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とがわ しゅうこつ

戸川秋骨

とがわ しゅうこつ

1871.2.7(明治3)〜 1939.7.9(昭和14)

明治・大正期の英文学者、能楽評論家、翻訳家

埋葬場所: 21区 1種 24側 16番

 肥後国玉名郡岩崎村(熊本県玉名市)出身。戸川等照とジュンの長男として生まれる。本名は明三。秋骨は号。別号に棲月(せいげつ)、早川鴎村(おうそん)、早川漁郎(ぎょろう)、蒼梧桐(そうごとう)、長帆(ながほ)、かげろふ などがある。父の等照は熊本藩の支藩高瀬藩の藩士で家老の原家から養子入りしていた。1877(M9)一族と上京。
 1883 父没後は父の実弟にしつけられ、12歳の時に大阪へ伴われて大阪中学校で学ぶ傍ら、漢訳の聖書や英語を習った。1885 東京に戻り、父の清家の原家の祖母に引き取られ、獨逸学協会学校に学び、更に高津柏樹の夜学に通った。1886 日本英学館、1887 成立学舎に通う。後に実業家や茶人として活躍する高橋箒庵が下宿人におり、当時最新の翻訳小説を借りて読むなど文学に親しんだ。1888 第一高等中学校に受験したが不合格となり、叔母の横井玉子(女子美術大学創立者)の仲介で明治学院普通部本科2年に編入学した。同級生に島崎藤村(作家)や馬場孤蝶(英文学者)がいた。1891 卒業後、中国研究開拓者の内田周平に荘子を習い、日本福音教会の福音神学校を手伝う。また同郷の徳富蘇峰(6-1-8-13)を兄事した。
 1893.1(M26)島崎藤村・木村透谷らと雑誌「文学界」を創刊し、第3号から寄稿を始め、先に紹介した別号の筆名を使い執筆した。この時期、明治女学校の講師もつとめる。
 1895 東京帝国大学英文科選科に入学。翌年より「帝国文学」の編集委員となる。1896 付き合いがあった樋口一葉の葬儀を斎藤緑雨と取り仕切った。1898 東大選科を修了し、山口高等学校の講師(後に教授)に着任。1904 山口高等学校の学制が変わり、翌年退職。'06 古画商の小林文七の欧米周遊の通訳として随行。'07 明治大学講師、大谷大学の前身の真宗大学講師、'08 東京高等師範学校講師、'09 早稲田大学講師をつとめ、'10 慶應義塾大学で英文学講師を担当し、'11 慶應義塾大学教授となった。同年、由比(友)と結婚。
 '17(T6)平田禿木と共訳で「エマアソン全集」(全8巻)を刊行。早くから翻訳家として知られ、『エマーソン論文集』や『哀史(あいし)』(レ・ミゼラブル)、『十日物語』(デカメロン)は広く読まれた。他に英文学者として『英文学講話』『英文学覚帳』などの著作がある。また能楽評論家として随筆『能楽礼讃(らいさん)』など多数刊行した。
 '23 雑誌「喜多」の編集員。'31(S6)慶應義塾大学教授を退官、退官後も講師として教壇に立つ。'33 教え子たちの「秋骨会」が開かれるようになる。'34 『セルボーンの博物誌』の翻訳が縁で、日本野鳥の会発足の発起人に名を連ねた。'39.3 慶應義塾大学と文化学院の講師を退職。同.5 この頃より病気を患い、同.7 神経痛のため慶應義塾大学病院に入院。急性腎盂炎を併発して逝去。享年68歳。'49 三田文学が戸川秋骨賞を主催し、この賞を受賞した若手作家はその後ベストセラー作家へとなる足がかりとなった。

<コンサイス日本人名事典>
<「戸川秋骨年譜稿」松村公子>


*墓石は和型「戸川家之墓」、裏面「昭和十五年五月 戸川有悟 建之」。左面が墓誌となっており、戒名は自然院釈英明秋骨居士。俗名は明三と刻む。隣りは長男の有悟(正德院釋誠道:H11.12.6歿・享年83才)。二人のみの刻みで妻らは刻まれていない。

*1911(M44) 由比(友)と結婚。5男3女を儲けた。長女エマの名はエマーソンに、長男の有悟の名はヴィクトル・ユーゴーに因んでいる。戸川エマ(1911.12.10-1986.6.29)は、1955から28年間「読売新聞」にて身の上相談を担当。映倫管理委員、東京都青少年健全育成審議会会長などを歴任した随筆家、評論家。結婚後は高木性。



第530回 雑誌「文学界」創刊メンバー
英文学者 能楽評論家 翻訳家 戸川秋骨 お墓ツアー


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