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たぐち じろう

田口二郎

たぐち じろう

1913.2.14(大正2)〜 1998.9.23(平成10)

昭和期の新聞人、登山家

埋葬場所: 15区 1種 7側

 東京麹町出身。父は鉄工で財を成した田口八郎(同墓)。兄も登山家の田口一郎(同墓)。
 父の仕事の兼ね合いで関西に移り、神戸の甲南高校に進学し、伝統的に岩登りに特化した記録を残している登山部に所属。卒業後、東京帝国大学に入り山岳部に属す。1935(S10)日本山岳会入会。仲間たちと日本の岩場で初登攀記録を競い、日本アルプスの難ルートを開拓し、穂高岳・滝谷の岩場に数々のルートを拓いた。'36同大学経済学部卒業し、父の口利きで日本鋼管に入社した。
 '37.7 父と兄の一郎と共に渡英し、兄と共にイギリス・ロンドンで留学。兄は日本では東京海上に入社していた。'38憧れであったスイス・アルプスに兄弟で赴き、ノルレンからメンヒ、ダン・ブランシュ(フィーアエーゼルス稜)、アイガー(東山稜)、マッターホルン(ツムット稜)、ダン・デラン、グロース・シュ、レックホルン北東壁初登攀した。翌年の夏休みも兄弟二人はスイスに行き、スイス・アルプスの中心地のグリンデルワルドに滞在した。しかし、同.9.1第二次世界大戦が勃発しイギリスとドイツが交戦状態となり、イギリスに戻れなくなり、中立国のスイスに留まることを決意。
 ベルンに移り、同.9.20からスイス大使の天羽英二の元、一郎と共にスイスの日本公使館員となり手伝いを始めた。天羽大使が残した日記には、父の田口八郎から子供二人の身の上を心配する国際電話により、天羽大使の好意で大使館員になれた背景がある。また、日記には公使館で働きながら、週末はアルプス地方に出かける程、田口兄弟は山好きであることも書かれている。同.11.14天羽大使がイタリア大使へと栄転し、同.11.25田口兄弟と一緒に働いていた笹本駿二と早々ローマに外遊。スイスと同様にこの時はイタリアも中立を守っていた。
 欧州の戦争勃発を受け、枢軸国や米英の情報が入る中立国は報道関係者から注目を受ける。日本の各新聞社はスイスに特派員の派遣を試みるがスイスが不許可とした。当時の戦争は情報戦と言われ、記者と偽ったスパイが横行していたためである。そのため新聞記者のみならず、日本の国策通信社、同盟ですら駐在員を置けなかった。そこで、既に現地に許可を得て滞在している日本人を特派員として雇い入れる動きとなった。
 '41.8.14 兄の一郎が急性肺炎のためスイスの地で亡くなる。兄の死の二か月後、同.10.15 二郎は公使館を辞め、朝日新聞のスイスの特派員に転身した。この時、26歳である。同.12.8 日本は米英に宣戦布告をし交戦国の中に加わった。幸いスイスは中立国であるため、邦人も従来通り滞在することができた。スイス政府は枢軸国人も反枢軸国人も同等に扱ったが、民間人の反日感は以前にも増した。その状況下で欧州情勢の報道を日本に報告し続けるジャーナリストとして活動。
 '42.1.30 政治の中心地のベルンから、経済やマスコミの中心地のチューリッヒに移る。毎日新聞や読売新聞も含めた三大新聞社の特派員がチューリッヒに集結し支局をつくり戦時報道体制が整えられた。同.6.11 米ソ相互援助条約が締結されたことに対して、「米英側の無謀を暴露、スイス、日本不敗の現実強調」という見出しに続け、条約に対するスイスでの受け止め方を紹介した記事が、同.6.14付けの朝日新聞朝刊に初めて名前入り記事として掲載された。以降、枢軸国に囲まれ孤立状態のスイスの生活ぶりが紹介されたり、中立国の経済状態や食糧事情や、スイスに空襲警報が発令されたこと、英国を飛び立った連合国の航空機がイタリア空襲に向かう際にスイス上空を通過する事件の頻発や誤爆などの記事を出している。
 この頃、学生時代からの旧友であり、朝日新聞本社から派遣された笠信太郎とスイスで再会し親交を深める。笠は中国視察後に書いた記事が原因で日本の警察に睨まれ国外脱出しドイツに向かい、ベルリンの朝日新聞事務所を手伝っていた。戦争中の入国が厳しいスイスに特別任務の公使館員という名目で入国。'43笠のお陰で朝日新聞の現地特派員から社員に昇格した。この頃、様々な情報がスイスに入る中、ドイツ軍の将来について悲観的に考えるのが一般的となった。そこで笠はドイツに戻らずスイスにそのまま残ることになった。
 '44.1.31から朝日新聞紙上で連載が始まった「迫る欧州決戦の鼓動 本社海外特派員誌上座談会」と称された記事に特派員の一人として電話取材に協力し顔写真付きで掲載された。このように戦時中は世界各国の情報が集まる中立国スイスより情報を日本に送った。加えて、日本の戦況もロイター電という形で全て報告したが、戦況が不利な現実的な記事は採用されなかった。日本は開戦前に49回線の国際電信と無線電話を持っていたが、戦時中も生きていた回線は、敗戦前のドイツを除くと、スイスとスウェーデンのみであった。戦争末期のドイツ衰退時期では、中立国のスイスとスウェーデンにドイツや欧州各国の日本人の疎開地として保護を受けている。
 '45 日本が敗色濃厚となる中、元スイス公使館員だった二郎と笹本駿二が中心となり、朝日新聞記者仲間の笠も加えて、米国OSS(戦略情報局)スイス支局長のアレン・ダレス(のちのCIA長官)と水面下の和平交渉を行う。これは戦争終結後も、秘密裡に関係を継続することをOSSに申し入れることで協力者となった。このため、日本敗戦後も捕えられる身にならずに済んでいる。
 登山家としては、戦争中のスイスでもアルプスに対する情熱は衰えず、特派員の仕事の狭間の休みを利用して登頂。'43ブライトホルン(ツェルマット)、北壁ヤング尾根、オーバーガーベルホルン、ヴァイスホルン(シャリ稜)などに登る。この時の戦時下のスイスの山岳観光地の様子は「世界山岳全集」にも収められた登攀記『回想のヤング尾根 一九四三年七月』に綴られている。更に、'44 学生時代の山仲間であり笠と共にスイス入りしていた高木正孝と一緒に、メンヒ北壁ラウパー・ルート第3登、ノルレンからメンヒとユングフラウ、東尾根。'45(日本敗戦後)再び高木正孝と一緒に、ダン・ブランシュ(フェルペクル稜)、マッターホルン(ツムット稜)、ヴェッターホルン北壁などを登攀した。
 終戦後、'46.1末、欧州中立国の邦人のための引き揚げ船が用意されたが報道関係者は帰国船の利用を見送り現地に留まった。'47.12.15 北イタリアのゼノア港を出るパナマ船籍の貨物船サラミス、ビクトリー号にて、'48.2 帰国(11年ぶり)。神奈川県藤沢に居を構える。岸本商会に入社し、後に大倉商事の専務をつとめた。
 帰国後の登山家としては、'52今西壽雄らとマナスル偵察。マナスルはネパールのヒマラヤ山脈に属し、標高8,163メートルは世界8位。'53 今西や高木らと第一次マナスル登山隊に参加。戦後初のヒマラヤ8000峰に向かう日本を代表する登山隊として、また世界に先立ってマナスルの氷河を初めて日本人が踏みアタックしたが、天候に恵まれず頂上からわずか375メートルという点にまで達しながら失敗に終わった。二郎はこの時、日本の山しか登ったことがなかった若手登山家たちへ実践を伴って登山指導をした。この若手登山家たちがリベンジを果たすことになる。二郎はメンバーから外れたが、第二次は現地住民の妨害があり断念後、現地の了解を得て三回目のアタック。'56槇有恒(13-1-6)を隊長とした第三次マナスル遠征隊は初登頂に成功した。この成功は日本登山界に画期的な影響があり、空前前後の登山ブームを巻き起こすなど社会現象になった。
 '81〜'84 日本山岳会(JAC)副会長。'86名誉会員。著書に『東西登山史考』(1995)、『山の生涯 来し行方く末』(1999)がある。翻訳としてクリス・ボニントン著の『現代の冒険』(1987・中村輝子 共訳)、『ヒマラヤ冒険物語』(1992)がある。また、笠が亡くなった際に「回想の笠信太郎」追悼文集を執筆(1968)。慢性腎不全のため鎌倉市の病院にて逝去。享年85歳。

<「南アルプスからヒマラヤへ: パイオニア精神へのまなざし」 山本良三>
<「瑞西関係のページ」日本 スイスを愛した日本人>
<「私のスイス案内」 笹本駿二 など>


墓所 田口一郎

*墓所内に3基建つ。真ん中は「田口家之墓」。右に「田口一郎」墓石、裏面に関略歴。左に「ROKURO TAGUCHI 1919-1942」と刻む墓石が建つ。和型「田口家之墓」の裏面に「当家の墓は安中市東 五郎の三男の八郎 昭和42年8月 建之 田口二郎 田口三郎」と刻む。右面は八郎、八郎の妻、田口一郎が刻む。田口一郎(1911.12.21 東京 生 〜 1941.8.14 瑞西 歿)は、1986年8月遺骨を此処に埋葬という刻みもあるため、スイスの地から改葬。

*「田口家之墓」左面に田口二郎、妻の田口エルナ(1922.6.2-2002.8.13)が刻む。エルナはスイス人で、二郎がスイス滞在中に交際が始まり、'48二郎の帰国を追うように、'49.5 エルナは来日して結婚。以降、日本にて二郎と共にした。


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