メイン » » » 高崎節子
たかさき せつこ

高崎節子

たかさき せつこ

1910.1.7(明治43)〜 1973.9.15(昭和48)

昭和期の小説家、教育者、労働省官僚、
女性・児童福祉の先覚者

埋葬場所: 15区 1種 6側

 東京小石川出身。朝鮮総督府官吏などを務めた官僚の高崎丈次郎、益恵(共に同墓)の5男3女の長女として生まれる。旧字は髙﨑。「高崎せつ」と表記するときもある。幼少期は両親の故郷の福岡県遠賀郡島門村(遠賀町)で過ごした。島門小学校に通っていたが、父の赴任先である朝鮮に渡り現地の小学校、大邱高等女学校で学ぶ。兄の病気療養のために一家は帰国することになり、大分県別府市へ移住。別府高等女学校に入り、1929.3(S4)福岡県立女子専門学校卒業。卒業後、九州帝国大学の聴講生となり、政治、経済、労働、法律を学んだ。
 '30 朝鮮の新義州高等女学校の教師を一年間務める。帰国後、'31.8 雑誌「女人芸術」に小説『支那との境』を投稿。この作品は教師として赴任した朝鮮を舞台に、統治下の日本人下級官吏と虐げられる朝鮮人の女性を描き出した作品。作品投稿後、生死をさまよう大病を患うが、奇跡的に回復。この時期にキリスト教に入信。
 '33 福岡県小倉市で叔父の高崎金太郎が経営する高崎印刷所で事務員として働く。この頃、松本清張、火野葦平、豊島与志雄(7-2-17)ら文化人と交流を持ち、一時期、豊島の内弟子として学び、その後も「セッチャリン」と呼ばれ終生気にかけてくれた恩師となる。
 '35 建設会社の技術者の山下俊助と結婚。'39.6 雑誌「婦人公論」に本田小浦(ほんだ こうら)のペンネームで掲載された小説『山峽(たに)』が入選。選者であった川端康成から作家としての力量を認められる。この作品は、夫のダム建設現場に転居する中で執筆したもので、宮崎県の塚原ダムの建設現場での労働者の寄宿舎生活を描いた作品である。
 '42.9 福岡女学校の国語教師となる。戦後、'45.10 教壇に立ちながら朝日新聞西部本社企画部・婦人部の嘱託として、九州タイムズで女性労働関係の執筆活動を行う。'46.3 朝日新聞社主催の婦人政治推進講演会の司会に抜擢され、続く婦人政治推進西部大会では福岡県の婦人代表として出席。同.5 朝日新聞婦人政治推進委員となり、朝日婦人文化創立会長にも就任し、女性の政治参加運動へ活動を広げていった。また自由人協会へ入会し、協会の常任理事、発行誌の編集委員となった。
 '47.5.3 憲法施行日と知り、男女平等を定めた憲法と共に、新しい人生を踏み出す覚悟を持とうと、思うところがあった12年間の結婚生活にピリオドを打ち山下俊助と離婚した。福岡市にて福岡県婦人団体協議会の発足に尽力するとともに、衆議院議員の福田昌子と共同で「婦人児童問題研究所」を設立。また筑紫海(つくしみ)会(福岡女子大学の同窓会)の初代会長に就任し、同校の四年制大学昇格運動に尽力した。さらに新しい文化を創造することを目的に東京で文化芸術団体「火の会」の九州講演の実現にも力を発揮した。
 '48.5 女性・年少者保護と福祉のため設立された労働省婦人少年局主催にて、全国の婦人少年室関係職員を対象とした第1回講習会が東京で開催される際、福岡女学校を退職し、九州大学の高橋正雄教授の推薦で参加。この講習会の参加をきっかけに、同.7 労働省婦人少年局福岡職員室主任として労働省の官僚として着任。西日本新聞社刊「勤労婦人読本」の執筆者の一人として、「働く婦人は民主化の象徴」「妻も子も使用人も夫の奴隷ではないのです」と健筆を振るう。女性の経済的自立が生き方の解放につながると、労働条件改善にも取り組んだ。
 '49.8 労働省神奈川婦人少年室長に就任。隣家の女性が、占領軍兵士との間にできた子どもと2人で厳しい生活を送っていたことから、そのような境遇の子どもたちの支援を始める。また神奈川県大磯の混血児収容施設「エリザベス・サンダースホーム」へ通い、子供達の実態を調査。同.10 日本人から蔑まれ、さらに黒人の子か白人の子かで差別されながら施設で育つ子どもたちの姿を描写した『混血児』を刊行。翌年『混血児』は奈良岡朋子の主演で映画化された。
 '53.5 労働省東京婦人少年室長に補される。'54.3 山口県の離島での「舵子事件」をきっかけに、当地へ取材に行き調査・取材をする。戦災孤児や貧しい子ども、売られた子どもたちの過酷な労働実態を描写した著書『人身売買 売られていく子供たち』を「本庄しげ子」というペンネームで刊行して啓蒙活動を行う。公務の傍ら、小説や随筆、新聞寄稿などで苦境を社会に問題提起するなど、子どもや女性の人権尊重と福祉の充実を訴えた。
 '56.11 東京婦人少年室主催で新聞配達員を慰労する「新聞を配る少年の集い」を開催。また、NHKラジオ「婦人の時間」に出演 昭和女性生活史の昭和時代を担当した。'58.5 東京都港区にある有栖川宮記念公園の高台に位置する広場に「新聞を配る少年の像」(朝倉響子 作)が建立され除幕式に参列。当時、新聞配達の少年は都内だけでも約2万人いた。高崎は「新聞を配る少年の集い」の最中、配達のため会場を後にする子どもたちを見て心を痛め、業界団体や労働大臣に掛け合い、新聞の日曜日の夕刊を休刊にさせた。
 '64.3 法務省からの強い要請により、東京婦人補導院へ異動。東京管内の地方検察庁や裁判所、警察に出向き補導員の処遇の実態を説いた。また収容されている女性に対し情操教育を行った。後に補導院長を務める。
 '71.3 退官。二年後、体調を崩し入院。亡くなる5日前に辞世の詩「さびたの道」を書き上げ逝去。享年63歳。勲4等瑞宝章追贈。'73.10 東京新聞販売同業組合主催で「新聞のおばさんをしのぶ追悼会」が開かれた。'76.9 没三年目に高崎節子追悼集『むらさき』が刊行された。
 混血児問題、人身売買問題、家内労働者の環境・安全問題、新聞配達少年の労働問題、婦人・児童の労働問題、学校・教育問題の改善に尽力した。「陽の当らない子供達、小さな力のない者は訴える事さえできない。その味方になるんだ」と、力のない者のためにパンドラの箱を開けた官僚とされ、女性・児童福祉の先覚者と称される。後の男女雇用機会均等法や男女共同参画社会基本法へと結実していくきっかけをつくった人物である。

<広報おんが ONGA 2018.8.10 No,1160>
<「女性、児童福祉の先覚者に光」西日本新聞社、2019.2.13>
<「アートな麻布に魅せられて25 新聞少年の像 働く庶民の代表選手(ザ・AZABU No.54)>
<「時代を拓いた女たち 第III集」江刺昭子+史の会>


墓所 裏面

*墓石は洋型十字架を刻み「髙﨑家墓」と前面に「海軍大尉 髙崎孝一 辞世の歌 昭和二十年三月二十九日出撃に臨みて 的ありて 咲き散るものは 桜花 今こそ征かむ さいとなりて」。左面「孝一霊前に供す」と題し母の自筆で「テモテ後書四章六、七節」(テモテへの手紙第一4章6節,7節)が刻む。右面「海軍大尉正七位勲六等功五級 高崎孝一 行年二十四歳」「母 高崎益恵 昭和四十九年三月十二日 行年九十一才」「父 髙崎丈次郎 昭和十八年一月十八日 行年六十四才」「昭和二十八年三月(1953)建之」と刻む。裏面は墓誌となっており、高橋孝一の経歴(下記記す)、髙崎節子(丈次郎の長女)、髙崎太郎(丈次郎の長男)、髙崎レイ(太郎の妻)、髙崎信一(太郎の長男)、箕浦義子(丈次郎の娘・節子の妹)が刻む。墓所左側にも墓誌が建ち、樋口真梨子のみが刻む。

*父の高崎丈次郎は朝鮮総督府官吏などを務めた官僚。母は益恵。ますゑと表記するときもある。旧姓は増田。高崎丈次郎の高崎家と増田家の両家は近隣であった。二人の間には5男3女を儲ける。長男は太郎(1905-1979.7.28)、節子は長女、孝一は5男。


高崎孝一 たかさき こういち
 1922.12.4(大正11)〜1945.4.2(昭和20)
 海軍大尉
 福岡県出身。官僚の高崎丈次郎と益恵の5男。姉に高崎節子がいる。修猷館中を経て、1943.9.15(S18)海軍兵学校卒業(72期)。'44.3.15 少尉に任官。同.9.15 中尉となり、第601海軍航空隊附に配属される。艦上爆撃を担当。太平洋戦争の沖縄戦に際し、特攻隊長として出征。'45.4.2 九州南方海面(沖縄方面)に於て戦死。享年22歳。没後1階級特進し海軍大尉となった。

<日本海軍士官総覧>
<墓誌より>



第500回 力のない者のためにパンドラの箱を開けた官僚
女性・児童福祉の先覚者 高崎節子 お墓ツアー


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・た | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。