メイン » » » 米川正夫
よねかわ まさお

米川正夫

よねかわ まさお

1891.11.25(明治24)〜 1965.12.29(昭和40)

大正・昭和期のロシア文学者

埋葬場所: 7区 2種 8側

 岡山県高梁町出身。質商の米川常太郎・利喜の四男として生まれる。異母長姉の米川暉寿(てるじゅ)は筝曲家。 次兄の米川親敏(米川琴翁)も筝曲家。親敏の娘で姪の米川敏子も筝曲家で人間国宝、甥の米川恭男も筝曲家。 末妹の米川文子(13-1-26-1)も筝曲家で人間国宝。三兄の清の娘で姪の操(2代目米川文子)も筝曲家で人間国宝。
 少年時代からロシア文学に親しみ、東京外国語学校ロシア語学科に在学中の1910(M43)に、級友の中村白葉らと雑誌「露西亜文学」を刊行し、ロシア文学を日本に紹介するための翻訳を本格的に始めた。 '12首席で卒業。鉄道省の採用試験に失敗し、しばらくフリーランスの翻訳家として活動後、三菱に入り長崎支店に勤務。 次いで旭川第七師団のロシア語教師として赴任し、'16(T5)第七師団を辞め帰京し、新潮社の依頼を受けて『カラマーゾフの兄弟』を翻訳。 '17大蔵省の嘱託としてペトログラード(レニングラード)に駐在するも'18ロシア国内戦の十月革命に遭遇し帰国。 大蔵省退職後、横浜のロシア領事館の通訳を経て、シベリア購買組合の神戸支店に2年間勤務した。'22東京に戻り、陸軍大学でロシア語の教官を務める。
 教官時代にたまたま神田の神保町の古本屋でドストエフスキーの原書を手に入れると、その魅力に取りつかれてしまい、出版のことなど考える暇もなく、すぐに翻訳に着手した。 こうして、『白痴』『悪霊』などを翻訳し、'29(S4)中村白葉と『トルストイ全集』を共訳して刊行。 その後、『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』やチェーホフの四大戯曲など、19世紀ロシア文学の主要作品から現代文学まで、膨大な量の翻訳を手がけた。 この間、'41ショーロホフ『静かなドン』の翻訳発表の可否について内務省検閲課に相談した事が問題視され、陸軍大学教授を「依願免官」という形で事実上の解雇とされた。 その一ヵ月後、以前自宅に下宿させていたミハエル・コーガン(後に貿易商・タイトー創業者、ロシア系ユダヤ人の実業家)が麻雀賭博罪で逮捕されたことで、巻き添えを食い米川も同罪で逮捕された。 その上、ソ連のスパイ容疑者として原宿署で取り調べを受け、11日間拘留に処せられる。
 全31巻の『ドストエーフスキイ全集』を刊行し始めるが、第4巻を持って紙不足のため中止となる。'44善隣外事専門学校にロシア語主任教員として勤務。 一時、北軽井沢の別荘に疎開をし、終戦後、東京に戻り、'46早稲田大学教授、明治大学でもロシア語を教える。 教壇に立つ傍ら、日本ロシア文学会長を務め、日ソの文化交流にも力を注ぎまがら、個人の訳で『トルストイ創作全集』などを翻訳し、'53『ドストエーフスキイ全集』の翻訳で読売文学賞受賞。訳書は多く、『チェホフ戯曲全集』、トルストイ、ゴーリキー、レオーノフの作品など多数。 訳書以外に、『ロシア文学史』(1934)、『ソヴェト旅行記』(1953)、『ドストエフスキー研究』(1956)の著書もある。
 筝曲家一家で育ったこともあり、琴への造詣が深く、玄人並の技量を持ち、宝生流の謡曲を愛し、小枝を興ずる粋狂人であった。 '38同郷の内田百聞と共に素人の琴三絃の会「桑原会」(そうげんかい)を主宰した。享年73歳。

<コンサイス日本人名事典>
<人間っておもしろい>


*墓は納骨堂で、「米川家の墓」とあり、右側に墓誌があり米川正夫の名を見ることができる。墓誌には享年75歳と刻む。

*米川正夫の子は5人。長男の常夫は15歳で早世、次男の文男は2歳で早世。
 三男の米川哲夫(よねかわ てつお 1925-)は東京外国語学校露語科を経て東京大学史学科卒業。ロシア文学者・ロシア近代史家で東京大学名誉教授。
 四男の米川和夫(よねかわ かずお 1929-1982)は善隣外事専門学校露語科を経て早稲田大学露文卒業。ロシア文学者・ポーランド文学者で明治大学教授。
 五男の米川良夫(よねかわ りょうふ 1931-2006)は早稲田大学仏文卒業。イタリア文学者で國學院大學教授を務めた。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・や行 | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。