人間の愚行  2003・06・06

人間の愚行

 

中東紛争の本質

 

平成15年6月6日、朝起きたらさわやかな天気だったので、新聞受けから新聞を取ってテラスでコーヒーを飲みながら読んでいた。

前日のテレビ・ニューズでは、パレスチナ・イスラエル紛争がアメリカのブッシュ大統領の仲介で、双方が合意に達して紛争に終止符が打たれるかに見えた。

それで、その記事を探したが、あるにはあったが小さな扱いになっていた。

7面の国際欄に載るには載っていたが掘り下げた記事ではなかった。

6月4日アメリカのブッシュ大統領はG8の会議を中座する形で、ヨルダンのアカバに飛び、イスラエルのシャロン首相と、パレスチナ自治政府のアッバス首相と、首脳会談を開いて停戦の合意を取り付けた。

アカバという地名を聞くと、どうしても「アラビアのローレンス」を思い出さずにはおれない。

ということは、必然的にべドウインのことを連想してしまう。

この中近東を舞台とした映画ではもう一つ「風とライオン」という作品があるが、こちらはあまり話題になってはいないようだ。

尤も、こちらはアフリカのモロッコあたりが舞台だからかもしれない。

これらの作品に登場している現地の人々というのは、基本的にべドウインと称せられる人々で、それはアメリカ西部劇に出てくるインデアンと同じとみなしていいと思う。

インデアンという言い方は今はネイテイブ・アメリカンというようになってきたが、いくら呼称を変えたところで本質が変わるものではない。

べドウインにしろ、ネイテイブ・アメリカンにしろ、西洋近代文明というものに対する順応が不十分というか、下手というか、それがためその事が今日の中東地域の不安定さに繋がっていると思う。

そのアカバで、ブッシュ大統領が抗争の双方をテーブルに付かせ、ある程度の合意を達成したということは彼の大きな功績だと思う。

交渉事というのは、自分の言い分を一方的にごり押しするだけではまとまらないわけで、飲める条件は妥協する気持ちがないことには、どこまで行っても平行線のままで終わるわけである。

イスラエルとアラブ諸国の確執というのは、我々、日本人にはいささか理解しがたいものがあって、はるか遠い国の出来事という無関心さがあることは否めないと思う。

正直言ってよくわからない。

なぜイスラエルがあれほど強行にあり続けるのか、なぜパレスチナ人の自爆テロが続くのか、理解に苦しむ面がある。

我々が知っている事といえば、第2次世界大戦後ユダヤ人があの地にイスラエルという国を作って、それが周辺の回教徒の人々、イスラム教徒の人々と摩擦を引き起こしている、というぐらいの認識しかなかった。

 

認識のズレ

 

中東紛争の本質はこの認識で間違っていないと思うが、問題は、なぜここで双方のいがみ合いが継続しているのかということだと思う。

もともとユダヤ人というのは自分の国というものをもたない民族であったが、それがこの中東で国を作るということは、今まである土地に新しいユダヤ人の主権を確立するスペース、つまり土地というものを分け与えなければならなかったわけで、そこにもともと住んでいた人たちからすれば、自分の土地をユダヤ人に取られたという認識を持つのも致し方ない。

そしてユダヤ人というのは、過去に自分の国がなかったが故に、確実に自己の定住する土地を確保したからには、その土地を手放すまいとする意志は強固で、民族の結束が非常に固くなり、その上近代文明には容易に順応する柔軟性があったわけで、戦争となれば断然強く、周辺のアラブ民族を完全に凌駕していたわけである。

正面からの武力衝突では勝ち目がないので、パレスチナ側はテロという手段に頼らざるをえなかったわけである。

イスラエルとパレスチナの合意というのは過去にも何度かあったが、合意の回数だけ破綻があったわけである。

そして今回の合意でも、どこまで守られるかは不透明なままで、それゆえ私が駄文を呈する気になったわけである。

今回の合意はパレスチナ側はイスラエルに対する武力行使、テロ行為を止める、と言っているし、イスラエル側も、イスラエル人の違法な入植地から撤退するといっている。

双方の紛争を止める最も整合性のある約束であるが、これは双方にとって首脳同士の話し合いなわけで、双方の国民は、この合意を素直に歓迎しているわけではない。

ここが人類の集団が抱える最大の問題点なわけである。

主権国家の国家首脳が戦争を止めようと思っても、その国民のほうは戦争を望んでいるわけである。

この現実を憲法で戦争放棄している我々はどうのように考えればいいのであろう。

イスラエルとアラブ諸国パレスチナとは長い間、血で血を洗う抗争を繰り広げてきた。

それを双方の国家を代表する首脳が「こんなバカなこと何時までも続けることはもう止めましょう」といって合意に達しても、双方の国民は、その首脳の意を汲むことなく、戦争をやりたがっているわけである。

この現実を戦後の日本の進歩的知識人はどのように考えているのであろう。

今の革新系と称せられている識者は、どのように考えるのであろう。

イスラエルにしろ、パレスチナ側にしろ、血で血を洗う抗争を繰り広げているのは他ならぬ国民の側で、その犠牲も国民であり、何の罪もない民衆であるにも関わらず、尚もそれを継続しようというのが、これまた統治される側の民衆である。

あらゆる主権国家で、政府と国民、ないしは当局と民衆、統治する側とされる側という持ち場立場の違いというのは解消することはありえない。

複数の人間を一つの国民としてまとめて行くには、必然的に管理を委託する人というものを好むとこのまざると選別しなければならない。

国民全員が同じ発言権で発言するということは、物理的に不可能なことで、どうしても意見の集約をして多数の意見を具現化するという役目の人、役割を担う人、それを取りまとめる人達というのは必要なわけで、それが政府と云われ、当局と云われるものである。

この付託を受けた人々は、基本的に自分の国の人々の最大幸福を目指すことに努めているわけであるが、ここで統治する側とされる側で見解の相違が潜むことになるわけである。イスラエルのシャロン首相も、パレスチナ自治政府のアッバス首相も、それぞれ自国の国民にとって最良の選択だと考えたからこそ、この和平合意を締結したわけである。

ところが、それぞれの国民は、それぞれの国家首脳の判断と考え方を容認することなく、それぞれが自国の国家首脳に反発を露にしているわけである。

ぶっちゃけて言えば、イスラエル国民もパレスチナ側も、共に統治される側は、それぞれに戦争をしたがっているわけである。

これを平和日本の飽食の民としてはどう考えたらいいのであろう。

私は、これはべドウインとしての長年の歴史がそうさせていると思う。

 

同胞を説得する困難さ

 

この地球上にはいくつの民族的種族があるのか知らないが、アメリカのネイテイブ・アメリカンと称する人々がいるように、アジアにはチベットをはじめとして中国には50以上の民族がいるとされている。

台湾の高砂族、日本の大和民族とアイヌ民族、等々、数々の民族があるわけであるが、そういう捉え方で見た場合、パレスチナ、アラブにも様々な民族があるものと思う。

近代国家というのは必ずしも一つの民族が一つのまとまった主権国家を作っているわけではない。

一つの主権国家は数々の民族を内包しているわけで、その中では当然指導力に長けた部族が国家を支配するというのは人間のあり方として当然の成り行きだと思う。

そして国家の首脳というのは、王侯制であろうとなかろうと、国民から羅ばれた間接民主主義の首脳あろうと、どうしてもその国の国民の利益代表という形にならざるを得ない。

国家首脳が自分の国に忠実たらんと欲すれば、出来るだけ大多数の国民に対して利益還元をしなければならないわけである。

しかし、それは全国民を納得させるものではないわけで、大多数の人が納得しても、納得しきれない人、つまり利益に預かれない人、網から零れ落ちる人というのは必ず出てくるわけである。

それで首脳同士が「もうこんなバカな諍いは止めましょう」と云って停戦しようとしても、それに納得できない人もいるわけである。

これはいわば政府首脳と国民との意識の乖離であるが、統治する側としては、その志の違う同胞を抹殺するわけにはいかないので、その違う意見を懐柔するのは、統治する側ではなく、その国の国民の側、民衆の側、つまり統治される側でなければならないと思う。

主権国家の統治システムというのは如何なる体制でもピラミッド型の形態を取っていると思うが、その中間層以下がその下部にたいして首脳の意向を説明して、納豆するように説得しなければならない。

ところが、これが上手く機能しないのはどこの国でも同じだろうと思う。

その役割を果たすのが、本当はマスコミの重大な使命だと思うが、マスコミ業界であそのことを自覚しているものは少ないに違いない。

マスコミはいきなり体制批判、首脳部批判をして、同胞を説得するということを回避してしまう。

それは人を批判することは安易な行為だが、説得する行為というのは非常に難しいことだから常に安易な方向に流れるわけである。

なぜこのことを私が思いついたかというと、この合意の成立した翌日には、すでにイスラエルでは自分達が占領した地域からの撤退に反対するデモが起きているからである、

またパレスチナ側では、テロ組織「ハマス」が「イスラエルが占領している限りテロを止めない」と声明を出しているわけで、双方の首脳同士が合意したことを壊すような動きがあるからである。

ここの国家を統治する側とされる側の意識の乖離が見られるわけで、我々、日本人の意識からすれば、血で血を洗う抗争など一刻も早く止めればよさそうに思うが、それを継続しようという意志を持った国民、民衆というものがこの世のこの地に存在するわけである。

過去にもパレスチナ暫定自治政府のアラファト議長というのは何度もテロ撲滅ということを宣言し、国民にも呼びかけたにもかかわらず、「ハマス」イスラム原理主義者というのは彼のいうことを全く聞かなかったわけである。

そして、この「ハマス」というテロ集団の発言権がパレスチナでは結構力を持っているわけで、ここにべドウインの本質を見ることが出来ると思う。

 

べドウインの本質

 

この中東という地域、アフリカ大陸の北部からアジア大陸への回廊となっているこの部分は、地勢的に見て砂漠しかないわけで、農耕というものが成り立っていない。

ここで生を受けた人々は、自分たちで協力し合って農業を営むということが出来ないので、遊牧生活をせざるを得なかったわけである。

遊牧生活ということは、ある意味で人のものを掠め取ることが前提として成り立っていると思う。

物を作ることが出来ない以上、あるものを掠め取ることしか生きられないわけで、人からものを掠め取るには、戦略と戦術が必要なわけで、それは常に精神的には戦争状態にあるということである。

戦争状態が恒常的だとすれば、それがない時は窒息してしまうわけで、それが今日のパレスチナの人々の深層心理だと思う。

彼らにしてみれば、戦争は悪ではなく、生きる指針となっているわけで、平和なときには彼らの精神にストレスを嵩じ、病んでしまうわけである。

それが遊牧民としての深層心理にあり、常に戦争状態という緊張の中にいなければならないわけである。

そこにマホメットいう回教は、従来の伝統を重んじることを説いているわけで、そういう深層心理から脱却すること、意識改革をすることを禁じているのだから、平和の常態が「良き物」という意識改革が成り立たないわけである。

彼らの意識が大昔のままであったとしても、近代文明というのはどんどん彼らの周辺にも忍び寄るわけで、便利なものは誰が見ても便利なわけで、それはちゃっかり借用するわけである。

大儀を、自分の都合に合わせて都合よく解釈するということで、これは人たるもの誰しも同じことをしているので、彼らだけを責めるわけにはいかないが、自分の都合の悪いところは頑なに拒否するという部分に近代文明に乗り遅れる要因があったと思う。

今の地球上には近代化に乗り遅れた人々が沢山いて、それを低開発国だとか、開発途上国だとか、または南北問題という言い方をしているが、これは先進国側の傲慢な思考だと思う。

人間は有史以来同じ時間を共有しているわけで、その中でアメリカのような超大国と、アフリカの諸国のように小さな国が存在するということは、伝統的な生き方に価値を置くか、川の流れのように流動的な価値観の変遷の渦の中に身をおくかの違いで、こういう現実が生まれていると思う。

我々は西洋近代文明というものに価値を見出しているので、その観点から、こういう伝統的な価値に束縛された人々を眺めており、そういう人々を我々のレベルまで引き上げなければならないと思っている。

これは文明人の思い上がりだと思う。

かっての日本の植民地支配も、この範疇に入っているが、戦後、その価値観が逆転してしまったものだから、その理念が「悪行」となってしまったわけである。

我々は静かに彼らの伝統を見守っていればいいわけだが、そこで彼らも自らの伝統をきちんと守り通していれば問題ないが、自分たちの価値観と合致しない人々、つまり文明国を「悪」と認定しようとするからテロが止まないわけである。

パレスチナ人のイスラエルに対する自爆テロというのにはこういう背景があるのではないかと勝手に想像している。

 

国民の総意としての大儀

 

とはいうものの、双方の統治される側の心境というのは、人間の基本的なありようだと思う。

いわば人としての本能丸出しのあり方だと思う。

人が原始の人間に成り代われるとすれば、それは幸せだという思い込みがあるが、これは大いに間違っている。

人間が真に原始のままの人間に回帰するとすれば、良い面だけを見るのではなく、汚い面も素直に受け入れるべきであると思う。

イスラエルの国民が占領地からの撤退に反対するというのは、基本的に人間の汚い部分の赤裸々な表れだと思う。

我々も過去にこれと同じパターンを踏襲したではないか。

血を流して取った領土というものを、そうそう安易に返還すべきではない、というのは人間の基本的本質だと思う。

過去の我々が、アメリカと戦いをしなければならなくなった原因がこれではなかったか。旧ソビエット連邦、現ロシアが、未だに北方4島を返還しないのもこれに尽きると思う。自分達が血を流して獲得した領土を、みすみす相手に渡してなるものか、それでは何のために血を流して戦ったのか、という思いはその国の人間にとって、統治するものもされるものも同じだと思う。

ところがここで統治する側というのは、自分の国を大局的な見地から見て、その上将来的な見地からも、自国の国益というものを考えなければならないわけで、「小異を捨て大道に就く」という選択をしなければならないことが往々にある。

これはどこの国の首脳でも同じだと思う。

ところが国民、民衆の側というのは、自分の国の大局的なこと、将来的なことよりも、目の前の自己の利益を損ないたくないという現実問題との葛藤があるわけで、ここに統治する側とされる側で利害が相反するわけである。

イスラエルとパレスチナの問題でも、血で血を洗う抗争が長々と続いても尚人々はその泥沼から足を洗おうとしないのである。

我々から見ると実にくだらない愚行の連鎖であるが、その愚行さに彼ら自身気がついていないわけである。

血で血を洗う抗争を我々は愚行と称して対岸の火事として傍観しておれるが、それを愚行と認識するという意味では、我々は一歩文明化したといえる。

人間の英知というのは、人間の持つ基本的本能、動物のもつ基本的本質から一歩でも二歩でも遠ざかることではないかと思う。

我々の唱えている平和主義というのは、この中近東の人々、イスラエルやパレスチナの人々からは考えられないほどのかけ離れた思考ではないかと思う。

我々は第2次世界大戦後58年間も対外的な戦争というものをせずにこれた、ということは我々の努力もさることながら、多分に周囲の状況に恵まれていたということも言える。

というのは、我々は周囲を海で囲まれているので、自己完結的に国家の存立が可能であったからである。

それをなさしめたのは世界が自由貿易体制をとっていたので、自国の不足分は自由に世界の各地から買うことが出来たという意味で、自己完結的に生きてこれたというわけである。四周を海で囲まれていたということは、陸続きの国境線がないということで、これは平和維持には大きな要因となっていると思う。

イスラエルの場合、自国民が勝手にアラブ側の土地に入って畑を作ってしまったわけで、それはもともと農地が少ないというイスラエルのおかれた自然条件なるが故に、イスラエル側から自国民を強制的に自国に引きもどすこともできなかったわけである。

違法に進出した人々も、違法なるがゆえに自らの身を守るために武装しているわけで、パレスチナ側も話し合では相手がいうとおりになってくれないので、必然的に武力でことの解決を図ろうとしたわけである。

この構図は日本が1946年にアメリカと交戦に踏み切ったときの構図と全く同じではないか。我々も生きんがために中国大陸に進出したわけだが、それをアメリカは自分たちが中国進出するための門戸開放を阻害するものだと思い、日本が中国から兵を撤退させることを要求してきたわけである。

これを日本の中国侵略と見るのは、あまりにも自虐的発想だと思う。

先に人間の本能的行動、人間の生物学的な潜在意識から遠ざかることが文明化だと述べたが、我々が生きんがために、その生息領域をアメーバー的に拡大することを、侵略と取るか進出と取るかで、その文明度の意識が測れると思う。

ここで問題となることは、国家の首脳というのは国益を代弁しているわけであるが、相手と「諍いを起こしたくない」「諍いを止めよう」と、国家首脳が考えたとしても、統治される側の国民、民衆の側がそれに納得しないという状況をどう考えるかである。

今回のイスラエルとパレスチナ自治政府との停戦合意がそれである。

自らの強権力でそれを押さえ込もうとすれば、自国民の希望に応えられなくなるわけで、当然、そうさせてはならじという抵抗勢力が勃興して内輪もめになってしまうし、現状維持ならば何時までたっても血で血を洗う抗争に終止符が打たれないわけで、これは外交問題と同時に国内問題でもあるわけである。

日本が、かってアメリカから中国からの撤兵を迫られたときも全くこれと同じであったわけで、そういう状況下で我々の側の国民の願望としては、「中国からの撤兵は罷りならぬ」ということであったわけである。

戦後の知識人は、このときの日本の政府首脳や軍人達を、自分たちとは違う人種かのような言い方をしているが、日本を奈落の底に突き落とした政府首脳や軍人達というのも、紛れもなく我々の同胞であり、我々の父や祖父やお兄さん達であったに違いない。

当時の政治家も当時の軍人も、その構成要員は基本的に日本の一般大衆から出来上がっていたわけで、その当時の日本人にとっては、中国、つまり満州というのは、大日本帝国の生命線であったわけである。

満州なくして日本の将来はありえないと、大部分の日本人、同胞は考えていたわけである。

戦後の日本の文化人、特に左翼系の人々は、そう思っていたのは当時の政治家と軍人だけと断定して、一般国民はそんなことを考えてはおらず、平和を希求していた、と思い込んでいるが、これは明らかに本人にとって都合のいい思い込みで、当時といえども政治家も軍人も、一般大衆の希望、願望というものを汲み取り、具現化していたのである。

総体的には、そういう国民のもやもやとした総意が国家の大儀となっていたわけで、そこには個人的な私利私欲よりも、日本国民全体の利益を優先するという思いがあったと思う。

日本が中国から素直に撤兵できなかったのは、そこに日本民族の潜在的な願望と希望と将来に対する夢があったからだと思う。

その上、自分たちが過去に日清・日露の戦いで血を流して得たものなるが故に、そう安易に手離してなるものかという思い込みがあったことも事実であろうが、国土の狭い我々にとって、あの地は夢の大地であったことは当事の日本国民の総意であったと思う。

しかし、アメリカと交渉しているのが日本の大衆ではなくて、全権を委任された政府首脳賞あったわけで、彼らはその日本の国益というものを無にするわけにはいかなかった。

 

官僚の悪弊

 

この時代を私なりによくよく見てみると、当時の日本の政治というのは、普通の国民と軍部と政府という三つ巴の関係で成り立っていたと思う。

その中で軍部というものが大きく政治の領域に嘴を差し挟んだことが、日本が奈落の底に転がり落ちた最大の原因ではないかと思う。

なぜ軍部が政治に嘴を差し挟むようになったかといえば、やはりそれは我々が政治というもに非常に未熟であったためだと思う。

政治家というものの政治が、政治の体をなしていなかったからだと思う。

村の寄り合いに毛の生えた程度の政治をしていたものだから、その現状を憂いた軍部が政治家になりかわろうとしたものと思う。

ところが軍部の中にも色々な階層があって、清廉潔白な人ばかりではなく、非常に人間味のある汚い人間、権勢欲の権化のような醜い人間も数多くいたわけで、それは軍部というものを構成している中身の人間、軍隊というものを構成している出身母体が貧困階層で、心の清らかさに欠けていたからだと思う。

だからこそ当時の日本国民の総意として、貧困からの脱出というものに恋焦がれた結果として、大陸への進出と、一旦出からにはそこから撤退することが容認できなかったものと推測する。

人の嫌がる軍隊に自ら進んで入ってきた者が、その中に身をおくと、今度はそれが官僚組織として機能してしまって、視点が自らの枠の内側にだけしか向かなかったわけである。

素性の卑しい賤民が、国家機関の軍人養成所を出ると、ピッカピカの将来を嘱望された国家要員となるわけで、それは悪貨を奇麗に洗い落とすマネーロンダリングと同じであったわけである。

もともと根性の卑しい人々が、たった一度の試験を通ると、科挙の試験と同じで、将来が完全にばら色になったわけである。

人間の本質というのは教育では変わらないものと思う。

もともと卑しい賎民が、たった一度の選抜試験で人もうらやむ軍人養成所で立派な教育を受けたとしても、その教育が人間の本質としての心の卑しさというものをいくらも改善できなかったではないか。

これは今でも生きているわけで、現在、企業なり官僚なりあらゆる組織のトップにいる人は、そのことごとくが東大を頂点とする高等教育を受けているにもかかわらず、社会的不祥事が多発しているではないか。

これは高等教育の効果というものが、社会的なモラルの向上に全く貢献していないということに他ならない。

これと同じで、一旦軍官僚となれば、それから先の生涯というのは、出世街道をまっしぐらに登りつめ、上がれば上がるほど保身に身をやつすわけで、他の人々のことは眼中になく、自己の栄達だけしか視野にない人間となってしまったわけである。

保身とか、自己の栄達というような露骨な自己利益をカモフラージュするために、天皇の権威を借用したわけである。

自分に不都合なことはすべて「天皇のおんため」といって通したわけである。

今、低迷をかこっている金融界というのも、この昔の大日本帝国軍隊と同じ轍を踏んでいると思う。

「銀行は民間ではないか」という反論が聞こえてきそうであるが、少し前のメガバンクというのは、護送船団方式て、全部ひっくるめて官僚システムになっていたではないか。

官僚システムのいけないところは、視野、視点が内側に向いていることだと思う。

自己保存、自己完結的な思考しかないわけで、自分たちはサービス業だ、という基本的なスタンス、意識を全く持っていないということだと思う。

製造業では同業他社よりも如何に安く、如何に良いものを、如何に早く作ろうかと、日夜研究して、切磋琢磨して、試行錯誤を繰り返し、試練を乗り越え今日まで来たが、銀行は横一線で、どこも同じ金利で同じような担保で競争原理が機能していなかったではないか。元の大蔵省の規制が厳しかったというのは言い訳に過ぎず、それが元軍人が「天皇のため」という言い方で自己保存にきゅうきゅうしていた姿と同じではないかと思う。

何かといえば大蔵省に責任を転嫁するポーズが、旧軍部が二言目には天皇の御旗を振り回す構図と全く同じではないか。

官僚、軍官僚というのは一切競争のない世界で、自己完結的な集団であり、本来ならば国民に奉仕すべきところを勘違いして、自らの自己増殖に現を抜かしている。

二言目には天皇の御旗を振り回して、そこに逃げ込むわけである。

 

我々の政治下手

 

昭和15年2月に斉藤隆夫という議員が国会でシナ事変処理に関する質問演説ということをしている。

これが皇軍を批判したとして彼は除名処分を受けている。

その全文をインターネットで見ることが出来るが、彼は決して軍を批判しているわけではない、

にもかかわらず彼を除名したということは、当時の国会議員の全部が、軍というものに媚を売っていたわけである。

政治家が軍に対して媚を売ったものだから、軍全体として「裸の王様」になってしまって、理性的な判断力というものを失ってしまったわけである。

政治家という種族が、戦前は軍に媚を売り、戦後は銀行に媚を売った結果が今の低迷した経済ということだと思う。

媚を売られたほうは、自分の理性、自分の頭脳でものを考えるということをせず、担がれたみこしに胡坐をかいていたものだから、何時かは転がり落ちることになるわけである。

こういう者を、論理的に整合性を持った、筋の通った議論で諭してリードするのが本当の政治というものであろうが、当時の明治憲法下ではシビリアン・コントロールという概念が不備なところにもってきて、政治を遂行すべき政治家というのが、これまた不甲斐ないので、リードすべき立場が逆にリードされてしまったわけである。

国家の首脳というのは、国益というものを最大限推し進めなければならないわけであるが、それには当然のこととして、自国内にも利害得失に絡んで抵抗精力があるわけで、有能な政府首脳というのは、その抵抗勢力というものを上手く懐柔し、騙し、飴と鞭を使い分け国論を二分することなく自己の論陣に収斂する。

我々が対米戦に嵌まり込んでしまった過程では、この政府の機能がきちんとしていたにもかかわらず、そこを軍人たちに掠め取られてしまっていたものだから、否応なく蟻地獄に転がり落ちたわけである。

今、ことあるごとにアジアの人々が日本の植民地支配を糾弾する風潮が姦しいが、これをきちんと相手に説明するのも、政治の大きな役割であるが、政治・外交というのは相手があるわけで、相手がこちらの言い分を聞く耳を持たない限り、テーブルにもつけないわけである。

しかし、相手がこちら側を糾弾するのはまだ理解できる。

だが、こちら側から相手の言い分にエールを送るというのは理解しがたい行為である。

相手の言い分を鵜呑みにするというのは、その人自身が、自分たちの過去の歴史、日本のしてきた事を、十分知らないということを露呈していると思う。

人間のする行為に対しては、色々な見方が出来るわけで、道路に一本棒を立てただけでも、邪魔だという人もいれば、目印になって都合がいいという人もいれば、侵略の意図があると思う人もいるし、降伏のしるしだととる人もいるわけで、事ほど左様に見方とか、解釈というのは違っているわけである。

それを相手のいうことだけまともに受け取って、自国を糾弾するというのは物を知らない人のすることだと思う。

 

未来志向の日韓関係

 

韓国の新しい大統領ノムヒョン氏が平成15年6月6日に来日した。

この時、日韓双方で過去の歴史には触れず、未来志向で共同声明を発表したが、これは非常に結構なことだと思う。

「歴史から学ぶ」ということはこういうことだと思う。

言葉の揚げ足取りやら、言葉の解釈をめぐって不毛の論議を何時までもすべきではないと思う。

それは何も過去の歴史を葬り去るということではなく、歴史は歴史としてきちんとすべきであるが、それを国政の場とか外交の場に引きずり出すべきではないと思う。

そして歴史というのは双方で同じということはありえないわけで、日本と朝鮮半島では双方にそれぞれに歴史があるわけで、これを同一の見解にたって考えようとするからギクシャクとするわけである。

1945年8月の広島と長崎の2発の原爆投下でも、我々は被害者意識で「あれを忘れてはならない」と言っているが、アメリカではあれを戦勝の記念として忘れられない日となっているわけで、これを何時までも「罪もない人々を殺したのだから謝れ」といっていては前に進めない。

だから韓国には韓国としての歴史的見解があるわけで、それは我々の見解とは当然違って当たり前である。

韓国から見て、自分達が植民地支配うけて非常に苦労したという韓国人がいるのは当然のことで、それを日本人が「韓国に苦労をかけた」というのは、自分の軸足を韓国側にあづけた見解である。

我々は酒池肉林に耽って、朝鮮人だけにきつい使役をしいたわけではない。

大東亜共栄圏というブロック経済圏を確立しようという大儀の中で、日本は血みどろの努力をしていたわけで、その過程で朝鮮の人々に良かれとおもってした政策が、価値観が変わったからといって「悪行」とするのはいささか思い上がった思考だと思う。

私が常づね思うことは、こういう状況下で、自分の国を卑下したものの考え方をする人がいるということである。

日本人でありながら、自分たちの先輩諸氏が、朝鮮人に対して彼らを抑圧した、と公言して止まない人がいるということである。

歴史の流れというものを故意に歪曲して、自分の国が「悪の枢軸」とでも思い込んでいるような邦人の存在である。

かって旧社会党の浅沼稲二郎という政治家は、中国に行って、「アメリカは日中共同の敵だ」と発言して、帰国後右翼の少年に刺されて死んでしまったが、野党の政治家として、どうしてこういう発想に至るのであろう。

この発想の延長線上に、土井たか子氏の発想もあるわけで、政治的なポーズとしても、あまりにもひどいではないか。

日本と朝鮮の関係は太古から一衣帯水の関係であり、切っても切れないはずである。

にもかかわらず、国家主権という近代の概念に縛られると、もう壁が立ちはだかってしまうというのは双方にとって良い事ではない。

統治する側、政治家と称する主権国家の首脳というのは、あくまでも自国の国益というものを念頭に発言しなければならないが、その国益というものの中身は、その国の国民の間でも利害得失によって比重の相違や、軽重の度合いが違っているわけである。

そういうものを考慮に入れた上で、尚国民全体の国益ということを考えなければならないわけである。

中国や韓国が未だに日本の過去に固執するのは、それが外交のカードとなっているからである。

真偽の程を脇におしやったまま、そのカードを使えば日本側から何らかのアクションを引き出せる、というという下心のもとで彼らはそのカードを使っているのである。

相手方がそのカードを未だに使っているということを、我々はもう一つ別な視点から考察しなければならない。

それは自分たちの経験を語り継ぐということである。

中国でも韓国でも、彼らが日本人からされたことを、古老ばかりではなく、国家主導のもとで若い世代に語りついできている。

教育として反日があるわけである。

この歴史を語り継ぐとき、自ら都合の悪いことは故意に語らず、自分が如何にひどい仕打ちを受けたか、ということを誇大に語りつぐ心境というのは人間の本質として理解しえるものである。

自分が如何にひどいことをされ、それに自分は如何に耐え、艱難辛苦をものともせず頑張ってきたか、ということを後世に語り継ぐわけである。

もともと異民族同士という嫌悪感は最初からあるわけで、加害者の方は誇大に宣伝され、被害者の方は被害妄想の極致として語られるわけで、それを聴いた世代はますます反日、嫌日になってしまうわけである。

それに反し、我々の側は自分のしてきたことに口をつぐんでしまって何も語らないので、日本の若い世代はその時代のことを何も知らないという状況になっている。

我々の側の教育は、旧の日本政府の悪行を暴くというニュアンスで、相手の国益に沿った負の業績にだけ視線が行ってしまうわけで、我々は如何に悪い事をしてきたのか、という贖罪の気持ちしかうまれてこないことになってしまう。

朝鮮を植民地にしていたとき、日本の国家予算は内地よりも植民地の方に多く流れていたわけで、そのことは日本の内地の人の税金が、植民地の社会的インフラ整備に使われていたということである。

搾取の逆転である。

今の言葉で云えば経済支援していたことになる。

こういう事実を、向こうの人は若い世代に語らないわけで、向こうの若い世代は、今ある社会的インフラを全部自分たちでこしらえたものだと勘違いしているわけである。

日本が植民地にしたから、社会的インフラが整備された、という事実は全く知られていないわけである。

だから向こうの政治家というのは、仮にそういうことを知っていたとしても、自分の国の国民の前ではそういうことが言えないわけである。

言えば自分が政治家たりえないわけで、自分が国家首脳である限り、自国民の意向に沿ったポーズを取らなければならないわけである。

ノムヒョン大統領は帰国したとたん、韓国野党の非難を浴びている。

彼にとってはまことにタイミングが悪かったとはいうものの気の毒な話である。

日本にきた日が韓国の戦没者の慰霊祭の日で、それが着いたとたんに日本の有事三法が成立した日と重なっていたわけで、韓国の野党にとっては自国の首脳をつるし上げるには格好の口実であったわけである。

此処でも国家首脳の意志と統治される側の意識の乖離が如実に表れているわけである。

国家首脳が過去の確執を捨てて、未来志向でいこうと思っても、統治される側の人々は、それを素直に受け入れないわけである。

これを別の言い方でいえば、大衆の側が如何に愚民かということだと思う。

イスラエルとパレスチナの方も、イスラエル軍がイスラム原理主義のテロ集団、ハマスの幹部を攻撃するという、またまた血で血を洗う抗争に火をつけたわけで、これでは和平合意も成り立たないと思う。

共に、統治される側の思い込みであり、思い込みによる独断専横であり、国家の首脳というのは対外的な措置よりも内政のほうに力を傾注しなければならないわけである。

 

 

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