高知県香美郡大楠植村(土佐山田町:香美市)出身。山下家は代々紺屋業であったが、父の山下佐吉は高知県師範学校(1期生)を卒業し小学校教員となった。父が相川小学校に勤務しているときに長男として生まれる。母は由宇。弟は陸軍大将の山下奉文(16-1-8-6)。
1885(M18)母が弟を身籠っている時に、父の佐吉は更に志を立て医者に転じるため長崎に遊学。1887 高知市の小松医師について実地修業を行い、その秋に医師免許取得、長岡郡東本山村川口にて開業医となった。なお佐吉は医者の他、大杉村の村会議員を3期12年務めた。佐吉は「ぼやぼやしとると時代に取り残される」と座右の銘を「終始奉公」としていた。二人の息子に「奉」の字を入れたのもそれが理由である。
奉表は5歳の時より開業医となった父の背中を見て育ち、医学を独学で勉強するようになる頭脳明晰であった。1901 単身大阪に行き、医師の元で書生となり苦学して、その年に17歳にして医師の免許を取得。更に父の反対を押し切り上京。済生学舎に学びながら内務省医師の後期試験にも合格。しかし、若すぎて年齢制限により開業ができず、大阪で漁船の検疾医をした。
1903.12(M36)一念発起し、海軍軍医学校に入学。海軍軍医候補生を経て、'04.9 海軍軍医少尉に任官。同.12「秋津洲」乗組となり、日露戦争に出征。広瀬武夫少佐指揮下の旅順港閉塞隊に加わり、功績が認められ金鵄勲章功5級を拝受。その後「高千穂」「松島」「日進」の各乗組などを歴任し、'08.9.25 累進し海軍軍医大尉となった。
'09.12 舞鶴海軍病院付となり、'10.12.1 鎮海防備隊軍医長兼臨時建築部支部員。'12.5 海軍軍医学校で甲種学生として学ぶ。'13.5(T2) 佐世保海軍病院付、「八幡丸」乗組などを経て、'14.12.1 海軍軍医少監に昇進した。イギリス駐在などを経て、'19.9.1 日向軍医長、同.9.23 軍医中佐となり、'20.12.1 造兵廟軍医長、'22.11.1 馬公要港部軍医長、'23.4.1 兼務して馬公病院長になる。同.11.10 呉病院第2部長心得兼教官、同.12.1 海軍軍医大佐に進み、呉海軍病院第2部長兼教官に着任した。日本赤十字社広島支部呉海軍委員長など務める。'25.12.1 舞鶴要港海軍病院長に就任。'28.12.10 (S3)海軍軍医少将に昇進し、軍令部出仕となる。同.12.20 待命となり、'29.2.25 予備役に編入された。退官後、呉市で医院を開業した。
気骨ある性格で、縁談が上司の娘との間に起ったとき、山下家の財産を問われると「寸土もなし。墓のみ」と率直に言ったことに上司が感心して縁談がすぐに成立したと言われる。開業後、間もなくして病により逝去。享年50歳。
*墓石は正面に三基建つ。真ん中は「山下家之墓」。右側が「海軍軍醫少将 従四位 勲三等 功五級 山下奉表 墓」。裏面「昭和七年四月八日卒去 行年五十一才」。左側が「陸軍軍醫大尉 正七位 勲六等 功五級 山下眞一 墓」。裏面「昭和十四年七月八日 満州国ノモンハンに於いて戦死 行年二十九才」。
*1910.6.10(M43)山下奉表は大阪出身の中川頼次の4女の くに と結婚。4男を儲ける。長男の山下真一(同墓)は陸軍軍医大尉で戦死、二男は昌夫、三男は巌、四男は九三夫(16-1-8-6)。九三夫は子供がいなかった山下奉文・ヒサ夫妻(共に16-1-8-6)の養子となった。
*山下奉表の臨終を看取った弟の山下奉文は、奉表の子、4人を一室に集め「山下家には金も財産もない。お前たちは兄弟四人仲よくして、ただ突っ走れ! 一人でもぐれたり、横道にそれたりしたら、みな学校に行けなくなるぞ。いいか!」と訓示をした。以降、4男子はぐれることもなく、内3人は熊本の旧制第五高等学校、熊本医大を出て医師になった。
*山下九三夫(4男・山下奉文の養子)は東洋医学家であり、東海大学医学部麻酔学科教授、国立病院医療センター麻酔科などで、針灸の効果機序ならびに治療に関する研究などを行い、臨床体温研究会設立など、鍼灸とハリ麻酔の権威として活躍した。