安芸国土手町(広島県広島市南区稲荷町)出身。広島藩士の和合善男と梅子の長男。祖父の和合貫太夫の長女の浅子は西川理三郎の妻であり梅子が誕生するが、浅子が33歳の若さで亡くなったため、梅子は和合貫太夫の養女として養われ、18歳の時に和合善男と結婚し、英太郎が生まれる。叔父の西川虎之助(母の梅子の弟)は国内初の晒し粉・ソーダの開発などで初期の紙幣(日本銀行券)製造に貢献した化学技術者。
岡山中学校卒業後、1888(M21)上京。1890 渋沢栄一や浅野総一郎などが株主として名を連ねる青山製氷所が設立されると入社。この時代は冷凍庫がなかった時代であったため、寒冷地から天然氷を切って輸送し販売、氷を貯蔵した氷室で食品保存を行っていた。このため大量の氷を扱う製氷業は大きなビジネスであったが、青山製氷所の経営はかんばしくなく、1892.3 廃業。ここで培った経験はのちに発揮されることになる。
1897 気候によって価格が左右されやすく供給も不安定な天然氷に代わり、本格的な製氷機(機械製氷)を導入した機械製氷株式会社の設立の機運が採氷業のパイオニアである中川嘉兵衛らによって高まる。しかし、この会社設立人の中川嘉兵衛が設立直前に死去したため、中川の息子の佐兵衛や西川虎之助らが東京本所で立ち上げる際に、和合も発起人の一人として声がかかり参加した。設立後、機械金物の技師 兼 支配人となる。機械はイギリス製のデラバーン方式のアンモニア蒸溜製氷装置で能力は50トン、当時としては最高のもので、創業以来着実に営業実績を伸ばした。後に中川佐兵衛に代わり社長に就任。
「人工氷は有害なもの」という風評被害を払拭して、天然氷のシェアを抜き返した人工氷の確立に成功することになる大きなきっかけは、明治30年代のコレラと赤痢の流行だった。人々の衛生に対する意識が高まってきたことが転換点となる。
当初は飲料用として普及したが、肉や魚、野菜など生鮮食品の腐敗や病原菌の繁殖を防ぐため、冷蔵保存用に氷が使用されるようになっていく。日本橋の魚市場で初めて氷が使われたが、天然氷ではその需要をまかないきれず、機械製氷にとって代わっていった。さらに明治時代後半から都市部の裕福な家庭を中心に、氷を入れて冷やす冷蔵庫 (氷冷蔵庫)が普及し始めたことも後押しになる。
だが、旺盛な需要に応えるかたちで、製氷会社が全国各地に乱立すると、激しい商戦が展開されるようになった。価格競争で苦境に陥る会社が現れるなど、製氷業界は疲弊し、混とんとした状況を打開するため、製氷業界を統一することでさらなる発展をもたらすために立ち上がる。
1907 東京製氷を吸収合併して日本製氷となったのをきっかけに、'08 大阪製氷、静岡製氷を合併吸収。その後も同業者競争渦を排除するため毎年のように限りない買収・合併を繰り返す。'12〜'16 東海地方に散在する10社、さらに和歌山、岡山、大分、熊本などの合計13社を相次ぎ傘下に収め、'17(T6)日本製氷は、全国の製氷のうち40%を占めるまでに成長した。
その後も、合併により企業規模と業績を拡大し、'19 最大のライバル下関の東洋製氷との対等な合併が成立し、日本一の製氷会社の日東製氷を設立し社長となった。'25 日本冷凍協会(日本冷凍空調学会)を組織し推されて初代会長となる。
製氷能力の増大に尽力する傍ら、透明な氷を作るために和合式かくはん器を考案している。1914年度は約32万トンだった生産数量は、1925年度には約127万トンと、およそ10年で4倍になり日本の製氷・冷凍業界の発展に貢献した。また、'23.9.1 関東大震災では、焦土と化した東京で多くの市民が苦しんでいた時に、会社の貯氷庫を開放して、市民に氷を提供した。経済的な事情に苦しむ優秀な学生40人以上に学資を与えて、支援するなど社会貢献活動にも力を入れた。
'28(S3) 関西の老舗・龍紋氷室と合併し大日本製氷と改称し社長に就任。その他、10数社の重役も兼ねた。'33 病気のため社長を辞任。日本の製氷産業に尽力したと同時に、現在で言うM&Aの先駆け的手腕を発揮した経営者であった。享年69歳。従6位に叙せられた。なおその後、大日本製氷は和合没後も日本食料工業、日本水産、帝国水産統制などと買収・合併を経て、現在のニチレイとなる。