東京市牛込区(東京都新宿区)出身。福岡県上毛郡(豊前市)で育ち、福岡県師範学校などで学んだ後、東京高等師範学校本科地理歴史部で学んだ。山崎直方(6-1-2-10)の授業で影響を受け地理学を専攻した。また歴史学の三宅米吉にも感化を受けた。
1912(M45)卒業し、長崎県師範学校教諭となる。'15(T4)東京高等師範学校附属中学校の講師になり、同校研究科でも学び卒業し、東京高等師範学校助教諭となり、'20教諭に昇進した。'20〜'23アメリカ・イギリス・ドイツ・フランスに留学し、各国の地理学者から学ぶ。帰国後、'23東京高等師範学校教授に就任した。専門は地誌学を中心とした人文地理学。現地における聞き取り調査により、日本の地理区分法を平野や山地のほかに、交通路などから細かく分析・研究した。さらに、欧米の近代地理学を導入し、デーヴィスの地形輪廻に基づき、地理的現象にも初象・顕象・残象といった各段階ごとの発達区分があることを取り入れようとした。'29(S4)東京文理科大学が高等師範学校に付設され開校したことに伴い地理科に地理学専攻がおかれた。この地理学の主任に就任。学内組織である大塚地理学会を創設。'37教授。野外調査など実証的研究を重んじ多くの後進を養成した。'47退官し、東京文理科大学名誉教授。
'27より立正大学講師を務めていたこともあり、'47立正大学文学部教授に迎えられ、地理学教室の発展の基礎を築いた。'52日本地理学会会長。'55「地誌学的綜合研究の一方法 川崎市の地位層」で東京教育大学理学博士。'60同大に人文科学研究所を創設して所長に就任した。自然公園審議会委員などを歴任した。'65立正大学を退官し名誉教授。
文部省教員検定試験(文検)の出題委員も受け持ち、地理教育論にも多大な功績があり、特に郷土教育に重きを置いたその理論は当時は熱烈に歓迎された。彼の門下には多くの地理教師・地理学者がいる。
一般向けに書かれた地誌学の書『我等の国土』(1929)は地理の本としては、当時ベストセラーになるほどの人気を博した。主な著書に『日本の旅』『史料的日本歴史』『世界の旅』『地理学の本質と原理』『東京都新誌』『郷土のしらべ方』『高等地図』『人文地理』『新外国地理』『神奈川の地誌』など多数あり、編纂・監修も多く手がけた。
晩年、'73立正大学図書館に江戸期の和装本、戦前の地理学関係図書、古地図、絵図など、約14,000点にも及ぶ貴重なコレクションを寄贈し、田中啓爾文庫として保管されている。従3位 勲2等瑞寶章。享年89歳。
*和型墓石が二基並んで建ち、左側が白御影石「田中家之墓」、右側が黒御影石「田中啓爾 延子 / 之墓」。右面が墓誌となっており、戒名は天晴院殿地明啓爾日學大居士。「東京教育大学名誉教授 立正大学名誉教授 理学博士 従三位 勲二等瑞寶章」の刻みもある。妻の延子は平成四年十月三十日没の享年九十九歳。左面には、八十九翁 田中啓爾とともに「人生只百年 毎日の暮しに生きがいを 感じ人事を尽して 天命を待つ」と刻む。裏面は「昭和五十年二月 田中延子 建之」と刻む。なお、隣の「田中家之墓」は昭和九年十一月に田中啓爾が建之。墓所内左側に墓誌があり、昭和八年に一歳で亡くなった田中達子から始まることから、彼女亡き後に建之したと推測する。