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ずしょ ごろう

調所五郎

ずしょ ごろう

1909(明治42)〜 1932.5.8(昭和7)

昭和期の華族家系の学生、坂田山心中事件

埋葬場所: 12区 1種 18側

 東京出身。男爵の調所廣丈(ちょうしょ ひろたけ)の5男で銀行家の調所定の長男として生まれる。慶応義塾大学経済学部3年生の時に、交際中の静岡県駿東郡下(裾野)の素封家の三女の湯山八重子との結婚を八重子の両親から反対され、1932.5.8(S9)神奈川県大磯の坂田山で心中。五郎は享年24歳。八重子は享年22歳。
 翌日、松露狩りをしていた地元の若者が二人の遺体を発見。五郎は学生服姿に角帽、八重子は藤色の和服姿で裾が乱れぬよう膝元を赤い紐で結んでいた。 遺体の側にあった瓶は写真現像液を作るときに用いる猛毒の昇汞水(塩化第二水銀)があり、服毒自殺とされる。 夕刻、二人は身元不明の無縁仏として大磯町宝善寺に仮埋葬された。10日朝、仮埋葬された塚が掘り起こされ、八重子の遺体が消え、更に二人の身元が判明し大騒動となった。 男は男爵家の子息、女は大富豪の令嬢であったからである。11日、八重子の遺体は宝善寺から100mほど離れた大磯海岸の船小屋の砂の中から全裸で発見された。 良家の心中、死体盗難、全裸での発見の猟奇的な内容に、マスコミは連日大磯を訪れ報道し、世間の関心を生むことになる。 二人が心中した山を含む、大磯駅周辺は当時三菱財閥の岩崎家所有地であり、その雑木林の山は地元では八郎山と呼ばれていた。 しかし、マスコミは悲恋に合わないという理由もあり、近くの地名から勝手に「坂田山」と命名し、一連の事件は『坂田山心中事件』として全国に報道した。
 この事件の渦中、5・15事件が発生。取材規制がひかれたこともあり、また暗い政治世情を覆すように、報道各誌は坂田山心中事件をクローズアップし、単なる身勝手な二人の心中から、貞操を守った二人の純愛物語へと取り上げ方が代わっていった。 記事により全国に知られ、多くの人々の涙を誘った。18日、遺体盗掘犯人が逮捕され、事件は落着。
 事件わずか1ヶ月後に、松竹が坂田山心中事件をモデルにした「天国に結ぶ恋」の映画を配給し、空前の大ヒットとなった。 映画と共に主題歌「悲恋大磯哀歌」(作詞:柳水巴、作曲:林純平、唄:徳山(王達=王と達を合わせた一文字)・四家文子 *柳水巴=西條八十)は結ばれない恋を美しく歌い上げ大ヒットとなり、歌詞「二人の恋は清かった神様だけがご存じよ」というフレーズは流行語にもなった。 なお、映画上映6月から12月の6ヶ月の間に、20組もの心中事件が発生したとされる。

<講談社日本人名大辞典など>


正面 裏面

*墓石は和型であり、正面に「調所五郎 / 妻 八重子 之墓」と、八重子を「妻」と付けて刻む。 裏面には「昭和七年五月八日永眠 五郎 二十四歳 / 八重子 二十二歳」と刻む。


【調所五郎の遺書】
 もし私が明六日になつても帰らなかつたらこの世のものでないと思つてください、かずかずの御恩の万分の一もお返し出来なかつた自分を残念に思つてゐます、御相談申し上げなかつたのは八重子さんにわたくしを卑怯者と思はれたくなかつたからです、そしてお父様にこの上御心配をかけたくなかつたから姉さんに約束した赤ちやんの写真も撮らずに終ひました。
 梶原さんに頼まれた複写の原画は暗室の棚の下の段の右側に封筒に入れてあります。 写真器は押し入れの中に乾板が六枚入つてゐるから自分でやつて下さるようにハレーション止めしてある乾板ですから、幸子を可愛がつてやつて下さい、本当の兄妹がもう宅に居らなくなつてしまふから、湯山さんのお宅の方が見えたら八重子さんから戴いた手紙は全部纏めてありますから見せるなり差しあげるなりしていただきたいものです。 八重子さんにいただいたものも全て纏めて集めてあります。
 スエーターはお母さんが在り場所を知つていらつしやるでせう、小さな押入れの三つの箱がさうです、写真はアルバムに貼つてあるのと、アグフアのクロモイゾールの箱に入れてあるので全部です、一緒のバンドで結へてあるのは皆さうです、先月の十七日以来心掛けて全部片付けて置きました、もう思残すことはありません。
 生みの母、懐かしいお母さんのお墓にお詣りして来ました、直ぐ傍にゐることが出来ませう。では皆さんさようなら。明日は早く起きなくつちやなりません。

 七年五月五日夜更け 五郎


関連リンク:

5・15事件に関して:田中五郎



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