指すことになっているが、戦前はこういう人たちのグループに軍人もはいったわけで、日本が第2次世界大戦に嵌まり込んだ遠因は、この軍官僚が普通の人間としての常識、モラル、倫理を失ってしまったことにある。

我々の同胞が、官僚という組織の中に埋没すると、普通の社会人としての常識とかけ離れた論理に洗脳されてしまって、自分は一般国民とは違った、一般国民を管理する一段上の立場だ、という倫理観に犯されてしまったわけである。

一般国民とは違った優れた人間になったのだ、と思い違いをしてしまったわけである。

藤井総裁も長いこと建設省の官僚であった時代に、自分が日本国民のひとりだという認識失ってしまい、日本国民を管理監督する一段上の階級、つまり高級日本人だと思い違いをするようになったに違いない。

この思い違いに浸ったまま、ものを言ったり行動するものだから、普通の日本人からすると、どうにも違和感を払拭しきれず、とんちんかんな印象を受けるわけである。

まさに「裸の王様」で、自分が裸であるにもかかわらず、人が冷ややかな目で見ていても自分では全く気が付かないわけである。

 

二人の政治家の場合

 

話し変わるが、自民党の73歳定年制で、小泉首相は宮沢喜一と中曽根康弘にそれぞれ引導を勧告した。

これにより宮沢喜一は素直にそれを受け入れ、「遅すぎたと言われたくない」という言葉を残して首相の勧告に従った。

ところが中曽根康弘のほうは悪態をついて抵抗したわけだ。

最終的には首相のほうが「一切の例外を認めない」という初志を貫徹して、比例区の公認を認めないという形で押し切ったので、結果的に引退せざるを得なかった。

この時の小泉純一郎の引導の渡し方は実に巧妙な言い方であった。

相手を傷つけまいと、花を持たせた上で、「(いまさら国会議員にしがみついていなくても)活躍の場は他にもいろいろあるではないか」、という言い方は、実に気の効いた引導の渡し方だと思う。

それに対する中曽根康弘のリアクションは、あまりにもみっともない。

宮沢喜一はあっさりと相手のいうことを飲んだので、醜悪さというものは全くないが、それに引き換え、中曽根の場合、若き後輩の首相に対する嫌悪感をむき出しにして、大物の値打ちが一遍に吹き飛んでしまった。

今までの自由民主党の重鎮としての値打ちが、あれで一遍に消し飛んでしまった。

ただ単に権力に寄りかかって甘い汁を吸う寄生虫となんら変わるものではない、ということを暴露したようなものである。

男はやはり引き際で価値が決まるようだ。

日本道路公団の藤井総裁、自由民主党の中曽根康弘、この二人の引き際というのは、実にみっともない。

宮沢と中曽根を比較すると、宮沢は何となくハト派として軟弱な印象を受けていたし、中曽根のほうはタカ派として、竹を割ったように男らしくあっさりした雰囲気がある様に思われていたが、現実は全くその逆であったわけである。

そして、これは中曽根氏の周りの取り巻きが悪いと思う。

なんといっても亀井静香がドンの周りでうろうろして、あることないこと御注進している限り、中曽根自身が恥を書き連ねることになると思う。

第2次小泉内閣の総裁選の時の亀井静香の言動を見れば、彼が如何に自由民主党のガンになっているかがわかるというものである。

自由民主党の仲間内では、案外彼に対して正面から反論は言えない雰囲気がただよっていると思うが、彼の言動には注意を要する。

中曽根氏を担いで、彼をドンとして奉っている亀井静香という男は、まだ中曽根氏に影響力が残っていると思って、彼にくっついているが、そういう古典的な村意識から脱却しようというのが、既定のルールを貫かねば改革が成り立たない、という小泉純一郎の考えだと思う。

私も個人的に小泉氏の考え方に賛意を表したい。

自民党の長老に引導を渡すということは、非常に難しい問題であろうと思う。

今までの自民党総裁では誰も出来なかったことをしたわけだから、これも大な改革の一歩だと思う。

こういうことを国民は評価しなければならないと思う。

かっての森首相も、橋本首相も出来なかったことを殻は実行したわけだから、それを国民は素直に評価しなければならないと思う。

中曽根氏の言い分も、一見、一理あるようには見える。

言葉はまことの重宝なもので、如何にも説得力があるように見えるけれども、彼の言う「し残したことが沢山あるからまだ政界を退きたくない」という言い分は本音とも取れるが、過去に総理大臣、自由民主党総裁を努めた人が、その時に出来なかったものがどうして平の国会議員としてできるのかと言いたくなる。

その状況を勘案すれば、小泉氏のいうように国会議員という立場でなくとも、そういうことを推進する生き方というものは他にいくらでもあるわけで、それをすればいいわけである。

この時、「年をとっているというだけで駄目だ、という論法は人を人とも思わない無謀な発想だ」ということを亀井静香あたりが言っていたが、これも実に日和見な意見だと思う。

ならば、若手の養成はどのようにすればいいのか、という反論にどう応えるのであろう。やはり、人間はある程度の年齢に達したならば、後進に道を譲らねば物事は停滞してしまうではないか。

若ければ何でもいいというわけではないが、若者が道を過りかけたときにこそ、老練な先輩が適切なアドバイスをして道を正せばいわけで、それは何も国会議員という立場でなくともいいわけである。

それにしても人から引退を勧告されるようでは人として情けないと思う。

普通のサラリーマンが定年退職を迎えるときは、若い後輩から域外に押し出される、言い方を変えれば放り出されるわけであるが、この時駄々をこねる人がいるであろうか。

本人も、送り出す方も、一応は「長い間ご苦労様でした。長い間業務に邁進されてご苦労さまでした」というねぎらいの言葉で送り出されるわけで、本人も送り出す方も、納得の上で離職ということになるわけである。

仮に、未練があったとしても、未練がましくぐずぐずすることは許されないわけで、一応そこで切をつけなければならない。

そこから第2の人生、第3の人生を開くのは本人次第である。

高級官僚が定年のときに民間企業に天下りするということは、本当はあってはならないことだと思う。

人は長年培ってきた経験と知恵を風化させないため、などともっともらしいことを言っているが、それは私利私欲の維持をカモフラージュするための都合のいい言い訳に過ぎないわけである。

ただし、民間企業側からすれば、そういう人から情報を得、ビジネス・チャンスの開拓に役立ち、官庁に精通した人間を高級を払ってでも取り込む、ということはそれなりのメリットがあるわけで、利潤の追求に一喜一憂する企業にとっては利用価値はそれない存在することは確かである。

基本的に公務員というのは退職してすぐそのまま民間に横滑り、天下りということは禁止されていると思うが、そこには色々な抜け道があるに違いない。

道路公団ともなれば、そういう圧力が数多あることを藤井総裁自らが認めているようなものである。

男の引き際というのは実に大事で、それによって男の器量がわかってしまうと思う。

中でも、勧告を受けてから身を引くというのが最低であろう。

それでもゴネようとするのは最低以下である。

心ある人ならば、人から勧告を受ける前に奇麗に身を引くことを考えるのが普通で、それが男の美学だと思う。

まして、上長から辞表の提出を求められ、それにも従わず「職に適さず」と、退職勧告を受けるなどということは、人間の生きる道としては最低以下のことである。

今まで営々と勤め上げた挙句が「職に適さず」などという烙印を押されるまで居残ったということは、普通の常識ではありえないことだと思う。

普通の常識に欠けているからこそ、こういう事態になるわけである。

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