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たかしま しょうざん

高嶋象山

たかしま しょうざん

1886.7.10(明治19)〜 1959.11.25(昭和34)

明治・大正・昭和期の易学者

埋葬場所: 4区 1種 55側

 岡山県出身。旧姓は牧。幼年時代より学業に対する志が高く漢学塾などで学ぶ。漢学を修む四書五行等で修学するうちに、易経に興味を持ち、19歳の時より易学の研究を始める。 職を求め神戸に出、易業の先生と出会う。そこで、易業に必要である九星・干支・家相方位などを修得。23歳の時に上京し、易業を開所した。 この時、高嶋易断で知られる高嶋嘉右衛門の影響により、高嶋易断総本部の門下に入る。若さと勉強熱心で多数の門人の中で注目され、愛弟子として高嶋易学の奥義を究む。姓を高嶋と改める。
 易学、易占に於いては師に劣らぬすぐれた専門知能に恵まれ、在来の易学ではあきたらず更に新しい方法を求め模索、ヨーロッパの運命研究者との接触により新しい分野も学んだ。 古来より伝わる日本易学や運命学、高嶋易学などを比較研究し、'32(S7)頃に「科学予言」という、まったく新しい学説を生み出す。その後も研鑽を重ね、易断界の大御所・最高権威者として評されるようになった。
 象山が考案した新しい学説、科学予言「高嶋象山易学」が完成すると、象山易学初代宗家となり、高嶋象山学派を開祖し、眦莪彙覗輕槁宗家を開所、「眦莨飮外彝愆嫩蟒蝓彌藺綵_箸箸覆辰拭その学説は、学理性・科学的であり、高く評価され、'59春に関西学士会より功績が認められアカデミア賞を授与された。
 東京都千代田区区議会に数回選出されて区政府に参与し議員としても区民より人望を集めた。なお中央政界との関係も多く その中でも元総理大臣である鳩山一郎とは格別相互信頼を深めていた。神経症を患っていた青年に長男(璋)と共に刺傷され、翌日早朝に逝去。享年73歳。

<高島易断本暦など>


墓所

*墓石は和型「高嶋家奥津城」。右側に墓誌があり、墓誌には「高嶋家創立第一世 妻 清行三家之霊 俗名 高嶋とく(S32.1.31 享年61)」から始まり、「宗家第一世 科学豫言創始者 衛行三解之霊 俗名 高嶋象山(S34.11.25 享年73)」と刻む。その後は、高嶋喜美子(H4.3.25没)、名前の付け方シリーズの易学者として活躍した高嶋易断総本部2代目 高嶋崋象(H12.11.20没)が刻む。


【著名占い師・高嶋象山殺人事件】
 1959.11.24(S34)高嶋易断総本部に大阪市の作業員(当時24歳)が訪問してきた。象山の長男の璋は、以前も訪ねて来た見覚えのある男であったことから応接間に通した。 象山が来るまでの間、2人は雑談していたが、青年が突然セーターの下に隠し持っていた刃渡り17センチの出刃包丁を持って暴れだし、長男の璋の胸を一突きにした。 この騒ぎで隣室に居た象山が応接間に駆けつけたが、興奮状態の青年は象山をも襲いメッタ刺しにした。象山は出血多量で翌日早朝に逝去。享年73歳。長男の璋は奇跡的に命を取り留めたものの全治3か月の重傷を負った。
 青年の動機は、自分の仕事の失敗や運が悪いのは心霊術に掛けられているのではないかと思い悩んでいたことである。高嶋易断が心霊術をしていると聞き、対決するしかないと5年前に象山に初訪問。 面会し心霊術をしているのかを直接聞くも、していないと軽くあしらわれる。その後も、5年間で4回も大阪から上京し訪問し、今回5回目が最後の対決として出刃包丁を購入し挑んだとされる。 青年のポケットには妹宛ての遺書を持っており、「心霊術に悩まされてどうしようもない。おれが何をしても理由は聞くな。今後いっさい占い師を信じてはいけない」などと書かれていた。
 なお、マスコミは象山を自分の運命を占うことができなかったと書き立て、易断界に批判など波紋が広がった。


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