娘の年輪

昭和57年10月15日
朝 生まれる
救急車で母子とも運ばれる。
逆子でなかなか直らなかった。
未熟児で黄疸もあり、輸血する。

痩せていたが、幼稚園に通う。
                                     
小学生なり、ランドセルを背負えるか心配する。       現在は閉園になっている。所有者はまだ
弟のランドセルと押入れに入っている。             壊す事も無く、園は有る。園舎から園児の
                                      にぎやかな歓声が、窓から飛び出して
小学5年の秋に養護の先生へ米を手土産にクラスの      来そうだ。誰もいない建物から元気な
仲間と隣駅のまで、1升の米をふらふらになりながら       園児が走り出して来た様な気が
歩いて行った。
その時は、米不足騒動で、お爺さんの家が農家で
持たせてやる。先生は毎日パンでと言っているときいたので、米にした。
後日 先生が北海道のお土産を持たせてよこした。
中学になって、その先生が亡くなったとの話があり
あの時もっと米を娘に持たせてやれば良かったと
後悔したが、
娘も同じ運命が待ち受けているとわ、誰も知らなかった。
ただその先生がなにか感じるものがあり、娘に優しく
してくれたのか、
1995
小高い丘にある中学に進学、このころから体に脂肪がつきふっくらしてきた。
会社の休みで平日家にいると、学校から足が痛いと本人から電話があり
迎えにいく、踏み切りのある。場所で会う、急いで食べたのか口の周りに
食べ物がついていた。
この時に運命が決まったのか、
テニス部に入る。部活の練習で坂道を登る。それが良くない方に
進む一つの原因に成ったのか、
湿布薬等でゴマカシテイタ。
 1998
どうにか私立女子高校に入学、試験前の厳しい顔は今まで見せたことが
なかった。合格の知らせが来た後の穏やか顔に父親もホッとする。
本人はその高校生の制服を着たかったようだ。私の前で
どうだ「 いいだろう」と自慢げに言うのだが、それに返す言葉を
さがす親でした。
娘は足の具合が良くないので、奉仕活動のクラブに入る
老人施設、養護施設、等を暑いさなか、痛い足を引きずりながら
歩いて家に帰って来るのでした。
自分でもこのさき、長い事ないと悲観していたようだ。

高校1年秋、大きな人生の別れ道が訪れた。
手の大きさまで足の腫瘍が腫れた。
病院に行くと、特定機能病院に紹介される。
検査入院ということで、海が見える中規模の病院に組織検査をする。
どんな病気か分からず、困惑する。
手術がなかなか行なわれなく手遅れかと不安になる。
1999
1月手術が行なわれた、足の切断がなく安堵したが、
娘の裸になりシーツを被せて運ばれる、姿は何とも言われなく
心痛むものがありました。(
(夏再発する)
装具を使用して歩けるようになるが、
何とか2年生にしてもらう、本人は1日でも欠席があれば
就職試験で落とされると、普通の社会人を目指して
いたのだが、夢果せず、がっかりしたことであろう。
平成11年11月6日から修学旅行に医師、学校などに
お願いして参加させていただく、
大きなカバンを背負い、今無くなった長距離の特急に乗る。
いらない物は宅配送れ教えた、京都からお土産と家から
持って行ったおにぎりが入っていた。
携帯電話を持たせ何かあれば迎えにいくつもりであった。
宿泊先をインターネットで検索する、全て閉じていた。
その間に、こちたに電話したらしく、後でいくら電話を
掛けても通ずなかったとし叱られる。
11月11日
空路で帰ってくる。ほんとに参加しさせてくれてよかった。

だんだん、症状が進み学校からタクシーで帰ってくる。
呼吸するのにも困難な状態になってきた。
2000年
後3ヶ月の命と宣告される。
母と一緒に寝せる。これがわが家の最後の時か、
2月3日
従兄弟と親が来て豆まき賑やかに、年下の従兄弟だが
これが親族と最後の顔あわせなった。

2000年4月3日
ついにその時が来た。
仕事していたら、ばあさんから電話が来たと
あわてって、着替え、タクシーで病院に
運転手が何処に着けるかと聞いてきた。
まだ娘は死んだ分けでは無いのだと
心で思う僕でした。
病室までの階段一気に駆け上がる気構えが出来て
いたが、どうした事か、足が動かない、
エレベーターで上がる。
そこのは冷え始めた、娘が小学生の時のような身体で
横になっていた、最後に娘の名前を
呼ばず「おねいちゃん」と呼んでしまい、後で後悔する。
子にとって私の言葉が大きな負担ではなかったかと、

葬儀は親族と学校関係者だけで行なう
火葬場に行く途中に高校前を通過して(偶然か霊柩車の行き先を邪魔する
車が、車庫から出た無人の車が道路を半分塞ぐ、もうしこしで通過できなかった)
もらえば良かった、後悔する。
何をするか全然分からなかったのが
現状でした。
2001年3月3日
亡くなってから11ヶ月、昨年は痩せて小さくなる娘を、仕事が終われば
毎日のように会いに病院に向かう毎日でした。本人は体調が悪く
人に会いたくなく、微かな気配でも目を覚まして、また誰かきたと、
昨日、高校の卒業式が行なわれた。生きていれば、18歳で、
就職、進学か迷っていたであろう、同級生はどうなったのか、
今年になってから焼香に来る友達もなく、寂しい限りです。
みんな娘の事は忘れたのでしょうか、?
賑やかな声が聞こえなくなって静かな2階の
部屋には外から車の騒音が入ってくるだけ、
ひな祭りが月命日とは、生きていたら
ゆき子シッカリするんだよ、あの世に行かないで、お父さんの
手を握るんだよ、 幻想であったか。


子供新聞