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たに けい

谷 啓

たに けい

1932.2.22(昭和7)〜 2010.9.11(平成22)

昭和・平成期のタレント、俳優、トロンボーン奏者

埋葬場所: 13区 1種 43側 23番〔渡部家〕

 東京荏原(品川区)出身。本名は渡部泰雄(わたべ やすお)。
 父の転勤で広島、東京、横浜へ移り住み、旧制逗子開成中学校の時にトロンボーンと出会う。 逗子開成高校の学生時代からキャバレーでバンドマンのアルバイトをはじめ、関東学院大学に進むが、高校時代の音楽仲間を追って、中央大学経済学部へ転学(後に除籍)。 音楽研究会に所属。後輩に高木ブーがいる。アメリカの喜劇映画とジャズにしびれ、ジャズとギャグを将来の目標とする。
 1953(S28)大学在学中から原信夫の楽団シャープス・アンド・フラッツに加入し、トロンボーンを担当。また、フランキー堺とスティ・スリッカーズにも参加し、音楽ギャグを盛んに行った。 トロンボーンのスライドを足で動かして吹くなどのコミカルな演奏も行い人気を得た。この頃より、芸名をアメリカのコメディアンであるダニー・ケイを日本語風にした名前を命名。 最初は「ダニー・ケイを敬う」という意味で「谷敬」にしたが、「谷底でいるも敬っているんじゃ、ずっと底になるから」という理由で、「谷をひらく」という意味の「谷啓」に改名した。
 '56フランキー堺が日活に引き抜かれ、シティ・スリッカーズの人気も低迷。同じバンド仲間だった植木等の紹介で、ハナ肇に出会い、ハナがリーダーを務めていたバンド「キューバ・キャッツ」(後にクレージー・キャッツに改名)に移籍した。 メンバーのハナ肇・植木等・桜井センリ・犬塚弘・安田伸・石橋エータロー(途中でメンバーの入れ替えが結構あり、最終的にこのメンバーに落ち着く)と一緒に映画、テレビ、舞台に出演。
 '59フジテレビ『おとなの漫画』、'61日本テレビ『シャボン玉ホリデー』で口数の少ないギャグで茶の間の人気者になる。「ガチョーン」「ビローン」「谷ダァー」などの流行語を生みだした。 1960年代にクレージーキャッツの人気は爆発し、映画でも出演作は東宝のドル箱シリーズ(東宝クレージー映画)、挿入歌として発表した『スーダラ節』『ハイそれまでョ』『ドント節』など軒並み大ヒット記録をたたき出した。
 1960年代後半になってくると、メンバーの個人活動が多くなり、'71石橋が脱退した頃にはグループとしての活動機会はほぼなく、実質的な解散状態を迎えていた(後に新曲も発表した。メンバーの他界が相次ぎ、活動が不可能であるだけであり、現在に至るまで解散を宣言していない)。
 以降、単独でコメディアンとして活動し、テレビや映画に俳優としてその持ち味をいかして活躍した。主な出演作に『屋根の上のヴァイオリン弾き』、映画『幸福』『釣りバカ日誌』、テレビ「なるほどザワールド」「時間ですよたびたび」など多数。
 2008頃より体調を崩し始め、翌年以降はレギュラー番組を全て勇退して、療養生活をはじめた。私邸の階段から転落し頭を強く打ち、杏林大学医学部附属病院に搬送されたが、脳挫傷のため急逝。享年78歳。 葬儀は密葬として営なまれ、親族以外ではクレージーキャッツメンバーの桜井センリ、犬塚弘が参列。遺作は「釣りバカ日誌20 ファイナル」。
 没後、追悼番組が相次いで放映された。2010.11.11お別れ会が徳光和夫の司会でザ・プリンスパークタワーにて行われた。 生前より授与が決まっていた「したまちコメディ映画祭in台東」にて、これまでの業績を讃えて、第3回コメディ栄誉賞。第52回日本レコード大賞で特別功労賞が贈られた。日本トロンボーン協会名誉会員。

<日本芸能人名事典>
<テレビ・タレント人名事典など>
<やがて様より情報提供>


*墓石は和型「渡部家之墓」。右側に古い墓誌、左側に新しい墓誌があり、左側の墓誌に刻む。戒名は玄妙院殿谷啓日雄大居士。妻はペギー葉山のマネージャーを務めていた和子。



第35回 ガチョーン伝説 クレージーキャッツ 谷啓 お墓ツアー ※再UP


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