伊予松山(愛媛県松山市湊町)出身。伊予松山藩士の高野金光の長男として生まれる。3歳にして家督を相続した。
広島英語学校で英語を修め、卒業後は芸備日日新聞や大阪毎日新聞にて記者となる。1894(M27)上京し、東京法学院(中央大学)で学び、1896 卒業。1898 弁護士試験に合格し、翌年、東京で事務所を開業した。花井卓蔵弁護士事務所で実務を学び、刑事事件に精通。民事や商事に関する事件の弁護も得意とした。
郷里の松山市より抜擢され、1912.5.15(M45)第11回衆議院議員総選挙に愛媛県松山市部の選挙区から出馬。中立の立場であったが進歩派の推薦を受けて初当選した。'15.3.25(T4)第12回衆議院議員総選挙でも同選挙区から中正会所属で立候補し再選した。
その他、東洋生命保険株式会社や共済生命保険株式会社の法律顧問、東京組合弁護士会常議員、日本弁護士協会理事を務めた。また母校の中央大学理事も歴任した。享年60歳。
*墓石は和型「髙野家之墓」、裏面「昭和八年四月 重秋 建之」。墓誌があり、戒名は髙節院釋重璋翠郭居士。妻は里子(1880-1956.7.22)。長男は判事を務めた高野重秋(1903-1981.12.30)で墓誌に従三位 勲二等と刻む。戒名は高峰院釋信重。妻は芳子(同墓:H22.1.23歿)。
*妻の里子の父は越後村松藩の第11代藩主の堀直賀。兄は奥田直紹(旧椎谷藩主家を継ぐ、廃藩置県で奥田姓に復姓)。子爵の奥田直元は甥にあたる。高野金重との間に、長男の高野重秋、長女の春子を儲けた。
*長男は高野重秋は判事として数多くの裁判官を務めた。有名なところは、'57東京高裁判事時代に最高裁で争われたチャタレー事件の裁判。この時の最高裁判所裁判長判事が下村三郎(16-1-8)で、真野英一と伴に判事を務めた。なお裁判は一審無罪を有罪に逆転させた。チャタレー事件とは英国作家ローレンスの「チャタレイ夫人の恋人」を日本語に訳した伊藤整と、版元の小山書店社長の小山久二郎に対して刑法第175条のわいせつ物頒布罪が問われた事件。