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つるた しかきち

鶴田鹿吉

つるた しかきち

1857(安政4)〜 1914.12.6(大正3)

明治期の海軍軍医(中将)

埋葬場所: 9区 2種 10側 27番

 筑後国柳川(福岡県)出身。筑後柳川藩士の子に生まれる。兄に陸軍少将の鶴田政徳(同墓)がいる。1873年に日本海軍の招きで来日し、海軍軍医寮で海軍軍医教育に当たったイギリス人医師のウィリアム・アンダーソンの門下として医学を修めた。
 1880.2.5(M13)軍医副、同.3.21龍驤乗員に着任。1881.12.17少軍医を経て、1887軍医少監に昇格し、1888.6.15兵学校軍医長に就任した。1891.4.22横須賀鎮守府衛生会議員、1893.1.20横須賀鎮守府海兵団軍医長、1895.8.18呉鎮守府海兵団軍医長、1896.4.13横須賀海兵団軍医長、同.12.7八島回航委員、軍医長を歴任し、1897.11.30帰着した。
 同.12.1軍医中監となり、同.12.15横須賀病院長心得になった。1897.12.27軍医大監に昇格し、横須賀病院長に就任した。1898.4.1医務局第二課長、1900.3.2横須賀病院長に戻り、同.11.29常備艦隊軍医長、1901.10.1呉病院長を経て、1902.5.27〜同.8.9海軍軍医学校長に任ぜられた。同.8.9医務局第二課長、1903.11.10医務局首席局員、1904.1.19舞鶴病院長に着任した。
 1905.11.2海軍軍医総監(少将相当、後に中将)に昇進し、1906.11.24呉病院長に就いた。1910.12.1待命、1911.12.1予備となった。のち東京慈恵医院副院長をつとめた。

<帝国海軍提督総覧>
<講談社日本人名大辞典>
<20世紀人名事典>


墓所

*墓所には四基。正面右から「海軍軍醫中将 鶴田鹿吉 / 室 ヒサ 之墓」、真ん中「陸軍少将 鶴田政徳 / 妻 トモ 之墓」、左が「鶴田家之墓」。左手側に古い墓。鶴田鹿吉の墓石の裏面は「昭和十三年三月 鶴田四郎 建之」。左面に「青山墓地より改葬」と刻み、鹿吉からの墓誌となっている。鶴田政徳の墓石の裏面は「政徳 大正十三年六月二十五日歿 / トモ 昭和十七年四月二十五日歿」。左面は「鶴田政以 辰雄 菊 勝 セキ 昭和三十七年一月 青山墓地より改葬」と刻む。鶴田家の墓石の裏面は「昭和三十一年十月 鶴田睦雄 建之」と刻む。


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