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よねざわ まんりく

米澤萬陸

よねざわ まんりく

1868(慶応4.2.5)〜 1931.6.29(昭和6)

明治・大正期の鉱業家

埋葬場所: 8区 1種 6側

 秋田県鹿角郡錦木村末広(鹿角市十和田錦木)出身。戸籍上の本名は萬六(墓誌には米澤萬六)。幼名介吉、高烟山人と号す。米澤家は代々南部藩士にして祖父の米澤織右衞門、父の米澤東十郎は盛岡に出仕した。直接には毛馬内城代桜庭氏の配下に所属した。
 8歳の時に父を亡くす。母が再婚した後は、姉弟と共に祖父母に育てられた。祖父より素読、習字の手解きを受け、また漢学や詩文等の文学も学んだ。小学校に入ってからは 内藤十灣先生(湖南博士の先考)門下の板橋忠八の薫陶を受ける。14歳の時に祖父を失い、先祖伝来の家屋敷をも手放すことになり没落し一家離散の憂き目にあう。祖母を連れて離村し、柴平村小学校の代用教員となる。
 二年後、志を立て工部省の直営の小坂鉱山に赴き採用され事務見習となる。1884.12(M17)小坂鉱山は藤田組に払下げられたが、引き継がれて、日給12銭の事務見習いを続けた。明治時代中頃の1円の価値は約2万円であるため、1銭の価値は約200円である。よって、16歳であった萬陸の日給は2400円程度であった。
 その後、本人の希望により分析係雇に転じ技術者としての第一歩を踏み出す。科学的知識の必要を痛感し、勤務の余暇、当時鉱山技師として来任していた仙石亮(後の小坂鉱山所長)に数学、物理、化学、英語等を学んだ。
 1892.12 正社員に昇任。24歳で給与は月給十五円(現在の価格で30万円)になる。1897.7 精鉱課分析係長に抜擢せられ、1899.1 精鉱課乾錬係長、1906.6 精鉱課精鉱係長を歴任。'08.1 精鉱課長に累進。この間、1900 黒鉱製錬法を発明し、その功により特別褒章を受けた。以後、技術の改良によりしばしば表彰された。'11.5 藤田組を辞す。
 藤田組退職後は、久原鉱業所(久原鉱業株式会社の前身)に招聘され、本部調査課技師に任じ、'12.5 日立鉱山分析課長となり、同.10(T1)久原鉱業株式会社(日本鉱業会社の前身)創立後も引続き同山にありて分析課長、買鉱課長を務めた。
 '18.2(T7)佐賀関製錬所長に進み、'23.11 日立鉱山所長に就任した。傍ら、'27.9(S2)関東配電と合併した日立電力株式会社の取締役にも就いた。'28.11 すべての事業を勇退。享年63歳。

<「鹿角出身産業家列伝(第一輯)米澤萬陸氏略伝」鹿友会誌>


墓所

*墓石は和型「米澤家之墓」。右側に墓誌が建ち、米澤萬陸から刻みが始まるが、萬陸ではなく戸籍の本名の米澤萬六と刻む。妻の貴勢子はキヨ(S8.3.8没・59才:旧姓は松本)と刻む。長男の米澤嘉圃は美術史家。嘉圃の妻は信子(H15.9.16没・62才)。

*米澤萬陸と貴勢子の間には四女二男を儲ける。長女の縫子は理研真空管工業会社社長・工学博士の秦常造に嫁ぐ。次女の篠子は向島造船所常務取締役の我妻聰一に嫁ぐ。三女の五百子は日本軽金属・東京芝浦電気顧問の中澤眞二に嫁ぐ。 四女の雅子は東洋拓殖会の柳瀨一廣に嫁いだ。長男の嘉圃は美術史家。二男の重男は南米に赴き柘植に従事した。


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