メイン » » » 谷田志摩生
たにだ しまお

谷田志摩生

たにだ しまお

1880(明治13)〜 1936.12.1(昭和11)

明治期の海軍軍人(一等機関兵)、
明治・大正・昭和期の傷痍軍人会会長

埋葬場所: 3区 1種 11側

≪詳細な略歴は調査中。ご存知の方はご一報ください≫

 三重県出身。1904(M37)日露戦争での第一回旅順閉塞作戦に海軍三等機関兵として乗組、重傷を負った。帰還するも傷痍軍人となる。
 日本では日露戦争後に大量の傷痍軍人が出現し大きな社会問題となり、国家は救済支援制度を整備した。しかし、その恩給額では一家を支えることができず、また四肢不自由な傷痍軍人は、働き口もなく困窮を極めていた。この状況を打破するため、谷田らが発起人となり、戦禍の犠牲となった無告の廃兵を救えという悲惨な示威運動が始まる。廃兵恩給増額陳情世話人、後に全国傷痍軍人連合会会長。
 '28(S3)第16回衆議院議員選挙に地元三重1区から中立候補として出馬するも落選。翌、'29.3.16 東京市議会議員選挙に本郷区から政友会所属で立候補するも再び落選した。'33『受恩給者乃友:附・恩給法外関係法規書式一切』を編纂刊行し、受恩給者を救う活動をしていたが逝去。享年56歳。


墓所

*墓石は和型「谷田家之墓」。左面が墓誌となっており戒名・没年月日、行年が刻む。左側にも墓誌があり、墓石左面に刻まれていた人と同じ人物が並ぶ。戒名は洪志院忠誠日生居士。「全国傷痍軍人連合会々長」の刻みもある。妻はセツ。


【傷痍軍人(しょういぐんじん)】
 傷痍軍人とは戦傷を負った軍人のこと。戦時中は「名誉の負傷」などと呼ばれ、地域社会や家族が傷痍軍人の世話や援助を自主的に行う傾向が強いが、戦争が終わると熱が急速に冷め、傷痍軍人に対する社会的援助や支援も衰える傾向がある。身体に障害を受けた傷痍軍人は復員後に定職に就くことが難しく、社会の最貧層に転落し、犯罪に手を染める者もおり、しばしば大きな社会問題となった。そのため時の政府は慰労及び補償のため、軍人恩給などの制度を整備し、社会的な不安の解消に務めてきた。
 日本は日露戦争後に大量の傷痍軍人が出現し大きな社会問題となり、国家により救済支援制度が整備された。1906.4(M39)廃兵院法成立後、廃兵院が各地に設けられた。'34.3(S9)傷兵院法によって廃兵院は傷兵院と改称され、'38厚生省が設けられ傷兵院は厚生省外局の傷兵保護院に所属とした。その翌年には傷兵保護院は軍事保護院に改称され、付属として各地に傷痍軍人療養所が併設された。


【谷田・傷痍軍人の訴え】
 戦禍の犠牲となった無告の廃兵を救えという悲惨な示威運動を展開。日露戦争での傷痍軍人に対して、国家は救済支援制度を設け、恩給を出した。だが、その恩給額は平均月々十円であった。当時ひと家族が生活に必要とされる最低月額は三百六十円とされる時代。家族を既に持っている傷痍軍人にとって、十円の恩給ではとても一家を支えることはできなかった。谷田は廃兵恩給増額陳情世話人となり、大蔵次官など格政府機関に直接交渉を試みるなど活発的に活動をした。谷田の政府への訴えは下記である。

 一、増加恩給の最低額を金三百六十円とすること
 一、廃兵の全部に対し国有及び公有の鉄道軌道並に連絡船舶の無賃搭乗を要請す
 一、廃兵の生産補助の一端として煙草小売業及び切手印紙の特別販売権(行商を含む)を与えられたし

 当時の恩給法によると片足をもがれた廃兵が月十七円位の僅な恩給であり、負傷の度合いによって異なるも平均的に月々十円であった。当時の首相の高橋是清(8-1-2-16)や政府・官僚各位は負傷箇所を偽り請求する者が現れるなど対応に苦慮している現状も鑑み決定的な動きは鈍かった。
 谷田は傷痍軍人の窮状と不満を訴えながら、軍事救護法による基本金が内務省に積まれてあるのだからこれを公平に分配して欲しいとも訴えた。働けないレベルの傷痍軍人がもらえる恩給手当が最も高い人で月額18円。これでは一家族暮していけず、国の為に戦い身体が不自由になった者は不必要と通告されていることと変わりないではないかと訴えた。
 谷田の言葉「無法な規約である畢竟政府は我々を戦塵の中に送って不具者とし早く死ねと仕向けるようなものである」と面会で主張し続け、陸軍省などでは同情を受け臨時議会に提案すると発展の兆しをつくっていった。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・た | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。