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とだ りへい

戸田利兵衛 初代

とだ りへい

1852.12.28(嘉永5)〜 1920.7.5(大正9)

江戸後期・明治・大正期の建築家、戸田組創立者

埋葬場所: 11区 1種 1側

 戸田宇兵衛の四男として京都に生れる。戸田家は代々京都に在住、工匠として御所にも出入りしていた。
 幕末の動乱で家業が衰微し、宮大工の秋井家に修業のため住み込む。20歳で年期があけて一人前の大工となり、1876(M9)東京に移り兄確二の紹介で鹿島組に入るが、のち三兄常吉とともに請負業を始めたが倒産。
 1892(M25)北海道に渡ったが成功せず、1894(M27)8月日清戦争勃発に伴い軍御用の大倉組が台湾入りの軍夫を募集していることを聞いて帰京し応募、五十人組の組長に抜擢される。 翌年4月講和条約成立とともに帰国し、大倉組受注の陸軍新発田(新潟)兵舎急造工事の肝いり、続いて村上町の陸軍工事でも肝いりを命ぜられて完成させる。
 新発田で地元の豪商大矢家の娘まつ子と結婚。1897暮再度上京。法学博士の梅謙次郎邸新築を請け負い、高い評価を受ける。またその慎重誠実な人柄が信頼され、明治40年代に入るとさらに声望が高まり、それまでの戸田方という名称を戸田組に改める。 三井銀行箱崎倉庫(横河工務所設計)、慶應義塾大学創立50周年記念図書館(曽禰中条建築事務所設計)、村井銀行本店(吉武長一技師設計)、八十四銀行本店(横河工務所設計)などを受注。ゼネコン大手の礎を築いた。享年67歳。没後は養嗣子として迎えた富田繁秋が2代目戸田利兵衛(同墓)として引継ぎ、その子供の戸田順之助、戸田守二が社長を継ぎ発展させた。

<日本経済新聞 1981.2.8朝刊・1981.2.14朝刊>
<MATHU様より情報提供>


墓所 近景 戸田翁頌徳碑 墓所 遠景

*墓所正面右側が初代戸田利兵衛と妻のまつ子の墓石で前面「妙観院元運利享居士 / 妙光院慈室道亨大姉」とあり、「穆英石禅 應囑 敬書」と刻む。穆英石禅は曹洞宗の僧の新井石禅のことで穆英は号である。應囑は依嘱を最大限に敬ったことで「頼りにして頼む」こと。右面に初代戸田利兵衛と妻のまつ子(S24.10.31歿)の没年月日・俗名・享年が刻む。また「大正十年七月五日二代 利兵衛 建之」と刻む。裏面には昭和十二年七月五日二代目の言葉で墓碑は駒込吉祥寺にあったが改葬した経緯が刻む。左面は多磨霊園に改葬した「昭和十二年七月五日建之」と改めて二代目の名が刻む。墓所正面は「戸田家之墓」。右面に「昭和十二年七月五日建之 二代目戸田利兵衛」と刻む。墓所左側は墓誌が建つ。墓誌には初代、二代、戸田順之助の一族が刻む。順之助の後に4代目戸田建設社長となった次男の戸田守二(2013歿)は刻まれていない。なお、墓所入口右手側に大きな碑「戸田翁頌徳碑」(初代 戸田利兵衛の略歴)が建つ(篆額:高松豊吉、書:高塚竹堂) 。


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