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よしまつ しげたろう

吉松茂太郎

よしまつ しげたろう

1859.2.9(安政6.1.7)〜 1935.1.2(昭和10)

明治・大正・昭和期の海軍軍人(大将)、連合艦隊司令長官

埋葬場所: 2区 1種 4側 20番

 土佐国(高知県高知市)出身。土佐藩士の吉松萬弥(同墓)の長男。父の吉松萬弥は明治時代になってからは司法官として裁判長などを務めた。
 12歳まで藩校の致道館に学び、その後は東京で漢学を学ぶ。1874(M7)海軍兵学寮に入り軍人畑を歩む。卒業後、海軍兵学校通学士官となった。1885.11 浪速分隊士となり、翌年、浪速回航委員としてイギリスに出張。帰国後、参謀本部第二局課員となる。1888 フランス留学。翌年からフランスにて実地練習のため、フランス軍艦「オセアン」。次いで「サレルイ」の乗組員となった。1891 フランスにて造兵監督官となり、帰国することなく、英仏両国出張となり、三景艦などの建造に参加した。
 1893 帰国し、大島分隊長を経て、1894 吉野分隊長となり日清戦争に従軍した。同年末からは西海艦隊参謀として扶桑に乗組んた。1895 少佐に進級後は、呉鎮守府参謀・海軍望楼監督官、海軍大学校教官・軍令部第一局長を歴任。大佐に昇進後は、常備艦隊参謀長・佐世保鎮守府参謀長を経て、浪速艦長と高砂艦長、海軍兵学校教頭を務めた。
 日露戦争の時は常磐艦長。1905 敷島艦長となった。少将になってからは、佐世保と呉鎮守府参謀長、第一艦隊司令官、海軍兵学校長を歴任し、'09 中将進級後は海軍大学校長、竹敷要港部司令官、第二艦隊司令官長官、'12.12(T1)教育本部長、'14 呉鎮守府司令官となる。
 '15.9 第一艦隊司令長官に就任。同.10月から11月に行われた海軍大演習の後、連合艦隊司令長官を兼ねることになった。この頃は大演習などに際して連合艦隊が編成され、第一艦隊司令長官が連合艦隊司令長官を兼ねていた。またそれまでの連合艦隊司令長官は薩摩か長州の出身者であったが、初めてそれ以外の出身者(土佐)であった。
 吉松の場合は、1915.11.1(T4)から 12.13、1916.9.1から 10.14、1917.10.1から 10.22 の3回にわたって連合艦隊司令長官を務めている。この間、'16年末に海軍大将に進級した。3回目の連合艦隊司令長官後は軍事参議官となり、'19.11月 待命となり、翌年予備役となった。
 その後は、'21 海軍有終会会長や土佐協会顧問などを歴任した。'29(S4)退役。正3位 従2位 勲1等 功3級。享年75歳。海軍葬が執り行われた。

<日本海軍将官総覧>
<帝国海軍提督総覧>
<連合艦隊司令長官24人の全生涯>
<臨時増刊歴史と旅「連合艦隊のリーダー総覧」>


*墓石は和型「吉松家之墓」、裏面「大正十三年三月 建之」。右側に墓誌が二基並んでいる。右側の墓誌に十代目の吉松萬弥から刻みが始まる。吉松茂太郎は「十一代 海軍大将 従二位 勲一等 功三級 茂太郎」と刻む。

*吉松茂太郎の母方祖父は吉松家九代目の吉松孫二郎。孫二郎の三女が母の梅枝。父の萬弥は梅枝の婿養子として吉松家に入り十代目を継いだ。吉松茂太郎が十一代目。前妻は久寿。久寿は同郷の高知出身で甲藤為直の長女。前妻の間に長男の忠夫、二男は常蔭。後妻はふさの。墓誌には十二代目は敬陽と刻む。左の墓誌に十三代目で忠夫の長男の茂彌。なお、長男の吉松忠夫は『海軍大将吉松茂太郎傳』の出版者としてクレジットされている。



第441回 3度 連合艦隊司令長官に就任
非薩長系の長官 吉松茂太郎 お墓ツアー


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