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よねざわ よしほ

米澤嘉圃

よねざわ よしほ

1906.6.2(明治39)〜 1993.7.29(平成5)

昭和・平成期の美術史家

埋葬場所: 8区 1種 6側

 秋田県鹿角郡出身。父は鉱業家の米澤萬陸(萬六)、貴勢子(キヨ:共に同墓)の長男として生まれる。4人の姉と弟がいる。初名は芳男。鉱山技師であった父の転勤にともない、秋田・東京・茨城・大分・東京と居を移す。
 曉星中学校、福岡高等学校を経て、一年浪人後、東京帝国大学へ入学し、内藤湖南の父の十湾の弟子であった板橋忠八に漢詩を学ぶ。'31.3(S6) 東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業。大学院へ進む。父の死去を機に名前を「嘉圃」と改名。
 この間、瀧精一の指導をうけ、'32 処女論文『狩野正信の研究』を「国華」に発表。'33.5 文部省重要美術品等鑑査事務嘱託となり、著名な収集家の所蔵品を調査して鑑識眼を養い、'35.6 東方文化学院助手に迎えられる。この頃『田能村竹田と蘐園(けんえん)学派』を「国華」に発表したが、直載な鑑識と画家の精神の洞察とが遊離しない米澤の美術史学の形成を知る。
 東方文化学院助手となって以降、中国絵画研究に本格的に没入し、'38.3 東方文化学院研究員となる。また中国上代の作画機構や絵画思想に関する多くの論文を「東方学報(東京)」や「国華」等に発表した。'40秋、初めて中国各地(大連・奉天・北京・大同)と朝鮮を視察し、山西の高地で眼にした黄土景観に感慨をうけ、風土と美術との関係に思索を深める端緒となった。
 '42.10 「国華」の編集委員となり、戦後、東方文化学院が経済的基盤を失うと、'48.4 結城令聞・窪徳忠とともに、東京大学東洋文化研究所研究員へ転じ、国立博物館調査員を併任した。'49.5 東京大学教授に就任。さらに美術史学会設立に関わり常任委員を務めた(~'66)。以後、長きにわたって、東アジア全般の美術の動向を視野におさめた数々の論文と作品紹介を「国華」を中心に発表し、戦後における東洋・日本の美術史研究を領導した。
 '50 東京大学文学部でも教え、文化財専門審議会、文化財保護審議会の専門委員(絵画彫刻部長)も務めた(~'80)。'52 日本学術会議東洋学研究連絡委員会委員(~'69)、文部技官、東京文化財研究所美術部研究員(~'65)を歴任し、'53 東京大学文学部教授、東京大学教養学部講師を務める。'59 名古屋大学文学部でも教える。
 国内はもとより海外における中国絵画の調査も精力的に実施し、'60.5 鈴木敬・川上涇とともに台湾を訪問し、台中にあった故宮博物院の所蔵絵画約1500件(約5000点)を調査し、'62 戦後はじめて、中華人民共和国の招待をうけ、美術史研究者団(長広敏雄・藤田経世・宮川寅雄・吉沢忠・米澤嘉圃)を組織し団長として訪中。北京故宮博物院をはじめ、上海・南京・西安・広州の各博物館で、中国絵画を調査し、各地の国立美術学院を視察した。
 '61 東方学会評議員、'62 美術史学会代表、'66 東京大学図書行政商議会委員を務め、同.5 再度、中華人民共和国を訪問し、南京・蘇州・上海・杭州を巡礼し調査。同.9 日本経済新聞社の企画する北斎展に随行し、モスクワ・レニングラードに滞在、モスクワでは雪舟と文人画について二度にわたり講演した。『世界美術体系』の中国美術編を編集して中国美術の啓蒙につとめた。
 '67.3 東京大学を停年退官し名誉教授。退官後は武蔵野美術大学教授をつとめた。また東京芸術大学でも教鞭をとった。同年、アメリカのミシガン大学で初めて開催された第27回東洋学者会議へ出席。アメリカ各地の美術館・個人コレクションを調査した。
 '69 文部省大学設置審議会専門委員となる(~'76)。また、同.7 武蔵野美術大学学長代行、'74.4 同大学評議員となる。「国華」を中心に数々の論文と作品紹介を発表するとともに、朝日新聞社刊行の「東洋美術」、小学館刊行の「原色日本の美術」「名宝日本の美術」、講談社刊行の「水墨美術体系」などで美術全集の編集委員・監修者として尽力した。文化財行政にも大きく寄与し、'72 高松塚古墳総合学術調査会委員、東京国立博物館評議員なども務めた。長らく国宝・重要文化財の指定に深く関与した。
 '77.4 勲3等旭日中綬章。同.8 国華主幹に就任した。'78.3 武蔵野美術大学を停年退官し名誉教授。退職後も人望あつく、同.12 武蔵野美術大学ならびに武蔵野美術短期大学の学長に迎えられ、学校法人武蔵野美術大学理事となって学校の運営に携わった。'89(H1)「国華」創刊百年記念事業の実現に老齢を省みず尽力し「国華賞」の創設を果たした。'90 「国華」主幹を退任し顧問。
 中国古代より現代までの絵画全般から朝鮮・日本の絵画におよび、文献を駆使した基礎研究を徹底して行う一方で、それまでの作品から遊離した高踏的な美学や画家の系統論に終始していた中国絵画史を、作品の実査と鋭い鑑識にもとづいて再検証し、実証的な近代学としての水準に高めた功績はきわめて大きい。具体的な形の変化に中国美学の最高理念をなす気韻論の変遷をあとづけながらも、作品分析の隘路に陥ることのない米澤の統一的視点に立った実証的研究は、近代における西洋美術の方法論を直接的に応用する試みと一線を画している。共感をもって語られる画家の精神の洞察と中国の自然や風土への深い見識こそが、「国華」誌上における膨大な数の優れた作品紹介とともに、その研究を支える母胎であった。唐代の画家呉道玄や明清の文人画家、南宋の繊細な絵画への愛着は、豪放磊落かつ繊細な審美眼をあわせもつ米澤の人柄を偲ばせる。日本美術についても東アジアを視野におさめた広い観点から検証する必要性を唱え、研究動向の指針となった。主要論文はすべて『米澤嘉圃美術史論集』に収録されている。
 肝機能障害による呼吸不全のため、東京都新宿区の慶応大学病院で死去した。享年87歳。

<日本美術年鑑>
<世界美術全集>
<20世紀日本人名事典>
<中国絵画所在情報データベース>


墓所

*墓石は和型「米澤家之墓」。右側に墓誌が建ち、父の米澤萬陸から刻みが始まるが、萬陸ではなく戸籍の本名の米澤萬六と刻む。母の貴勢子はキヨ(S8.3.8没・59才:旧姓は松本)と刻む。米澤嘉圃の妻は信子(H15.9.16没・62才:旧姓は加藤)。'34.2 加藤信子と結婚。以後、二男一女をもうけるが、長男の嘉修(S12.11.22没・2才)、長女の輝美(S25.7.10没・7才)は早死し同墓に眠る。二男は米澤賢治(R3.5.1没・81才)。


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