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たけだ ていきち

武田貞之助

たけだ ていきち

1868.5.7(慶応4.4.15)〜 1942.3.11(昭和17)

大正・昭和期の政治家、弁護士

埋葬場所: 10区 1種 10側

 近江邦伊香郡高時村(滋賀県長浜市)出身。武田藤吉、みか(共に同墓)の長男。弟に教育者・弁護士の武田蔵之助(同墓)がいる。1893(M26)父が亡くなり当主となる。弟の蔵之助とは15歳離れていたため、養父のように面倒を見た。
 1884(M17)滋賀県師範学校卒業し、小学校教員を勤めていたが、大阪に出て関西法律学校(関西大学)で学び、1892 卒業。卒業と同時に代言人試験に合格し、翌年より大阪に武田法律事務所を開業して弁護士となった。弁護士の傍ら、母校のために尽力。江戸堀校舎や福島学舎の建築、拡張等の委員として活躍した。
 1908.5.15 滋賀県から推されて、第10回衆議院議員総選挙に立憲国民党公認として滋賀県郡部から出馬し当選。しかし政治の裏側を見て愕然とし1期のみ務め次選は出馬をしなかった。なお代議士時代には郷里の滋賀県伊香郡の小学校や女学校に多額の寄付をした。
 政治家を退いた後は弟の蔵之助を呼び出し、弁護士業務や母校の関西大学の講師に推薦した。'18(T7)母校の拡張委員として千里山学舎の建設に尽力し、'27(S2)経営調査委員、天六学舎建設委員等を歴任した。また城東商業学校(大阪商業大学の前身)の校主・理事として経営にあたる。他に原田汽船株式会社監査役、虎屋信託株式会社監査役、福井商店監査役、右近商事監査役などを務めた。
 著書に『手形早分り』、『商事調停法論』(1927)、『立憲的忠君愛国の人(選挙粛正の栞)』(1935)などがある。享年73歳。

<講談社日本人名大辞典>
<「関西大学を築いた人々」関西大学年史編纂室>
<人事興信録>


墓所 墓所 武田蔵之助

*墓所には二基建つ。入口左手側に墓石は洋型「武田家之墓」、裏面「昭和二十五年五月建之 武田蔵之助 / 武田政之助」。墓石右側に墓誌が建ち、蔵之助の一族が刻む。墓所右手側に和型「武田家之墓」、裏面「平成十年五月吉祥日 武田正明 建之」。左側に墓誌が建ち、父の武田藤吉、武田貞之助らが刻む。戒名は至誠院釋良善。享年は74歳と刻む。妻は八重乃(S20.5.27歿・享年74歳:旧姓は小山)。なお甥(蔵之助の長男)で日本郵船取締役などを務めた武田政之助(慧明院釋端政:S56.5.19歿・享年66歳/妻は昭子)は両方の墓誌に刻む。


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