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わだ ちゅうしち

和田忠七

わだ ちゅうしち

1909(明治42)〜 1969.2.27(昭和44)

昭和期の実業家、陸軍工作員

埋葬場所: 5区 1種 9側

 陸軍砲兵少尉。陸軍士官学校の出ではなく高商出の予備士官であったが、梅機関で有名な参謀本部の影佐禎昭大佐(後に陸軍中将)に見出され、商社勤務の経歴の商才と柔道5段、そして茫洋な性格が買われて、予備役編入の上、上海で商売を始めるよう指令を受ける。
 当時、上海にはヨーロッパにおけるナチスドイツの脅威から逃げて来たユダヤ人が多く移住していたため、ユダヤ人の動静を探るため上海に民間人として送り込まれた。また上海の地は英米支配下の租界地である敵性地域(中国が介入しない無政府地域)であった。
 和田は上海で店を開き、軍の後ろ盾を得て、衛生陶器を中心に商売を広げながら、参本の指示を待った。商売が軌道に乗り、1938.2.18(S13)上海のガリア・ビルに「大和洋行」を設立。'40ドイツと日本の思惑が一致した工作「ルーズベルトの暗殺」が密かに計画され、満州の一部にユダヤ人の国を建設する後押しをするという約束で、参本は12月に和田を在郷軍人会会長に就任させ、ユダヤ人達に軍事教練を始めるよう命令した。当時、提籃橋周辺のユダヤ人街のユダヤ人は日本人に管理されていた。そこでは日本人による軍事教練も行われていた。 そのため和田の役割は、その軍事教練の教官となり、訓練を実施するとともに、陸軍の工作員として秘密工作に適したユダヤ人をピックアップすることであった。翌'41他の予備役少尉と共に上海在住のユダヤ人自警団に軍事訓練を開始(フリッツ作戦=星工作)した。
 '43上海でミステリアス・ダンサーとして活躍していたミス・マヌエラ(山田妙子・同墓)と出会い、そのダンスに魅了され、熱烈なファンとなった。和田は既婚者であったが、後に妻と離婚し、マヌエラと再婚を決意した。マヌエラにとっては三度目の結婚。
 終戦となり、'46.4マヌエラと共に日本へ引き揚げる。 帰国と同時に米国に身柄を確保され、マヌエラと共に日本のスパイとして米国の陸軍情報部の取り調べを受けた。釈放後は、マヌエラが東京のNHK側に喫茶店「モレナ」を経営。その後、内幸町に戦後初のナイト・クラブ「マヌエラ」を経営。そのアシストをした。波瀾に満ちたマヌエラと忠七の生涯を描いた作品は多く、小説『ルーズベルトの刺客』(著者:西木正明)のモデルや、マヌエラの自著『上海ラプソディー 〜伝説の舞姫マヌエラ自伝〜』など多数有る。享年59歳。

<ルーズベルトの刺客(西木正明)など>


墓所

*墓所には二基、十字架を刻む洋型墓石と五輪塔が建つ。洋型墓石の前面は「和田忠七 / 妻 妙子 / 我は復活なり / 生命なり / 山田富紗子」と刻む。左面に「昭和四十四年四月 山田シモ建之」と刻み、裏面は「昭和四十四年二月二十七日歿 忠七 五十九才」と刻む。それ以外は刻まれていない。マヌエラ等の刻みもない。五輪塔は正面は「荒牧家先祖世々霊」と4名の戒名、右面は「岩崎家生亡」と2名の童子と女性の戒名、左面は「藤田家先亡」と2名の童子と童女の戒名、裏面は二名の戒名で台座に「昭和十四年十二月八日 功徳主 荒牧直子」と刻む。


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