我が同胞・その思考と行為 03・06・27

 

我が同胞・その思考と行為

 

 

恨みの矛先が違うのではないか?

 

ここに一枚の写真がある。

見ればわかるように1945年6月5日のアサヒグラフからの転載である。

この写真そのものも平成15年6月25日、朝日新聞朝刊12面オピニオンのページに載ったものだ。

このオピ二オンのページというのは、普通は「声」の欄として、読者に提供されていた。この日もやはり「記憶の歴史シリーズ」として、一般読者の投書で埋められる。

私自身は昭和15年生まれで、終戦の時はわずか5歳で、戦争体験というのは実感としては理解しきれない世代である。

しかし、記憶の新しいうちに親から聞いたり、年配の人の話を聞いたり、また本で読んだりして、体験はしていないが実感というものは程ほどに判っているつもりである。

毎年、8月15日が近づくと、各新聞には戦争にまつわる話が多くなる。

投書欄にもそういう話が多くなる。

そういう話を聞いたり読んだりすると胸が痛むのは私一人ではないだろうと思う。

こういう話を提起する人たちというのは、もう70歳を過ぎた高齢の方々ばかりだが、こういう方々が、戦争という狂気の時代を我々日本国民に背負わせた責任を、同胞の側に向けているのが私には不思議でならない。

こういう方々が、自分たちの経験した苦労の元凶が、自らの同胞の側にあると思いこんでいるのが不思議でならない。

確かに、戦争に負ける、負ける戦争をしたということは、政治の失敗であり、政策の失敗であり、戦略の失敗であったことは否めないが、戦争には相手があるわけで、こういう方々の直接的な苦労は、相手によってもたらされたものである。

このあたりの捉え方というのが、我々の場合、民族として少しおかしいのではないかとさえ思えてくる。

広島と長崎に原爆を投下したのはアメリカであって、我々ではなかった。

シベリア抑留は、旧ソビエット連邦がしたのであって、我々がしたわけではない。

にもかかわらず、原爆の投下の責任も、シベリア抑留の責任も、我々の側にあるという論調は少しおかしいのではなかろうか。

アメリカに対しては「お前の方が先に真珠湾を攻撃したではないか」と言われると、返す言葉もひるみがちであるが、1945年にはアメリカはもう原爆を使わなくても日本に勝てだし、我々の敗北は目の前にあったわけである。

にもかかわらず、彼らはそれを使い、あの2発の原爆はいわば駄目押しの原爆投下であったわけだ。

旧ソビエット連邦に関しては、これは明らかに先方が一方的に攻めてきたわけであって、整合性のある開戦理由というのはどうみても見当たらないと思う。

究極の帝国主義的領土拡大であり、火事場泥棒的行為である。

一方的に強者の論理で押し切られたわけである。

にもかかわらず、その辛酸を身をもって体験した高齢の日本人の投書は、あの災禍の原因が我々の民族の内側にある、というニュアンスで文をしたためておられる。

6月25日の朝日新聞「記憶の歴史シリーズ」の中の投書の表題を拾ってみると

沖縄から友は帰らなかった。

無線機不要と機体からはずす。

枕崎港の沖に墜落の機体は。

家倒れ母と妹に火が。

貨車の傍で遺体を焼いた。

トロッコを押し飛行場を造成、

中学生のときに毒ガスを作った。

ノルマとの戦い多くが死んだ。

これらの作品は皆自分たちの同胞の方に憤懣の矛先が向いている。

敵としての相手を恨む心情は全く見られない。

これは一体どういうことなのであろう。

家を焼かれその火で母と妹を死なせたのは敵であって我々同胞ではないはずである。

貨車の傍の遺体を作ったのは敵であって我々同胞ではないはずである。

ノルマで追いまくったのは敵であって我々の同胞ではないはずである。

にもかかわらず、この投書のどれ一つとして敵を恨むことをしていない。

原爆を投下したアメリカを恨むものは一つもないわけで、強制労働を強いたソビエットを恨む言葉は一つもないわけである。

これは一体どういうことなのであろう。

こういう状況下に我々を置いたのは確かに日本政府であるが、直接的な被害を強いたのは、あくまでも敵としてのアメリカであり、ソビエットであったわけである。

私は、直接的な原因がアメリカなりソビエットであるにもかかわらず、敵としての相手を全く恨むことなく、同胞の方に責任を転嫁し、同胞の方を怨む我々の思考には、何か我が民族に固有の性質のようなものがあるのではないかと思う。

 

観念論に嵌まり込む愚

 

戦後、6年半にも及ぶマッカアサーの日本占領が終わって、任を解かれたマッカアサーがアメリカ議会で演説した祭に、彼は日本を大いに擁護した演説をしてくれた。

彼は日本が日中戦争に嵌まり込んだ過程を容認する発言をして、「日本がああいう行動に出たのは致し方なかった」ということを言った。

つまり、「日本というのは絹織物以外何も産業がない国で、その国が大陸に足場を築こうとしたのは、生きんがために致し方ない選択であった」ということをアメリカ議会で述べたわけである。

彼は戦後6年半、連合軍の最高責任者として、天皇の上に君臨してみて、それを彼自身実感したに違いない。

戦争の前にアメリカの政府首脳の全員がこの考えを甘受していたとすれば、あの太平洋戦争、日本語読みで大東亜戦争というのはなかったかもしれない。

この敗戦時の日本占領軍の総大将としてのダグラス・マッカアサーと、あの当時若者で戦後の混乱を体験した今の70歳代の日本人のものの考え方を検証してみると,我々の同胞というのは、如何に自分の頭で物を考えないのか、ということが如実に表れていると思う。戦後、日本を占領したダグラス・マッカアサーは、フイリッピンから厚木に来、横浜に移駐し、その後皇居前の第一生命ビルに約6年半君臨したが、その間に日本の隅々を見、そして読み、調べ、自分で判断したに違いない。

その典型的な例が、日本国憲法の第9条としての戦争放棄の条項である。

彼は、人類の愚行というべき戦争を再び繰りかさせてはならないと思い、彼自身が理想とするこの信念を、日本国憲法に盛り込ませたわけである。

しかし、いくら占領軍といえども、民族の精神的基盤であるところの憲法にまで嘴を入れることは、被占領国民の基本的人権を無視する行為であり、国際法上も認められていないにもかかわらず、我々はそのことに一向気がつこうとしていない。

逆に、マッカアサーはそのことを十分知ったうえで尚かつそうしたものだから、建前上は日本国民が自主的に作ったという体裁をとるように仕向けた。

それが日本国憲法である。

マッカアサーの主謀するアメリカの対日占領というのは、実に巧妙に仕組まられていたわけで、他民族の憲法に干渉するということは、文明国としては、してはならないことであったものだから、彼らはそれを見事にカモフラージュしてしまった。

これは彼らが自ら考えてそういう事をしたわけで、それに反し、我々の側は、目の前の命題を正直に受け入れるだけで、その命題を自らの頭で考えようともしなかった。

それは戦前、戦中を通じて、何事も「天皇陛下のため」という大命題の前にひれ伏したのと同じで、この天皇がGHQのダグラス・マッカアサーに変わっただけのことである。

我々の民族の本質は一向に変わることがなかったのである。

そこには目の前の命題を自らの頭で考えるということを放棄して、上が「せよ」というからする、人がするからする、今流行りだからする、それが正義のようだからする、それが大勢の人から支持されているからするというもので、自分の頭でものを考えればありえないような愚行がいたるところに転がっている。

具体的な例を挙げると、1万メートルの上空を飛来するB−29に対して、我々は竹ヤリと防空頭巾で対抗しようとした。

こんな陳腐なことに、我々の同胞の内側から批判がでない、という点をどう考えたらいいのであろう。

当時は治安維持法があって人々は何も言えなかった、ということはよく聞くことであるが、そのこと自体がすでに逃げの口実で、こんなナンセンスなことは立案の時から馬鹿げている。

それを誰も指摘しない、気がつかない振りをする我々の政治感覚こそ問題なわけである。当時は治安維持法があって、めったなことは公言できなかったという言い訳はよく聞く言葉であるが、治安維持法の成立そのものがすでに我々の民族が物事を自分の頭で考えることなく付和雷同的な行動に安易に走りやすい、ということを指し示しているわけである。

このことを端的に言い表せば、我々は観念論に陥りやすいということである。

観念論、つまり思い込みに嵌りやすいということである。

自分の頭脳で考えないから、思い込みに嵌まり込んでしまうわけである。

 

自分の頭でものを考えない愚

 

徴兵制の元、兵役についた人たちが一様に語る言葉に、「兵器は天皇陛下から賜ったものだから、自分の身よりも大事にせよ」というものがあるが、これも考えてみれば発想の根本からおかしなことで、そのおかしさに誰一人異議を差し挟まなかったということである。天皇陛下を現人神と言う発想も根本的におかしなものであるが、これも誰一人異議を唱えるものがいなかった、ということは一体どういうことなのであろう。

同じ時代に戦艦大和を作り、零式戦闘機という当時における超近代的な兵器を作る能力をもちながら、片一方では原始社会のシャーマニズムに近い発想が生きていたわけである。

同じ日本人でありながら、人間の思考の面では超原始的であり、科学の追求という面では世界に抜きん出ていたという現実は一体どういうことであったのか。

そして世界に冠たる科学的思考をホローする精神面の発達を我々自身の手で封じ込めてしまった、という事は一体どう説明したらいいのであろう。

天皇機関説を発表した美濃部達吉博士を国賊呼ばりし、斉藤隆夫を除名処分するという発想は、我々の同胞の中の何がそういうことをさせたのであろう。

美濃部達吉のボイコット、斉藤隆夫のボイコット事件というのは、ある意味でそのグループの苛めの構造だと思う。

美濃部達吉の論旨が間違っていたり、斉藤隆夫の論旨が間違っていたというのではなく、この人々の考えていたことが、彼らの仲間の意向と少々ずれがあったがため、彼らは苛めにあったわけである。

その苛めが日本の最高学府の中で起き、戦前の日本の議会の中で起きたわけである。

この苛めの初期の段階で、周囲の仲間のうちで誰一人として苛めの本質に気づかず、何故、ずるずると問題をエスカレートさせてしまったのかを我々は考えるべきである。

その苛めの口実として、正義を振りかざしてしまうものだから、周囲の人は誰一人その苛めを是正することが出来なかったのではないかと思う。

問題は、その正義と称する本質であるが、ここで天皇制というものが都合よく利用されてしまって、水戸黄門の印籠のように、天皇という言葉を正面から掲げられると、もう反論の余地がなくなってしまったわけである。

あらゆる事柄が天皇制に迎合するか、そうでないか、という基準で正義というものが斟酌されてしまい、先に天皇の名を持ち出したほうが勝ち、という構図が出来上がってしまったわけである。

ここで自らの頭脳で考えることが出来ていれば、我々はもう少し違った道を選択できたかもしれないが、この場で自らの頭脳で考えることをせず、隣の人の意見を鵜呑みにしてしまったものだから、雪崩をうって奈落の底に転がり落ちたわけである。

1万メートルの上空を群れを成しておしよせてくるB−29に対して、竹ヤリと防空頭巾ではいかにも陳腐な取り合わせではないか。

このあまりにも度の過ぎた馬鹿ばかしさは、立案のときから自明なわけで、それを真顔で国民に押し付けた行政というのをどう解釈したらいいのであろう。

こういう馬鹿ばかしさというのは、戦後も立派に生きているわけで、それは戦後の占領が説かれ、日本が再び独立しようかしまいかというときに、当時の日本の大学教授たちが徒党を組んでこぞって日本の独立に反対したことがある。

戦後の焼け野原からぼつぼつと復興の槌音が聞こえそうなとき、アメリカはアメリカの事情で日本を独立させることにした。

主権国家として、他国に占領されているよりも、自主独立を回復するのが民族の悲願であることは如何なる民族といえども変わらないと思う。

しかし、自主独立するということは必ずしも安易な道ではないわけで、それでも地球上のあらゆる民族が、他国に支配されるよりも自主独立の道を選択するのが普通の民族意識だろうと思う。

ところが事もあろうに、我が祖国が占領から開放されようかという時に、その独立に反対した大学の教授たちがいたわけである。

次世代の若者を教育する直接の当事者達が、民族の独立に反対していたわけだから、その後の日本がよくなるはずがないではないか。

その結果が今露呈しているわけで、日本が目下経済の面で下降線を辿っているのは、戦後のこういう大学教授から薫陶を受けた世代が社会の中枢を支配しているからだと思う。

大学教授たちが、民族の独立運動をリードするというのならば、極当たり前の人間の営みであるが、日本の場合、その極当たり前の営みに逆行して、自らの民族の独立に反対したのが国立大学の教授達ときているのだからあいた口が塞がらない。

こんな調子では日本が良くなるはずがないではないか。

これも今まで述べてきたように、自分でものを考えないという明らかな証拠だと思う。

大学教授といえども、自分でものを考えるということをせず、周囲の人の顔色を伺いつつ、無難な方に擦り寄って、「あっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ」という他人の意見を鵜呑みにする図式である。

 

苛めの本質

 

考えてみると、あの太平洋戦争中は日本の帝国大学の教授連中というのは何をしていたのであろう。

私のような皮肉なものが推測するとすれば、軍部に擦り寄っていたとしか言いようがない。自然科学というのは自然の摂理から脱却することが出来ないので、何時でも、何処でも、真理の探究ということが可能であるが、人文科学というのは、人間の主観に依拠しているわけで、社会の動きには最も敏感なはずである。

社会が帝国主義になれば真っ先にそれを吹聴し、その風向きが軍国主義に変われば、真っ先にそれを察知し、率先してその旗振りをするわけである。

そして戦後共産主義が晴れて日の目を見るようになると、象牙の塔の中で、その主義主張を研究するだけに飽き足らず、自ら実践してしまったものだから、今日の日本の現状があるものと思う。

戦後の日本の大学の教授たちは、保守陣営というものを頭から否定していたところにもってきて、彼らが理想の王国とみなしていたのは旧ソビエット連邦であり、中華人民共和国であった。

ところが旧ソ連は崩壊し、中国が改革開放路線という民主化の方向に転じてきたので、今度はその保守陣営に擦り寄ってきたわけである。

大学の先生方の未来予測は見事に外れたわけで、何のために象牙の塔にこもり、何を研究していたのかと言いたい。

教科書裁判で勇名をはせた家永三郎は、大学教授のとき、学徒出陣で学生を戦地に送り出したことを悔やんで、戦後、反政府、反体制の旗手として教科書検定で果敢に戦った、と本人が自負していたが、彼のように執拗に国家に楯突くということをどう解釈したらいいのであろう。

戦中は、国家の指針に忠実に従って、学生を戦地に送り出したものが、戦後は掌を返したように国家に楯突くということは、どう理解したらいいのであろう。

この事実、家永三郎氏の生き様というのは、時の状況に都合よく便乗して生きてきたということではなかろうか。

戦中は、国家の方針としての学徒出陣というものに反対できなかった、しかし、戦後は、自由奔放に国家に楯突くことが可能だったわけで、そういう状況の中で、教科書問題で何十年も裁判というものを独り占めしていたわけである。

最高学府で高等教育を治めた人ならば、戦中にこそ、軍部の独断専行を非難し、是正し、世論を喚起し、民主的議会を擁護しなければならなったではないか。

当時は確かに治安維持法があり、憲兵がおり、思想警察の取締りが厳しかったことは知っているが、「だから出来なかった」では、最高学府の意味がないではないか。

それでは凡人と全く同じなわけで、国費で学業を修めた意味がないではないか。

オピニオン・リーダーとしての使命感が全く無いではないか。

人は誰しもスタンド・プレーを狙っているわけではない。

スタンド・プレーを狙っているわけではないが、少し人と違う事を言ったりしたりすると、それは苛めの対象になる。

これが政府の要人から、軍部の中枢から、大学の教授に至るまで、皆、この仲間内の苛めが怖くて沈黙をしたわけで、沈黙であれば、それは承認されたものと思い違いされるのも致し方ない。

声が大きくて、無遠慮、無思慮な発言が正義の衣を着て通ってしまうわけである。

それが美濃部達吉の天皇機関説問題であり、斉藤隆夫の粛軍演説であったわけである。

仲間内で少し浮いた発言なり思考を披瀝すると、それがそのまま苛めの対象となってしまうわけで、周囲は寄ってたかってスケープ・ゴートを叩くわけである。

これは我々の日本民族の根本的な特質だと思う。

民族の根本的な特質なるが故に、これは教養とか理性でも克服できないわけで、最高学府でも、軍の中枢でも、官僚の社会でも、政治家の社会でも、日本のあらゆる階層に満遍なくこの苛め体質が存在するということである。

こうした苛めは、最初は自分たちの仲間内でふつふつと湧き上がるが、そのうちにその苛めをより効果的にするために、周囲の状況を利用しだすと、収拾がつかなくなり、社会問題と化してしまうわけである。

そしてその効果をより高め、効果有らしめるために天皇を持ち出すわけで、天皇を先に担ぎ上げた方が勝ちとなるわけである。

 

盲信に嵌まる愚

 

この過程をつぶさに観察すると、旧帝国大学の教授連中が、その実体を知らないはずはないと思う。

日本を奈落の底に転がり落としたのは直接的には軍部の仕業であるが、それを傍観していたという点からすれば、大学教授も政治家も一抹の責任はあると思う。

軍部が本来すべきではない政治への関与ということをしたから、こういう結果を招いたわけで、そのことの危険性は当時の大学教授や政治家もうすうす解っていたものと思う。

ところがそれを黙して語らなかったという事は、自らに火の粉が降りかかることを恐れたのと同時に、この時代の軍国主義の風潮というのは、当時の日本のあらゆる階層が待ち望んでいたことでもあったのである。

それを日本の国民のあらゆる階層が切望していたわけである。

家永三郎が戦後「学生を戦地に送ったことを悔やまれる」という言葉は、戦後という状況の中だからこそあるわけで、当時は「生きて帰るな」「死んで奉公せよ」「国のために頑張れ」とい言いながら見送っていたものと思う。

ところがあの狂乱の時代を生き抜いて、状況が変わってみると、「若者を死地に送って申しわけなかった」という悔悟の言葉となるわけである。

この変節は一体なんであったのだろう。変節は彼一人の問題ではない。

戦前、戦中、戦後を生き抜いた人々、あの時代を潜り抜けた日本人は、その全部が全部、あの変節をかいくぐって来たわけである。

1945年、昭和20年8月15日という日を境に、その当時生きていた日本人は、好むと好まざると、変節を余儀なく強いられたわけである。

それは戦争に負けたということで、我々は勝者にひれ伏さなければ生きておれなかったからである。

勝った方は、負けた側を如何様にも料理できたわけで、我々は相手の成すがままにしか生きれなかったわけである。

こういう極限の状況において、我々、負けた側の人間にとって、如何にこの現世を生きぬくかということは、それぞれの個人の持つ未来予知能力に大きく左右されるのではないかと思う。

ある人は新しい状況に順応するのに躊躇し、他の人は率先して自ら新しい状況にすばやく順応しようとするわけで、そのどちらが良くてどちらが悪いということは誰にもわからないわけである。

変わり身の早い人は、頭の切り替えが速く、スムースに新しい価値観に順応できるが、その意味からして、時代の潮流を読むのに機敏で、時流にすばやく便乗できるわけである。

心に何の抵抗もなく、素直に変節を受け入れることが出来るというわけだ。

生きんがための変節は致し方ない。

自分自身が生き残るために、今までの価値観を逆転させることは致し方ないが、それを今の価値観から見て、その前の価値観を悪し様に糾弾することは、心ある人のすることではないと思う。

社会の表層としての価値観は、時の状況によって変動しても致し方ないが、我が民族の本質というのは、社会の表層的な変動とは無縁に、全く変わらないものがある。

我々は普通大和魂というと、零式戦闘機で敵艦に体当たりする勇壮活発な行為を連想しがちであるが、我々の持つ民族の本質としての大和魂というのは、あのような格好の良い物ばかりではないと思う。

あの対極に位置する、負の大和魂、マイナスの大和魂、醜い大和魂というものもあるように思う。

その例として苛めの構図というのがそれに当たると思う。

これもわが民族が連綿と過去から引き継いできた民族の本質ではないかと思う。

我々は付和雷同的に他者に迎合する面があるが、この時、人々の視点がほんの少し倫理からずれると、それは虐めというものに変わってしまう。

苛めというのは、大勢の人が特定の人を集中的に糾弾することであって、それは何も暴力を伴うとは限らないわけで、言葉でその人の社会的地位を抹殺することもある。

大勢で特定の個人を集中的に攻撃するわけで、攻撃する側は衆を頼んで、その行為の整合性をフレーム・アップしてしまうわけである。

そのフレーム・アップに便乗しないと、今度は自分が攻撃の対象にされるのではないか、という恐怖心がその苛めをますますエスカレートさせてしまうわけである。

ここに各個人がものを自分の頭で考えるかどうか、という行為が関与してくるわけで、自分も攻撃する側に身をおかないことには、何時苛めの刃が自分に向かうかわからないので、深く考えることをせずに大勢の側に迎合するわけである。

我が大和民族というのはものつくりには長けている。

しかし、政治ということでは何時までたっても三流の域を出られない、というのはその根底にこれを内包しているからだと思う。

ものつくりというのは真理の探究で成り立っているが、政治とか経済というのは、人間の内面の行為で成り立っているわけで、人間の心の問題となると、我々はやはり民族の本質を克服できないのではないかと思う。

民族の本質というものが、表層的な価値感の変遷では克服できないということは、そこに民族の生い立ちそのものが深く関わっているからだと思う。

我々は有史以来農耕民族であったわけで、その中でも特に水稲農業で民族を維持してきたことはまぎれもない事実で、その中で農耕を主体とする封建制度を確立してきたわけである。

水稲農耕というのは集落が一致協力して農作業に携わらないことには成り立たないので、そういう環境の中で、異端者というのはどうしても排除されるわけである。

それが村八分という制裁であったわけで、近代から現代に至っても、我々の民族の深層心理に中では、この村八分という概念が抜けきれていないわけである。

近代から現代において、日本でも近代工業が勃興してくると、農業を主体とする封建制度というものは徐々に消滅しかかったが、我々の心の隅には、それが残滓として残っているものと思う。

「個の確立」という概念が定着してきたとき、人々が自分の頭で物事を考えるという習慣を身に着けていれば、付和雷同という事はなかったが、そこの部分に大昔の村落集合体の意識を引きづっていたので、自分の頭で考えるよりも、人の意見に左右されるという構図が生まれたものを推測する。

これは我々、日本人の心のありようの一形態であるが、戦後は戦前の価値観が全否定され、表面上はアメリカン・デモクラシーに全面的に塗り替えたかに見えた。

それでも民族の本質はそのまま残っているわけで、昔、村八分で苛め抜いた方が悪者、虐められた方は善人という概念が大手を振ってまかり通るようになってしまったわけである。そこでまたまた思考停止状態が起こり、自分が進歩的と自認している人々は、無批判にこの潮流に乗ってしまったわけである。

いわゆる戦後の民主化の波の乗り遅れまい、民主化というバスに乗り遅れまい、高名な大学の先生のいうことならば間違いないに違いないという、盲信に繋がってしまったわけである。

この盲信に陥るというところが、戦前、軍国主義に嵌ったのと同じ構図ではないか。

これが我々の民族、大和民族の本質でなくてなんであろう。

 

勝者の言を信じない愚

 

戦前の軍国主義というのも日本の全国民がそれを良しとしたわけで、日本全国津々浦々に至るまで一億総軍国主義であった。

その中で少し異端の意見を述べると、そのまま村八分という制裁が待ち受けていたわけで、人はその制裁を恐れ、沈黙を守るか、率先して体制側の提灯持ちに徹したわけである。

こういう状況下で、誰が見ても明らかに馬鹿げているというアイデア、つまり行政措置があった。

例えば先に述べたように、1万メートルの上空を飛来するB−29に竹ヤリと防空頭巾で立ち向かうという陳腐さ、国民全部に与えるべき銃もないまま、本土決戦と唱える馬鹿ばかしさ。

こういう陳腐なアイデアは、その発案のときから荒唐無稽なアイデアであったにもかかわらず、それが政策として国民の下々にまで降りてくるということは、どう説明したらいいのであろう。

戦前においても、海外で教育を受けた人々、ある意味で選民という立場の人々もいたはずであるし、帝国大学をはじめとする各大学における教授連中の中には、海外の情報に熟知していた人もいたと思う。

にもかかわらず、その馬鹿ばかしさを指摘するものが一人もいなかったという事は、一体どう解釈したらいいのであろう。

治安維持法があってそういうことが言えなかった、というのは自己弁護だと思う。

自分が可愛くて沈黙していたというのならば、心情的には理解できるし、それが並みの人間だと思う。

特別に小心であったわけでもなく、極普通の人ならば、そういうふうに行動するのが自己保存として当然だと思う。

問題は、状況が逆転したとたんに、それを逆手にとって、自己PRに利用している点である。

表層の価値観が変わると、巧みに新しい価値観に便乗して、古い価値観を糾弾し、その勢いが余って古い同胞を悪者扱いにする卑しき根性である。

戦前の我々が軍国主義に傾注していったのは、その根底のところには貧乏からの脱出願望があったものと想像する。

我々日本人、日本民族が貧乏から脱出するためには、東太平洋に大東亜共栄圏を確立して、その中では各民族が平等に経済活動をし、全体のレベル・アップを図りましょうというのが我々の軍国主義の元には横たわっていたのではないかと思う。

その目標の実現には、さし当たって我々が祖先して軍事力を強化し、アジアの盟主になって、その夢の実現に貢献するんだ、という発想ではなかったかと思う。

その過程では当然、アジアを支配し続けている西洋キリスト教文化圏との衝突が避けられないわけで、それが真珠湾攻撃であり、マレー半島の侵攻であったわけである。

あの戦争に勝利を納めた敵の将軍、アメリカ軍の最高司令官ダグラス・マッカアサーはそれをきちんと理解していた。

戦後の我が同胞の進歩的知識人は、我々の先輩諸氏、我々の父や、兄や、祖父はアジアで悪いことをしたという認識を一向に改めようとしない。

いわゆる東京裁判史観を金科玉条として、それを疑う事を戦前への回帰、軍国主義への回帰という見方で全く検証しようとしないし、頭から拒否し続けているが、これこそ自分の頭でものを考えないという典型的な例である。

第2次世界大戦後、アジア諸国が西洋列強から独立を勝ち得た背景には、やはり日本がアジアにおいて西洋列強の力をことごとく削いでしまった、ということがあると思う。

ところが、そのことを西洋列強の側は素直に認めないわけで、アジア諸国も日本が西洋の力を削いだことは認めたいが、それと同時に、日本の暫定的な占領地統治というものが下手だったが故に、日本に対する感情も素直に慶べないものがあったわけである。

日本がアジアで西洋列強と全く戦わなかったとしたら、西洋列強のアジア支配というのはまだまだ継続していたに違いない。

戦後、価値観が逆転してしまったが故に、戦後の知識人というのは、その事には一斉口をつぐんでしまっているが、ここにも我々の政治下手という要因が大きく露呈していると思う。

政治というのは、人の心に深く入り込む統治の手法なわけで、地球上のあらゆる民族には、それぞれに自分たちで培ってきた統治手法というものがあるはずである。

ところが地球規模でグローバル化が進むと、人の往来が盛んとなり、するとその次ぎにはお互いの政治手法、統治手法の比較検討を無意識のうちにしてしまうわけである。

すると「あっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ」という政治手法乃至は統治手法の取り込みが起きるわけである。

そこにもってきて、第2次世界大戦後は、共産主義の世界的発展ということがあり、旧ソビエット連邦とか中華人民共和国というものが巨大な力を持つようになって、自由主義陣営との間で、領域の獲得競争が熾烈になってきた。

戦後の日本の中でも、この国内における東西冷戦構造が如実に現れて、左翼勢力というものの発言を無視できなくなってきた。

日本の社会の表層がこういう状況になってくると、その表層面にも我々の民族の固有の性質が露呈するようになってくるわけで、要するに各団体,各グループ、各集団、各組織の中で、それぞれにスケープ・ゴートを作り、それを集団で寄ってたかってなぶりものにするという構図が現れるわけである。

これを知識人たちは「多様な意見」という奇麗事でカモフラージュしているが、一言でいえば、トップ・ダウンの命令に異を唱える事が新しい民主主義だと勘違いしているだけのことである。

戦後の日本では、戦前の治安維持法が否定されて、治安という言葉が死語化してしまった。戦前は、この治安という言葉を拡大解釈して、治安維持法で何でもかんでも世間に異を唱える人々、当局側に異を唱えようとする人々を一括りにして網を被せようとしたわけである。

戦後はその反動で、人のいうことには何でもかんでも反対することが正義だと、新しい人間の生き方だと、思い違いをしてしまったわけである。

その根底のところには共産主義の蔓延ということがあったわけで、これは新しい占領政策の一環として思想・信条の自由というものが保障されて、共産主義者であるというだけで人を拘束できなくなってしまったので、いわば野放しの状況となったわけである。

野放しになった結果として、大学のような知識階級にこの考え方が浸透していったわけで、それはあの戦後の状況から見れば当然の成り行きではある。

焼け野原の東京の姿を見て、これから日本を再生するには、共産主義を基調とする社会主義政策で、共産党員というインテリゲンチャが、金も物も均等に国民に分配する統制経済でなければならない、と思い込むのもある面では致し方ない面があった。

ところがこの日本共産党の中においても、それを構成しているのが我々同様の日本人なるが故に、同じように内部分裂、いわば苛めが起きて、結果的に統一目標というものは雨散霧消してしまったわけである。

後に残ったのは「秩序の破壊」という革命の取っ掛かりの示威的な行為だけで、これはB−29に竹ヤリで立ち向かうのと同じ程度に陳腐な行為であった。

ただ単に、自分たちの自己満足だけで、国民にとっては迷惑行為以外のなにものでもなかったが、それが「労働者の権利」という奇麗事で罷り通ったわけである。

我々、日本人の組織がどうして仲間割れ、いわば組織内から苛めが湧き上がるのか、という点を追求した研究というのは全くないのではなかろうか。

仲間割れ、苛めというのは、最初は意見の相違から生じてくると思う。

意見の相違、考え方の相違というものがどうして苛めという陰湿な行為につながるのであろう。

 

異質のものを排除する愚

 

先に述べた美濃部達吉の天皇機関説などというのは、旧帝国大学の学部内の苛めの構図が国威掲揚に利用されたようなもので、昔も今も日本の最高の学問の府、いわば一般庶民が近寄りがたい象牙の塔の中で、仲間同志の苛めが起きるのか不思議でならない。

小学校や中学校の生徒の苛めと全く同じ構図が、日本の最高学府の中で起きるのが不思議でならない。

斉藤隆夫の演説がどうして粛軍演説なのか。

当時の国会議員というのは、ある程度納税義務を負った知識人であったにもかかわらず、国会議員の中で彼をホローするものが一人もいなかった、という事は一体どういうことなのであろう。

彼は苛めの結果として除名処分をされたわけで、こんなバカなことをしでかすのが、我々の最高学府であり、最高の立法機関であったわけである。

我々、日本民族というのは、異質の物を排除するリンパ球のような機能をもっているのであろうか。

我々の排除する物というのは、目に見える物ではなくて、目に見えない心の中の異分子を必然的に排除する機能を民族の本質としてもっているのであろうか。

我々の民族の歴史を紐解いてみれば、そうとばかりは言い切れず、異端者に対してもかなり寛容であったと思う。

例えば、宗教のことを考えて見ると、仏教というのは我々にとって、従来の考え方に対して異質の思考方法であり、新しい体験であったにもかかわらず、我々の民族に深く入り込んでしまった。

一時的に排斥された時期もあったが今は定着してしまっている。

仏教が我々に定着した理由は、それを当時の日本のトップ・レベルの階層が率先して帰依したからではないかと思う。

つまり当時のハイ・ソサエテイーが真っ先に仏教徒になり、それを真似て下々のものが我もわれもとなびいたという構図ではないかと思う。

ここでも人と同じように真似をしないと、異端者として苛めに合うわけであろう。

小学校や中学校の苛めというのは、どうも人と違う事をする、他人と同じ事をしない、グループ内で自己を主張すると、その人を集中的に困らせてやろう、という形で起きているらしい。

それは組織の中で、上から命令に従わないという上下関係の中で起きるのではなく、横広がりの面としての関係の中で起きているようで、当人同志は虐めをするということを意識していないにもかかわらず、外から見るとそれは明らかなる苛めだということになる。

それは皆均一の仲間の中で、ムードつくりの上手なものが一人いると、他のものはそれにひきづられて、スケープ・ゴートが仕立てられるようだ。

スケープ・ゴートを仕立てるには、何かもっともらしい理由が要るわけで、その理由として人と違うことするとか、言うということが利用されているようだ。

だからスケープ・ゴートに仕立てられる理由というのは、全く整合性がないにもかかわらず、それがもっともらしく吹聴されるわけである。

問題とすべきことは、均一のグループ内に誰か一人、心のよこしまな人間がいて、それが気に入らない相手を糾弾しようと意図的に画策すると、周りのものが無批判にそれに同調してしまうということである。

ある人が相手を気に食わないという理由にはなんの整合性がわけでもなく、正当な理由も無いのだから、苛めの目的には最初か理由らしい理由というものが存在しないわけである。

だから人と違う事を言ったとか、したということがもっともらしい理由となってしまうわけである。

そこでグループ内の他の人が少し冷静に物事を見れば、苛めというのは、その時点で解消するわけである。

これが日本のあらゆる階層にあるわけで、当然、政党の中にもあり、日本共産党ばかりではなく、旧の日本社会党の中にもあり、自由民主党の中にもあるわけである。

自由民主党内で言えば、その中にまたまた派閥と称するグループがあるわけで、そのグループ内にも、またまた苛めというものがあるわけである。

日本は物つくりでは一等国であるが、政治は三流だといわれる根拠は、ここにあるものと推測する。

 

学者バカという愚

 

国の進路を審議するのに、各政党が党利党略を最優先して、国益ということを忘れた議論をしているので、戦後の日本は諸外国から馬鹿にされている。

自分の国が独立しようとしているときに、その国の最高学府の先生方が、寄ってたかってそれに反対しているわけである。

政党員でもないものが、政治の外側で「独立反対」といっているのを他の国から見れば、開いた口が塞がらないに違いない。

当然、そういう人々から支援されている政党が、自分たちの国の独立に反対することは目に見えているわけである。

これって、売国奴と言わずして何といったらいいのであろう。

この現状を見れば、誰が見ても、日本は政治的には三等ないしは四等以下と言わざるをえない。

それを言うのが、その国の最高学府の教授連中ときているのだから、いくら三等国、四等国と蔑まれても反論の仕様がないではないか。

いくら馬鹿にされても、それで命を失うわけではないので、へらへら笑って、追従笑いをして、金だけむしりとられているわけである。

いくら理不尽な金を要求されても、金さえ払えば命を失うわけではないので、いわれたまま金を出して命乞いをしている図である。

誇りや、自尊心や、愛国心だけで人は生きられるものではない。

そんなものがなくても人は生きておれるわけで、戦後の日本の知識人というのは、そういう生き方でも構わないと考えていたが、最近になって北朝鮮のありようを見ると、ひょっとしたら北朝鮮が日本に対してミサイルの一発も撃ちかねないと思うようになって、少しはものの考え方も変わるかに見えたが、それは北朝鮮のミサイルで日本の人が死ぬことを憂いているだけで、「やられたらやり返す」という動物の基本本能から言っているわけではなさそうだ。

北朝鮮のミサイルで、日本人が「無為に殺されるかもしれない」ということを恐れているだけで、それを北朝鮮が日本に対して戦争を仕掛けてきたとは捉えたくない心境だと思う。

人さえ死ななければ、北朝鮮に対しても、どこまでも人道援助をすべきだと考えているに違いない。

北朝鮮からミサイルが飛んでくれば、人が死のうが死ぬまいが、売られた喧嘩は請けて立たなければならない、という発想には至っていないと思う。

ところが主権国家の安全保障というのは、相手からミサイルが飛んできてから対策を練っていては遅いわけで、そういうことを考えるのが政治の使命のはずである。

ところが我々の同胞の中には、「日本に攻めてくる国はない」と頭から信じている人々がいるわけで、今、北朝鮮が妙な動きをしだしたので、やっと「ひょっとしたらありうるかもしれない」と気づき始めたわけである。

自分の国の安全保障の話になると、軍国主義への回帰だとか、侵略を企てている、という論議にすりかえてしまって、まともな論議をしようとしなかった。

これはすべからく戦後の日本の革新系の知識人、革新系の政党の責任である。

特に旧日本社会党の責任は大きい。この政党は他所の国の政党ではなかろうか。

地球上の生きとし生けるものは、基本的に「やられたらやり返す」という基本的生命維持本能があると思う。

どんな小さな生き物でも、やられっぱなしで、やられても基本的に逃げるだけ、という生き方を選択するものはありえないと思う。

テレビで放送されるアフリカの野生動物の狩の場面でも、肉食動物の餌食になるのは、基本的に群れの中で欠陥のあるものが犠牲になるのであって、立派な成体をなしているものは犠牲を最小限にすべく努力をしているではないか。

我々は第2次世界大戦、アメリカ読みで太平洋戦争、我々の言い方ならば大東亜戦争で、完璧にまで打ちのめされた。

そしてその結果として、戦後の日本の知識人というのは完璧にまで自尊心、愛国心、同胞愛、民族愛というものを失ってしまった。

失ったというよりも、そういうものが戦争という災禍の元凶だと思い込んでしまった。

尤も、戦前がそういう言葉で戦いに狩り出されて、その結果としての敗北であったので、その言葉そのものを信じることが出来ない、というのは心情的には理解できる。

しかし、自分の国が戦争で負けて、勝者に占領され、その勝者が占領を解き、我が祖国の自主性を回復させようとしたとき、被占領国の学識経験者、インテリゲンチャとしての国立大学の教授連中が、徒党を組んでその独立に反対するということは、どういうことなのであろう。

「熱さに懲りて膾を吹く」という言葉があるが、大学教授たるものが、これほど先の読めない人種では、何のための大学であり、何のための高等教育かと言いたい。

この先を読む能力の不足が、日本が奈落の底の転がり落ちる原因であったことは当然である。

戦前という時期に、日本の大学の教授連中が、対米戦の不可逆性を軍部や軍人達に説いておれば、またはアメリカのプラグマチズムというものを説いておれば、アメリカと戦うことを回避しえたかもしれない。

それを戦後という時期にいたって、治安維持法の所為にしたり、軍部の専横の所為にしたりして、他者に責任を転嫁するということは卑劣な行為だと思う。

状況が変化したから声を出すというのでは、人間としての矜持に欠けていると思う。

 

二枚舌を使う学者の愚

 

戦前、戦中においても、帝国大学の教授をしていたようなインテリが、戦後、掌を返したように、戦前、戦中の政治の不満、軍部の専横を糾弾して止まないが、それとは対極的に、戦争を遂行した側というのは、戦後全くものをしゃべらなくなってしまった。

あの大戦を生き残った人々というのは、基本的には運がよい人で、そういう人でも彼らを取りまく周囲には戦争の犠牲者は掃いて捨てるほどいたわけである。

そして友人知人が、ことごとく戦争の犠牲になっているにもかかわらず。本人のみが生き残ったわけで、そこに贖罪の気持ちが大きく作用して、戦争というものを語らなくなってしまった。

戦争の当事者は戦争を語らず、戦争では何の役にもたたなかった大学教授たちは、戦後、価値観の大転換に見事に便乗して、平和運動の旗手となったわけである。

戦争を経験してきた人々が、戦争を語らないというのも、大学教授が戦後見事に平和運動の旗手に成り代わったのと同じぐらい罪深いことだと思う。

彼らが戦争を語りたがらない気持ちというのは、心情的にはよく理解できる。

自分の同僚や部下がことごとく戦死しているのに、自分だけ生き残っては、彼らに申し訳ないという心情は察して余りある。

戦争を体験していない大学教授が、文献を頼りに、旧軍隊の悪行を暴いて、それで同胞を誹謗し、旧敵国の国益を代弁し、祖国のために散った英霊を侮辱し、日本を共産主義の国に仕向けようとするのを黙ってみている手はないと思う。

彼らは、敗戦なるが故に英雄になりそこなったわけで、状況次第では英雄であったかもしれない。

こういう人たちが、贖罪の気持ちから戦争を語らないというのは、歴史の大きな損失だと思う。

教科書問題や、靖国神社の参詣問題で、中国や朝鮮からその度ごとに文句が出るのは、彼の国では、日本が支配していた時期のことを、国を挙げて後世に語り継いでいるわけで、それがため何時までたっても事実が風化しないわけである。

事実が風化しないばかりではなく、歴史が歪曲されて、事実から大きく逸脱してしまっている。

しかも彼らは、被支配者としての被害者意識ばかりが強調されているわけで、彼らの立場にたてば、それもある程度は致し方ない面がある。

我々も、戦後6年半もアメリカに占領されて、憲法から農地解放から教育改革まで、あらゆる社会的インフラが根本から改革されてしまったが、これを今我々は「アメリカの悪行」としてアメリカを怨んでいるであろうか。

我々は、あの占領を歴史の教訓として、それを踏み台とし、新しい出発点として、過去と決別し、新しい国作りにまい進した。

中国にしろ、朝鮮にしろ、これと同じパターンと踏襲しているにもかかわらず、彼らは支配者のおこなった政治的手法の変革をことごとく悪行と決め付けて、自分たちは被害者で、日本は加害者だ、という歴史観を国を挙げて若い世代に語り継いでいるわけである。

歴史観というのは国によって違うのは当然のことで、それを同一の歴史観に立つなどいうことは理論的にありえない。

ニッポンの歴史は、日本人の立場から見た歴史であり、それは韓国や中国側から見た歴史とは異なっているのが当然である。

にもかかわらず、日本人の同胞の中からでさえ、相手国の歴史観に同調し、自分の祖国を誹謗中傷する輩がいるのだから始末に負えない。

中国や朝鮮では、国を挙げて日本の行ったことを後世に語り継いでいるが、日本で本当に戦争を体験した人々は、これとは逆に沈黙してしまって、我々は如何に戦ったか、ということを語らないので、今の日本の若者は日本が戦争したことすら知らないわけである。

戦争を体験した人々が戦争を語ると、究極のところ、我々の政治不信に突き当たると思う。戦争は政治の延長であるということから考えれば、何も不思議ではないが、我々の政治は何時までたっても三流の域から出られない、ということから考えると、戦争は語らないほうがいいのかもしれない。

松本零士という漫画家がいる。「宇宙戦艦ヤマト」の作者である。

彼の父親は、特攻隊の教官であったらしい。

そして、教官は次から次へと若い兵士を教育し、彼らは戦場に散っていったけれど、自分は戦後まで生き残ってしまった。

それで彼の父親は、そのことに贖罪の意識が作用して、松本零士に一切戦争の話はしなかったと本人が語っていた。

この父親の気持ちはよく理解できる。

昨年、没した教科書裁判で有名になった家永三郎は、学徒出陣で出征していく学生を見送りながら、「それを止められなかったから、戦後は反体制を貫いた」などと奇麗事をいっているが、これは学者の二枚舌で、自己弁護以外のなにものでもないと思う。

大学の先生が反体制で、日本の政治の状況が少しでもよくなったのかと問いたい。

戦争の現場にいたものと、象牙の塔で日和見な時流を探っているものでは、その心根が違っていると思う。

戦前、戦中は体制べったりで、時流に迎合し、学徒出陣で学生を死地に追いやりながら、戦後はそれを悔やんで、反体制を貫くなどという言い草は、日和見の尤も典型的な例ではないかと思う。

これならばまだ戦前、戦中の獄中でも、自分の所信を曲げなかった共産党員のほうがよほど立派だ。

 

若者に間違った教育をする愚

 

この文章の冒頭に載せた写真は、特攻隊員が死地に向かう前に、それぞれの故郷を向いて頭をたれているものであるが、前途有為な若者が、こうして自ら進んで銃後の人のために死地に向かうというのは、実に気高い行為だと思う。

自己犠牲の極致である。

戦後の日本の進歩的と称する知識人は、これらの行為は強制されたもので、強制した方が悪いという価値観で歴史というものを見ようとしているが、特攻隊員として自殺行為に走るという事は、日本独特のものであったかもしれないが、これに近い自己犠牲というのは我々大和民族だけの専売特許ではない。

あの第2次世界大戦で戦火を交えた交戦国では、大なり小なりあれに近い自己犠牲という行為は、民族の如何を問わず、普遍的に存在していたことを知らなければならない。

戦後の日本の知識人は、戦争で苦労したのは我々日本人だけで、我々だけが自分たちの政府の犠牲となって苦労した、と思い違いをしているが、どうしてどうして、アメリカ人も、イギリス人も、フランス人も、ドイツ人も、ソビエット人も、皆我々と同じような苦労をしていたわけである。

あの「空とぶ要塞」と言われたB−29の製作現場、アメリカのボーイング社の製作現場では、あの飛行機の建造に女性がリベット打ちをしている映像を見たことがある。

事ほど左様に、世界中が必死で戦っていたわけである。

もちろんに日本では学徒動員で、中学生ぐらいのものは男女を問わず工場に狩り出されていたが、そういう苦労は、我々日本人だけではなかったのである。

あの戦争で苦労したのは我々日本人だけではなく、世界中の人々も、我々同様に苦労して戦争遂行していたわけである。

そしてそこには、我々と同じように自己犠牲を強いられた若者はいたわけであって、日本に爆弾の雨を降らせたBー29のパイロット達だって、何時撃ち落されるかわからない恐怖と戦いながら任務についていたわけである。

たまたま我が方の火器が劣悪であったので命拾いをしただけのことで、相手側の戦闘員でも、運が悪ければ我々の特攻機で撃ち落される危険性は十分あったわけである。

そういうリスクは十分にわかっているにもかかわらず、それでも尚任務につくという事は、やはり自己犠牲の現われだと思う。

あの戦争中、アメリカ市民権をもっていた日系二世は、ヨーロッパ戦線で果敢に戦ったと言われている。

彼らとてアメリカ市民として、アメリカという自分の祖国には忠誠を誓っていたわけで、敵ながら天晴れという気持ちだし、立派なことであり、我々の仲間の行為としては、賞賛に値するものと思う。

主権国家の国民として、自分の国の政府が、戦争という選択をした以上、自己犠牲を厭わないというのは当然のことであるが、この当然の行為を戦後は否定してしまって、本人は馬鹿呼ばりされ、指揮官は「悪の権化」の如き扱いである。

近代以降の戦争では、前線に狩り出されたものは、それぞれに自己犠牲の気持ちを持たなければ、全体として敗北を帰してしまう。

この自己犠牲が嫌なものは、敵前逃亡を図るわけで、それは人間としての価値を否定されることになる。

主権国家の国民としての存在を否定されてしまうわけである。

これは良し悪しの問題ではなく、主権国家の国民たるものは好むと好まざると、そういう宿命を背負っているわけである。

それでも戦争に行くのが嫌だ、政府のいう事は聞きたくないという人は、主権国家の国民たることを辞めなければならない。

つまり、未開の地に行って、未開人として生きなければならないということである。

戦後の日本の知識階層の論調というのは、自分の祖国に殉じようという行為を否定的な目で見ようとし、戦争の体験者はそれを語らず、戦争を体験していないものが、奇麗事というか、自虐的な論議ばかりを鼓舞宣伝するものだから、その後に生を受けた若者は、日本人というのは悪いことばかりをしてきたと思い込んでしまって、ますます自分の国の誇りを持たないことになってしまう。

これは無理もないと思う。

戦後の日本の論調からすれば、我々は悪いことばかりをしてきたから、正義のヒーローから制裁を受けた、と思い違いをするのも無理ない話だと思う。

戦後の大学やマスコミが口を揃えて戦前の我が同胞の悪口を言い、我々の英霊を冒涜すれば、若い者達が自分の祖国に愛想を尽かすのも致し方ない成り行きだと思う。

戦後の廃墟の中から少しずつ復興しかけて、勝ったアメリカが負けた日本の自主権を少しばかり回復させてやろうというときに、それに反対したのが他ならぬ我々の最高学府の教授連中で、それが徒党を組んで、「今まで通りの奴隷のままのほうがいい」と、祖国の独立に反対したのである。

こんな大学教授、国立大学の教授のいる国が、良くなるはずがないではないか。

こんな大学教授から教育を受けて、立派な国民が育つわけがないではないか。

反体制を売り物にするような大学教授から教育をうけて、将来を担う若者が育つわけがないではないか。

象牙の塔の中で、共産主義というものを学問として研究している分には実害はない。

しかし、その研究成果を実践してしまっては、学問の独立と言うことを自ら放棄したも同然であるが、それをいうと「思想・信条の自由を侵す」という論法で、自らの正当性を言い立てるわけである。

 

大学の抱えた愚

 

太平洋戦争、対日戦に勝利したアメリカが、勝利しても尚心の奥底で恐れていたことは、「日本はいつか反撃してくるのではないか」という恐怖心であった。

その恐怖心があったればこそ、日本占領の最高責任者としてのマッカアサー元帥は、日本の憲法の中に戦争放棄の条項を盛り込んだわけである。

しかし、それをしたからといって、それで彼らは安心していたわけではない。

彼らは、あの占領下の憲法など、独立の暁にはきっと改正されるので、暫定的なものだと認識していたのである。

世界の常識としてはそれが普通である。

アメリカとしては「何時か、日本は必ず報復してくるに違いない」という恐怖心にさいなまれていたのである。

そうさせないためには、日本の超国家主義というものを徹底的に暴かなければならないと思って、その手法として民主化ということをしたわけである。

日本民族の潜在意識としての自己犠牲の精神を根底から骨抜きにして、日本人が再び西洋キリスト教文化圏に対して攻撃を仕掛ける意欲を削ぐことに邁進したのである。

民主化という事は、日本古来の旧秩序の破壊に他ならないわけで、それは共産主義の革命の助走の段階と瓜二つであった。

このアメリカ占領軍が進める民主化運動と、共産主義のいう革命の前哨戦としての旧秩序の破壊が軌を一つにしてしまって、双方の利害が完全に一致したのである。

日本共産党はGHQによって日本の官憲から解放されたとき、牢屋から出されるとすぐに旧秩序の破壊ということをしでかして、「朕はたらふく食っている」などと叫びだしたので、再度、今度はGHQの取り締まりに合ったわけである。

ところが基本的にGHQの進める民主化というのは、共産主義の旧秩序の破壊と平行線を辿っていたわけで、共産党側からすれば、彼らの狙いをGHQがホローしてくれているようなものであった。

ところがここでも日本共産党というのは、先に日本の軍部がアメリカの本音を見間違ったのと同じ轍を踏んで、アメリカの本質を見間違ったわけである。

アメリカはアメリカの国益を鑑みて、天皇陛下を占領政策の遂行に利用しようと考えていたにもかかわらず、「天皇制反対」を叫びだしたので、アメリカも共産党に関与せざるをえなくなってしまった。

ここに日本人の組織というものが、旧軍隊であろうが、日本共産党であろうが、同じ本質で貫かれており、我が民族に潜在的に刷り込まれた特質は、思想・信条がいくら違って見えたとしても変わるものではない、ということが如実に現れている。

58年前のGHQによってなされた日本の民主化の狙いというのは、日本が再びアメリカに対して報復をしないようにする手段であり、手法であったわけである。

その結果として、我々は相手からぶたれても、決して反撃しない習い性を見事に育て上げてしまった。

そのことは、民族の誇りも、自尊心も、愛国心も、何もかも失ってしまって、ただ口から食って、糞して寝るだけの動物に成り下がったということである。

当然、恥じも外聞もなく、ただ生物学的に生を維持しさえすれば、それだけで満足する動物になってしまったということである。

相手から侮辱されても、へらへらと笑って揉み手をし、お追従笑いでその場をしのぐ、という不甲斐ない処世術を身に付けた国民になってしまったわけである。

戦勝国が押し付けた憲法を変えると、なぜ軍国主義になるのか、まことに不可解な論理であるが、それで58年間も過ごしてきてしまったではないか。

これが旧日本社会党の党是であったが、今になると、58年間もそれでこれたのだから、今更変えなくてもいいではないか、という論理になってしまっている。

自分たちがアメリカに負けた、ということすら忘れかけている。

このことはアメリカの対日占領政策が100%完全に成功しているということである。

アメリカは日本という国を戦争する前から研究していたわけで、その結果として、戦争に勝つノウハウを得、決して報復させないような思想改造、潜在意識の改造にも成功したわけである。

このアメリカの成功は、世界にとっても非常に有益なことで、だからこそ中華人民共和国も日米安保条約というものを容認しているわけである。

日本が東太平洋で、再び大東亜共栄圏のようなブロック経済を築こうとしないという事は、キリスト教文化圏からすれば、これほどありがたいことはないわけで、日本の弱体化という事は、それだけで世界に貢献しているということでもある。

ところが世界はキリスト教文化圏ばかりではないかわけで、イスラム文化圏からすれば、約60年前に日本が世界を敵として戦ったことは、彼らの目から見ると素晴らしいことで、彼らにも大きな自信を与えたに違いない。

アメリカの同時多発テロも、日本の特攻機がヒントになっているし、アラブ系の人々の自爆テロも、我々の自己犠牲の精神を参考にした行為だと思う。

だから彼らにして見れば、日本がもっともっと世界に対して発言権を持ってもらいたいと思っているに違いない。

彼らから日本を見ると、白人の、つまり西洋キリスト教文化に正面から戦いを挑んだ勇猛果敢な民族と映っているに違いない。

イスラム原理主義というのは、かっての日本の超ウルトラ国家主義とよく似た構図ではなかろうか。

日本を奈落の底に落としたのは、この超ウルトラ国家主義であったが、戦後の日本の知識人でも、この超ウルトラ国家主義というものを克明に研究した人はいないのではないかと思う。

戦後間もないころ、昭和21年に東大の丸山眞男が雑誌「世界」に寄稿した論文がある。

「超国家主義の論理と心理」という題で、これを今読み返してもさっぱり要領を得ない。

読み手の私が凡俗だから、東大の先生の書いたものが理解できない、と言ってしまえば身も蓋もないが、学問というものは誰にでも判るように説明しなければ学問足りえないのではないかと思う。

象牙の塔の中で、学者たちの仲間同士で理解しあっていても、学問としての進歩はありえないのではないかと思う。

少なくとも雑誌に論文を載せる以上は、読み手に判るように書くべきではなかろうか。

明治維新以降の日本の学問のあり方が、こういう状態で継続してきたので、大学というものが社会の進化に何の貢献も出来ていなかったのではないかと思う。

明治維新以降、大正、昭和の初期の時期において、少なくとも国立大学、帝国大学の教授連中にはデモクラシーの本質という事はわかっていたに違いない。

ところがそれを大学側が国民に対して公開することもなく、蔵の中にしまいこんで、自分たちだけで、言葉遊びに興じていたので、軍部の独断専横を抑制することができなかったのではないかと思う。

大学の先生が、研究室で世界の思想、宗教、哲学等を研究して、それを一般社会に向かって披瀝すると言うことが果たして正しことなのかそうでないかは難しい問題である。

ところが戦後は、それが普通の状態になってしまって、それは戦前の反省からというより、共産主義の実践という視点からの自主的な成り行きではなかったかと思う。

大正から昭和の初期にかけて、大学の先生方がデモクラシーというものをよく研究していれば、明治憲法との乖離は必然的にわかったに違いない。

我々の日本の近代化の過程をよくよく見て見ると、明治憲法が存在する限り、我々の軍隊というのは、どこまで掘り下げても天皇の軍隊である。

そこにはシべリアン・コントロールという概念は全く存在していないわけで、当時の軍隊は、日本国民を守る義務というのは最初から存在していなかった。

大学で法学とか政治学、経済学を研究している教授連中が、そのことに全く気がつかなかったという事はありえないと思う。

戦前の日本では確かに軍人が跋扈していたことは否めない。

それは明治憲法に依拠していた。

しかし、帝国大学の教授という立場からすれば、軍人の行き過ぎた専横にセーブを懸けることは可能であったものと思う。

けれども、象牙の塔に立てこもって、社会の動きに無関心を決め込めば、それはありえないわけで、それを「学の独立」という言い方で、責任を回避していたのではないかと思う。学者と言えども、自分の信じることに対しては戦わなければならない。

戦後の大学では、共産主義者の大学教授が、当局側と果敢に戦ったではないか。

だから大学教授だとて、世間を敵に回して果敢に戦うという事は可能なはずであった。

戦前の大学教授は、それをしなかったわけで、軍人のサーベルが怖くて沈黙を決め込んでいたわけである。

戦前の超国家主義というのは、明治憲法を拡大解釈することによって成り立っていたわけで、丸山真男はその部分を究明したつもりであろうが、何しろ内容が小難しくて、私では理解しきれない。

学者ならば、もっと普通の人にもわかるように書いてもらわなければ困る。

明治憲法の下では、我々は超国家主義になるものを避けられない運命であったわけで、大学の使命というのは、そういうことに対して警告を与える役目もあったのではないかと思う。

学者同士が、小難しい言葉をもてあそんで、挙句の果てが仲間内の苛めに終わるような図式ではならないと思う。

戦後でも、GHQから押し付けられた憲法を変更すると軍国主義に舞い戻る、というような陳腐な議論を率先して打破する方向に動かなければならないと思う。

明治憲法も出来た当初、つまり明治の中期には有効に機能していたことはいうまでもない。ところが時代が推移して、対外戦争で勝利し、植民地を維持しなければならない状況になると、必然的に軍備も増大してくるわけで、そういう時代状況に上手くマッチするように常に改定できるようにしておかなければならなかったわけである。

ところが明治憲法というのは、そういう機能がなかったものだから、枝葉末節の部分が過大に肥大化して、ウルトラ国家主義となってしまったわけである。

大学というものが国民に対してもっと建設的で、実利的な政策を提言する機能を持てば、日本はもう少し変わった発展の仕方をしたのではないかと思う。

そうはいうものの、戦後の日本の大学というのは、常に政府に対して抵抗勢力としての存在でしかないので、次の世代を担う若者は、何を信じていいのかわからないのも無理ないと思う。

自分たちの大学の先生が、自分たちの政府の悪口を言い、批判ばかりして、非協力的な姿ばかりを見れば、学生はどちらを信じていいのか判らないのも無理ないと思う。

 

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