静岡県出身。1914.12.19(T3)海軍兵学校卒業(42期)、同期に小林謙五(22-1-27)らがいる。海軍少尉候補生として阿蘇乗組。'15.8.27 鞍馬乗組、同.12.13 少尉に任官。'17.12.1 中尉に進み、水雷校普通科で学ぶ。'18.5.20 砲術校普通科で学ぶ。同.12.1 潜水艦隊付、同.12.13 横須賀鎮守府付 兼 関東乗組となる。'19.2.1 樫乗組、同.8.5 第13潜水隊付、'20.1.8 呉防備隊付を兼務する。同.5.19 第11潜水隊潜水艦長心得、同.9.15 潜水校教官を兼務。同.12.1 大尉に昇格し、水雷校高等科学生として学ぶ。
'21.12.1 第28潜水艦乗組、'22.6.10 第40潜水艦乗組、'23.6.1 八雲分隊長、'24.4.15 水雷校教官 兼 分隊長、'26.4.1 呂20潜水艦長に着任。同.12.1 少佐に進級し、'27.4.1(S2)潜水校甲種学生として学ぶ。同.7.1 連合艦隊司令部付、伊23潜水艦艤装員長を経て、'28.4.28 伊23潜水艦長に就任。'29.3.10 水雷校教官 兼 分隊長 兼 潜水校教官、'31.12.1 中佐に進み、軍令部参謀 兼 海軍大学教官となる。
'33.10.20 第14潜水隊司令、'34.3.20 呂27潜水艦長を兼務。同.11.15 第24潜水隊司令、'35.11.15 大佐に昇進し、第9潜水隊司令と潜水艦畑で活躍してきたが、'36.12.1 厳島艦長に補される。'37.12.1 舞鶴防備隊司令、'39.4.15 第6防備隊司令、同.10.5 艦政本部出仕、同.11.15 舞鶴工廟造兵部長を歴任。'41.10.15 少将となり、'42.6.15 横須賀工廟造兵部長となる。
【サイパンの戦い】
この頃の日本はミッドウェー海戦敗戦を境に海洋の主導権が大きく動揺され、以後の戦局も甚大な影響をもたらした。御前会議は絶対国防圏を設定し戦略守勢に転換するとともに、戦時体制を整備して軍事生産の拡大に努める。その一角のサイパン島に赴任。'43.10.1 第5特別根拠地隊司令官に就任。456名の兵士と第五通信隊369名の兵員を率いた。'44.3.1 第5建設部長 兼 第2海上護衛隊司令官を兼務。
同.6.15 アメリカ海軍艦艇はサイパン島へ艦砲射撃を開始。やがて艦載機による空襲も加わえた。そしてサイパン島への上陸が開始される。日本軍は米軍を水際で撃退する戦術を採っていたが、米海兵隊の上陸第一波に対する反撃は凄まじく、海岸近くに布陣していた日本軍の陣地は破壊されていった。米海兵隊は上陸に成功したが、当初の予定を上回る損害を受け、日本軍守備隊の反撃がいかに激しかったかを物語った。しかし、日本軍部隊の多くは過半の兵力を失う。
大本営はサイパン島増援作戦「イ」号作戦に加えて、同.6.19 開始される予定の機動部隊と基地航空隊による「あ」号作戦でのアメリカ艦隊撃滅を期待し、サイパン奪回作戦となる「ワ」号作戦も上奏した。これはサイパン守備隊残存と「イ」号作戦の増援である歩兵第145連隊でサイパン要域を確保しつつ、「あ」号作戦でアメリカ艦隊に打撃を与えた後に、第9師団と第68旅団と空挺部隊等でサイパンに逆上陸を果たしアメリカ軍上陸部隊を撃滅しようという作戦であった。サイパン奪回にかかる全作戦は総称で「Y号作戦」と呼称された。
しかし、「あ」号作戦は惨憺たる結果に終わった。この失敗により「ワ」号作戦はもはや現実不可能となり、増援の「イ」号作戦については海軍に積極的意図があればやってもよいという消極的な対応となった。同.6.22-23 陸海軍の間でサイパンへの対応について協議された結果、もはや連合艦隊にマリアナ海域に突入できる戦力がないことや、制空・制海権が無い中での増援部隊の海上輸送は困難との事で、サイパン奪回作戦の断念が決定された。同.6.24 東條英機と永野修身がサイパン奪回の断念と中部太平洋方面に対する今後の作戦指導について上奏したが、昭和天皇は納得せずに、翌日、自ら再度元帥会議を開催し再検討させた。しかし、結論は変わらず。これによりサイパンは実質的に放棄が決定された。
その後もサイパン残党日本軍は水際逆襲を行ってきたが、米軍の圧倒的な物量の前に銃火・砲火が降り注ぎ、日本軍歩兵はほぼ戦死していった。日本軍守備隊への補給も援軍もない中、残存兵力は洞窟に立てこもり最後の一兵迄抗戦を続けていた。
同.7.5 サイパンの日本軍司令部は協議の結果、遂に、同.7.7 午前3時30分をもって最後の総攻撃を行うことを決定した。海軍の南雲忠一司令長官、陸軍の斎藤義次師団長の連盟での命令書が作成され、この訓示は各部隊の残存将兵に伝えられた。そして、第31軍参謀長の井桁敬治少将は日本の大本営参謀次長宛に決別の打電を打った。これにより軍民入り混じった混成部隊でおおよそ3,000名が「バンザイ突撃(アタック)」により散り、サイパン島は全滅した(サイパン島守備隊玉砕)。日本軍のバンザイ突撃で被ったアメリカ軍の損害は1,500人を超えたとされる。同.7.9 追い詰められた多くの日本兵や民間人は、アメリカ軍による投降呼びかけに応じることなく自決し、またはバンザイクリフやスーサイドクリフから身を投げた。「サイパンの戦い」では、日本兵の戦死・自決は約4万人(陸軍約2万5千人、海軍約6千人が戦い、生き残り捕虜になったのが約800人前後)、民間人の死者は約1万人弱。米兵の戦死者は約3,600名。サイパンを占領したアメリカ軍は、ここを拠点に日本本土爆撃を本格化していくことになる。サイパン陥落の結果として本土爆撃が本格化しては継戦が困難だと判断され、東條内閣は崩壊した。
辻村武久はサイパン島玉砕の日である、7月8日に残党兵らと共に玉砕戦死(墓誌には8日と刻む)。ただ玉砕が決定した 7月5日に自刃したという情報もあり詳細は不明。享年51歳。没後1階級特進し、中将となった。