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たちばな かげふく

立花景福

たちばな かげふく

1836.8.10(天保7)〜 没年不詳

江戸後期の三池藩士

埋葬場所: 3区 1種 22側 2番

 陸奥国伊達郡下手渡村出身。父は立花包高(兵衛)で、その二男。名は景福、通称は碩(おおい)という。長男は高景(靫負)である。 当家は四代三池藩主の立花貫長の五男応興を祖とする家系で、文政十年別家し、家臣の列に入り、長男高景は一門家老となった。景福は実兄高景から家督を相続し、中老職になった。
 1867(慶応4)2月28日柳河藩と下手渡藩三池領に対して会津若松攻略の奥州出兵の命が下された。3月15日藩主種恭は朝廷から謹慎を命ぜられて下手渡に帰藩した。 3月晦日京都在勤の参政景福と執政庵原覚兵衛康成は、藩主種恭に京都に上るよう勧め、閏4月18日種恭は京都に入った。 種恭は朝廷から宗家柳河藩とともに奥州鎮撫の沙汰書を受けたが、すでに奥羽越列藩同盟に加わっていたために、帰藩することもできなかった。仙台藩兵は下手渡藩が盟約を破ったとして下手渡陣屋を焼き払った。 7月から8月にかけて、三池領、柳河藩兵は越後国新発田、陸奥国岩城平城への攻撃をかけた。
 明治元年(同年)9月種恭が旧領三池に遷封となるや、1870景福一家も下手渡から三池に移住した。 「明治維新分限帳」に、「一、高百石、物成三五歩、外に白米三十俵御役料、少参事・議長立花碩」とあるように、廃藩置県後、三池県の少参事・議長となった。 1871(M4)8月の「三池士族卒禄高取調帳」によると、景福は、米百石(現米三十五石)の待遇が現米十四石に改正、支給されている。
 1891(M24)一家は上京し、牛込区内に居住した。妻は庵原康成の養女家子。長男小一郎(同墓)は、陸軍大将・福岡市長・貴族院議員などを務めた。

<三百藩家臣人名事典7巻>
<五輪塔様より情報提供>



立花家子(たちばな いえこ)
? 〜 1890.1.12(明治23)
立花景福の妻
 陸軍省軍務局課員陸軍歩兵少佐(後の陸軍大将)の立花小一郎、鉄三郎、金大の母。病没。

<明治過去帳0585>


墓所

*立花小一郎の両親。同墓に埋葬されているか不明だが、上京して無くなっているので、多磨霊園に埋葬されている可能性は有ると思い掲載をした。


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