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とみなが たろう

富永太郎

とみなが たろう

1901.5.4(明治34)〜 1925.11.12(大正14)

大正時代の詩人

埋葬場所: 22区 1種 10側 41番(富永氏墓)

 東京外国語学校(東京外語大)卒業。「山繭」同人となり小林秀雄・中原中也らを知る。ボードレール・ランボーを愛読、個性ある詩人として注目された。 京都で中原中也と交友を深めるが、中原に接した多くの人が感じるように次第にある種の嫌悪感を抱く。 24(T13)最初の喀血後帰京するが、年が明けるとともにひどくなり、臨終の床に中原を呼ぶことを拒否した。中原が対面したのは臨終後である。

<コンサイス日本人名事典>
<HP文学者掃苔録>


 東京市本郷区(文京区)出身。父の謙治は尾張藩士族出身で鉄道省事務官から青梅鉄道社長を歴任。母の園子は立教女学校からお茶の水女子高等師範学校に学び、卒業後日本女学校、跡見女学校の国語教師。
 1915(T4)府立一中在学中に懸賞文に「田舎」を初投稿し二等になる。3年後に同じ懸賞文で「わが尚友」が一等となった。 1919仙台にある第二高等学校入学。最初理科系、特に生物学分野を志すがしだいに文学へ親しみを持ち、'21ボードレールに傾倒し、散文詩を訳す。同年夏に最初の詩作「深夜の道士」、翌月には「夜の讃歌」を書く。 同時期に人妻と不倫的な関係となり、その夫に告発され両親との話し合いの中、退学し帰京。帰京後、詩作しながら、一高受験の勉強をするが不合格。しかし、東京外国語学校仏語科に合格し'22入学。 入学後は詩作とボードレール翻訳に傾倒。最初は真面目に学校へ通っていたが、不眠と神経衰弱が激しくなり出席日数不足で落第。以降は休学状態。'23本格的に詩作活動を行い、油彩や水彩の作品も多く残す。 11月に自活を志し上海へ行くが、二ヶ月で帰国。帰国後、画家として立つことに決め、本郷の菊坂絵画研究所に通う。油彩の作品を描く傍らで詩作も続ける。親友の正岡忠三郎が京都大学に入学したのを機に彼の下宿で同居。 同じ時期に親友の冨倉徳次郎の紹介で立命館に通っていた中原中也を知る。'24小林秀雄に同人雑誌「青銅時代」へ加入をすすめられる。同年10月に最初の喀血。 同じ月に「秋の悲歎」を小林秀雄に送る。翌月に小林秀雄らが同人である同人雑誌「山繭」に加入。同月中原中也と関係が悪化。 12月「山繭」創刊され「橋の上の自画像」「秋の悲歎」発表。 同月帰京しレントゲン検査をしたところ肺尖を宣告される。'25喀血を繰り返す中、「山繭」にて詩作を発表し続ける。 肺炎と肋膜炎併発、面会謝絶になることもあったが、その前後に頻繁に中原中也が見舞いに来る。 しかし中也の饒舌を嫌いはじめる。大病の中でも詩作活動を続けるが10月に大喀血し、11月5日危篤、11月12日酸素吸入器のゴム管を「きたない」と言ってみずから取り去り永眠。
 翌年11月1日「山繭」(富永太郎追悼号)創刊以来同誌に発表した全詩篇を再録。小林秀雄は「富永太郎」、中原中也は「夭折した富永」を掲載。'27(S2)村井康男編集で『富永太郎詩集』を刊行。 没後7年後の'32母の園子死去にもともない、多磨霊園に太郎の遺骨と共に葬られる。その後、親交があった著名者から富永太郎にまつわる書が多く刊行された。 後、大岡昇平(7-2-13-22)が富永太郎の系譜や未発表詩、書簡などをまとめた『富永太郎詩集』を発表。

<これらまとめたものは大岡昇平の書物の引用>


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