高知県安芸郡安芸町出身。旅館業を営む胎中弥平の二男。1890(M23) 青雲の志を抱いて単身上京し、神奈川県愛甲郡厚木町(厚木市)に住む。当時、加波山事件や大阪事件など自由党員らによる激化事件が頻発しており、これに加わった者たちが、ここ神奈川県愛甲郡近隣にも多くおり「三多摩壮士」と呼ばれ一目置かれていた。同郷の志士である板垣退助が遠く離れた神奈川の地でも崇敬されていることを知り、自由民権思想に心酔。
1892.1 神奈川自由党に入党し、自由党青年弁士として活躍。これが自由党代議士の星亨に知られ、その知遇を得て、星がアメリカ公使になると伴われて、1896.6 渡米。初めハワイで政治活動を行うが、その後、北米の西海岸に移り農業に従事。1918.9(T7)星亨門下の代議士の横田千之助の誘いを受けて、22年ぶりに帰国。
立憲政友会に入党し、星の後継者である横田を応援するだけで、自身は政治家になることは考えていなかった。'19 板垣退助が死去後、頭山満を顧問に迎え村野常右衛門を会長とする大日本国粋会が結成されると幹事長に就任。村野の選挙を補佐した。'21.10 原敬総理の推挙を得て、ワシントン会議日本全権団の一員として、再び渡米。ワシントン、ニューヨーク間を往来して会議の進行を補佐した。
帰朝後、'24 第二次護憲運動に際し、神奈川県第5区から護憲派として出馬したが、わずか9票差で落選。同年に実施された高知県第2区での補欠選挙にも出馬したが落選した。田中義一内閣が成立すると、内閣の嘱託となって官邸を出入りし書記官長の鳩山一郎を補佐した。
'28.2.20(S3)普通選挙法に基づく最初の総選挙である第16回衆議院議員総選挙(第1回普通選挙)に神奈川県第3区から立憲政友会公認で出馬し、初当選。以降、第19回衆議院議員総選挙まで、連続で当選(4回)。政党政治家として活動した。この間、農林審議会議員、米穀統制調査会委員、立憲政友会総務を歴任した。また藤原製材会社社長の職にあった。
'29 第15回万国議院商事会議(ベルリン)に参列した。農政会を結成し、『農政新法』を発刊。不況下において国民生活の向上のためには、その基盤となる農村・漁村・山村の生活向上が先決であると説いた。
五・一五事件によって政党内閣が終焉を迎え、以後、政党の凋落が叫ばれると、'34 議員有志らと国政一新会を結成、政党更生運動を展開した。しかし、新体制運動の結果、政友会は解党。戦争となり、'42 翼賛選挙には出馬せず政界を隠退した。
晩年は神奈川県海老名市上今泉にある秋葉山古墳群第二号墳上と、東京都台東区西浅草の浄土真宗東本願寺派本山東本願寺(旧 浅草本願寺)境内の二カ所に、近代日本憲政史上の功労者慰霊を目的に「憲政碑」を建立の発起人となり、建立を実現させた。戦後は公職追放となり、追放中に逝去。享年70歳。