東京上野出身。水泳選手として、中学生から実績を残し、1920(T9)明治大学予科に入学し、水泳部主将。極東選手権大会(上海)200ヤードリレーのメンバーとして優勝。
また、在学中、小山内薫(5-1-1-37)の松竹キネマ研究所に出入りし、'21「To Go There」の言葉をもじった東郷是也を芸名として村田実監督の「路上の霊魂」で映画出演した。大学生での映画主演は初であった。
大学卒業後、'24日活京都撮影所に入社。1作目は溝口健二監督、小山内薫原作の「魔境」で本名のまま本格的にデビューし、以来、「我等の若き日」「金色夜叉」「青春の歌」「曲馬団の女王」などに出演、日本人ばなれした長身、エキゾチックな容貌でたちまち人気スターとなった。
'25松竹蒲田撮影所にうつり、牛原虚彦(きよひこ)監督とのコンビによる、「彼と東京」「彼と田園」「彼と人生」「陸の王者」などの明朗青春映画に出演、明るい青年を演じ新しい形のヒーロー像を確立して一世を風靡した。
'31(S6)当時の松竹蒲田撮影所所長の城戸四郎と対立し、岡田時彦、高田稔らと松竹を退社、不二映画社を設立するも、二年後に解散した。その後、日活に復帰、第一映画社にも参加をするなど数々の映画に出演したがヒットに恵まれなかった。
戦後は映画界を離れ、実業界へ転身。'50参議院議員選挙に国民民主党公認で出馬するが落選。'53参議院議員選挙に改進党公認で出馬したが落選した。'58「続・新日本珍道中」を最後に引退した。肺気腫のため逝去。享年85歳。
*墓所は蔵状で「真善美」と刻む。左側に土井家16代の土井利泰の記で「人は真実を探し、善と苦悩し、美しきを求む。これこそ人間が人間たる証である。人、皆波乱の中に滅す。」とあり、平成十三年十月墓碑を改めて再建すの言葉が刻む。
右側に墓誌があり、右から土井利泰の叔父で日野としの長男の川村博章、土井利泰・陽子の子、土井利泰の祖母の日野とし、土井利泰の義父の鈴木傳明、土井利泰の母の鈴木豊子の名が刻む。なお、鈴木傳明は「鈴木傳明之尊」と刻み、分骨である旨も刻む。
*土井利泰は元TBSのプロデューサーであり、『サインはV』、『アテンションプリーズ』、『赤い靴』、『おくさまは18歳』、『なんたって18歳』、『へんしんポコポコ玉』、『GOGO!チアガール』、『消防官物語』等を手がけた。
『TBS開局からの三十年 私の見たこと したこと 聞いたこと 振り向いてテレビ』(1988)の著書もある。