福岡県柳河町(柳川市)出身。炭鉱に勤務していた十時精一、イツ子の五人弟妹の長女。父の炭鉱の仕事の都合で筑豊や福島県常磐などを経て、小学生の時に一家で東京に定住。父は俳人でもあり、同郷の北原白秋(10-1-2-6)とは福岡県立中学伝習館の同窓生。東京定住後は、しばしば小田原の白秋の家に延子も一緒に遊びに行った。
東京女学館卒業。卒業した年に河井醉茗主宰の文芸誌「女性時代」と出合う。小壷のペンネームで投稿を始め入選した。以後、河井醉茗に師事し社友となる。
1939(S14)海軍省に勤務していた渡部正三(同墓)と結婚。渡部姓となり、本名は渡部延子。
婚約したとき、河井醉茗から詩集の出版を勧められ、'40.1 投稿してきた作品を収録した『花季』を刊行。この時期は戦争が色濃くなってきている時期であったため、詩集は軍服にまつわる作品などもあるが、ほとんどが植物や自然が対象のものである。初めての詩集であったが、詩人の佐藤惣之助から柔らかな感性があると評価され、詩壇の大御所の川路柳虹(10-1-14-12)や百田宗治からも感想が寄せられるほど注目された。
'42 子宝に恵まれるが、長男(渡部瞭)は病弱であったため藤沢市鵠沼に転居。二男も誕生する。戦後、'50 夫が急逝する。一時は二児を抱えて実家に身を寄せたが、再び鵠沼に戻り、茶の行商や親類の会社に勤務し一家を支えた。やがて子どもたちも成長し、共働きの長男夫妻に代わって孫の世話をした。孫育ては大変だが生きがいでもあり、PTA活動にも積極的に参加。
孫との会話がそのまま詩になると、創作活動も活発になる。詩作の傍ら、植物を愛し研究する植物愛好グループ「道草会」に入り、探査会や研修会で専門家の指導を受け植物分類学を学ぶ。登山や旅行を好み鉢伏山や裏磐梯、上高地を旅をした。
'86 四十六年ぶりに第二詩集『草の径』を出版。その後も創作意欲は衰えることなく、'88 日本詩人クラブに加入。'89(H1)京都の詩誌「都大路」の会に加入し同人となり、溢れ出る言葉を綴った。77歳の時に「都大路」に時代を先取りした詩「あたしの脳髄をニュートリノが突き抜けて行く時 / チェレンコフ光を感じると思うのよ」を発表。柔らかな感性、溢れる言葉、時代の動きに敏感な詩人であった。享年77歳。'94.12 長男の渡部瞭が編集者として『たびらこ:十時延子遺稿集』が出された。