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たがたに いわじろう

多賀谷岩次郎

たがたに いわじろう

1867(慶應3)〜 1944.3.10(昭和19)

明治・大正・昭和期の警察官僚、政治家

埋葬場所: 6区 1種 13側

 福島県出身。会津中学校卒業後、1885(M18)埼玉県巡査となり、1886 岐阜県巡査を拝命した。1890 岐阜県巡査部長、1897 岐阜県警部(大井警察分署長)を務めた。
 1900 警察監獄学校卒業。'06 警視庁へ出向を命じられ、警視庁第一部刑事課庶務係長に就任した。'13.6 警視庁警視に昇進し、麻布霞町警察署長に着任。'14 麹町日比谷警察署長、'16 四谷警察署長、'18 牛込神楽坂警察署長、'19 日本橋久松警察署長、'22 神田錦町警察署長、'24 京橋築地警察署長を歴任した。
 警察署長の間で立憲政友会と立憲民政党の党派的な対立感情が生まれ、政党色を理由に免官されることが起こる。'27.4.20(S2) 政友会の田中義一(6-1-16-14)内閣発足により、鈴木喜三郎内相の下で月曜会が結成され、省内に政友会鈴木派が誕生。内務省の要職のすべてを鈴木派が固めた。警視庁も警視総監の宮田光雄を筆頭に、警務部長の木島茂らが要職を固め人事を行った。この木島人事により、同.6 民政党を推していた多賀谷は免官させられた。
 免官させられた元署長たちの進路は大きく二つに分かれた。一つ目は政党の地方政治家に転じる進路。もう一つは、警察への復職を希望し、推している政党の院外活動に従事、もしくは企業への再就職であった。多賀谷は前者を選択し、'29.11 東京市区の日本橋区議選挙に民政党候補として立候補し、初当選。政治家に転身した。
 警察署長を免官された際の「日本警察新聞」に掲載された多賀谷の人物評は、「彼は不偏不党」であったが、「政友会内閣若しくは反憲政会的内閣の下には何時も悲観説を伝えられしもの」と記載された。勲5等。享年77歳。

<「昭和初期の警視庁人事」野間龍一 
(早稲田大学大学院文学研究科紀要 第67期)>


墓所

*墓所には二基。正面は「多賀谷家墓」、前面左側に「昭和四年九月建之 多賀谷岩次郎」と刻む。裏面は墓誌となっている。墓所右側に「多賀谷岩次郎 / めさ 墓」の墓石が建つ。裏面に多賀谷家の歴史や自身の略歴が刻み、昭和十六年に自身が建之したことが最後に刻む。左面に没年月日と享年が刻む。


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