日本・その2 03・08・19
平成になってもう15年。昭和もだんだんと遠ざかっていく感じですが、昭和初期のころのことを考えるとなんとも割り切れない複雑な気持ちになります。
我々は明治維新を経ることで非常に大きな価値観の転換を経験してきたわけであるが、昭和20年の敗戦というのも、我々にとってまことに大きな価値観の変換であったと思う。
如何なる民族も価値観の変換というのは大なり小なり経験しているであろうが、我々の場合、その振幅があまりにも大きかったように思う。
昭和を生きた我々世代からすれば、昭和20年の敗戦による価値観の変換が最大の関心事であるが、そこに至るにはその前の過程が問題だと思う。
特に、あの戦争に敗北するまでの間に、我々の国が「神の国」だという神がかり的な神話が何ゆえに生まれたのであろう。
戦前の軍国主義というのは、この神話の上に乗っかっていたように思う。
明治維新で徳川幕府という政治体制を放棄した後に、天皇を担ぎ出して、それを我々国民の上にかざすことで「天皇制の復活」という言い方で語られているが、この天皇というのは、徳川幕府が続いていた時代にもきちんと存在していたわけで、それがため神代の昔から続いたという言い方がなされて、それが普遍化してしまったのは何故なのであろう。
天皇家というものが由緒ある家柄で、大昔から存在していたことは認めなければならないが、それを政治の道具として使うということは明治維新になってからだと思う。
それでいて天皇親政ではなく、議会制の上に天皇が屹立しているわけである、
極端なことを言えば、明治時代にも天皇は象徴であったということになる。
もちろん徳川家の江戸時代を通じても象徴であり続けたわけで、もし天皇が親政であったとすれば、それは天皇の独裁政治でなければならない。
いままで徳川家が征夷大将軍という官職を天皇から負託を受けるという形で統治が成されていたわけで、江戸時代においても影に天皇という存在があったわけである。
明治維新というのは、それまで将軍家の陰に隠れていた天皇というものを前面に持ち出したことにより、民心を一つの方向に決定付けしたわけである。
しかし、天皇は独裁者ではないわけで、その下に内閣を置き、議会制の国会というものを置いたわけである。
これは非常に素晴らしい統治システムであったが、如何せん、歴史の推移というのは必然的に存在するもので、明治維新で近代的な国家システムが出来たといっても今日的な視点からすればまだまだ稚拙な部分があったわけである。
人類は経験から学ぶもので、100年も前のものを今日的な価値観や価値基準で同一に論じることは出来ないと思う。
そして、今に生きる我々は、歴史からの教訓を得るために、過去の我々の考え方の稚拙な部分を解明し、それと同じ間違いを繰り返さないように心かけることは必要だと思う。
戦前の、神がかり的な軍国主義、愛国主義というのがどこから出てきたのかと考えることは非常に興味あるところである。
天皇が政治の表面に出てきたといっても、それはあくまでも象徴的な存在であったにもかかわらず、それを宗教的な神と捉える発想は一体どこから出てきたのであろう。
明治維新というのは技術革新も伴っていたわけで、当初は西洋の物まね、模倣から始まったにしても、そのノウハウをたちまちのうちに自分達のものとしてしまって、オリジナルに改良を加えることで、それを超越するまでになった。
それには科学的なものの考え方、物事を合理的に考えるという思考がないことには、そういうことはありえないわけで、我々は宗教の戒律を後生大事に抱えこんだり、古い因習にとらわれたりする民族ではなかったわけである。
ところが、これが昭和の初期になると、天皇陛下を現人神というようになってしまったのは、一体どういうことなのであろう。
片一方で西洋の技術を凌駕するような高度な機械文明を自分のものとしながら、もう一方では、天皇陛下を生きている神様などと、真剣に思い込むというのは一体どういうことなのであろう。
これを大きな視点から、上から敷衍して眺めてみると、政治の問題ではないかと思う。
我々が政治と言う場合、それは政治イコール政(まつりごと)というイメージを払拭し得ない。
農耕民族として、人の集団としての集落が、農耕で生業を立てているとき、そこでは集落全員が協力し合って農耕を営まねばならず、その過程で長老同士、つまり経験者同士が話し合いで意思決定をしていたと想像する。
ここではいくら経験者といえども独断と偏見は許されず、飲み食いしながらの話し合いのうちに、なあなあと、決まったような決まらないような、わけの判らないうちに、何となく既成事実が先行して、物事が次に展開していくということだと思う。
独裁でもなければ、多数決原理でもなく、それぞれが責任を回避することだけに考えをめぐらして、決めるべきことはどこかに行ってしまっていたと思う。
我々は民族としてこの習い性を未だに引きずっているものと思う。
だから我々は21世紀の今日に至っても政治的には三流の域を出られないわけである。
政(まつりごと)というのは、いわば一種のお祭りで、お祭りの渦中にいる人は、外から傍観者として第3者的な視点からお祭りを見ているよりも、渦中に入って騒いでいる方が面白いわけである。
生れ落ちたときからこういう精神風土の中で生育した人間が、文明開化だからといって、一気にそれを捨て去って、西洋流の合理主義に撤しきれるものではないと思う。
この我々の曖昧さというのは大江健三郎がノーベル文学賞を受賞した祭にいみじくも述べたが、我々の発想というのは、この曖昧さに尽きると思う。
江戸時代の徳川家だって、天皇家から征夷大将軍の称号をもらおうがもらはなかろうが、自分が実力No1であれば、天皇家の存在など無視してもなんら影響はないにもかかわらず、何となくその存在を意識していたわけである。
西洋列強の合理主義にはこういう曖昧模糊としたイメージはないわけで、実力No1ならば、それは名実共に独裁者たりえたわけである。
こうした潜在意識の違いがあるところに、西洋流のデモクラシーというものが入ってきたとしても、すぐには馴染めないし、それは今後も真には馴染めないと思う。
出来上がるのは、日本流のデモクラシーというものだと思う。
戦前の我々の政治というのは、この出来損ないのデモクラシーではなかったかと思う。
不思議なことに、あの軍国主義の中でも議会と国会はきちんと機能していたので、戦争に負けたとはいえ、終戦の取り決めもきちんと行われたではないか。
21世紀の最初の戦争であるイラク戦争では、アメリカが壊滅的にイラクを攻撃して勝利したが、イラク側にはきちんと降伏文書に調印するというけじめがあったであろうか。
かってはイラクのリーダーであったサダム・フセインは、どこかに雲隠れしてしまって、彼のいなくなったイラクに政治的機能が残っていたであろうか。
日本の知識人はアメリカを安易に非難しているが、自分の国の国民を振り出して、自分一人逃げ回っているサダム・フセインをどう擁護する気なのだろう。
サダム・フセインのいなくなったイラクを、イラク人自身が統治しきれず、治安の悪化をアメリカの所為にしているイラクの民衆は、所詮べドウインの末裔でしかない。
自分たちで自分たちを治めることが出来ない理由を、他国の所為にする民族に、完全なる民族自治の思考は成り立たないはずである。
近代国家とは程遠い存在だといわなければならず、民主化などこの先もありえるわけがない。
アメリカはサダム・フセインにいなくなったイラクからは一刻も早く撤退したほうがアメリカにとって得だと思う。
自分の国を、自分達で治めきれないイラクの民衆のために、アメリカ人が命を落とすことはない。
この戦争の負け方の違いは、そのまま民族の潜在意識の違いだろうと思う。
大陸という地続きとはいえ無限の荒野ともいうべき宇宙で、異民族との生存競争に明け暮れていた民と、四周を海という堀で保護されて、まるで井戸の中の蛙と同じ状況で他の世界を知らない我々とでは、その潜在意識にこれほどの違いがあるものと考える。
我々は古来からのこの4つの小さな島の中で、異民族との接触も摩擦も経験することなく、お互いに日本人だけでのらりくらりと生きてきたわけである。
だから戦争に負けるときも潔く負け、勝てば勝ったで有頂天になり、自分を見失ってしまうわけである。
戦前の我々の軍国主義の底流に流れていた国粋主義乃至はアジア主義というものは、我々が異民族との確執を知らない井戸の中の蛙状態の中での思い上がりであったのではないかと思う。
我々の文化というのが中国大陸から渡ってきたことは承知していたとしても、その時点、明治時代という時点で、中国の実態を知ると、我々の目から見て「大いしたことない」と思い込むのも無理ない話だと思う。
中国は過去には燦然たる文化を擁していた事を知った上で、20世紀初頭の中国の様子を見ると、西洋の列強に蚕食されているわけで、明治の後期から大正、昭和の初期の日本人からすれば、中国の現状というのは我慢ならない状態であったと想像する。
そして、その中国の惨状を見て、その原因を西洋列強の植民地主義、いわゆる帝国主義の所為だと思い込むのも必然的な成り行きだと思う。
その中国の現状を見て、「日本もああなってはならない」という思いが、軍国主義の底流としての国粋主義として脈々と流れていたのではないかと思う。
それは昭和の初頭に軍事クーデターを起こした青年将校たちの檄文を読むと厳然とうかがえる。
これらの文章から勘案すると、この時代の知的エリートが日本の外に視点を向けたとき、自分たちのやっていることに非常な焦りを感じていたのではないかと思う。
西洋列強に目を向けた人々は、彼らに「追いつき追い越せ」という発想に至ったが、アジアに目を向けた人は、アジアの混沌を見えるにつけ、自分たちの反面教師としてみたので、それが焦りとなって自らの心のうちに跳ね返っていたのではないかと思う。
祖国を思う純真な熱情から、現世の状況というものを見ると、それこそ世も末と見えたに違いない。
この時代の軍国主義の底流に流れていた国粋主義というものは、左翼思想と相容れないもののように思われていたが、この檄文を見る限り、共産主義者が革命を叫ぶときの論調と全く同じではないか。
右翼にしろ、左翼にしろ、人がこういう思想に深く嵌まり込むということは、その人が非常に繊細で、神経が細やかで、純真な気持ちから他者を慮るあまり、極端な思想に嵌まり込んでしまうものと思う。
凡庸で、人の後からくっついていくような人ならば、こういう考え方を持つ事もないと思う。
こういう頭脳明晰、純真で人のことを心配ばかりしている人は、常に現世というものに不満で、現実の世界に満足するということを知らないと思う。
幸福な人ほど自分の幸福が判らず、何か変化を求めてさ迷う図と同じである。
こういう当時の頭脳明晰で、純真で、優秀な人が、外国、つまり我々以外の外を見ると、現状を打開しなければならない、と思い込むのも致し方ない発想であろうと思う。
そして、その打開の方法を,西洋を見た人はコミニズムで達成しようとし、アジアを見た人は、国粋主義で日本がアジアの盟主となって、アジアを西洋列強から開放しなければならない、という考え方に至ったものと考える。
だから、この時代、大正から昭和の初期においては、現状を打開しなければならない、という点では右翼も左翼も全く同じことをいっているわけである。
今、私たちが研究しなければならないことは、この時点で何故右翼が受け入れられ、左翼が排斥されたのか、という点だと思う。
ここに天皇制の問題が絡んでいるように思う。
つまり、現状を破壊するという点では左翼も右翼も同じであるが、その後で左翼は天皇制の廃止を説き、右翼は天皇の元での国家再建をはかっていく、という違いがあったわけである。
この時代の右翼と左翼の違いは、この程度の違いでしかなかった。
昭和20年8月15日に日本が連合軍に敗北する原因というのは、既に明治憲法制定のときからその種は芽吹いていたのではないかと思う。
というのは、軍隊というものが天皇直轄である限り、軍隊が暴走するという危惧は、既にその時から内包していたわけで、それが昭和の時代になって具体化してきたものと考える。明治という時代は、我々日本人にとって全く新しい時代であって、それこそ未知との遭遇と同じで、それまでの我々が経験したことのないことばかりに関わってきたものと思う。
天皇制にしても、平安時代の天皇とは置かれた状況が全く違うわけで、近代化された西洋列強に囲まれての天皇制であってみれば、百人一首の時代とはわけが違う。
そこにもってきて、議会制度というものを確立しようとしても、これも未経験なことで、政党というものが政治的に上手く機能していなかったと考えられる。
いわば国内政治というのは混沌としていたわけで、その政治の混沌に我慢ならなかったのが軍人グループというわけである。
この政治の混沌というのは、いわば未知との遭遇として始めて経験するものであったが故に、我々は未だに民主政治のノウハウを持っていなかったことに起因していると思う。
軍人・軍部は明治憲法で政治の枠外におかれていたので、ここにも大きな問題点が潜んでいたと思う。
軍人・軍部が政治の枠外におかれているとはいえ、明治憲法では陸軍大臣、海軍大臣という閣僚として立派にセクションがあったわけで、これでは完全に政治的に不干渉でおれるわけがない。
下々の兵隊は政治に不干渉でありながら、トップでは大いに政治に関与できていたわけで、これでは制度の欠陥そのものである。
軍事が内政と別枠にあるという事は、作戦としての軍事行動は政治に左右されないという意味で、そういう趣旨の元、このようなシステムであったのだろうけれど、それでは政治の延長に戦争があるという近代的な思考になっていなかったわけである。
この考え方というのは我々が敗戦に至るまでそれに気が付かなかった。
戦争と政治は全く別のものだ、という考え方できたわけで、これは21世紀の日本でも未だにそう思っている節がある。
事実、明治憲法には制度の欠陥というものが多々あったことは否めない。
憲法の制定ということが、民族として始めての経験なわけで、それには欠陥があっても致し方ないと思うが、それを完全なものと思い込ませて、その欠陥を是正する手段を講じなかったことに、我々は歴史の教訓を得るべきである。
その視点から今日の我々を眺めると、我々は過去の歴史から何も学ぼうとせず、未だに占領軍から押し付けられた憲法を後生大事に抱え込んでいることは憂うべきことだと思う。それはさておき、人間は常に新しい経験をし、それから学びながら生きているわけで、過去の制度の欠陥を補いながら生きてきたわけである。
その過去の欠陥が露呈したとき、その責任は誰に帰属するのか、という問題は非常に難しい問題だと思う。
江戸時代の幕藩体制から近代化にむけて新体制を作り上げたとき、そこに内包された制度的欠陥を誰の責任と認定できるであろう。
政党政治の未熟を誰の責任ということが出来るのであろう。
明治憲法の欠陥を誰の所為といえるのであろう。
やはり、それは歴史の流れとしか言えないのではなかろうか。
我々は西洋列強を見習いながら近代化を推し進めてきたが、西洋と同じことが出来ないとき、それはアジアの多様性という言い方で自己弁護してきた。
例えば、政治の未熟さにおいても、キリスト教文化圏と較べてデモクラシーが不完全なのは、我々が特殊な民族だからという言い方で自己を騙しているわけで、これは日本の知識人の怠慢だし、無責任さだと思う。
地球上のあらゆる民族で、古い伝統的な生き方から脱出して近代化を押し進めようとすれば、強力な政治的リーダーの下で、強固な官僚システムによって、国策を遂行するということは極めて普遍的なことだろうと思う。
日本もそうして西洋列強と並ぶところまで来たわけで、横一線に並んでしまうと、自分の行く先は自分で判断しなければならず、自分で自分の行き先を模索する段階で、我々は道を間違えてしまったわけである。
道を間違えたことは、戦争に敗北するという結果で具体化したわけであるが、その原因の究明という点において、戦後58年間に様々な人が論じ、発表しているが、その論拠の大部分は、軍部や政府に責任を転嫁して、「我々の内側にその原因があるのではないか?」という考察は極めて少ないように思う。
政治の失敗として、それを政府や軍部に負わせることはもっとも安易な考察だと思う。
人間という生き物、人としての動物が、集団でかたまって社会を形成しながら生きる究極の姿はデモクラシーにたどり着くと想像する。
過去の歴史においては、それが一神教の政治体系であったり、キリスト教なり、マホメット経の教義に頼った生き方であったとしても、行き着く先はデモクラシーだと思う。
それはアメリカという国が異民族の坩堝と化した中で、21世紀において世界最強の国家足りえたという事実によって証明されていると思う。
ところがこのデモクラシーというも万能ではないわけであるが、我々は生来が生真面目なものだから、このデモクラシーも100%の完全性を目指そうとするわけである。
100%完全なものを要求しようとするものだから、それは実現できないわけである。
人間の行為には100%の完全さというものはありえないにもかかわらず、それを要求しようとするから結果的に同胞を裏切るという行為となってしまうわけである。
その具体的な例が、明治憲法を100%完全なものだと思い込んでいたので、奈落の底まで転がり落ちてしまったではないか。
憲法も、時の移り変わりと共に実情に合うように常に小まめに改正しなければならない、ということを奈落の底に転がり落ちた時学んだはずなのに、それが未だに実現していないではないか。
これは政府の責任であろうか。
今は軍隊というものはないので軍部の責任という事は言えないが、明らかに我々日本国民全体の責任ではなかろうか。
我々国民の中に、未だにあの押し付け憲法を平和憲法だと思い違いをして、あの憲法に手を加えてはならない、と言い続けている同胞がいることは周知の事実である。
これを政府の責任ということが出来るであろうか。
もし政府の責任ということであれば、政府はそういう人たちを全部牢屋に入れてしまはなければならなくなる。
これは明らかにデモクラシーに反するわけで、政府が思い切ってそういうことをしないから、それに甘え、それに便乗し、悪乗りして、言いたい放題のことを言っている、というのが我々の置かれた現実の姿ではないか。
政治というのは明らかに言葉の戦争であるが、我々の言葉というのは、やたらと曖昧な表現が多く、同じ言葉でも意味が全く反対ということもあるわけで、政治がこの言葉の応酬に明け暮れて、実行が伴っていないと、若手の純真な政治意識に覚醒したものは、そのまどろっこさに我慢ならなくなるわけである。
そして、それが実力行使として出てしまったのが戦前の青年将校の反乱であり、戦後は全共闘世代の突出した特異現象であったわけである。
日本は、戦前も戦後も、議会制度の中で政治が運用されていたわけであるが、その議会制度というのは、官僚によって下支えされていたわけで、日本の政治の本質は官僚政治であったわけである。
戦後は民主政治ということで、あまり官僚は表面には出ていないが、国会議員というのは官僚の手助けかがないことには何一つ発言しきれないわけである。
まして閣僚ともなれば官僚に丸抱えされて、官僚の利益代表という感さえする。
戦前の軍部というのも丸まる官僚であったわけで、ここに官僚全般に共通する欠陥が潜んでいたわけである。
そして、その官僚全般の欠陥というのも明治憲法に起因しているわけで、我々は落ちるべくして奈落の底に転がり落ちる運命にあったわけである。
歴史をこういう運命論で語らねばならないところが不甲斐ない話であるが、我々の歩んできた道である限り致し方ない。
官僚の専横を許したのは大正時代の自由民権運動の失敗だと思う。
この時代、日本ではデモクラシーが少しは理解されかかったが、この自由民権運動の挫折というのは、当時の日本の知識人層の怠慢だと思うし、その前に、そういう階層の堕落だと思う。
自由民権運動が左翼の運動として利用され、共産主義の敷衍化の方向に向かいかかったので、その防止のため官憲側の弾圧が強化されてしまったからだと思う。
共産主義の波というのは、この時代まさしくニュー・ウエーブでありヌーベル・バーグであったわけで、好奇心旺盛な人は大なり小なり共産主義というものを紐解いたに違いない。そして紐解いてみると、当時の日本の現状をあまりにも的確に言い当てていたわけで、それから脱出するにはこれしかないと思い込むのも致し方ない。
日本の現状をつぶさに解説して、日本のこれから歩む道というものを明示しきれなかった当時の日本の知識人階層の責任というのは大きいと思う。
この時代、大正の終わりから昭和の初期に懸けての日本の実情というのは、青年将校が反乱を起こしたときの檄文を読む限り、共産主義者の宣伝文とまったく同じではないか。
何時の時代においても、知識人というのは無責任な立場に身を置いているわけで、世間という無知蒙昧な大衆を上から眺めて睥睨はしているが、自分から行動を興すことはないわけである。
たまに粋がって行動を起こすと、北一輝であったり、大川周明であったり、三島由紀夫であったりするわけである。
戦前の日本では知識人というのは殆ど無用の長物以外のなにものでもなかったわけである。「治安維持法があって言うべきことが言えなかった」、「特高が尾行していたので言うべきことが言えなかった」、というのは事後の言い訳に過ぎないわけで、問題は、それが制定されるときにどうしていたのかということを問うべきである。
法律が制定されてしまえば従うほかないわけで、問題は、それが制定される時にどうしていたのか、ということを問題視しなければならない。
何も理由がないのに唐突に法律が制定されるわけではないはずで、それを必要とする何かがあったからこそ法律が出来るわけで、悪名高かき治安維持法も、その時代にはなんらかの必然性があっから制定されたものと思う。
その時にも、日本の大学や新聞社には高度な教養を身につけた立派な知識人というのがいたはずで、その人たちはこの時一体何をしていたのか、ということを問い直さなければならないと思う。
戦後、日本がアメリカの占領から開放されようとしたとき、当時の日本の国立大学の先生方は徒党を組んで、こぞって祖国の独立に反対した。
治安時事法が制定されたとき、日本が満州事変を事後承認しようとしたとき、リットン調査団が来たとき、日本の大学の先生方、当時のジャーナリスト、当時の知識人、当時の作家連中は一体なにをしていたのか。
戦前は国家の行為に沈黙を押し通し、戦後祖国が弱体化したら、祖国の独立にさえ反対する知識人、大学人というのを我々はどう考えたらいいのであろう。
悪名高き治安維持法だって、特別高等警察だって、独裁者がある日突然気まぐれに作ったわけではないはずで、それが出来るにはそれ相当の理由と未来予測にもとづく必然性があったからこそ出来たものと思う、
その時、当時の日本の知識人は、どのように行動したのであろう。
その疑問と同時に、戦後の平和問題談話会と称する祖国の独立に反対する大学の先生方の集団というのは、同胞としてどう理解したらいいのであろう。
戦前戦後を通じて、知識人というのは国家の存立に何一つ寄与していないではないか。
これは一体どういうことなのであろう。
大学をはじめとする高等教育というのは一体何なんであろう。
出世街道を通過するただの手形の価値しかないのであろうか。
日本の官僚達が、自分たちは臣民を統治するものだ、という思い込みほど間違ったものはないと思う。
この思い込みの間違いは、官僚システムが中国を手本としているからだと思う。
近代国家の官僚というのはマネジメントに徹しなければならないと思う。
ところが戦前の我々は、明治憲法に依拠した官僚システムで、官僚たるものは臣民、今の言葉に直せば国民であるが、それを統治する立場だと思い違いをしていたので、国民は途端の苦しみを味わされたわけである。
近代国家の官僚はマネジメントに徹し、人と金を適材適所に配し、合理的な国民生活を保証するように機能しなければならないはずである。
ピラミットの官僚システムの上のほうが、金と人のマネジメントに徹すれば、ピラミットの下のほうでは、それが住民、国民に対するサービスとなってくる筈で、この官僚の意識改革は未だに達成されていないと思う。
中国の科挙という官僚採用試験というのは、科挙の試験に合格してしまえば、後は私利私欲を追及してもそれは役得として許されているわけで、自分の治めている領域の人間が、領主のいうことを聞いている限り、いくら私利私欲を溜め込んでもモラル上はなんら問題ではなかった。
科挙の試験に合格して栄達を極めるという事はそういうことであった。
ところが日本の官僚システムというのは、その潜在的な意識を引きずりながらも、日本式に表層変化した新たな伝統を作り、合格したものが自己の裁量で私服を肥やすのではなく、俸給というものは法律で決められていたので、私利私欲は表向き御法度であったが、権力を握っている以上抜け道はいくらでもあったわけである。
とはいうものの、日本における軍官僚というのは、この金儲け、私利私欲の追及ということには案外淡白であった。
それは人を統治するという意識が武士のイメージを引きずっていたからだと推測するが、その分、面子とか、誇りとか、名誉とか、序列ということに非常に敏感であったみたいだ。人間の作る組織というのは、大きければ大きいほど、必然的に官僚化することは避けられないと思う。
ピラミットのトップにいる人は、底辺のことを知らずにいるわけだから、組織が空回りすることはある程度は致し方ないし、それはどんな組織にもついて回ることだと思う。
組織が空回りするようになると、それを官僚化という言い方であらわしているわけであるが、そうなってしまった組織を活性化させ、空回りをしないようにするには、古典的な方法ではあるが人事の刷新しかないと思う。
そして、この人事の刷新の祭に、面子とか、誇りだとか、名誉とか、序列というものが加味されるようになったから、旧軍隊は自ら墓穴を掘る方向に転がり落ちたものと考える。人事の刷新のときにこそ「人と金のマネジメント」という意識が残っていれば、作戦の失敗ということも大いに免れたものと推測する。
日本の旧軍が官僚化するというのは、今から考えれば必然的な流れだったと思う。
陸軍でも海軍でも、それぞれ独自に優秀な青少年を確保すべき手立てを講じており、そしてそれは立派に功を奏し、優秀な指揮官を輩出させた。
陸軍にしろ海軍にしろ、天皇陛下の直轄であって、陸軍であれば陸士から陸大、海軍であれば兵学校から海大という特殊な学校で特殊な教育を受けて、それがそのまま陸軍省なり海軍省に居残るわけだから、完全に官僚化してしまったわけである。
その組織の中で、いくら人事をいじくってみたところで、在学中の成績や、先輩後輩の関係や、序列で作戦が立案企画されたとすれば、これほど不合理、非合理的な発想もまたとないと思う。
「戦争に如何に勝利するか」「作戦を如何に遂行するか」ということよりも、「あれは俺の後輩だ」とか、「あれはまだその任に経験が浅い」とか、「あれよりも先に任命することはけしからん」という議論をしていたとすれば、これはもう亡国そのものである。
事実そういうことをしていたからこそ、我々は亡国の民となったではないか。
戦後の日本の知識人は、我々のしてきた戦争遂行ということを掘り下げて研究していないので、口を開けば政府が悪い、天皇陛下が悪い、という論調になってしまうが、実際は軍の内部の中のこういう非合理、不合理が敗北への道を開いていたわけである。
そして、その軍というものが、我々の身の回りのおじいさんであったり、お父さんであったり、お兄さんであったりしたわけで、そのことを考えれば、そう安易に東京裁判史観にはなりえないと思う。
軍の内部、つまり軍というピラミットの上の方で、陸士、海兵を主席で卒業した立派な軍人達が、戦争遂行という実際の作戦を計画立案する場面で、こういう非合理、不合理な発想に陥っていたわけである。
そのことを考えれば、東京裁判などとても信じる気にはなれないはずである。
戦後に生き残った我々同胞にとって、A級戦犯以上の悪人はもっともっと居るはずで、我々はそういう悪人の追求ということをしたであろうか。
靖国神社に首相が参詣するたびに中国からイチャモンを付けられているが、我々も戦争の責任追及という意味から、あの靖国神社に祭られている英霊を選別しなければならないのではなかろうか。
昭和20年8月、満州でソビエット軍が侵攻する前に同胞を置き去りにして逃げてしまった関東軍司令官を我々はどう処遇したらいいのであろう。
戦後の日本人でそのことに言及する人が一人もいないのは一体どういうことなのであろう。沖縄戦で、赤ん坊の泣き声で敵に見つかるから、といって子供を殺させた我が同胞の軍人達を、我々はどう処遇したらいいのであろう。
それとは逆に憲兵だったというだけで、B.C級戦犯として処刑された人をどう名誉回復したらいいのであろう。
あの戦争を生き残った我が同胞の中の学識経験者、知識人というのが、勝った側が勝手に行った東京国際裁判、極東国際軍事法廷の判決を鵜呑みにする愚というのは一体どこからきているのであろう。
負けた側が勝った側の言いなりになるというのは、民族の存続のためにはある程度は致し方ない。
しかし、それは無学文盲の一般庶民レベルでは致し方ないにしても、あの時点でも立派な教育を受け、立派な教養を身につけていた人はいたはずで、それが一般大衆レベルと同じように思考停止に陥っていたとしたら、これは由々しき問題といわなければならない。
事実、由々しき問題であったわけである。
戦前の日本は一部の軍人にミス・リードされてしまったが、戦後はその反動として、日本人の本質を知らない日本人、知識人という非日本人、祖国の利益よりも外国の利便を優先する国立大学の先生方、というものにミス・リードされたわけである。
戦前においては軍という官僚が日本の社会で大きな顔をして威張っていたが、当時の官僚というのは、陸海軍という軍だけではなく、文部省も、商工省も、他の政府機関としての省庁もあったはずで、それぞれに高等文官試験にパスしたエリートはいたはずである。
そういうセクションの高級官僚の中には、当然軍の横暴というものが倫理に反しているということを苦々しく思っていたものもいたと思う。
特に文部省の責任は思いと思う。
中でも大学の責任は非常に重いと思う。
戦時中の大学に関して言えば、学徒出陣ということを誰でもが思い浮かべるが、これは紛れもなく戦争協力であった。
事ここに及んでは、戦争協力という方法でしか大学の社会的貢献というのはありえなかったかもしれないが、事がここに及ぶ前に、大学として。帝国大学として、教養人の集団として、当時のシンク・タンクとして、軍のミス・リードを少しでも是正する方向に動けなかったのかという疑問が私にはある。
大学が当時の時流に何の抵抗もなく巻き込まれてしまっては、知識の集積の意味がないではないか。
教養人の集まりとして、なんら社会的貢献をしていないではないか。
高度な教養と知識を身につけた高名、著名な大学の先生方が、安易に時流に流されてしまっていては、無知蒙昧な大衆、無学文盲の一般大衆となんら変わるものではないではないか。
帝国軍人が官僚ならば、帝国大学の先生方も立派な官僚であったわけで、官僚に対する非難、批判は軍人、軍部に対するものとなんら変わるものではない。
政治家や学者が、戦前において沈黙を守り、何一つ発言をしなかったのは、恐らくテロを恐れていたからだと思う。
昭和初期のテロリズムというのは、その根底に政治の混迷があったからだと思うが、その政治の混迷は、日本の国民の貧困からきていると思う。
テロで社会改革がなるわけではないが、テロをすることで政治家なり、軍人なり、学者という人々が、自分の思っていることを言わなくなってしまったわけである.
つまりオピニオン・リーダーたるべき人が、自分のオピニオンを言わなくなってしまったので、後は力を誇示した実力行使が事後承認されてしまうという結果を招いたわけである。テロをした人たちの撒く檄文というものを読んでみると、当時の社会的状況下では非常に共感を得ることが示されている。
普通の人が素直に読めば、その中の文章はもっともなことばかりが書いてあるわけで、テロをする側の行動は非常に納得が得られやすい。
「だから我々はテロをするんだ」と書かれていると、安易に「もっともな事だ」と、納得してしまいがちである。
だからテロに対する同情が集まり、処分が非常に寛大になってしまい、秩序が崩壊してしまったわけである。
政治家、大学人がテロに屈して沈黙してしまったので、テロの檄文が正当性を持ってしまったわけである。
そして軍の組織、大学の機構、各省庁の組織が官僚化するということは、その組織そのものが小宇宙を形成してしまったということに他ならない。
軍部の中で言えば、陸軍なり海軍なりの内部で、自分たちだけのコップの中の争い、他者との関係を無視した戦争となってしまったわけで、国家総力戦といいながら、自分たちだけで計画立案し、兵站ということを度外視し、純軍事的な観点でしかものをみていなかったので、整合性のない作戦を繰り返して、国力の消耗にせっせと力を注いでいたわけである。
その純軍事的な作戦というのが、これまた関が原の合戦に毛の生えたような発想であったものだから、負け戦は当然の帰結である。
我々は歴史から学ぶということがまったく下手で、観念論で事を進めるものだからこういうことになると思う。
失敗から学ぶということをせず、それとは逆に勝てば勝つたで有頂天になり、より以上の向上ということを目指さないので、行き着く先は右肩下がりの零落以外ないわけである。ここで戦後の日本の知識人は、日本を奈落の底に引きずり込んだ軍部の批判には姦しいが、その軍部の中味というものの吟味には至っていないように思う。
軍としての組織の欠陥や、作戦の失敗をあげつらうことはあっても、軍としての中味の人間に言及する発言は全くない。
田舎の小学生で頭脳優秀、学術群を抜くような少年が、陸軍士官学校に入り、村一番の秀才の誉れをほしいままにする。
そして陸大を出、軍の高級官僚となる。
家族も村民も、我がことのようにそれを慶ぶわけであるが、その本人の資質については誰も考察しないわけである。
家族も、村の人も、世間も、彼の肩書きには敬服し,尊敬し、畏敬の念を持っているが、本人の内面の心情に関しては、誰一人問題視するものはいないわけである。
何々参謀という肩書きで、作戦を練っているときに、「陸大の何期だからこの作戦の司令官には任命できない」とか、「あいつとは一緒に仕事が出来ない」とか、「彼は先輩だからこの任を譲る」とか、極めて人間臭い動機で作戦が練られていることは、世間では知られていないわけである。
問題は、組織のトップにおけるこうした人間臭さを我々はどう理解するかということだ。組織というピラミットの中で、トップの方では下々の実情に疎く、まして日本帝国軍隊のトップでは、国家予算とも別枠で作戦が練られ、まして国民のため、一般の市井の人々のため、という概念は微塵も存在せず、せいぜい天皇のためという錦の御旗を振り回して、自分たちだけの小宇宙だけの独りよがりの案を練っていたわけである。
だからそれを実践に移せば、ことごとくが失敗に終わるという図式である。
日本の軍隊が国家予算と関係なしに軍事行動に金をつぎ込めるシステムというのは、明治憲法の欠陥であったし、軍が国民の保護を眼中に入れずに行動できる、というのも明治憲法の欠陥であったし、この明治憲法の欠陥というのは、戦争に敗れてみて始めて判ったわけである。
明治憲法下では、軍隊はただ天皇のために戦えばいいわけで、天皇の為に闘うと言っても、結果として勝利しなければ天皇のために戦ったということにはならないわけである。
その意味からしても、旧軍隊は天皇に背いたわけである。
天皇の為に戦うということは、日本国民全体の為に戦うということであったわけで、旧帝国軍隊は、天皇にも一般国民にも背いたわけである。
その軍隊を支えていたのが、先に述べた田舎の優秀な子供が、軍という組織の中でエリート・コースをつつがなく全うした高級官僚の熟れの果てであった、ということを我々は知らなければならない。
田舎や都会の下町の優秀な児童が、軍という特殊な環境の中で、純粋培養された結果として、軍官僚という小宇宙をつくり、その中で極めて人間臭い駆け引きの末、結果として戦争に負けたと考えなければならない。
アメリカと戦争しようかどうかという御前会議で、アメリカの国力を考察したデータを握りつぶして「やってみなければわからない」では、如何にもお粗末な御前会議だといわなければならない。
これが昭和15、6年の日本の政治的トップの鳩首会談であったわけである。
今にも宣戦布告がなされるかもしれないというときに、駐米日本大使館は「日曜日だから」といって休んでいるというのは一体どういう神経なのであろう。
これは軍部ではなく外務省であるが、外務省も丸まる官僚なわけで、官僚だからこそ「日曜日は駄目よ!」というわけで、今にも戦争が始まるというときでも平然と休みを取っていたわけである。
こんな馬鹿な話があるかといいたい。
軍部を批判するのは容易いが、批判されるべきは軍部のみならず外務省も同様に非難されるべきである。
真珠湾攻撃の際、昭和天皇が相手に対して「遺漏のないように」と念を押していたにもかかわらず、出先の外務省は「日曜日だから」といって休んでいたわけである。
片方の海軍では「日日月火水木金金」と不眠不休で訓練に励んでいるのに、外務省では「日曜日だから」といってのんびりと構えていたわけである。
それで宣戦布告の通知が真珠湾攻撃の後になってしまったものだから、相手からは「卑怯な闇討ちだ」というわけで、アメリカ国民は一気に交戦気分が盛り上がってしまったわけである。
我々日本人の会議の仕方というのは、いくら教養があろうが、学識があろうが、優秀な学校を出ていようが、基本的に農村の長老会議、村の寄り合いになってしまうわけである。
田舎の、農村の、村の年寄りの寄り合いと全く同じになってしまうわけである。
折角苦労して集めたアメリカの国力を示すデータを握りつぶしておいて、観念論や、その場の雰囲気や、先輩後輩とか、手柄を譲るだとか、まるで関が原の合戦のような感覚でアメリカとの戦争を論じ合っていたのである。
そこには合理主義というものは微塵もなく、科学的なデータから合理的に判断するという意識は全くなかったわけである。
これは山賊や夜盗の相談ではなく、国を左右する立場の人々のもっとも大事な会議の場でさえもこれだから、日本がアメリカに勝てなかったのも当然である。
それに引き換え日本が中国にのめりこんで行ったのは、これまた極めて日本的な思考と行動の結果だと思う。
中国の学問のある人から日本を見れば、日本はあくまでも夷荻に過ぎないと思う。
しかし、中国というのはあまりにも国土が大きくて、統一国家というものが有りえないのではないかと思う。
確かに清という国家は存在していたが、ならば張作霖とは一体なんであったのかと問えば、軍閥であるという答えが帰ってくる。
統一国家の中に軍閥があるということは一体どういうことなのであろう。
それは統一国家が体をなしていなかったということではないかと思う。
当時の朝鮮の李王朝もある意味で軍閥のようなものであって、清の管理下にあった、
つまり属国であったわけである。
つまるところ、このころの中国大陸というのは近代国家としての主権国家というのはないに等しかったわけである。
いわばアメリカ大陸にピューリタンが上陸した頃のアメリカ・インデアン、ネイテイブ・アメリカンと全く同じような存在であったわけである。
日本の軍隊が、「ワーッ」と時の声を張り上げて集落におしよせれば、相手は一目散に逃げてしまったわけである。
この状況を見て、我々の側は「勝った勝った」と大喜びしていたに違いない。
ここでも相手を見くびっていたということで、相手を知るという基本的なことを怠っていたわけである。
「ワーッ」と時の声をあげて押し寄せれば、その場は一旦蜘蛛の子を散らすように逃げるが、その後夜陰にまぎれて又舞い戻り、ゲリラ活動をするわけである。
だから占領したといっても、それは点と線にすぎず、面として平定したわけではない。
この状況は、まさしく関が原の合戦と同じであったわけで、中国ではそれで通用していたわけである。
こちらが大声を上げれば相手は逃げて行ったので、勝った勝ったと大喜びであったが、そこには戦略も戦術も全くなかったわけで、面として掌握しきれないまま、既成事実として認識してしまったので、日本の生命線ということになってしまったわけである。
相手が一旦逃げ去った土地に、日本から屯田兵として入植させれば、日本も中国も一挙両得になるではないか、という発想がそこにはあったものと推測する。
我々の文化は中国に起因するものが多く、中国を文化の師と仰ぐ傾向があるにもかかわらず、中国の民というものを研究してこなかった最大の理由は、中国というものが常に混沌としていたからだと思う。
我々から中国を見ると、黒白が全く判らず、中国の本質を掴み切れていなかったからだと思う。
18世紀以降の中国というのは、西洋列強に沿岸部を蚕食されて、如何にも西洋列強の食い物にされているように見えていたに違いない。
ところが中国人からすれば、いくら沿岸部で西洋人が治外法権の地域を設けようが、それは中国全体からすればほんの些細なことで、取るに足らない問題であったわけである。
ところがこれを海を隔てた日本から見ると、アヘン戦争でイギリスに負けた中国というのは、あたかも張子の虎が跡形もなく押しつぶされたようにしか見えなかったわけである。
だからこそ、イギリスがやったことを見て、我々も早いところおこぼれに預からなければならない、早く手を打たないと得る物を失ってしまう、イギリスと同じことをやって何故悪いという思考に至ったものと考える。
日本の知識人も、中国に対する畏敬の念は強かったはずであるが、書物の研究は非常に熱心であったが、中国人という生きた人間に対する考察というのは軽んじていたわけである。あの大正から昭和の初期の時代に、日本の知識人が新しい考え方を世に問うたとき、軍人達はそれをどう受け入れたのであろう。
中国に攻め入ったとき、敵はどんどん内部に逃げ込んだという現実から、それならば日本がアジアで主導権をとって、アジアの盟主になったら、という発想が出たのではないかと推測する。
これはいうまでもなく中国というものを見くびっていた証拠で、中国の表層だけを見て、そう思いついたのではないかと思う。
ここで戦後に生きる我々が注目しなければならないことは、その時代においても、日本にきちんとした学問の府があり、軍の高等教育機関もあり、政党政治も機能していたということを考えなければならないと思う。
この時代、こういう機関は一体どういうふうに機能していたのであろう。
ものを考える機関として帝国大学というものがありながら、その中で美濃部達吉が「天皇機関説」を唱えると、日本国中が寄ってたかって彼を非難したということは一体どういうことなのであろう。
特に大学内の彼の同僚達が熾烈な批判をするということはどういうことなのであろう。
この「天皇機関説」の問題というのは、その内容の是非を問うのではなく、ただ単なる苛め以外のなにものでもない。
今、小中学校で流行っている苛め問題と全く同じで、「天皇機関説」の内容が問題であったわけではなく、彼自身の存在そのものが苛めの対象であったわけである。
事ほど左様に、我々はものを考えるということを軽視していたわけである。
考えることをせずに物事を決めるということは、物事の決定が感情論とか観念論に左右されて、合理的な思考を阻害するということである。
日本陸軍がどんどん中国大陸に入り込もうとしたとき、日本の政府も、昭和天皇も、基本的には不拡大方針であった。
つまり闇雲に入り込むことは止めておくという考え方であった。
軍部が政府の言う事を聞かないでは何とも致し方ない。
「天皇陛下のため」といいながら、天皇陛下の意志を踏みにじっていたことを我々はどう理解したらいいのであろう。
これは紛れもなく旧大日本帝国陸軍の独断専横であった。
このことから考えて、戦後に生き残った我々は、あの東京裁判というものを見直さなければならないのではないかと思う。
この時代に日本の陸軍の兵士が、大きな声で時の声をあげて中国人の集落に突撃していくと、相手はびっくりして一目散に逃げたわけで、それで勝った勝ったと有頂天になることによって、ここでも後の敗因を見逃してしまったわけである。
中国人を追い散らした彼らにしてみれば、「戦争とはこんなもんだ」、という誤った認識に陥って、近代的な国家総力戦という概念を持つに至らなかったわけである。
にもかかわらずノモンハン事件では手痛い失敗を経験していながら、それでも尚「近代的な総力戦とは如何なるものか」ということに気がつかなかったわけである。
このノモンハン事件の反省がなかったという点では、この事件を戦争という捉え方をせず、あくまでも事件、事変として過小評価していたからだと思う。
それは言葉の問題に起因していると思う。
これは紛れもなく戦争であったにもかかわらず、ジュネーブ平和協定を遵守するあまり、これを戦争と認定せず、事変と称していたので、戦争に負けたという認識が軍内部で起きなかったからだと思う。
そして、この戦争を指導、指揮した高級参謀にとって兵卒の死は人間の死と認識していなかったに違いない。
1銭5厘の葉書一枚で招集された人間は、人間のうちにはいっていなかったわけである。だからそういうものがいくら命を落としたところで、自分たちが敗北したという認識には繋がらなかったものと思う。
この命の軽視という事は、相手国の人間も同様に軽く扱い、軽く考えていたので、それが戦後58年経過しても未だに中国との間に問題を引きずっているわけである。
あの大戦中を通じて、あらゆる戦闘場面において、それを指揮監督したのはいずれも職業軍人としての高級参謀であり高級将校であったわけで、そのことは軍人としてプロフェッショナルの人たちであったわけである。
軍人としてプロフェッショナルな人たちが、近代国家総力戦というものを全く認識していなかったものだから、結果は我々が経験した通りのものとなったわけである。
戦争のプロフェッショナルとしての軍人達が、何ゆえにあの時代、国家総力戦というものを認識し得なかったのであろう。
陸軍の陸軍大学、海軍の海軍大学というのは一体何を研究していたのであろう。
帝国大学というのは諸外国の事情を研究していたのではなかったのだろうか。
戦後の戦争回想録を読んでも、だれそれは陸士から陸大を出てということまでは書いてあるが、陸大ではどういうことをし、どういうことを学んだかということは一切書かれていないのは一体どういうことなのであろう。
陸大にしろ海大にしろ、こういうところは戦略研究所ではなかったのか。
軍事に関するとことだから一切世間に知られないようにしていたのであろうか。
それにしても戦争が終わった後ならば、あそこではこういう事を研究していた、という概略ぐらいは誰かが語ってもよさそうに思う。
我々には戦略という概念もなかったように思う。
戦術のみが極めて華々しく問題視されて、戦略という概念は未だに出来上がっていないと思う。
戦術というのは、前線における目の前の戦い方のマニュアルと思えば間違いないが、戦略というのは、そのまま将来の政治とか統治の問題に直結しているわけで、旧軍隊の職業軍人というのは、それは文民の領域と考えていた節がある。
日本の旧軍隊には戦略という概念の不足と、兵站というものの軽視が、軍隊そのものの消滅に大きく関わっていたと思う。
アメリカは日本と戦争をする前からオレンジ・プランという対日戦を想定した戦略を持っていたが、我々の側は「やってみなければ判らない」という、まことにその場限り、泥縄式の発想しかなかったわけで、その結果として補給線が伸びきって、兵士達は戦う前から飢えで戦力を喪失してしまっていた。
このことは、いわゆる兵站の軽視以外のなにものでもない。
あの大戦の反省として、我々には戦略思想の欠如と、兵站の軽視が決定的な敗因になっていると思う。
今、大して学のない私がここまで記述してきたことに、陸大、海大を出たような秀才、帝国大学の教授という知性と教養のかたまりのような人々が気が付かなかったのだろうか。それについては戦後においても、戦略的に非常に由々しき問題が起きている。
そしてそれは統治されている国民の側に大きな問題があると思う。
というのは、昭和40年に当時の社会党の議員が国会で防衛庁内で行われていた有事を想定した研究(三矢研究)を暴露することによって国会が紛糾したことがある。
戦後の日本では有事を研究することさえタブーとされていたわけである。
まして戦略的な考え方そのものがタブーとなっているわけである。
平和という事は自分が丸裸になればそれで実現できるというものではないはずで、外交、通商、国連との関わり、その他諸々の関係を微妙に組み合わせて築き上げるものであって、その一つの交渉材料として軍事力もあるわけである。
そういう事を考えることすら国民の側が禁止しようとしていたわけである。
これでは軍の研究不足を責めるわけには行かない。
戦後の我々が専守防衛を基調としているとすれば、有事の際には如何に行動すべきか、という課題は国民的な研究が必要でなければならないのに、それを禁止する方向に国会議員が動いていたわけである。
国政を担う国会議員がこの体たらくであれば、日本国全体として平和ボケもいいところである。
戦前の日本が軍国主義であって、国民の全部が好戦的であったような言い方がされているが、本当のところは国民の全部が近代戦争というものを知らなかったのではないかとさえ思えてくる。
例えば、戦争末期になると本土決戦ということが言われだしたが、本土決戦ならば国民皆兵となり、国民の一人一人に銃を与えなければならないことになるが、そういう発想は微塵もなかったわけで、掛け声だけの本土決戦であったわけである。
ここが極めて日本的で、これが為、我々は敗北することになったわけである。
戦後の平和主義も掛け声だけの平和主義なるが故に、平和、平和と念仏さえ唱えておれば、我々は安逸に暮らせると思い込んでいる節がある。
戦後の我々が平和主義を貫くとすれば、より以上に戦争の本質というものを研究し、戦争の背景としての様々な出来事を注視しなければいけないと思う。
平和主義というと、よくスイスが引き合いに出されるが、スイスは国民皆兵である。
国民皆兵というのは女も男も兵役に付くということであって、とても日本では考えられないような制度をとっているのである。
普通の一般家庭には国家から銃が貸与され、市民はその銃を維持管理し、招集がかかればそれを持って指定の場所の集合するシステムが出来ていると聴く。
永世中立を貫くという事は、そういう国民の努力の上にあるわけで、国民の全部が銃の扱いをこなせるという環境の下で、中立ということが成り立っているわけである。
まして我々は先の大戦で敗北を帰したとなれば、戦争に対する研究というのは戦前、戦中よりももっと熱心に、より深く掘り下げて研究し、その上で専守防衛に徹すべきである。口先だけで平和、平和といっていても、それは再び日本をミス・リードするに違いない。