よど号事件  2003・06・02

「よど号」事件の背景

 

 

祖国を売るということ

 

平成15年5月31日とその翌日にわたりNHKの総合テレビで、「よど号」事件と拉致問題の関連を放映していた。

昨年の秋に小泉首相が朝鮮民主主義人民共和国の金正日と会談して、金正日が日本人拉致を認めて以来というもの国内ではこの問題が実に姦しい。

その後、5人の拉致被害者が帰国してますます北朝鮮の日本人拉致という問題がクローズ・アップされてきたが、それにかっての「よど号」ハイジャック事件の犯人達が深く関わっているとなると我々はこの事件をどういう風に考えたらいいのであろう。

日本人の同胞が、北朝鮮のために、日本人を拉致するという行為を、どういう風に考えたらいいのであろう。

昔は「売国奴」という言葉があった。

ゾルゲ事件の尾崎秀美などは、日本の国益よりもソビエット連邦の国益のために働いた、という意味で名実共に売国奴であったが、この「よど号」事件の犯人たちの行為も、それに劣らぬ立派な売国奴である。

「祖国を捨てる」ということは一体どういうことなのであろう。

普通の人ならば、自分を育んでくれた自分の祖国を捨てるということはありえないと思う。人は「オギャー」とこの世に生まれて以来というもの、たった一人で成長するわけではなく、両親と、その両親との関連で地域とか、親戚とか、お父さんや母さんの職場という人間関係の中で、様々な人の影響下で成長するわけで、国を捨てるということは、そういうものと一切合財関わりたくない、そういうものと断絶したい、そういうものから逃避したい、ということだと思う。

昔、岡田嘉子という女優が、間男と共にシベリアの雪の原野に橇で逃避行して、ソビエット側に逃げたことがあった。

そして人生の大部分を監獄と、ソビエット体制の中でソビエット連邦の国益に奉仕して、老齢になってから郷愁に駆られ、日本に一時帰還したことがあった。

日本のマスコミは、凱旋将軍が帰還したかのような歓迎の仕方であったが、確かにニュースの種としては格好な話題である。

しかし、一人の日本人が法を破って外国に逃避行し続け、後の人生がいくばくもない時期になって、郷愁に駆られて一時帰国しなければならない人生というのは、如何に気の毒なことかと思う。

自分で撒いた種とはいうものの、日本にいれば言いたい放題のことを云い、したい放題のことをして、我がまま一杯に生きれたものを、自分が選択した道とはいえ、他所の国の官憲に厳重に監視され、行動は制限され、囚人の生活を余儀なくされたわけで、それが国を売り自分の祖国を捨てた人間の末路なわけである。

自分をある程度の間、少なくとも成人に達するまでの間とはいえ、育んでくれた人々を捨てるということは、結果的にこういう結末に至らざるを得ないということだと思う。

「よど号」ハイジャック事件に関しては、犯人達のことも、「よど号」の運行に携わっていた人々のことも、人質の身代わりとなった人のことも、きちんと記録に残っている。

それにしても、そういう犯人のもとに、花嫁として嫁いでいこうという女性がいたと云うのだから、なんとも言葉では言い表せない不可解な思いがする。

ここまでくるともう「売国奴」という言葉も当てはまらず、新しい言葉を考えなければならない。

 

全共闘世代の誕生

 

「よど号」事件というものをよく見てみると、この事件を引き起こしたのは当時の若者、彼ら犯人の年齢は20歳前半の若者で、その大部分が大学生かであり、当時の状況下においても立派なエリート集団であったはずである。

この中の2,3の者は東大の安田講堂の攻防戦を経験している連中であった。

彼らを一括りにして表現すればいわゆる全共闘世代ということがいえる。

この全共闘世代というのは、この「よど号」事件ばかりではなく、いわゆる安保闘争から成田闘争、東大の安田講堂の攻防戦をはじめとする学園紛争、浅間山荘事件と、この時代日本の大きな事件には総て関わりを持っている。

この全共闘世代というのは団塊の世代でもあるわけで、第2次世界大戦、我々の身の回りの普通の言い方では太平洋戦争、もっと民族に固執した言い方をすれば大東亜戦争、を否応なく遂行し、せざるを得なかった世代の次世代の人々であったわけである。

つまり、戦前派、戦中派、乃至は日中戦争から対米戦というものを身をもって体験した人々の次の世代の人々であったわけである。

1945年、昭和20年という時に、戦闘員となりうる年齢に達していた人々の子供の世代ということが言える。

もっと具体的にいえば、昭和20年に二十歳前後ということは、大正末期か昭和初期に生まれていた世代の次の世代ということである。

学徒動員、学徒出陣を自ら指導したか、自らその一員として戦争を体験した人々が、戦地で終戦を迎えた体験を持った人々の子供というわけである。

この体験を持った人々を一括りに言い表せば、いわゆる戦中派という言葉が一番妥当だろうと思う。

その子供たちがいわゆる全共闘世代といわれる人々だろうと思う。

戦後の日本のマスコミでは、そういう見方で世間を見る事をしなかった。

戦前派、戦中派という言葉はあったが、この全共闘世代をそれらの子供たちという見かたはしていなかったと思う。

この全共闘世代というのは、基本的にその底流には共産主義というものがあったので、日本のマスコミというのは、その琴線に触れることを意識的に避けたと思う。

ここでいう琴線という意味は、日本の若者が共産主義に汚染されているという意味で、共産主義というものが好ましからざる考え方である、ということを務めて覆い隠そうとしていた、という意味である。

意識的に避けたというよりも、日本のマスコミ界全体が、基本的には共産主義というものに寛容であったが故に、彼らとの相違、意識のズレというものを体感していなかったからに違いない。

日本のマスコミばかりではなく、戦後の日本のオピニオン・リーダーたるべき知識人層、大学教授からマスコミ関係者から野党に至るまで、共産主義というものに非常に寛容で、それを掲げている相手には正面から相手の非を突こうとしなかったからである。

この戦中派の人々、または戦前派の人々の子供た全共闘世代であった、ということを我々も真摯に考えなければならないと思う。

戦中派として一括りにされている人々をよく見てみると、彼らは終戦というものを人間の生涯の中で一番多感な時期に経験しているわけである。

終戦という未曾有の大混乱の中で、人は生んがために必死であったわけで、とても奇麗事をいっている閑はなかったはずである。

生きんがために修羅場を潜り抜け、その過程では人間の汚い部分を嫌というほど見せ付けられて生き抜いてきたわけである。

そして「国敗れて山河あり」と、故郷に帰郷して真っ先にしたことがいうまでもなく子作りであったわけである。

そこで出来た子達が全共闘世代というわけである。

出来た子供達は一人で大きくなるわけではない。

当然、両親の影響下で成育するわけで、問題はこの両親の影響というものである。

戦後の日本では、この部分を追及したものが全くないと思う。

全共闘世代が世の中を混乱にきわみに落とし込んだとき、戦前派、戦中派といわれる人々が、自分達の子育てに如何なる信念をもっていたか、問うたことが全くないということである。

 

全共闘世代の親達

 

1945年、昭和20年という年に20歳以上の人々は、一様に価値観の転換を余儀なくさせられた。

日本の敗戦、日本がアメリカに敗れ、マッカアサー元帥が厚木に降り立ち、横浜に進駐し、皇居前の第1生命ビルにGHQを設置した過程において、この時成人に達していた日本人はそのことごとくが価値観の転換を迫られ、それを受任しなければ自らの命がありえなかった。

この価値観の転換のとき、転換を迫る方、つまりアメリカ占領軍の方は基本的に征服した日本民族を奴隷にするつもりではなかった。

戦の終わった時点では、自分たちの戦いの大儀が成り立つ程度、つまり自分たちはお前達を負かしたという事実を相手が素直に認めさえすれば、それ以上のものを要求するつもりはなかったに違いない。

ところが負かされた我々、日本民族、大和民族の方は、身も心の魂も、勝った側に預けてしまって、自ら奴隷に身を落とすことを望んだわけである。

これが我々同胞の戦前派、戦中派の生き様であったわけである。

我々はこのことをよくよく考えなければならない。

この民族的特質を暴いたのは、我民族の内側から出て考察ではなく、元敵側のアーネスト・ベネジェクトという女性である。

戦争というのは、もっとも純粋な国益追求の手段に他ならない。

アメリカの日本占領というのは、いうまでもなく日本のことよりもアメリカの国益が最優先しているわけで、アメリカはアメリカの国益の都合で、日本を占領したり独立させたりしたわけである。

戦後58年間にわたり、日本の革新勢力というのは、日本国憲法の第9条というものを金科玉条として有り難がっているが、あれはあの当時、アメリカがアメリカのために、日本が再びアメリカに戦争を吹っかけないように、アメリカの都合で挿入されたものであるということを理解しようとしていない。

これは一体どういうことなのであろう。

こういう呪縛を自ら解こうとしないのは、戦前派、戦中派の価値観の大転換を身をもって経験した人たちの責任だと思う。

憂うべきことは、戦前派、戦中派の人々がこの価値感の大転換を「良き物」と認識している点である。

確かに、江戸時代から続いているような古い封建主義的な価値観は捨て去ってもいいが、明治時代に確立された進取の気性を助長、鼓舞する発想まで、古い封建主義と一緒にして捨て去るにはいささか無分別だと思う。

我々、日本人は明治維新のときも価値観の転換を経験しているわけで、問題は明治維新から終戦までの間に醸成された、現代にマッチした価値観までも、選別することなく放棄してしまったところにある。

考えてみれば、明治時代に確立された新しい気風というのも、古い江戸時代からの継承のうえにあるわけで、これらはアメリカの占領によって上から押し付けられた価値観ではなく、西洋列強を見習いながら自ら考察して作り上げたものまで、味噌も糞も一緒くたにして捨て去った責任は、戦前派、戦中派の人々に帰属するものと思う。

そういう世代の元で育てられた全共闘世代というのは、新しい価値感のもと、目上のいうことは聞かなくてもいい、上長のいうことは聞かなくてもいい、先生のいうことは聞かなくてもいい、自分のしたいことは自由にすればいい、言いたいことは誰に遠慮もせず言いたいように言えばいい、と学校でも家庭でも教わってきたわけである。

このことは、いわゆる究極のわがままを押し通せばいい、ということを学校も家庭も新しい生き方だと勘違いしていたわけである。

民主主義というものは、個人のわがままを押し通すことだと思い違いをしたわけである。全共闘世代を薫陶してきた世代が、図らずも価値感の大転換を身をもって経験してきた世代で、この世代が真っ先にこの思い違い、勘違いに嵌まり込んでしまって、新しい価値観というのは、個人のわがままをどこまでも押し通すことだと思い込んでしまったわけである。

 

価値観の逆転の経験

 

我々の日本民族というのは、農業を基盤とした封建主義体制で近代まで来たわけで、農業を基底として、米の生産が社会的基礎にある限り、我々の生活体系の中で個人のわがままというのは許されなかったわけである。

農村の集落の中で、村の掟、集団の合意に反する行為をすれば、村八分という制裁を受けたわけで、農村が一つの運命共同体として、その中で身を処すには、それぞれに生活の知恵で、「人の振り見て我が振りなおす」とか「出る杭は打たれる」という処世訓が機能していたわけである。

ところが近代に入って、そういう農村を基盤とした生活がだんだんと壊れ、近代的な産業が勃発するようになったといえども、人々の意識というのは、それと同時進行では目覚めなかったわけで、時間差があったわけである。

我々は、もの作りには長けた民族で、近代国家の仲間入りのスタートでは出遅れたが、もの作りに関してはすぐに西洋列強に追いついた。

しかし、人を統治するという政治の面では、昔も今も三流に留まっているわけである。

人を統治するという意味では、植民地支配も含めて、我々、日本民族、大和民族というのは、政治的に何時までたっても三流の域を出るものではない。

そもそも戦争にのめり込んで行った過程だって、はっきりと開戦を声高に叫んだ人が一人もいないにもかかわらず、ずるずると国家総動員までいってしまったわけで、はっきりとした責任者というのがいないまま敗戦まで来てしまったではないか。

戦後の進歩的知識人は、天皇陛下の戦争責任を追及して止まないが、そのこと自体が我々の行った戦争を真に研究していない証拠ではないか。

一般論として、大日本帝国軍人は天皇陛下のために戦ったとされているが、この認識こそ間違っているわけで、その間違いを深く掘り下げて研究することもなく、表層的なプロパガンダのみを声高に叫んでいるわけで、これでは歴史から何かを学ぶということにはならないではないか。

この表層的なプロパガンダを声高に叫ぶことで、政治が左右され、声の大きい方に政治が傾注するというところに日本の政治、日本民族の政治、大和民族の政治の未熟さがあると思う。

政治的な未熟さの延長線上に価値観の逆転があると思う。

戦争には勝敗があることは太古よりなんら変わるものではない。

昔ならば負けた国は勝った国の奴隷にならざるを得ない。

現代でも戦争に負けた国は勝った側の奴隷にならないことには、生を維持できなかったではいか。

負けた側が勝った側の奴隷になるというのは、ある程度は致し方ない。

しかし、ここで問題なのは、戦争に負けたから民族の魂までも相手に売り渡していいかどうかという問題だと思う。

人間というのは、民族の魂だけをもっていても生きられるものではない。

民族の誇りだけをもっていても生きられるものではない。

生きんがためには、民族の魂も誇りも売り渡さねばならないときもあるが、それは究極の選択でなければならない。

1945年、昭和20年に、我が祖国が戦争に敗北したことで、我々は全く自分たちの同胞の政治というものに愛想を尽かしたに違いない。

それまで「鬼畜米英、撃ちてし止まん」「一億総火の玉で本土決戦」と息巻いていたものが、天皇陛下の玉音放送で一遍に御破算になってしまったわけで、この時、成人に達していた日本人が如何に気落ちしたかは想像にあまりある。

玉音放送で、今まで緊張していた神経が一遍に緩んだところにもってきて、アメリカ占領軍が次々に出してきた日本の民主化という占領政策が更に彼らの精神に決定的な駄目押しをしたに違いない。

ここに価値感の大逆転が実現したわけである。

これを経験した世代というのが、戦前派、戦中派といわれる世代で、1945年、昭和20年において成人に達していた世代である。

この世代が戦後生きていくについて、旧体制の価値観を全否定しながら生きてきたわけで、こういう世代を親に持った次の世代が、いわゆる全共闘世代であり、団塊の世代であったわけである。

 

民主化と称する大革命

 

ここで全共闘世代、団塊の世代の親達が経験した価値観の大転換というものをよくよく考察してみると、これはアメリカ占領軍が実施したとはいうものの、完全なる共産主義革命であったことを知るべきである。

本来ならば、日本共産党がすべきことをアメリカ占領軍、GHQがしたわけである。

対日戦に勝ったアメリカの日本占領目的というのは、いうまでもなく日本の弱体化である。日本が再びアメリカに歯向かうことのないように、日本民族から毒気を全部吸い取り、排除することであったわけである。

人類の過去の歴史というのは、戦争に負けた方は、必ず「何時かは巻き返す」ことを心に秘めつつ、それまでは堅忍自重して、負けた端はおとなしくしているが、そのうち勢力をぶり返して仕返しをする、というのが普通の民族の普遍的なあり方であった。

アメリカは、それを知っていたからこそ、そうはさせじと日本を徹底的に骨抜きにするのつもりでいたわけである。

そういう目的で、アメリカは日本を占領するにあたって、他の連合国には嘴を差し挟ませなかったわけである。

アメリカのこの隠された意図は、アメリカの国益に則ったもので、連合国といえども公には出来ないわけで、だからこそそれを日本の民主化と云う言い方で実施したわけである。ところが、その民主化なるものは、共産主義の目的とも完全に一致していたわけで、共産主義というのは現在ある秩序というものを一度は御破算にして、その後に共産党員による共産党員の政治体制を作り上げる、というのが究極の目的であったわけである。

それで1945年、昭和20年というときには、このアメリカ占領軍の占領目的と共産主義者の目的が全く一致した時期があったわけである。

アメリカは民主化の名のもとに日本の旧秩序を壊そうとしたし、日本共産党はもともとあらゆる秩序を壊すことが究極の目的だったものだから、この二つが見事に合体したわけである。

あの治安維持法の生きていた戦争中でありながら、政治的にもっとおかしなことは、旧体制の中で戦争が長引き、物資が不足してくると、市民生活の中に配給制度が取り入れられ、統制経済になった。

統制経済となれば、これは完全に社会主義思想なわけで、治安維持法で左翼活動家を取りしまりながら、片方の手では、その経済システムを借用していたわけである。

そして戦争の勝敗が決したとき、日本を占領支配したアメリカ軍は、日本の民主化という名目で、共産主義革命を行ったわけである。

全共闘世代の親の世代、団塊の世代の親の世代というのは、このことに全く気がつかずに来たわけである。

戦争に勝ったアメリカ軍の総大将マッカアサーは、まず最初、治安維持法の撤廃と政治犯の釈放、これは共産主義革命の第一歩である。

そして財閥解体、これも共産主義革命では避けて通れない道筋であり、農地改革となれば、革命の本質そのものであり、次に教育の民主化という名の価値感の差し替えである。

そして、民族の理念であるところの憲法の押し付けである。

戦後58年間を経過したにも関わらず、日本の進歩的知識人というのは、日本国憲法が勝者の押し付けであった、ということをなぜ理解しようとしないのであろう。

あの憲法制定に日本人も関わっていたのだから、押し付け憲法ではない、という論議は一体どこから出てくるのであろう。

この言い分は、アメリカ側が日本を支配する意図でもって、「あれには日本人の意思が反映されているので、今の日本国憲法を改訂するのは罷りならぬ」というのなら納得が出来るが、日本人が「あの憲法には日本人の意志が入っている」というのは、あまりにも自分たちの同胞を馬鹿にした話ではなかろうか。

戦争に負けた国が、勝った国の顔色を上目使いに伺いながら起草に関与した憲法を、「押し付けでない」という発想は、日本人の発想ではく、売国奴の発想ではないかと思う。

事ほど左様に1945年、昭和20年という年に成人に達していた、戦前派、戦中派という世代は、その後の生活の中では食うが一杯で、心のゆとりというものが一切なかった。

そこにもってきて、教育の民主化というもので、教育内容の民主化ばかりではなく、先生の労働組合結成というものが奨励されて、公立学校の先生が教員組合というものを作った。そして、この教員組合、つまり日教組というものが共産主義者の巣窟となってしまった。共産主義者の大命題といえば当然、秩序の破壊に他ならない。

全共闘世代、団塊の世代が、小学校、中学校、高等学校にという12年間も共産主義の先生に教われば、まっかっかにならないほうがおかしいわけである。

青少年の教育ということは教科書で勉強するだけではなく、大人の生き方そのものが、子供の目からすれば見習うべき手本になっていることは、いくら時代が変わろうとも一つの真理である。

戦争に破れ、打ちひしがれ、意気消沈している親や先生や大学教授や勤め人が、子供の前で世情を憂い、自分の不運を嘆き、政府とか当局という自分たちを奈落の底に落とした人々に対して愚痴や憤懣をぶつけている姿を見れば、若くて純真で素朴で正義感のつよい少年達は、「何とかしなければならない」という熱情に駆られるのも極自然な姿だと思う。

その同じ熱情が、ついさっきまでは軍国主義であったわけで、「鬼畜米英」であったわけであるが、それが一夜にしてひっくり返ってしまったわけで、その熱情の矛先が「現状の日本の何とかしなければならない」という思いの行きつく先として、共産主義になってしまったわけである。

全共闘世代というのはそれを如実に表しているわけで、そして彼らの親というのが、価値感の大転換を経験してきている世代なわけで、その結果として大学が荒れるのも致し方ない。

大学が荒れても、それを抑える側が、これまた価値観の大逆転を経験している世代で、この時代の若者、いわゆる全共闘世代に対して、奇麗事で理解を示したものだから収拾がつかなくなってしまったわけである。

 

勝者の論理を受け入れること

 

我々、日本民族の政治が未だに三流ということは、政治というものに対して自分の頭でものを考えないからではなかろうか。

ものつくりの現場においては、自分でアイデアを出して、それを自分で実践できるが、政治の現場というのは、人を集めて組織として形作らねばならないわけで、その大部分は世の中の表層を流れている潮流を如何に自分の側にひきつけるかということに尽きると思う。潮流を形作っている一つ一つの分子は、まことに他愛ない存在で、「あっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ」という、まことにもって無責任なプロパガンダで、あっちに行ったりこっちに行ったりするわけである。

そうでも思わないことには、ついさっきまで軍国主義であったものが、一夜明けたら平和主義、共産主義のシンパになってしまうということが説明できないではないか。

戦前派、戦中派というのは、子供の頃はある程度軍国少年であったことを自ら認めているわけで、それが敗戦を契機にして、一夜にして、戦争反対論者に変わってしまうということはありえないはずである。

そのことは我々、日本人というのは、時の表層のプロパガンダに意図も簡単に同化してしまって、自分の頭で政治というものを全く考えない民族だということである。

つまり「人の振り見て我が振りなおす」、「バスに乗り遅れるな」、「長いものに巻かれろ」という格言は見事に我々の民族性をあらわしていると思う。

これらの格言は、自ら政治を考えることをしない我々の国民性を見事にあらわしていると思う。

教科書裁判で勇名をはせた家永三郎氏は、戦争中、学徒出陣で出征していく学生を見送りながら、自分がこれを止められなかったことを嘆いて、そのことが戦後、反政府運動のエネルギーになっていると本人が述懐していた。

私には時代が変わったから格好の良い事を言っているように見える。

今の潮流に上手い具合に便乗した思考に思えてならない。

当時は何をしたかと本人に問いたい。

戦前の昭和15年に斉藤隆夫という国会議員は、国会で粛軍演説をして除名処分を受けている。

彼を除名処分したのは当時帝国議会議員であった大部分の同胞としての政治家である。

そのことは当時の大部分の平均的な日本人は、彼の演説が不穏当なものと思っていたわけで、それが当時の日本の多数派を占めていたわけである。

彼の論旨は時の潮流に受け入れられなかったわけである。

当時の国民は戦争をする方向に傾いていたわけである。

国家のすることに不満、義憤を感じている人は、どこの国にも大勢いるものと思う。

人間の集団というものが、統治するものとされるものというグループに分けられるとすれば、統治される方は100%、なんらかの不満を統治する側に対して抱いているのが普通の人間の有態だと思う。

この統治する側に対する憤懣不満を自由に言い、表現することが出来なかったのが我々の戦前の状態であった。

敗戦という外圧で、その状態が決定的に崩れてしまたので、堰を切った水のように、その時に国民の間に積もり積もった憤懣不満が噴出してきたのが戦後の状況だと思う。

こういう経験をした戦前派、戦中派の人々は、自分の経験から推し量って、統治する側というのは総てが悪人で、国民を騙すものだという認識で一致してしまい、それがプロパガンダとして定着してしまった。

特に、統治する側が我々の同胞だと、余計に信用がならなかったが、青い目のアメリカ人ならば、何の疑いも差し挟むことなく、素直に言う事を聞いたわけである。

同胞の政府要人の言う事が信用ならないというのはある程度理解できる。

我々の同胞は、まことに政治下手なので、信用し切れないというのは心情的には理解できる。

戦前の我々が軍部に騙されたというのは、今の言葉で言えば、情報開示がなされていなかったからで、自分の都合の悪いことを隠した結果として、国民を騙したという言い方になってしまった。

しかし、このことは何も軍部だけではなく、我々が民族として普遍的に持った習癖で、我々のあらゆる階層で、都合の悪いことは隠すということは、極普通に転がっている事例なわけである。

特に軍事上においては、情報そのものが戦略であり戦術ということもあるので、その意味で、情報の隠匿ということは致し方ない面がある。

しかし、戦後それを「国民を騙した」という表現で使う見識に問題があると思う。

この言葉の含むニュアンスは、「我々の政府は国民を騙して戦場に狩り出した」という意図が見え見えに表れた、悪意に満ちた言葉といわなければならない。

そして、戦前派も戦中派も、自分たちの政府には全く信をおかず、勝者の価値観はそのまま何も斟酌することなくストレートに受け入れてしまったわけである。

これが戦後の日本を、根無し草的に、誇りも、名誉も、魂も、吸い取られたエコノミック・アニマルとして、世界に恥を晒している国民となった最大の理由だと思う。

アメリカの占領目的が見事に成功し、開花し、究極の目的が達成されたわけである。

勝者の価値観を最大限に見せ付けられた行為が極東国際軍事裁判である。

戦争に勝った側は、負けた側の首脳又は戦争を仕掛けた人間を懲らしめたい、と思うのは人としての当然の行為である。

しかし、戦争というのは誰も人殺しが好きで始めるわけではなく、あくまでも政治の延長線上にある政治的手段なわけで、相手がどこまでも無抵抗で、こちらに言い分を飲めば、戦争になることはない。

その意味で、我々はアメリカから政治的外交的に、罠に嵌められたわけであるが、負けた側の我々は、アメリカの罠に嵌められたということをなかなか認めようとせず、悪いのは我々日本の方だと未だに思い込んでいるのである。

罠を仕掛けたほうが勝ったものだから、仕掛けられた方の政治的指導者が生贄にされたのが、極東国際軍事裁判いわゆる東京裁判というものである。

政治の失敗という意味で、負ける戦をさせた、時の指導者を裁くとしたら、それは我々が内側からしなければならないことである。

ところがそれを勝った側がしてしまったので、我々はそれをせずに済んでしまった。

問題はここにある。

なぜ我々は同胞を奈落の底に突き落とした政治的指導者を自分たちの手で裁こうとしなかったのであろう。

旧敵国であったアメリカが裁くのはアメリカの勝手であり、アメリカとしては戦争に勝った以上、旧敵国の首領を血祭りに上げないことには、アメリカ国民が納得しないと思う。

あの極東国際軍事裁判というのは勝った連合軍側の見解で被告を選定しているが、我々は日本を敗戦に導いた責任者というものを、自らの内なるエネルギーで追及しなければならなかったと思う。

わが方の軍人、軍部の高級幹部、高級参謀にも自分の立場を利用して、同胞を裏切った悪人は大勢いたはずである。

作戦の失敗はもとより、形勢不利と見ると一目散に逃亡した司令官、高級参謀、満蒙開拓団を放り出して真っ先に逃げた関東軍の参謀達、軍事物資を隠匿私物化した御用商人とうとう、戦争遂行の影で軍人、軍属、軍閥にまつわる悪事は掃いて捨てるほどあったと思う。

普通の兵卒が敵前逃亡すれば銃殺であるが、高級参謀が同じことをしても、それは作戦として通ってしまうわけで、こういう不合理は沢山あったと思う。

そういうことが極東国際軍事裁判の影に隠れて何一つ表に出てこなかったではないか。

その告発を怠ったのは、戦前派戦中派という世代の怠慢だと思う。

戦前戦中を生き抜いてきた大学教授、ジャーナリスト、知識人というのは、アメリカのすることを嬉々として向かえるのではなく、軍国主義を糾弾する同じエネルギーで、同胞の悪事を暴く努力をしなければならないのではないか。

それを味噌も糞も一緒にして、政府が悪い、軍部が悪いと、具体的な事例を掘り下げもせず、一括して曖昧な集合体のまま、鸚鵡返しに言っているだけでは能がないと思う。

あの戦争で生き残った日本人、つまり戦前派、戦中派といわれる人々は、この勝ったアメリカの論理を意図も簡単に自分たちのものとしてしまって、極東国際軍事裁判というものを完全に受け入れてしまったわけである。

勝った側が勝手に行った極東国際軍事裁判というものを、負けた側の我々が素直に受け入れるということは完全におかしいことである。

我々の民族の声としては、「あの裁判は無効だ」ということを世界に向けていうべきだと思う。

歴史を紐解けば、そう言った人はいた。

日本人では清瀬一郎、アメリカ側ではブロウニー弁護人、インドのパール判事らは、あの裁判が無効だということを言った。

しかし、我々の側はそれに全く意に介さなかった。

戦前戦中を生き延び、日本政府に騙されたといっている戦後の知識人は、誰一人これらの発言に耳を貸そうとはせず、無視し続けたではないか。

アメリカは実に利口で、そう言わせないために、あれを国際連合の名の下に行ったわけで、アメリカ一国が日本に対して怨恨を晴らすというポーズを極力避けたのである。

まさに心憎い演出である。

こういう曰く因縁のある極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判というものを、負けた我々が後生大事にその価値観に呪縛される必要は全くないと思う。

我々が生きんがために対米戦という選択をしたとしても、それは政治の失敗、外交の失敗であったことには違いないが、相手側から戦争犯罪者というレッテルを貼られる筋合いはない筈である。

我々、日本国民の側から、「負けるような戦争を指導した責任」ということを追及することはあったとしても、相手側から犯罪者といわれる筋合いはないはずである。

元軍国少年、戦前派、戦中派といわれる日本人は、このところをどう考えているのであろう。

この元軍国少年の戦前派、戦中派と云われる人々が、意図も簡単に勝った側の倫理を素直に受け入れ、祖国のために良かれと思って戦争を指導した人々を、戦犯、戦争犯罪者と臆面もなくいうということにも、我々は自分でものを考えない、表層の現象に意図も簡単に惑わされる、という面が如実に現れているではないか。

自分たちの同胞としての時の指導者が、自分たちを奈落の底に突き落とした、という憤懣やるかたない気持ちは理解してあまりある。

ならばその憤懣を自分たちでその時の指導者に対してぶつけたかといえば、これもしていないわけである。

 

三流政治の本質

 

極東軍事裁判でA級戦犯として収監された人でも、その後無罪放免になった人もおり、刑を全うした人もいた。

そういう人の中で、岸信介は開戦の時、商工大臣を努めていたわけで、その責で一旦はA級戦犯となったが、後に無罪放免となった。

すると、新生日本の新しい選挙制度のもとで再び国会議員として返り咲いたわけで、これは一体どういうことなのであろう。

元軍国少年少女であった、戦前派、戦中派のわが同胞、地域の選挙民というのは、日本を奈落の底に突き落とした同胞、開戦時の政府要人に対してなんら恨みをもっていなかったということではないか。

確かに戦争は岸信介一人がしでかしたものではなく、政府の合意で開戦が決定されたが、我が同胞を奈落の底に突き落としたという意味で、我々はもっと怒ってしかるべきではなかろうか。

日本を対米戦に引き込んだ時の政府要人などというものは、我々がもっともっと政治責任を追及すべきではなかったのか。

それが新しい選挙制度のもとで、また復活して国政の場に返り咲くということ自体、我々は歴史から何一つ学んでいないということではないか。

元軍国少年少女であった戦前派、戦中派の人々は、彼を自民党の総裁にまで押し上げ、内閣総理大臣にまで押し上げたが、この時、彼のした安保条約改定というのは政治的外交的にはまっとうな政策の遂行であった。

彼がまっとう政策を遂行しようとすると、在野の元軍国少年少女の戦前派、戦中派の訳知りが彼の足を引っ張りに掛かったわけである。

彼の政治家としての在りようを見ると、彼の問題というよりも我々、国民の側の政治的感覚が如何に出鱈目というか、いい加減かということの証明ではなかろうか。

このことは、我々日本人というのは、政治の中身を吟味するのではなく、政治をする人を吟味しているわけで、ここに我々の政治が何時までたっても三流の域をでない根源があるに違いない。

時の流れとして、1945年の終戦ということで、我々は意気消沈していたところにもって来て、占領軍による価値感の逆転を強いられ、そこに共産党員が各界に進出してきたので、あの戦争で生き残った戦前派、戦中派の人々は精神的に全くよりどころを失ってしまったわけである。

そこにもってきて我々日本民族というのは、政治的には自分の頭でものを考えない民族で、プロパガンダの声の大きい方に簡単になびいてしまうわけで、アメリカ占領軍がアメリカの国益のために行った様々な改革を後生大事に抱え込んで、それが「善」だと思い違いをしていることにいまだに気がつかない。

 

我々は好戦的な民族だ

 

そういう世代が親として、自らの子を生育したのが全共闘世代だと思う。

この親達は家族を養うに手一杯で、とても子供の事に関わっている暇がなかったことは事実であろう。

この時代の日本はまだまだ貧しかった。

その中で、何がこの若者達を無軌道な方向に走らせたのか、という答えを日本の識者といわれる人々はまだ出していないのではないかと思う。

私が推測するに、これは学校教育だと思う。

この世代が学校で接した先生というのは、いわゆる戦争の体験者としての戦前派であり戦中派の人々であったのではないかと思う。

終戦による価値観の大転換を身をもって体験した人々だと思う。

自分が体験した大日本帝国軍隊の不条理と、共産主義思想に感化した先生から、この時代の政治の状況に対する不満を過大に吹き込まれたのではないかと思う。

それともうひとつ推測しうることは、我々日本民族の一部のものは非常に好戦的ではなかったか、ということが想像しえる。

平和、平和といいながら、片一方では暴力を肯定しているわけで、彼ら全共闘の面々は、非常に好戦的な若者達であったといわなければならない。

昔のように軍隊のあるときは、そういうエネルギーを軍隊が吸収していたが、その軍隊というものがなくなってしまうと、「人を殺したくてたまらない」というエネルギーを収斂する場がないわけで、それで大学の建物を壊したり、衆を頼んで街中でジグザグ・デモをしてみたり、成田闘争に駆けつけて警官を殺したりと、人を殺すチャンスを狙っていたわけである。

考えてみれば、戦前はこういう連中が競って軍隊に入ったので、南京大虐殺なんて事件が起きたにちがいない。

反体制、反政府運動をしているから平和主義だということにはならないと思う。

好戦的なるがゆえに、そのエネルギーの発散の場として、平和主義の運動に血道を上げているのかもしれない。

「よど号」事件の犯人達の発言というのは、そのことを如実に表しているではないか。

彼らの決起文「私たちは共産主義同盟赤軍派です。(中略)私たちは北朝鮮に行き、そこにおいて労働者、国家、人民との強い連帯をもち、軍事訓練を行い、今年の秋、再度、いかに国境の壁が厚かろうとも、再度、日本海を渡って日本に上陸し、断固として前段階武装蜂起を貫徹せんとしています。我々はそういう目的のもと、今日のハイジャックを敢行いたしました。」というものであるが、まさに当時の立て看板の雰囲気がそのまあ読み取れる感じである。

 

哀れな犯人達

 

20代前半の若者にありがちな熱情に満ちてはいるが、そのことは同時に稚拙でもあるわけで、革命というものを全く知らないお坊ちゃんのたわごとという感は免れない。

この日、NHKで放映された彼らの北朝鮮での生活というのは、労働者、国家、人民との連携とはかけ離れた生活を余儀なくさせられているようだ。

いわば完全に向こう側に利用されてしまっている。

彼らがこういう思想を持つに至る過程で、学校の教育というものが大きな役割を果たしていたのではないかと思う。

私自身がそう思っているからこそ、今まで長々と記述してきたわけであるが、共産主義である限りにおいては、決して平和主義ではありえないわけで、彼ら自身も軍事訓練を容認し、自らそれを受けることを望んでいるわけで、如何に彼らが好戦的な人間かということを如実に証明していると思う。

しかし、この時代、大学に入学できるほどの人間が共産主義国家の内情を全く知らずに、夢を見ているなどということは私には信じられないことである。

彼らが本当に共産主義国が夢の世界だと思い込んでいたとしたら、それは戦前日本の帝国軍人がアメリカの実力を知らずに対米戦という選択をしたのと同じ轍を踏んでいるわけである。

「相手を知れば百選危うからず」という孫子の兵法を全く無視して、ただただ夢を見て、夢を追いかけることが自分たちの務めだと勘違いしているわけである。

自分たちがいくら決起文に書いたように振舞おうとしても、北朝鮮に行けば、当然あちらにはれっきとした国家システムがあるわけで、ハイジャンクしてきたからといって英雄として我儘が許されるわけではない。

先方は先方で、自分の懐に飛び込んできた鴨を如何にうまく使うかを考えるわけで、相手がそう考えたとすれば、彼らは完全に先方の管理下におかれるわけである。

それは体の良い捕虜である。

最初のうちはお客様扱いであったに違いないが、そのうちにチェチェ教育という洗脳が行われるようになれば、上からの押し付け教育が彼らにとって嬉しい筈がないではないか、

ところが、そういう彼らのところに嫁ごうという女性がいたというのだから、これまた驚き桃の木山椒の木である。

これら何組かの夫婦は、北朝鮮のために日本人を拉致しているというのだから、彼らの心の中というのは一体どうなっているのであろう。

自分が好きだから行くというだけならばまだ理解しえるが、北朝鮮の国益のために、日本人を攫うというのは一体どう理解したらいいのであろう。

日本では難関の大学に入りながら、日本の法をおかし、祖国を捨て、夢の北朝鮮に行って、そこでしていることは女衒である。

彼らの行動は国際機関が逐一追跡し、常に監視されているにもかかわらず、そういう生活に幸せを感じているのであろうか。

彼らは人生を全うすることの幸せというものを理解していないのだろうか。

人の一生にとって、これほど不幸なこともないと思う。

自分を育て、はぐくんでくれた祖国を捨て、異国で多少人なみ以上の生活が出来ているのか知らないが、常に追われ、他国つまり北朝鮮国家の顔色を伺いながら、人民と隔離された場所で生きるということは、人の一生でもまことに不幸な生き方といわなければならない。

革命などと愚にも就かないことに首を突っ込んだあまり、自分の人生を大なしにし、家族を悲嘆の底の突き落とし、これが人としての道といえるであろうか。

 

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